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第一章 白金の蛛網
第二話 そして檻の扉は閉まった
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そして約束の月曜日。響介はボストンバッグ一つを抱えて住宅街の外れの高台にやってきていた。坂を上った先に、西洋のお屋敷のような立派な邸宅が佇んでいる。
想像以上の家の迫力に若干気後れしながらも、響介は敷地内へと足を踏み込んだ。ブザーを押して十数秒後。扉が開き、黒いエプロンをつけた見知らぬ女性が顔を覗かせた。
「お待ちしておりました。霧生響介様ですね」
「ああ……あんたは?」
「こちらで通いの家政婦をさせていただいております。安曇千影と申します」
安曇と名乗る女性は両手を前で組み、深々とお辞儀をした。年の頃は二十代後半から三十代前半くらいだろうか。ひっつめ髪に最低限のメイクを施した地味な顔立ち。清潔感があり好印象だが、空気に溶け込んで消えてしまいそうな、無個性な女性である。
「ご案内いたします。どうぞ」
安曇は重厚な扉を大きく開き、響介を中に招き入れた。クーラーの心地良い冷気に包まれると共に、現実離れした光景が視界に飛び込んでくる。
白を基調とした静謐な玄関ホール。ガラスの螺旋階段。映像の中でしか見たことのない煌びやかな空間を前に、響介はただただ圧倒された。
「ようこそおいでくださいました」
頭上から澄んだ声が降ってきたかと思えば、屋敷の主人がゆっくりと螺旋階段を降りてきた。一段進むごとに、ガラスのステップが彼女の足音を静かに受け止め、光を乱反射させている。
明るい玄関ホールで見る司城絢の素顔は、身分証の写真や日傘の影で見るよりもずっと鮮烈だった。透き通るようなその白い肌は日焼け対策を徹底しているからではなく、西洋の血が混ざっているからなのだろう。肩先で弾む髪は淡いダークブロンドで、瞳は灰がかった緑色。日本人と西洋人の良いとこ取りをしたような顔立ちをしている。ボウタイつきのシアーブラウスに合わせているのは、濃紺のダブルブレストベストとテーパードパンツのセットアップ。襟元でラブラドライトのブローチが深海のような静謐な光を湛えている。
床に降り立った彼女の目線は響介の顎にも届かなかったが、その隙のない装いは彼女に鋼のような強さを与え、よりいっそう浮世離れしたものに仕立てていた。
「安曇さん。お茶の用意をお願いします」
家政婦に言いつけると、絢は響介をリビングへと案内した。趣向を凝らせたゴージャスな内装かと思いきや、こちらはわりと現代風で、極限まで家具家電を削った広々とした空間に、漆黒のグランドピアノが神体のように鎮座していた。紅茶を飲んで一息ついてから、絢は切り出した。
「取り合えず何か弾いていただけますか」
「何を弾きゃあいいんだ」
「そうですね……」
絢は少し考え込んでから、
「ではこの間弾いていた、ラフマニノフの『鐘』をお願いします。ああ、楽譜が必要でしたらこちらに───」
絢はローテーブルの引き出しからタブレット端末を取り出して電源を入れた。
「クラシックでしたら一通り楽譜がダウンロードしてあります」
だが響介はタブレットを受け取らなかった。
「暗譜してあるから楽譜は必要ない」
響介はピアノの前に座り、椅子の高さを下げて調整した。鍵盤を弾き、音の高低を確認する。調律はしっかりできているようだ。
呼吸を整え、演奏を始める。絢はソファに深く身を沈め、その重い旋律にじっと耳を傾けていた。屋敷の静寂の中、グランドピアノから鳴るその音は、喧騒にまみれた商店街よりも遥かに響き、物理的な「質量」を持って絢の全身を包み込んだ。まるで誰かに祈りを捧げるような、献身的で情熱に溢れた音色だった。
「素晴らしい演奏をありがとうございました。それでは───」
彼女はローテーブルの引き出しを開け、羊皮紙風の紙を取り出した。
「契約書にサインをお願いします」
