色彩の処刑台

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第一章 白金の蛛網

第三話 へし折られた男のプライド

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「ありがとうございます。では、これで正式に契約成立ですね」

 絢は契約書をしまうと、安曇を呼びつけて彼を部屋に案内するよう頼んだ。

「こちらです。ご案内いたします」

 家政婦を先頭に階段を上がり、東側廊下を突き進む。

 案内されたのは廊下の突き当りの部屋だった。来客用として管理されている部屋なのか、余計なインテリアは一切なく、ベッドと机、椅子といった簡素なレイアウトとなっている。まるでホテルの一室のようである。

「タオルや洗面用具などはベッドの下の引き出しに入っているので自由に使ってください。基本的に朝食は九時、昼食は十二時、夕食は六時、一階のダイニングで提供いたしております」

 安曇は机の引き出しからクリアーファイルを取り出し、それを響介に手渡した。ファイルの中には屋敷の間取り図が入っていた。

「バスルームとお手洗いは一階と二階にそれぞれ一部屋ずつありますが、霧生さまは二階の方をお使いください。キッチン、洗面所、洗濯機や冷蔵庫など、ご自分の家のように自由に使っていただいて結構です。ただ───」

 家政婦は一階フロア西側のとある一室を指さしながら、

「ここは普段鍵が掛かっているので入れません。ご了承ください」

「何の部屋なんだ?」

「絢さまのアトリエです。あまり他人様にはお見せしたくないとのことで」

「ふーん……アトリエねぇ。しかし随分とでかい家だな。あいつの他に人は住んでないのか」

「こちらに住んでらっしゃるのは絢さまお一人です。亡くなったご祖父様の別邸を絢さまが譲り受けられたんです」
 
「へぇ。アイツのじいさん、相当な金持ちだったんだな」

「『SHIJOシジョー家具』の四代目、司城清しじょうきよし様ですよ」

「シジョー…カグ…?なんだそりゃ」

「大手の高級家具メーカーです。清さまが亡くなられた際、お身内はご息女のらんさまと、お孫さんの絢さまだけでした。蘭さまは会社の経営権には目もくれず、お株をすべて売却なさり、清さまが遺された莫大な財産だけを継ぐ道を選ばれたのです。このお屋敷で、静かに暮らすことを望まれて。ですが、その蘭さまも、三年前にご病気でお亡くなりになりました」

「ふーん……それじゃここは今、あいつ一人の城なんだな」

 響介は窓の外、高台の下に広がる街を見下ろした。 ここでの生活は、天国のように思えた。贅沢な食事、ふかふかのベッド、そして自分を「特別」だと認める美しき庇護者。 だが、安曇が去った後の静まり返った廊下を見つめた時、響介の背筋を、理由のない冷たい戦慄が撫でていった。





 


 22時過ぎ。個室で寛いでいた響介は、絢の呼び出しに応じてリビングに向かった。

「何でもいいので弾いてください」

 ソファに座ったまま、絢が顎でピアノを指し示す。響介は無言で鍵盤に向き合い、指慣らしのように定番のクラシックを繋いでいった。一時間が過ぎようとした頃、絢は最後にこの曲をリクエストした。

「――ラフマニノフの『鐘』を」

 響介は要求に従い、昼間よりも深く、激しく鍵盤を叩いた。放たれた音は、幾重もの深紅のベルベットが舞い降りるように、鮮烈な色彩で絢の心を塗り込めていった。それは内側からじんわりと温めるような、柔らかな熱量を帯びていた。鮮やかな音色は彼女の皮膚の奥深く、血管一本一本にまで染み渡り、身体のすみずみまで満たしていく。絢は無意識に左腕を握りしめ、恍惚と微笑んだ。

「結構です。ありがとうございます。また明日もよろしくお願いしますね」

 だが響介はリビングから去ろうとせず、それどころか、獲物を追い詰めるような足取りで絢に詰め寄った。

「あんた正気かよ」

 どこか脅すような口調で彼は言う。

「家政婦はもう帰ったし、今この屋敷には俺とあんたの二人きりだ。襲われるかもしれないとか警戒してねぇのかよ」

 絢は小さく首を傾けた。ビスクドールのような精緻な顔立ちに、余裕の笑みがうっすらと広がる。

「そういうお相手が欲しければこちらで手配します。ですので私を襲おうとする前に申し出てください」

 事務的な物言いに響介はムッとした。親切丁寧であるように見えて、彼女の態度はいつも相手を見下しているような節がある。侮られていると思うと無性に腹が立ち、唯々諾々と従ってたまるかという反発心が沸いてくる。この仮面のような綺麗な顔にヒビを入れてやりたい衝動が突き上げ、彼は本能のままに絢に詰め寄った。勿論、本気で襲うつもりはなかった。ただ、この澄ました女を少しでも動揺させてやりたかったのだ。

「あんた男をわかってねぇな。女なら誰でもいいわけじゃねぇんだぞ。俺はあんたに興味があるんだ」

 契約書には、「無礼な言動をしたら即刻解雇」などという条項はなかった。あんな執着に満ちた契約を結ぶ女だ、多少の無礼で自分を追い出しはしないだろう。クビにされないだろうという強い自信が彼を大胆にさせた。しかし「持てる者」の余裕というものなのか、彼女から戸惑いや動揺は一切感じられない。響介は苛立ち紛れに彼女の左手を掴み、組み伏せた。

 彼女が嫌がって抵抗する姿を期待したが、その人形のような澄ました顔が歪むことはなかった。それどころか、むしろ度肝を抜かれたのは響介の方だった。

「なっ………!」

 彼女の左手は、どう考えても人間の皮膚の感触ではなかった。彼が困惑しているその隙に絢は手を振りほどき、種明かしをするかのように丈の長いベルスリーブを両袖ともに捲ってみせた。

 響介は二度目の衝撃を受けた。右腕は白く瑞々しい生身であったが、左腕はシリコン製のグローブで覆われた偽物の腕───つまり義手だったのだ。

「霧生さん───」

 静寂の中、絢の冷徹な笑い声が響く。

「こんな体にあなたは欲情できるんですか?」

 響介は心も股間も凍りついたまま、絢からゆっくりと身を引いた。今すぐ逃げ出してしまいたいほど気まずかったが、それは彼のプライドが許さなかった。彼は退っ引きならないまま、叱られるのを待つ子供のようにしばらく固まっていた。

 絢はそんな彼の様子を見て愉しむかのように、これ見よがしに、義手の五指を開いたり閉じたりして見せた。それは筋電義手のようで、動作の度に微かな機械音が聞こえていた。やがて絢は、袖を指先まで下ろして元に戻した。

「どうぞお気になさらず。私があなたに求めるのはピアノの演奏だけ。人徳やモラルや礼儀がなくとも咎めたりはしませんよ。ピアノを弾いてくれればそれで結構です」

「……なんだよ、それ。喧嘩売ってんのか」

「本当の事でしょう?」

 響介はふいと顔を背け、肩で風を切るようにリビングを出ていった。




 ベッドに入ってからも、作り物の左腕の感触が右手に残り続けていた。

 誰もが羨むすべてを手にしているように見えた彼女が、まさか隻腕だったとは。

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