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しおりを挟む家に帰りついてから、深く七緒は息を吐いた。忘れる前にと、上着のポケットから携帯を取り出してバイト先のスーパーに連絡を入れる。
「あ、店長ですか? あの、奥井ですけど」
奥井くん、と言う店長の声はほんの少し警戒の色を帯びていて、七緒がこれから言うことをすでに分かっている気がした。
「すいません今日…」
体調が悪いので休むと告げると、案の定店長は嫌味のようにため息を吐き、不機嫌な声で返事をした。
『出来ればもうちょっと早目に連絡して欲しいもんだけどねえ、まあわかりました。じゃあお大事に』
「はい、すみませ…」
言い終わるよりも先に通話はがちゃりと切れ、七緒はもう一度深くため息をついた。
なんだかなあ…
なにも優しくして欲しいとは思わないけれど、そんなふうにすることはないんじゃないだろうか。
嘘をついて休んだとでも思われたのか…、はあ、とまたため息が溢れた。
制服の上着を脱ぎ捨て、床に放っていた荷物を拾い上げる。結局あのまま教室に戻ることなく梶浦と学校を出た。教室に置いていた教科書やノートといった荷物は、篤弘と入れ替わるようにして保健室にやって来た茉菜が届けてくれた。
『ねえちょっとお、さっきそこですれ違ったけどなあにあれ、ほんっと態度悪い…』
言いながら入って来た茉菜は、そこにいた梶浦に気づいて目を丸くした。
『え、誰』
まさか七緒以外の誰かがいるとは思わなかったのだろう。さも胡散臭そうな言い方に七緒は苦笑した。
『茉菜、あの、梶浦くん。二年生』
茉菜はさらに目を丸くした。
『二年? なんで二年生? 奥井くん後輩に知り合いとかいたんだ?』
いや、と七緒は言った。
『おれのお隣さん』
『は?』
『こないだおれのアパートの隣の部屋に引っ越してきたんだよ』
信じられないとでも言いたげに茉菜は梶浦を見た。上から下までじっくりと眺めまわしながら、へええ、と感嘆の声を上げてベッドに近づいてくる。
『そういうことあるんだあ、すごい偶然だね』
茉菜はひとしきり感心すると、梶浦に自分を七緒のクラスメイトだと言った。
『よろしくねー梶浦くん。あ──はい、これ』
手に持っていた荷物を七緒の前に置いた。
それは七緒が教室に置いていた教科書などだった。
『うわごめん、持って来てくれたの?』
『うん、原せんせーから聞いてびっくりしたよー。どう具合?』
『もう全然いいよ』
『あー、ご飯食べれたならだいじょぶだね』
空になった弁当箱をちらりと見て茉菜は笑った。
『せんせーがこのまま早退していいって』
それを伝えに来たのだと茉菜は言った。
『悪いな、もう授業始まってるのに』
『いいよお、抜け出す口実出来てラッキーだったし』
たしか六限目は数学だった。茉菜は数学の教師をずっと苦手だと言っていた。
『そっか』
『うん。顔色よさそうだね。ね、ひとりで帰れそ? よかったら送ってったげよっか』
なんだか嬉しそうに声を弾ませた茉菜に、七緒は思わず声を出して笑った。
『茉菜はまだ授業あるだろ、おれは平気だし。それにし…梶浦が送ってくれるって言ってるから』
『え、そうなんだ』
振り返った茉菜に梶浦は頷いて立ち上がった。
『はい、帰るところは同じなので』
『へえ…』
梶浦はベッドの上のトレイを取ると元の場所へと片付けだした。その後ろ姿を目で追いかけていた茉菜は、ぱっと七緒を振り返った。
『仲良いんだ?』
『まあ、うん。いいやつだよ?』
『ふーん』
もう一度梶浦を眺め、茉菜は小さく頷くとなるほどね、と呟いた。
『それであれね』
『? なに?』
『え? 別に』
よく聞こえずに首を傾げると茉菜は何でもないと手を振った。
『じゃあ私戻るよ。帰り気をつけてね』
『ああ、荷物ほんとありがと』
『いいから。じゃあね』
梶浦にまたね、と言って出て行こうとして、茉菜はぴたりと足を止めた。
『あーそうだ、奥井くん』
『ん?』
『今日は携帯の電源落としといたほうがいいかもね、じゃあね』
それだけ早口で言うと、ひらりと手を振って茉菜は廊下を走って行った。
冷蔵庫から水を取り出してペットボトルに直接口をつけて飲むと、七緒は部屋着に着替えた。
茉菜が言った言葉を思い出して、テーブルの上の携帯を見下ろす。
電源を落とせと言われたが、あれはなんだったんだろう。
掛けてくる人なんてほとんどいない。
だいたいいつも篤弘か、たまに沢田が暇つぶしに掛けてくるくらいだ。
「……篤弘か」
あとでと言って保健室を出て行ったきり顔を合わせていない。
あいつどうしたんだろう。
