色彩の処刑台

obbligato

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第一章 白金の蛛網

第五話 白金の蛛網

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 夜もすっかり更けたが、響介は屋敷の空気から逃げるようにウッドデッキに居座り、だらだらとワインを飲んでいた。しかしいくらアルコールを喉に流しても、胸の中のもやが消えてなくなることはなかった。

 そんな中、ぽつぽつと小雨が降り始めた。

 いい加減、中へ入った方が良さそうだ。立ち上がったその時、夜空に稲光が走り、けたたましい雷鳴が轟いた。

 瞬く間に雨脚は強まり、響介を濡れネズミにする。衣服が体に張り付く不快な感覚が、あの日の記憶をより鮮明に思い起こさせた。

 家を飛び出したあの日もこんな嵐の夜だったな……と彼は柵に手を掛け、遠い目をして夜空を仰いだ。

「仕方ない。入るか…」








 




 響介は無人のリビングへと入った。壁の時計はすでに深夜二時を指し示していた。リビングの扉は防音。多少ピアノを弾いても、彼女の睡眠妨害にはならないはずだ。

 彼はピアノの前に腰掛け、ラフマニノフの『鐘』を弾き始めた。

 姉がラフマニノフが好きでよくCDを流していたので、響介にとって彼は幼いころから馴染みのある、特別な作曲家だった。

 ピアノを始めたのは、姉が白血病だと宣告されてからだ。元々家にあった古いピアノで、『鐘』を毎日のように練習した。弾けるようになれば、奇跡が起きて姉が元気になるんじゃないか───そんな妄想に縋り、彼は自宅療養中だった姉にしばしば演奏を聞かせた。「響ちゃん、上手だね、すごいね」「響ちゃんのピアノ、聴くと気分が良くなるの。もっと聞かせて」と姉は涙を流しながら、純粋に喜んでくれた。この曲で奇跡が起きて、姉ちゃんの病気が治りますように───そんな祈りを込めて弾いていた。しかし彼の祈りは届くことなく、姉は天国へと旅立った。

 姉の死後も彼は寂しさを紛らわすように独学でピアノを続けた。天国にいる姉へ、その音色を届けるつもりで。

 元々素質があったようで、彼はメキメキとその才能を伸ばしていった。合唱の伴奏を任されたり、友人の誕生日に弾いて喜んでもらえると、彼も救われた気持ちになった。やがて彼は、将来はこの特技を生かせる仕事がしたいと思うようになった。しかし父親は、音大への進学を許さなかった。音楽の世界はそんなに甘くない。ピアノは趣味程度にしておけと。彼は反発して高校を中退し、家を飛び出した。

 バイトをいくつも掛け持ちし、余った時間をピアノの練習に費やした。金を貯めて音楽留学をして、いつか本物のピアニストになってやると心に決めていた。だが給料のほとんどは生活費に溶け、貯金をする余裕はまったくなかった。高く掲げていた目標は徐々に下がっていった。海外留学という目標はあったものの、その先の具体的なビジョンがまったく見えなかった。音大どころかピアノ教室すら通ったことのない自分を、誰がピアニストとして認めてくれるだろうか。

 父の言う通り、ピアノは趣味程度がちょうどいいのだ。夢から覚めた響介であったが、ここで後戻りすれば、今までの自分の努力を否定することになる。あれだけ練習したのに誰にも自分の演奏を届けることができないのは虚しすぎる。そこで彼は動画配信を始めたのだ。最初は好調だった。「元気が出た」と感謝されたり、フォロワーがどんどん増えていくのはピアニストとして認められたようでうれしかった。しかし中には攻撃的な人間もおり、「こんなのはデタラメな奏法」「所詮下手の横好き」「ピアノを弾く自分に酔ってる」などとコメントされ、元来短気な響介はついカッとなり、過激な返信をしてしまった。まさかその発言がきっかけでチャンネルが炎上するとは考えもせずに。