手書きの契約書が響介の前に差し出される。ロココ調装飾が箔押しされた質の良さそうな紙。優美な筆致がレース編みのように紙面をびっしりと埋め尽くしている。響介は契約書を手に取り、慣れない活字に眉を寄せながらその条項に目を走らせた。
第一条 司城絢は、霧生響介が音楽に没頭するための一切の費用(住居、食費、光熱費、およびその他雑費)を負担し、霧生響介の生活を全面的に保障する。その対価として、霧生響介は司城絢のために演奏業務を遂行しなければならない。
第二条 司城絢は霧生響介に対し、本業務の対価として、実施した業務時間に応じて1時間あたり5000円を支払うものとする。
第三条 霧生響介は、司城絢の居宅内において、本件ピアノを任意に演奏に使用できるものとする。ただし、霧生響介が奏でる音は、すべて司城絢の所有物とする。
第四条 司城絢の許可なく、第三者の前で演奏を披露し、あるいはその才能を安売りすることを禁ずる。
第五条 司城絢から召喚があった場合、霧生響介は直ちにその命に従い、司城絢が満足するまで楽曲を演奏しなければならない。
第六条 本契約は司城絢が望む限り継続することとする。霧生響介が本契約の解約を希望する場合、司城絢と協議し、客観的に正当な理由を提示しなければならないものとし、恣意的な理由による解約権の行使は認められない。
その独占欲に満ちた傲慢な条項は腹立たしいのも通り越して気味悪くすら感じたが、それを上塗りしてしまうほど、取引の条件は魅力的であった。極上のピアノを思う存分に弾けて、生活のサポートもあって給料ももらえる。こんなに美味しい仕事はどこを探してもないだろう。
彼は契約書をテーブルの上に置いた。絢の名前は既に記入されており、残すは響介の署名だけのようである。
「契約に納得していただけたようでしたらサインをお願いします」
契約書の横に、螺鈿細工の施された万年筆が添えられる。ここに名前を書けば、契約は成立。自分はこの女の専属ピアニストとなる。
彼は万年筆を手に取り、流麗な絢の署名の下にぎこちなく自分の名前を書いた。
その瞬間、見えない檻の扉が閉まったことに、彼はまだ気づいていなかった。
想像以上の家の迫力に若干気後れしながらも、響介は敷地内へと足を踏み込んだ。ブザーを押して十数秒後。扉が開き、黒いエプロンをつけた見知らぬ女性が顔を覗かせた。
「お待ちしておりました。霧生響介様ですね」
「ああ……あんたは?」
「こちらで通いの家政婦をさせていただいております。安曇千影と申します」
安曇と名乗る女性は両手を前で組み、深々とお辞儀をした。年の頃は二十代後半から三十代前半くらいだろうか。ひっつめ髪に最低限のメイクを施した地味な顔立ち。清潔感があり好印象だが、空気に溶け込んで消えてしまいそうな、無個性な女性である。
「ご案内いたします。どうぞ」
安曇は重厚な扉を大きく開き、響介を中に招き入れた。クーラーの心地良い冷気に包まれると共に、現実離れした光景が視界に飛び込んでくる。
白を基調とした静謐な玄関ホール。ガラスの螺旋階段。映像の中でしか見たことのない煌びやかな空間を前に、響介はただただ圧倒された。
「ようこそおいでくださいました」
頭上から澄んだ声が降ってきたかと思えば、屋敷の主人がゆっくりと螺旋階段を降りてきた。一段進むごとに、ガラスのステップが彼女の足音を静かに受け止め、光を乱反射させている。
明るい玄関ホールで見る司城絢の素顔は、身分証の写真や日傘の影で見るよりもずっと鮮烈だった。透き通るようなその白い肌は日焼け対策を徹底しているからではなく、西洋の血が混ざっているからなのだろう。肩先で弾む髪は淡いダークブロンドで、瞳は灰がかった緑色。日本人と西洋人の良いとこ取りをしたような顔立ちをしている。ボウタイつきのシアーブラウスに合わせているのは、濃紺のダブルブレストベストとテーパードパンツのセットアップ。襟元でラブラドライトのブローチが深海のような静謐な光を湛えている。