最近は本当に、どうかしてしまったかのように苛ついてばかりだ。
あんなに大きな塊をまとわせて…
七緒は篤弘に掴まれた腕を持ち上げた。手のひらを裏返し、指を何度か開いて閉じる。あの衝撃で受けた痺れはもう残っていない。
思えば痺れが消えたのは、梶浦が箸を持たせようとして七緒の手に触れてからのような気がする。
「……」
いや、と七緒は首を振った。
それよりも、彼が篤弘の腕を掴んだ瞬間、弾け飛んだあの光景が忘れられない。
部屋中に広がった虹色の光。
晴れた日に降る雨を見上げているような──
まるで割れたシャボン玉の内側にいるような、そんな世界だった。
あんな巨大な揺らめきを一瞬で弾き飛ばし、消してしまった梶浦は、もしかしたら…
「そんなわけないか…」
自分と同じ力を持つ人など見たことがない。たとえどこかにいたとしても、その人が隣の部屋に住む隣人だなどという確率はいったいどれだけのものなのか。
ありえないよな、と七緒は笑い、まだ少し怠い体をベットに投げ出した。
そんなわけない。
あれはきっと偶然だ。
大きくなり過ぎた揺らめきがその形を保てずに崩れてしまったとか、多分そういうことなのだ。
そうだ。
きっとそう…同じだなんて──
「ないよ」
梶浦の部屋の方を思わず七緒は向いた。この壁の向こうに彼はいる。
物音ひとつしないけれど。
そんなはずないと落ちてきた瞼を閉じた。
ゆっくりと眠気がやって来る。
まどろみ始めたとき、手の中に握りしめたままだった携帯が震え、七緒は目を開けた。
メッセージだ。
画面の通知に出ている文字は、七緒の具合を尋ねるものだった。
篤弘からだ。
『もう大丈夫か?』
本音を言えば少し眠りたいところだった。七緒は一瞬迷ってからアプリを開いた。
既読がついた瞬間、携帯の画面が通知を知らせるものになった。
音を消しているため、持ち主に知らせようと手の中で震え続ける。
止む気配はない。
仕方がないなと七緒は通話を押した。
自業自得だ。
「なに、篤弘」
『遅くね? 出るの』
いきなり不機嫌な声で篤弘は言った。
『今家? もう帰りついてんだろ』
「そうだよ、家」
『誰かいんの?』
「は…?」
言っている意味が分からず問いかけると、だから、と篤弘は苛立った声を上げた。
『部屋の中に誰かいるのかって聞いてんだろ』
「いや…誰もいるわけないだろ、…で、なに?」
ごろりと寝返りを打つと、篤弘は黙り込んだ。携帯越しにかすかに外の音が聞こえる。人の声、時間からしてまだ学校にいるかいないかの頃合いだ。もしかしたら廊下の人目につかないところで掛けているのかもしれない。
『具合は?』
「…いいよ」
でも少し眠りたい。保健医が言ったように疲れているのかもしれなかった。自分ではまるで気がつかなかったけれど。
『じゃあちょっと時間潰してえからさ、そっち行ってもいいか』
「そっち?」
そっちって──
『おまえの部屋。いいだろ』
七緒はベッドの上に起き上がった。
「いや、塾行くなら逆に遠くなるだろ?」
篤弘の通っている進学塾とは真逆の方向だ。
『いいから、今から行くし』
「篤弘」
今にも切ってしまいそうな勢いに、慌てて七緒は言った。
「じゃあ、…それならおれがいつものとこに行くから、それでいいだろ」
『オレがおまえんちに行ったらだめなのかよ』
「そうじゃなくて…、な、そのほうがおまえも塾行くのが楽だから」
『七緒オレは』
「じゃあ今から行くから」
声を上げた篤弘を遮って七緒は話を無理矢理終わらせた。即座に通話を切る。
すぐにまた携帯が震え出したが、気にせずにベッドの上に放り投げ、部屋着から着替える。
篤弘がここに来るくらいなら自分が行ったほうがまだいい。
ここには来て欲しくない。
なぜそう思うのか自分でも不思議だった。だが考えている暇はないと、手早く七緒は出掛ける準備を済ませた。
「どこ行くの」
玄関を開けた瞬間、七緒はぎょっとした。
目の前には梶浦が立っていて、ドアレバーを持ち玄関を開けた姿で固まっている七緒をじっと見下ろしている。
「え、…えっと、ちょっと用事で…」
「具合が悪いのに?」
「えと、もうだいぶいいかなって」
すっと梶浦は目を細めた。
「倒れたくせに何言ってるんだ」
「う、──わ、っ!」
とん、と胸を押されて七緒は玄関の中に戻された。勢い余って廊下の端に尻餅をつくと、がちゃん、と玄関が締まる音がした。
はっとして見上げると梶浦がそこにいる。
え。
「大人しく家にいろよ」
「え、ちょっ、なに、うわっ」
伸びてきた腕に軽々と抱え上げられて七緒は驚きのあまり大声で叫んだ。
なんで?
なんでそんな簡単に持ち上げんの?!
