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第一章 白金の蛛網
第七話 前任者の影
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響介は絢と共に席を立ち、他の観客に続いて出入り口へ向かった。
二人が会場を出てロビーに戻る途中、後ろから早足で歩いてきた男性が勢いよく響介たちを追い抜いていった。響介は彼に軽く肩をぶつけられたので、不愉快そうに顔をしかめた。そのまま行ってしまうのかと思いきや、男性は突然足を止め、洗練された所作でしなやかに振り返った。
「おや、誰かと思えば絢さんじゃないか」
気安い口調で話し掛けてきたその男性は、本日の主役である名ピアニストの黒瀬晴臣だった。
「君が俺の演奏を聴きに来るなんて珍しいじゃないか」
絢はにこやかに会釈し、社交辞令を言う。
「相変わらず聴衆を圧倒する演奏でしたね」
「プロなんだから当たり前さ。それにしても会うのは久しぶりだな。元気にしていたかい」
「ええ。黒瀬さんもお元気そうで。ご活躍の噂も兼がね伺っております」
「忙しくて目が回りそうだよ。弟子も何人か取っているしね」
黒瀬は言葉を切ると、絢の横に立っている響介を無遠慮にじろじろと見た。
「彼は君の連れかい?」
「ええ。私の専属ピアニストの霧生響介さんです」
「へぇ。よかったじゃないか、新しい人が見つかって」
黒瀬は興味深げに目を細め、響介をじっと見つめた。
「ふーん……」
響介の威圧的な外見や野性的な雰囲気を肌で感じ取ったのか、黒瀬の眼差しには珍しい野獣を檻の外から眺めるような、残酷な好奇心と蔑視が混じっていた。
黒瀬は再び絢に視線を戻すと、
「ああ、そうだ」
何か思い付いたように膝を打った。
「絢さん。この後ちょっと時間は取れるかな。話したいことがあるんだ」
「わかりました」
絢は響介に先にタクシーに乗っているよう指示し、黒瀬と連れだって控え室へ入っていった。
「なんだよ、“ふーん”て」
響介は不愉快そうにパンフレットをぐしゃぐしゃに丸め、それをゴミ箱に放り投げてから去っていった。ホールの出口へ向かいながら、彼は先ほど黒瀬がぽろっと溢した「新しい人」という前任者の存在についてずっと考えていた。
*
黒瀬と絢は控え室で向かい合って座っていた。
「それにしても驚いたよ。君がまさかあんな育ちの悪そうなチンピラ風の男を専属ピアニストにするなんてね。ええと──霧生くんていったかな……彼はどこの音大を首席で卒業したんだい?」
「彼は中卒です。ピアノは独学で、ストリートピアノを弾いていたところをスカウトしたんですよ」
「はは……やっぱりな」
黒瀬はどこか呆れたような笑みを覗かせた。
「道端でスカウトするなんて、随分酔狂なゴミ拾いをしたもんだな。そんなによかったのか?彼の旋律は」
「ええ。神々しいほど鮮やかな赤色で、これ以上にないほど素晴らしい音色です」
「はっ……君にそこまで言わせるなんて大したものだな。一度聞いてみたいものだ」
絢はその白々しい言葉を冷ややかに受け流し、
「そろそろ用件をうかがってもよろしいですか?」
無造作に話題を変えた。
「ああ、そうだったね」
黒瀬は居住まいを正し、ようやく本題に入った。
「俺が覆面ピアニストとして動画配信をやってることは知ってるだろう。まぁ、ある程度の登録者数はいるんだが、最近は数字が横ばいでね……。爆発的なフックが足りない。そこで思い付いたのがコラボ演奏だ。しかし誰とやるか……。ずっと考えていたんだが、今日君の顔を見て閃いたよ」
「なんでしょう」
「君に出演を依頼したい」
「私が片腕なのをお忘れですか?」
「二人三手で連弾するんだよ。君は右手だけ動かしてくれればいい。一応ピアノ経験はあるんだし、弾けるだろ?」
絢は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに首を振った。
「そんなに連弾したいのなら、現役で活動しているプロのピアニストに依頼したらいいでしょう」
