色彩の処刑台

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第一章 白金の蛛網

第四話 飼い慣らされる自尊心

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 響介が絢の家でピアノ弾きを始めてからおよそ二週間が過ぎた。衣食住に困らなくなったので、彼は掛け持ちしていたバイトをすべて辞め、今や道楽者のような生活を送っている。時給五千円ももらっているので、趣味や娯楽に費やす余裕もできた。まさに夢のような日々の連続であった。

 しかし目に見える充足とは対照的に、彼の心には得体の知れない不快感が少しずつ沈殿していった。この豪華な邸宅は、彼にとって金色の檻に過ぎない。与えられる贅沢はすべて、自分を飼い慣らすための餌のように思えた。

 リビングの振り子時計が十二点鐘を鳴らす。深夜、喉の渇きを覚えて下に降りた響介は、リビングの明かりが灯っていることに気が付いた。しかしそこに絢の姿はない。電気を消し忘れたのだろうかと思いきや、掃き出し窓の向こうに彼女の姿を発見した。

 窓の向こうはウッドデッキが広がっており、こじんまりとしたテーブルと椅子が設置してある。ぼんやり灯るストリングライトの下で、絢は優雅に赤ワインを飲みながらスケッチをしていた。

「なに一人でこっそり飲んでんだよ」

「飲みたいならグラスを持ってきてください」

 そう言われて彼はキッチンの棚からグラスを持ち出した。

 再びウッドデッキに戻り、絢の向かい側の椅子に腰を下ろす。彼は赤ワインのボトルを片手で持ち、ラベルをしげしげと観察した。

 英語ではない外国語で記載されており、かろうじて読み取れたのはアルコール分が13パーセントということだけだった。

「高級そうなワインだな。海外から取り寄せたのか?」

「オーストリアにいる父が送って寄越してきたものですよ」

「オーストリア?」

 響介は絢の細面をじっと見つめた。純日本人ではないだろうと思われる彼女の容姿はおそらく、その国由来のものなのだろう。だが彼女は詳細を語るつもりはないようだった。

 響介はワインをグラスになみなみ注ぎ、品もなく一気飲みをした。渋みの効いた濃いワインだった。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った夏の夜。ふと耳を澄ませば、庭先や草むらからコオロギやスズムシたちの大合唱が聞こえてくる。その涼やかな音色は、湿り気を帯びた夜風に乗って、夜の静寂を際立たせていた。

 絢はさっきからスケッチを続けている。スケッチブックを立てて持っているので、響介の方からは何を描いているのか見えない。

「さっきからずっと何描いてんだよ」

「暇潰しの落書きですよ」

 さらさらと走る色鉛筆の音だけが、二人の間に流れる沈黙を埋めていく。

「………まさか俺の顔とか描いてんじゃねぇだろうな?」

 響介が嫌そうに言うと、絢は不意に手を止め、スケッチブックの端から視線だけを彼に向けた。その唇が、挑発するように弧を描く。

「私は美しいと思ったもの以外描かない主義ですのでご安心ください」

 響介の胸に苛立ちが募る。彼は衝動的に手を伸ばすと、彼女からスケッチブックを奪い取った。ひっくり返して見てみると、複雑に絡み合う色とりどりの「線」や「点」の飛沫が、紙一面を埋め尽くしていた。それはまるで抽象画か、あるいは見たこともない精緻な図譜のようだった。

「なんだよ、これ」

「私の芸術……とでも言っておきましょうか」

「何を書いたんだよ」

「私が今、ここで感じているすべてですよ」

 核心をはぐらかすような答えを残し、彼女は鮮やかな手つきでスケッチブックを奪い返した。パタン、とスケッチブックが閉じられる。
 
 絢は平然とした顔でワイングラスを手に取ると、しなやかな指先でそれを傾けた。ペースこそ速くはないが、実に慣れた様子でワインを嗜んでいる。

「やっぱり赤ワインはフルボディに限りますね」

「相変わらず気取ってんな」

 絢は響介の軽口を無視し、心地よさそうに椅子の肘掛けにしなだれかかった。彼の視線はつい、絢の左腕に向いてしまう。

「……なぁ、聞いてもいいか?」

「なんですか」

「その左腕……何があったんだよ」 

 絢は響介のグラスにワインを注ぎ足した。

「あなたが知る必要はありません」

 その短い返事には、踏み込めば即座に首を撥ねるような、冷たく重い威圧感が宿っていた。響介はそれ以上踏み込むのをやめた。

「ところで」

 急に絢はニコリと微笑み、話題を変えた。

「先日霧生さんの名前をネットで検索したんですが、どうやら以前動画配信をやっていたようですね」

 響介はギクリとしたが、ここは惚けておくことにした。

「さぁ、知らないな。同姓同名の別人じゃないのか」

「そうですか?この演奏動画を上げている配信者、右手の中指に変わったデザインの三連リングを着けているんです。霧生さんが着けているその指輪とよく似ているんですが」

 絢はスマホを手に取り、ある動画を再生させた。それは二年前にアップされた動画で、キーボードを弾く両手と中指に装着した三連リングがしっかりと映っていた。彼は急に恥ずかしくなり、絢からスマホを引っ手繰ろうとした。が、ギリギリのところで引っ込められ、奪うことは叶わなかった。

「チャンネル登録者は132人。決して多くはないですが、無名の素人のわりには中々の数だと思います」

 響介は髪を掻き上げ、うんざりしたようにため息をついた。

「…ンだよ。人の名前勝手に検索しやがって」

「やはり御本人でしたか。動画の更新は二年前からストップしているようですが、何かあったんですか」

「………大して視聴回数も伸びねぇから辞めたんだよ」

「そうですか。なんだか勿体ないですね。とは言え、あなたは私の専属ピアニストですから、他所では弾かせたくありませんが」

「相変わらず尊大なこと言ってんな。ちょっと金持ちだからって良い気になんなよ?」

「もしかして霧生さんは酔うと他人に絡むタイプですか?」

「酔ってねぇし」

 響介はグラスを乱暴に置き、睨むように絢を見据えた。

「大体あんた神経ぶっ飛びすぎなんだよ。毎日たった一、二時間ピアノを弾かせるためだけに俺を家に住まわせて、その上小遣いまでやるなんて。どう考えたって俺の労働量に見合ってない報酬だろ。おかしいだろ」

 酔った勢いで、彼はつい心の蟠りを吐き出してしまった。

「何が気に入らないんですか?楽できる方があなただっていいでしょう」

「そりゃ、楽するに越したことはないさ。だがこれじゃ、あんたに飼われてるみたいで癪だ。俺を餌付けして支配して、プライドを根こそぎ奪うつもりか」

「いいじゃないですか。犬に成り下がっても……」

 絢は澄んだ声で微笑わらい、気だるそうに頬杖をついた。そよいだ夜風に彼女の淡い髪が靡き、照明の光を弾きながら妖しく輝く。

「プライドなんて鎧と一緒です。着けていても重いだけ。脱いでしまった方が楽なんですよ。ふふ、大丈夫……たとえ神があなたを突き放しても、私だけは見捨てたりしません。ちゃんと責任を持って飼ってあげますよ」

 彼女のその佇まいは、猛獣の急所を冷徹に見定める調教師のようで、計り知れない狂気を感じさせた。

「私はそろそろ戻ります。どうぞごゆっくり」

 絢はスケッチブックと色鉛筆を持って席を立った。
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