これでも身長は標準より上だし、男だし、体重はそれなりにあるし──
「ほら」
「あぃてっ…!」
ベッドの上に放り投げるように落とされて、七緒は間抜けな声を上げた。
「なにすんだよっ」
「今日はじっとしてろって言われたはずだな」
「っ、そうだけどっ、おれは用が…」
「何の用?」
「何のって──」
思わず言い淀むと、梶浦は無表情に七緒を見下ろして言った。
「あの友達?」
「な…」
「この壁意外と薄いって知ってる?」
梶浦は七緒の上に屈みこむと、ベッドの横の壁をこん、と拳で叩いた。
七緒は目を丸くした。
「聞こえてたよ、七緒」
そう言って梶浦は身を起こし、ベッドの傍のテーブルに持っていた袋を置いた。
「聞いてたのかよ」
「たまたまだけど」
はあ、と七緒はため息をついて体の力を抜いた。仰向けに寝転がったまま顔を両手で覆って見えなくする。
「……聞くなよ」
「仕方がない」
梶浦が歩く気配がした。ゆっくりと起き上がると、梶浦は手にもう一つ袋を下げていて、キッチンの方に向かっていた。
「…なにしてんの?」
大きな梶浦が小さな簡易キッチンの前に立つと、さらに小さく見える。
「夕飯」
ごとん、と置いた袋の中から食材らしきものが見えた。
じゃがいも?
なんで?
「こないだのお返し」
先日使い切れない食材を梶浦に渡した。これはそのお返しなのだと短い返事の中に七緒は察した。
梶浦は夕飯を作る気だ。
ここで。
もしかしてわざわざ材料を買って来たのだろうか。
七緒と一緒に帰って来た、その後で。
「おれ友達と約束したんだよ」
梶浦はこちらに背を向けて黙々と手を動かしている。勝手に道具を出して動く仕草は手慣れていて無駄がない。
「なあ、だから…」
自分を心配して何かをしてくれようとする気持ちは有り難かったが、七緒は落ち着かなかった。
篤弘はもう店に着いている頃だろう。
七緒が行かないと、篤弘はひとりだ。
ひとりだから。
「行かないと」
「電話して断ればいい」
それはそうだけど。
「うちに来るって言うから、それならおれが行くって言ったんだよ」
「七緒」
梶浦が振り向いた。
「あいつはあんたの具合が悪いのを知ってるだろ」
「でも」
「いちいち相手の要求ばかり聞くな」
「──」
言葉を失くして七緒は梶浦をじっと見上げた。目が合って、自分の視線が揺れているのが分かる。喉の奥が不意に締まり慌てて目を逸らした。
「自分がきついときに相手のことを考えなくてもいい」
「だ…」
だって、篤弘は友達だ。もうずっと、付き合いは長い。中学の時から彼は七緒の横にいた。
施設育ちだと知っても離れていかなかった数少ない友人。
わがままでよく怒るし、ころころと気分を変え、振り回されてばかりだけれど。
「今日ぐらい断ってもいいんじゃないのか?」
梶浦は七緒の傍に来て膝をついた。顔を覗き込み、子供に言い聞かせるような声音で言われると、なぜか七緒の目からぽろりと涙が零れた。
え、…
おれなんで──
なんで泣いてるの…?
顔を上げると、梶浦の気遣うような眼差しがあった。
温かい。
「友達なら、あんたばかりが無理することないだろ」
肩から背中を大きな手に擦られる。
その優しい仕草に息が詰まりそうになった。だめだと、七緒は涙が落ちるのを必死で堪えた。
「……、っ」
今日ぐらい。
今日ぐらい…
今日は、このままでいたい。
今はここにいたい。ここを離れたくない。
どこにも行きたくない。
「……ん」
七緒は携帯を手に取った。手の甲で目尻を擦り、篤弘に電話を掛けた。
***
暗がりの中に梶浦は立っていた。
澄んだ空気はかすかに冬の匂いがする。
気配を察して顔を上げると、見たことのある顔がそこにあった。
「……どうも」
軽く頭を下げると、相手の顔が怒りに歪んだ。
「七緒は?」
「寝ましたよ、とっくに」
名前は何だったかと梶浦は考え、思い出した。そう、森塚篤弘だ。
篤弘と七緒が呼んでいた。
「何してんだこんなところで」
七緒の玄関前、廊下の手すりにもたれている梶浦は、目に被さる髪を掻き上げた。
「それはこっちが訊きたいけど」
「──」
「塾の帰り? へえ」
篤弘は言葉を詰まらせた。梶浦は無表情な眼差しを向けた。
「わざわざどうも」
「お、まえ──」
「おやすみなさい、先輩」
「…ッ」
篤弘は梶浦を睨みつけた。だが、殺気立った視線を受けても微動だにしない梶浦に篤弘は痺れを切らし、ゆっくりと後退ると踵を返した。階段を駆け下り、アパートの敷地を走って行く後ろ姿を梶浦は横目に見下ろす。やがてそれも闇の中に溶けるようにして見えなくなる。
深く息を吐いて梶浦は目を閉じた。
ドアの向こうでは七緒が眠っている。
篤弘の気配を感じ、起こさないようにと外に出て来て正解だった。
七緒を守るのが自分の生きる意味だ。
やっと見つけた。
やっとまた会うことが出来た。
今度こそきっと、間違ったりしない。
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