「有名なピアニストじゃ依頼料が高くつく。かと言って無名のピアニストだと話題性に欠けるし、せいぜい俺の引き立て役にしかならない。そこで思い付いたのが隻腕の君だ。勿論、プライバシーを尊重して顔は映らないよう配慮する。だが演奏する時ははっきり義手だとわかるように袖のない服を着てもらうよ。そうだな、タイトルは『【※号泣注意~“片手で何ができる”と笑われた彼女と正体を隠した覆面ピアニスト。二人の音が重なった瞬間、奇蹟が起きた』───これでバズらないはずがない」
「なるほど、『障害者見世物商法』ですか。欺瞞と虚飾に満ちたあなたらしいやり方ですね」
「酷い言い種だな。昔一緒に暮らした仲じゃないか。協力してくれたっていいだろ」
「黒瀬さん。連弾というのは互いに共鳴し合うから美しいんですよ。ヴァイス教授から教わりませんでしたか?連弾で一体感を生み出すために最も大切なものは、“互いの信頼関係”だと」
黒瀬はふっと短く笑った。
「まぁ、確かに……俺達はただの腐れ縁で、決して仲が良いとは言えないな。だがそれがなんだっていうんだ。俺の技術があれば多少の乱れはカバーできる。ものは試しだ。取り合えず連弾してみて、視聴者の豚どもの反応を見てみようじゃないか」
「私とあなたの連弾なんて、足の引っ張り合いになって曲が崩壊してしまいますよ。そんな演奏を全世界に配信するだなんて……音楽への冒涜行為です」
「わかった。じゃあ配信の前に二人で『密な』練習をしようじゃないか」
「くどいですね。やんわりとお断りしているのがわかりませんか」
「どうしてそこまで頑なに拒む?たかが動画配信だ。気軽に取り組んだっていいじゃないか」
「では逆に尋ねますが、その動画に出演することによって私が得られるメリットは何かあるんですか」
「再生回数が稼げれば君にも分配金をくれてやる」
「そんな端金をどうしろと?」
不毛な応酬が続く中、ノックの音と共にマネージャーの女性が入ってきた。
「失礼します。コーヒーをお持ちしました」
黒瀬と絢の前に温かいコーヒーが置かれる。黒瀬は長い足を組み、やや苛立った手付きでそれを口に運んだ。
「まぁ、いい。そんなに嫌ならもう頼まない。せいぜいあの野良犬みたいな坊やと仲良くするがいい」
断られた腹いせか、黒瀬はさらに強烈な一撃を放った。
「ふっ……でも本当によかったな。また君を満たしてくれるインクカートリッジが見つかって。今度のはずいぶん容量が大きそうだし、長持ちするといいな」
一瞬にして、控え室の空気が絶対零度まで凍りついた。マネージャーが悲鳴を上げそうな顔で硬直する。
「黒瀬さん……」
放たれた毒矢を氷の礫で叩き落とすような勢いで絢は言う。
「あなたもしかして、またお金に困っているんじゃありませんか」
「なっ……」
黒瀬は意表を突かれたように表情を強張らせた。絢はそれを肯定と判断した。
「動画配信で一儲けしようと思ったんでしょう」
「失敬な。俺は別にそんなこと────」
絢は黒瀬の弁解を遮った。
「可哀想に。またギャンブルに耽溺して無様に資産を溶かしたんですね。芸術的な聖者にして、救いようのない俗物ですこと」
絢は悪意たっぷりにとどめを刺した。黒瀬はギリっと唇を噛み、すぐさまマネージャーを控え室から追い出した。再び絢に向き直った彼は、高い靴に泥がはねたかのように不愉快極まりない顔をしていた。
「この死にぞこないが。右手も吹き飛べばよかったんだ」
「私は運が良いんです。ギャンブルで負けてばかりいるあなたとは違って」
淑やかな笑みで嫌味を言うと、絢は立ち上がり、控え室の出口に向かって歩いていった。ドアノブに手を掛けたまま、黒瀬を振り返って挑発的な視線を送る。
「覆面ピアニストの黒瀬さん。次の配信ではヴェネチアンマスクではなく、顔に『差し押さえの紙』でも貼って出演されたらいかがですか?そうですね……タイトルは『【号泣注意】かつて神童と呼ばれた天才ピアニストの末路~愛車が公売にかけられたので最後の演奏をアップします』───なんてどうでしょうか」
黒瀬は憤然と立ち上がり、コーヒーが入った紙コップを絢に投げつけた。が、彼女はギリギリで扉を閉めたので、行き場を失ったコップはドアにぶつかって弾かれ、コーヒーが返り血のように無惨に床にぶちまけられた。