床に降り立った彼女の目線は響介の顎にも届かなかったが、その隙のない装いは彼女に鋼のような強さを与え、よりいっそう浮世離れしたものに仕立てていた。
「安曇さん。お茶の用意をお願いします」
家政婦に言いつけると、絢は響介をリビングへと案内した。趣向を凝らせたゴージャスな内装かと思いきや、こちらはわりと現代風で、極限まで家具家電を削った広々とした空間に、漆黒のグランドピアノが神体のように鎮座していた。紅茶を飲んで一息ついてから、絢は切り出した。
「取り合えず何か弾いていただけますか」
「何を弾きゃあいいんだ」
「そうですね……」
絢は少し考え込んでから、
「ではこの間弾いていた、ラフマニノフの『鐘』をお願いします。ああ、楽譜が必要でしたらこちらに───」
絢はローテーブルの引き出しからタブレット端末を取り出して電源を入れた。
「クラシックでしたら一通り楽譜がダウンロードしてあります」
だが響介はタブレットを受け取らなかった。
「暗譜してあるから楽譜は必要ない」
響介はピアノの前に座り、椅子の高さを下げて調整した。鍵盤を弾き、音の高低を確認する。調律はしっかりできているようだ。
呼吸を整え、演奏を始める。絢はソファに深く身を沈め、その重い旋律にじっと耳を傾けていた。屋敷の静寂の中、グランドピアノから鳴るその音は、喧騒にまみれた商店街よりも遥かに響き、物理的な「質量」を持って絢の全身を包み込んだ。まるで誰かに祈りを捧げるような、献身的で情熱に溢れた音色だった。
「素晴らしい演奏をありがとうございました。それでは───」
彼女はローテーブルの引き出しを開け、羊皮紙風の紙を取り出した。
「契約書にサインをお願いします」
手書きの契約書が響介の前に差し出される。ロココ調装飾が箔押しされた質の良さそうな紙。優美な筆致がレース編みのように紙面をびっしりと埋め尽くしている。響介は契約書を手に取り、慣れない活字に眉を寄せながらその条項に目を走らせた。
第一条 司城絢は、霧生響介が音楽に没頭するための一切の費用(住居、食費、光熱費、およびその他雑費)を負担し、霧生響介の生活を全面的に保障する。その対価として、霧生響介は司城絢のために演奏業務を遂行しなければならない。
第二条 司城絢は霧生響介に対し、本業務の対価として、実施した業務時間に応じて1時間あたり5000円を支払うものとする。
第三条 霧生響介は、司城絢の居宅内において、本件ピアノを任意に演奏に使用できるものとする。ただし、霧生響介が奏でる音は、すべて司城絢の所有物とする。
第四条 司城絢の許可なく、第三者の前で演奏を披露し、あるいはその才能を安売りすることを禁ずる。
第五条 司城絢から召喚があった場合、霧生響介は直ちにその命に従い、司城絢が満足するまで楽曲を演奏しなければならない。
第六条 本契約は司城絢が望む限り継続することとする。霧生響介が本契約の解約を希望する場合、司城絢と協議し、客観的に正当な理由を提示しなければならないものとし、恣意的な理由による解約権の行使は認められない。
その独占欲に満ちた傲慢な条項は腹立たしいのも通り越して気味悪くすら感じたが、それを上塗りしてしまうほど、取引の条件は魅力的であった。極上のピアノを思う存分に弾けて、生活のサポートもあって給料ももらえる。こんなに美味しい仕事はどこを探してもないだろう。
彼は契約書をテーブルの上に置いた。絢の名前は既に記入されており、残すは響介の署名だけのようである。
「契約に納得していただけたようでしたらサインをお願いします」
契約書の横に、螺鈿細工の施された万年筆が添えられる。ここに名前を書けば、契約は成立。自分はこの女の専属ピアニストとなる。
彼は万年筆を手に取り、流麗な絢の署名の下にぎこちなく自分の名前を書いた。
その瞬間、見えない檻の扉が閉まったことに、彼はまだ気づいていなかった。
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