 炎上してからは一度も動画を上げていない。フォロワーが激減してモチベーションが下がったのも理由の一つだが、他人から誹謗中傷を受けて以来、ピアノを続けることの意味を見出せなくなってしまったのだ。別に称賛されたかったわけではない。ただ純粋に、聴衆を喜ばせたかっただけ───他人から誹謗中傷されてまで弾きたいとは思わなかった。

 それからはずっとバイトを点々としながら漫然と日々を過ごしてきた。実家に戻って父と和解し、家業の定食屋を手伝うという選択肢もあったが、積み上げてきた自尊心と頑固さが足枷となり、中々踏み切れなかった。

 そんな地を這うような生活の中で手を差しのべてくれたのが絢だった。彼女は響介に演奏の場を与えてくれたが、所詮は檻の中の犬である。彼の奏でる調べは、檻の向こうを知らないまま潰えていくのだ…。

 ピアニストを夢見て家を飛び出したあの日の自分は、こんな結果など望んでいなかったはずだ。純粋にピアノが好きで、それを誰かに届けたかった。その原動力はいつだって、天国にいる姉への祈りだった。

 だが現実は甘くない。この屋敷を出たら、自分をピアニストと呼んでくれる人など誰もいないのだ。それどころか、また貧乏生活に戻ることになる。こんな至福の時間を味わってしまった後では、日常に戻った時の反動がどれほど残酷なものになるか、想像するだけで恐ろしい。

「なぁ、姉ちゃん……。俺はどうしたらいい……?」

 急に情けなくなり、集中力が途切れてミスタッチをしてしまった。彼は演奏を中断して項垂れた。

「今の箇所、指使いがやや非効率的でしたね」

 突然絢の声がしたかと思えば、背後からスッとしなやかな右手が伸びてきて、五指が滑らかな動きで鍵盤の上を駆けていった。先ほど響介がミスタッチした箇所である。

「……うるせぇな。講師面すんなよ」

「少し弾きづらそうに見えたものですから」

「そんなこと指摘するくらいならちゃんとしたプロ雇えばよかっただろ。なんで俺みたいなド素人雇ったんだよ。見る目ねぇな」

 不貞腐れる響介に、絢は優しく言う。

「あなたの演奏に光るものを感じたから、雇ったんですよ」

 絢はピアノに寄りかかり、優美に微笑んだ。

「プロのピアニストたちは確かに完璧に近い演奏をしますが、みんな四角四面というか、楽譜をなぞっているだけというか……モノクロで味気ないんです。その点、霧生さんの演奏は純粋な音楽への情熱があり、鮮やかな色彩に溢れています。その根底にあるのはエゴではなく、誰かにそのエネルギーを届けたいという、献身的な“祈り”です。勿論これは主観ですから、中にはそれを好まない人間もいるでしょうが、あくまでも音楽は芸術です。結局は好みの問題ですし、絶対的な正しさは存在しません。ですから独学であることにそれほどコンプレックスを持つ必要はないんですよ」

「ふん……別にコンプレックスなんてねぇよ。俺は俺の演奏を気に入ってる」

 響介は照れ隠しにふいとそっぽを向いた。

「……あんたもピアノ、やってたのか」

 鍵盤を叩きながら、どさくさ紛れに彼は聞いた。

「昔、少し習っていただけですよ」

 あっさり答えた彼女は、鍵盤を指差しながら指示をする。

「先ほど間違え箇所、教えた通りにもう一度弾いてみてください」

 彼は指示に従い、先ほど間違った箇所から弾き直した。絢に指導された通りに指を動かすと、嘘のようにスムーズに弾くことができた。

 彼は無意識に頬を緩めていた。彼女が自分を選んでくれたのは、他のピアニストにはないものを感じたから───その言葉が真実であるならば、これほど嬉しいことはない。自分の今までの努力が、ほんの少し報われたような気がした。

 絢が緻密に織り上げた白金プラチナ蛛網おり。その柔らかな銀糸は響介を優しく、しかし完璧に絡め取っていた。 
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