*
ホールを出た絢は、予約したタクシーを見つけて軽やかに乗り込んだ。
隣に座る響介は、肩肘をついて窓の方へ顔を向けている。ふてくされたような口調で彼は聞く。
「あんたは黒瀬晴臣と知り合いなのか?」
「ええまぁ……昔の知り合いですよ」
「なんだよ、昔の知り合いって」
「……何年か同居していたことがあるんですよ」
「同居?」
響介の顔が嫌悪感に歪む。だが彼女が意味する“同居”は、響介が想像するようなものとは違った。
「私がまだ家族とウィーンにいた頃、彼がうちに身を寄せていた時期があるんです。父親同士が旧知の仲だったものですから。……まぁ、いわば個人的な縁故によるホームステイのようなものですね」
響介はパンフレットに記載されていた黒瀬のプロフィールを思い返した。確かに彼はウィーンに留学していた経験がある。そして絢もまた、父親がオーストリア在住であることを以前明かしていたではないか。点と点が、ようやく繋がった。
「それならそうと最初から言えよな。つーか黒瀬は何の用事であんたを呼んだんだよ」
「くだらない金儲けの話ですよ」
「ふーん……」
正直言って響介は黒瀬のことなどどうでもよかった。それよりも、黒瀬が存在を示唆した前任の専属ピアニストのことが気にかかっていた。
「……なぁ、俺の前にも誰か雇ってたのか」
「はい?」
絢は惚けたように首を傾げる。苛立たし気に響介は言い直す。
「俺の前にもピアニストを雇ってたのかって聞いてんだよ。さっき黒瀬が言ってたろ。俺のこと、“新しい人”って」
「ああ……」
絢はどうでもよさそうな声を上げた。
「雇っていたというより、以前、頻繁にピアノを弾きに来てくれていた方がいたんですよ。何か問題でも?」
そう聞かれて響介は黙り込む。確かに問題はない。その前任者は、もう屋敷に通ってはいないのだから。それでも彼は、自分以外にも絢のお眼鏡にかなったピアニストがいたという事実に、少なからずショックを受けていた。そんな彼の心情を見抜いたかのように、絢は言った。
「そんな拗ねた顔をしないでください。前の方も確かに良い演奏をしていましたが、私はそれ以上にあなたの演奏を気に入ってるんです」
「……別に拗ねてねーし!」
二人が会場を出てロビーに戻る途中、後ろから早足で歩いてきた男性が勢いよく響介たちを追い抜いていった。響介は彼に軽く肩をぶつけられたので、不愉快そうに顔をしかめた。そのまま行ってしまうのかと思いきや、男性は突然足を止め、洗練された所作でしなやかに振り返った。
「おや、誰かと思えば絢さんじゃないか」
気安い口調で話し掛けてきたその男性は、本日の主役である名ピアニストの黒瀬晴臣だった。
「君が俺の演奏を聴きに来るなんて珍しいじゃないか」
絢はにこやかに会釈し、社交辞令を言う。
「相変わらず聴衆を圧倒する演奏でしたね」
「プロなんだから当たり前さ。それにしても会うのは久しぶりだな。元気にしていたかい」
「ええ。黒瀬さんもお元気そうで。ご活躍の噂も兼がね伺っております」
「忙しくて目が回りそうだよ。弟子も何人か取っているしね」
黒瀬は言葉を切ると、絢の横に立っている響介を無遠慮にじろじろと見た。
「彼は君の連れかい?」
「ええ。私の専属ピアニストの霧生響介さんです」
「へぇ。よかったじゃないか、新しい人が見つかって」
黒瀬は興味深げに目を細め、響介をじっと見つめた。
「ふーん……」
響介の威圧的な外見や野性的な雰囲気を肌で感じ取ったのか、黒瀬の眼差しには珍しい野獣を檻の外から眺めるような、残酷な好奇心と蔑視が混じっていた。
黒瀬は再び絢に視線を戻すと、
「ああ、そうだ」
何か思い付いたように膝を打った。
「絢さん。この後ちょっと時間は取れるかな。話したいことがあるんだ」
「わかりました」
絢は響介に先にタクシーに乗っているよう指示し、黒瀬と連れだって控え室へ入っていった。
「なんだよ、“ふーん”て」
響介は不愉快そうにパンフレットをぐしゃぐしゃに丸め、それをゴミ箱に放り投げてから去っていった。ホールの出口へ向かいながら、彼は先ほど黒瀬がぽろっと溢した「新しい人」という前任者の存在についてずっと考えていた。
