色彩の処刑台

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第一章 白金の蛛網

第六話 泥水の旋律

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 夏の残骸がまとわりつく九月の朝は曇天で始まった。響介は重い瞼をこじ開けて、思考停止したままの体を現実へと引きずり出す。上下スエットのまま、一階へ降りてきた。

 キッチンで後片付けをする家政婦の安曇と、リビングで食後のコーヒーを優雅に嗜む絢。

「おはようございます」

「……おう」

 絢は挨拶しただけで、響介に演奏を請うことはなかった。そもそも朝から弾けと言われることは滅多にない。彼女が音を求めるのは、日が沈んでからと決まっている。 だが彼は自分からピアノの前に腰を下ろした。吸い付くように馴染むこの滑らかな鍵盤を前にして、弾かずにはいられなかったのだ。曇り空の天気に合わせて、サティの『グノシェンヌ1番』を弾き始める。重く気だるく音色がリビングに響き渡る。

「霧生さん」

 突然絢は演奏を中断させ、響介に歩み寄っていった。彼の左手を掴み、指を深く絡めてくる。

「なっ、何だよ、いきなり───」

 突然のスキンシップに動揺したのも束の間、絢に親指の付け根をぐっと押され、彼は苦痛の声を上げた。

「いてっ……何すんだよ!」

「痛みはいつからですか?」

「……昨日の夜からだよ」

「腱鞘炎ですね。昨夜も一人でずっと弾いていたんじゃありませんか」

「ほっとけよ。こんなのすぐ治る」

「悪化したら動かなくなりますよ。二、三日、演奏は禁止です」

「大丈夫だって言ってんだろ」

 響介は強がって手を振りほどこうとしたが、絢に痛い所を掴まれて力が入らなかった。

「いいから……言う通りにしなさい」

 そのぞっとするような深い声音は、不可視の鞭となって響介の身を裂くような、苛烈な響きを帯びていた。

 反抗の声すら上げられぬまま、響介の体はただ無様に強張るばかりだった。

 彼を縛り付けていた峻烈な気配を自ら霧散させるように、絢はふっと微笑んだ。そしてローテーブルの引き出しからチケットを二枚取り出した。

「元々今日は、あなたにピアノを弾かせるつもりはなかったんです」

 彼女はチケットを一枚、響介の方へ差し出した。

「たまには二人でお出かけしましょう」

 響介は差し出されたチケットを訝し気に覗き込んだ。
 
黒瀬晴臣くろせはるおみ……ピアノリサイタル?誰なんだ、こいつ。有名なヤツなのか?」

「圧倒的な超絶技巧で知られる指折りのピアニストですよ。あなたにも一度、プロの演奏を生で聞いてもらおうと思って買っておいたんです」

 絢は響介の承諾も聞かずに家政婦に言った。

「安曇さん。会場まで送っていただけますか」

「承知しました」

「帰りはタクシーを使うので、安曇さんはそのまま直帰してください」

「はい」

 響介を無視して勝手に話が進んでいる。プロのリサイタルなど興味はなかったが、断るという選択肢はなさそうだった。あの絢のことだから、どんな手を使ってでも彼をリサイタルに連れていくつもりなのだろう。






 午後六時。安曇の運転するネイビーのボルボが会場である某芸術文化センターへと到着した。入場時間を少し過ぎていたので、二人は受付でパンフレットをもらって足早に会場へと赴いた。

 指定席のため、割り当てられた一階席へ行って自分たちの座席番号を探す。

「E列8番……。ここですね」

 二人は並んで椅子に座った。位置的にはやや前方、やや下手側である。

 やがて開演時間となり、会場はしんと静まり返った。スーツに身を包んだ長身の美丈夫がステージに現れる。軽く挨拶を済ませると、彼はさっそくピアノに向かった。

 パンフレットに記載された黒瀬晴臣の輝かしいプロフィールを思い出しながら、響介は彼の演奏に神経を集中させる。

 黒瀬晴臣、二十六歳。三歳でピアノを始め、若干八歳で国内外のジュニアピアノコンクールを総嘗めにする。十五歳でウィーンに渡り、音大教授アーロン・ヴァイス氏に師事し、ピアノを深く学ぶ。ウィーン○○音楽院を最優秀の成績で卒業。現在はソロリサイタルを中心に、オーケストラとの共演、国際コンクールの審査員、マスタークラスの講師など、多方面で後進の指導にもあたっている。

 名実ともに、彼は素晴らしいピアニストであった。ダイナミックでありながらも、寸分の狂いもなく鍵盤を駆け抜ける指先。超絶技巧から放たれる暴力的なまでの音圧が、聴衆の心臓を直接掴み、揺さぶる。その速度と熱量に、響介はただただ圧倒された。

 リサイタル終演後は、拍手喝采が鳴り止まなかった。中には号泣したり、椅子に立って叫んだりする病的なまでに熱烈な客もいた。

 席さえ立たなかったが、響介もしばらくは余韻が抜けなかった。

「はぁ……やっぱすげーな」

 ふと横を見た響介は、隣で絢が腕を組んだまま目を瞑っていることに気がついた。眠っていることにも驚きだが、ヘッドホンをつけていることにはもっと驚いた。

「おい」と響介が肩を小突くと、彼女は気だるそうに顔を上げ、ヘッドホンを外して髪を整えた。

「ああ……やっと終わりましたか」

 響介は呆然と絢を見つめた。

「なぁ、あんたずっとそれで耳塞いでたのか?」

「ええ」

「は?意味わかんねぇ。なんでだよ?」

 絢は響介の問いを笑って受け流し、

「どうでしたか?今をときめく天才ピアニストの演奏は」

 と話題を逸らした。響介は打ちのめされたように長いため息をついた。

「次元が違い過ぎて何も言えねぇよ。人間とは思えねぇくらい完璧だったし」

「音楽一本で食べているんですから当然ですよ」

「どれだけ練習したらあんな風に弾けるようになるんだよ」

「彼の場合は努力よりも才能の方が大きいかもしれませんね。自分の体の一部のように鍵盤を操っていますから」

「じゃあ才能のないやつは練習しまくるしかないってことか?練習しまくればあの領域まで辿り着けるのか?」

「あれは黒瀬晴臣だからこそ成し得る技です。普通のピアニストがあれを目指して猛練習したとしても、関節を壊したり腱を切ったりして、廃人になるのが落ちですよ」

「はぁ……。そんなこと言われたらモチベーション下がるわ」

「そんなに落ち込む必要はないですよ。私は別に、あなたにあれを真似しろと言っているわけではありません。むしろ悪い例として聴かせるためにここへ連れてきたんですよ」

「そういやずっとヘッドホンつけてたよな。あんなにすげーのに、何が気に入らないんだよ」

「……確かに技術は素晴らしいですが、彼は自己顕示欲が強すぎて、私の神経を逆撫でするんです。あの聴衆を飲み込もうとするような、ギラついた油に似た混濁した音色を聴くと、泥水を喉に流されているようで気分が悪くなるんです」

 絢は左腕を右手で掴みながら、響介の瞳の奥を覗き込むようにじっと見つめた。

「霧生さん。あなたはあんな風にならないでくださいね。私はあんな演奏より、あなたの演奏の方が好きですから」

 その言葉は切実な祈りのようでありながら、彼の魂を繋ぎ止めようとする呪詛めいた響きがあった。

「ふん……別にあいつの真似しようなんて思ってねーよ」



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