*
黒瀬と絢は控え室で向かい合って座っていた。
「それにしても驚いたよ。君がまさかあんな育ちの悪そうなチンピラ風の男を専属ピアニストにするなんてね。ええと──霧生くんていったかな……彼はどこの音大を首席で卒業したんだい?」
「彼は中卒です。ピアノは独学で、ストリートピアノを弾いていたところをスカウトしたんですよ」
「はは……やっぱりな」
黒瀬はどこか呆れたような笑みを覗かせた。
「道端でスカウトするなんて、随分酔狂なゴミ拾いをしたもんだな。そんなによかったのか?彼の旋律は」
「ええ。神々しいほど鮮やかな赤色で、これ以上にないほど素晴らしい音色です」
「はっ……君にそこまで言わせるなんて大したものだな。一度聞いてみたいものだ」
絢はその白々しい言葉を冷ややかに受け流し、
「そろそろ用件をうかがってもよろしいですか?」
無造作に話題を変えた。
「ああ、そうだったね」
黒瀬は居住まいを正し、ようやく本題に入った。
「俺が覆面ピアニストとして動画配信をやってることは知ってるだろう。まぁ、ある程度の登録者数はいるんだが、最近は数字が横ばいでね……。爆発的なフックが足りない。そこで思い付いたのがコラボ演奏だ。しかし誰とやるか……。ずっと考えていたんだが、今日君の顔を見て閃いたよ」
「なんでしょう」
「君に出演を依頼したい」
「私が片腕なのをお忘れですか?」
「二人三手で連弾するんだよ。君は右手だけ動かしてくれればいい。一応ピアノ経験はあるんだし、弾けるだろ?」
絢は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに首を振った。
「そんなに連弾したいのなら、現役で活動しているプロのピアニストに依頼したらいいでしょう」
「有名なピアニストじゃ依頼料が高くつく。かと言って無名のピアニストだと話題性に欠けるし、せいぜい俺の引き立て役にしかならない。そこで思い付いたのが隻腕の君だ。勿論、プライバシーを尊重して顔は映らないよう配慮する。だが演奏する時ははっきり義手だとわかるように袖のない服を着てもらうよ。そうだな、タイトルは『【※号泣注意~“片手で何ができる”と笑われた彼女と正体を隠した覆面ピアニスト。二人の音が重なった瞬間、奇蹟が起きた』───これでバズらないはずがない」
「なるほど、『障害者見世物商法』ですか。欺瞞と虚飾に満ちたあなたらしいやり方ですね」
「酷い言い種だな。昔一緒に暮らした仲じゃないか。協力してくれたっていいだろ」
「黒瀬さん。連弾というのは互いに共鳴し合うから美しいんですよ。ヴァイス教授から教わりませんでしたか?連弾で一体感を生み出すために最も大切なものは、“互いの信頼関係”だと」
黒瀬はふっと短く笑った。
「まぁ、確かに……俺達はただの腐れ縁で、決して仲が良いとは言えないな。だがそれがなんだっていうんだ。俺の技術があれば多少の乱れはカバーできる。ものは試しだ。取り合えず連弾してみて、視聴者の豚どもの反応を見てみようじゃないか」
「私とあなたの連弾なんて、足の引っ張り合いになって曲が崩壊してしまいますよ。そんな演奏を全世界に配信するだなんて……音楽への冒涜行為です」
「わかった。じゃあ配信の前に二人で『密な』練習をしようじゃないか」
「くどいですね。やんわりとお断りしているのがわかりませんか」
「どうしてそこまで頑なに拒む?たかが動画配信だ。気軽に取り組んだっていいじゃないか」
「では逆に尋ねますが、その動画に出演することによって私が得られるメリットは何かあるんですか」
「再生回数が稼げれば君にも分配金をくれてやる」
「そんな端金をどうしろと?」
不毛な応酬が続く中、ノックの音と共にマネージャーの女性が入ってきた。
「失礼します。コーヒーをお持ちしました」
黒瀬と絢の前に温かいコーヒーが置かれる。黒瀬は長い足を組み、やや苛立った手付きでそれを口に運んだ。
「まぁ、いい。そんなに嫌ならもう頼まない。せいぜいあの野良犬みたいな坊やと仲良くするがいい」
断られた腹いせか、黒瀬はさらに強烈な一撃を放った。
「ふっ……でも本当によかったな。また君を満たしてくれるインクカートリッジが見つかって。今度のはずいぶん容量が大きそうだし、長持ちするといいな」
一瞬にして、控え室の空気が絶対零度まで凍りついた。マネージャーが悲鳴を上げそうな顔で硬直する。
「黒瀬さん……」
放たれた毒矢を氷の礫で叩き落とすような勢いで絢は言う。
「あなたもしかして、またお金に困っているんじゃありませんか」
「なっ……」
黒瀬は意表を突かれたように表情を強張らせた。絢はそれを肯定と判断した。
「動画配信で一儲けしようと思ったんでしょう」
「失敬な。俺は別にそんなこと────」
絢は黒瀬の弁解を遮った。
「可哀想に。またギャンブルに耽溺して無様に資産を溶かしたんですね。芸術的な聖者にして、救いようのない俗物ですこと」
絢は悪意たっぷりにとどめを刺した。黒瀬はギリっと唇を噛み、すぐさまマネージャーを控え室から追い出した。再び絢に向き直った彼は、高い靴に泥がはねたかのように不愉快極まりない顔をしていた。
「この死にぞこないが。右手も吹き飛べばよかったんだ」
「私は運が良いんです。ギャンブルで負けてばかりいるあなたとは違って」
淑やかな笑みで嫌味を言うと、絢は立ち上がり、控え室の出口に向かって歩いていった。ドアノブに手を掛けたまま、黒瀬を振り返って挑発的な視線を送る。
「覆面ピアニストの黒瀬さん。次の配信ではヴェネチアンマスクではなく、顔に『差し押さえの紙』でも貼って出演されたらいかがですか?そうですね……タイトルは『【号泣注意】かつて神童と呼ばれた天才ピアニストの末路~愛車が公売にかけられたので最後の演奏をアップします』───なんてどうでしょうか」
黒瀬は憤然と立ち上がり、コーヒーが入った紙コップを絢に投げつけた。が、彼女はギリギリで扉を閉めたので、行き場を失ったコップはドアにぶつかって弾かれ、コーヒーが返り血のように無惨に床にぶちまけられた。
*
ホールを出た絢は、予約したタクシーを見つけて軽やかに乗り込んだ。
隣に座る響介は、肩肘をついて窓の方へ顔を向けている。ふてくされたような口調で彼は聞く。
「あんたは黒瀬晴臣と知り合いなのか?」
「ええまぁ……昔の知り合いですよ」
「なんだよ、昔の知り合いって」
「……何年か同居していたことがあるんですよ」
「同居?」
響介の顔が嫌悪感に歪む。だが彼女が意味する“同居”は、響介が想像するようなものとは違った。
「私がまだ家族とウィーンにいた頃、彼がうちに身を寄せていた時期があるんです。父親同士が旧知の仲だったものですから。……まぁ、いわば個人的な縁故によるホームステイのようなものですね」
響介はパンフレットに記載されていた黒瀬のプロフィールを思い返した。確かに彼はウィーンに留学していた経験がある。そして絢もまた、父親がオーストリア在住であることを以前明かしていたではないか。点と点が、ようやく繋がった。
「それならそうと最初から言えよな。つーか黒瀬は何の用事であんたを呼んだんだよ」
「くだらない金儲けの話ですよ」
「ふーん……」
正直言って響介は黒瀬のことなどどうでもよかった。それよりも、黒瀬が存在を示唆した前任の専属ピアニストのことが気にかかっていた。
「……なぁ、俺の前にも誰か雇ってたのか」
「はい?」
絢は惚けたように首を傾げる。苛立たし気に響介は言い直す。
「俺の前にもピアニストを雇ってたのかって聞いてんだよ。さっき黒瀬が言ってたろ。俺のこと、“新しい人”って」
「ああ……」
絢はどうでもよさそうな声を上げた。
「雇っていたというより、以前、頻繁にピアノを弾きに来てくれていた方がいたんですよ。何か問題でも?」
そう聞かれて響介は黙り込む。確かに問題はない。その前任者は、もう屋敷に通ってはいないのだから。それでも彼は、自分以外にも絢のお眼鏡にかなったピアニストがいたという事実に、少なからずショックを受けていた。そんな彼の心情を見抜いたかのように、絢は言った。
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