色彩の処刑台

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第一章 白金の蛛網

第八話 不協和音の仮面舞踏会

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 ハロウィーンの闇を切り裂くように、屋敷を取り囲む古木たちが激しく身をよじっている。風が枝の間を忙しなく吹き抜ける。それは苦悶の叫びか、あるいは招かれざる客を拒む威嚇の唸り声か。

 夜九時頃、司城家の屋敷にチャイムが鳴り響いた。家政婦はちょうど帰るところだったが、予期せぬ来訪者に予定を狂わされた。

「夜分遅くに悪いね。絢さんはいるかな?」
 
 華やかなオーラを纏ったモデルのようなそのイケメンの来訪に、家政婦の安曇はたじろいだ。彼は巷では有名なピアニストの黒瀬晴臣だった。

「どういったご用件でしょうか」

「ただ単に遊びに来ただけだよ」

「はぁ……少々お待ちくださいませ」

 安曇はリビングへ駆け込んだ。ちょうど響介がピアノを弾いており、ソファで絢がそれを聴いている。演奏を止めれば絢の不興を買うのは目に見えていたが、一向に終わりの見えない旋律を前に、彼女はついに沈黙を破った。

「絢さま。黒瀬さまがお見えになっております」

「黒瀬さんが……?」

「はい。玄関でお待ちいただいておりますが……どうなさいましょう」

「そうですね……。取り合えず中へ通してください」

 表情ひとつ変えぬまま放たれた絢の声には、足元に生ゴミが転がってきたかのような冷徹な嫌悪が滲んでいた。

 やがて安曇が黒瀬を伴ってリビングへとやってきた。

「安曇さん。もう帰って結構ですよ。お疲れ様でした」

 お茶を淹れに行こうとする家政婦の安曇を呼び止めて絢は言った。

「えっ…」

 安曇は黒瀬の方をチラと見る。自分がお茶を淹れなければ、誰が彼にお茶を淹れるのだろう?疑問に思ったが、従順な家政婦は口答えせず、「わかりました」と出ていった。

 黒瀬は絢が座っているソファへと足を運んだ。一人分の空間を空けて彼女の隣に腰を下ろし、手土産をテーブルに置く。包み紙には一等地に店を構える有名パティスリーのロゴが入っていた。

「ハロウィーンだっていうのに、この部屋は年がら年中季節感がないな。せめてフック船長のコスプレでもしたらどうだい、サイボーグのお嬢様」

「あなたこそ、札束のコスプレでもしたらいかがですか。金策に狂奔する俗物ピアニストさん」

 一触即発のピリついた空気が流れる。居たたまれなくなった響介はリビングを出ていこうとしたが、絢の静かだが強圧的な声に呼び止められた。

「せっかくですから霧生さん。おもてなしに何か弾いてあげてください。そうですね……ハロウィーンにふさわしい一曲を」

 響介の背筋を冷たいものが走った。冗談ではない。世界を舞台に戦う本物のプロを前にして、自分の演奏を披露しろというのか。 目の前の鍵盤が、まるで鋭利な刃物のように見えた。

 そんな響介の心情を悟ったかのように、絢はゆっくりと歩み寄ってくる。

「大丈夫ですよ、霧生さん。黒瀬さんに引け目を感じる必要はありません。彼の演奏なんて、完璧という仮面を被っただけの濁流に過ぎないんですから…」

 彼女は響介の耳元で、甘く、残酷に囁いた。 

「あなたの音の方がずっと鮮やかで、淀みがなくて綺麗なんですよ。あんな泥水を美しいと崇めるのは、本物の音色を知らない可哀想な人たちだけです」

 その言葉は、響介の肺腑に深く染み渡った。世界が否定したとしても、彼女だけは自分を神格化してくれる。その狂信的なまでの肯定が、凍りついていた彼の指先を解かした。響介はピアノの前に座り、白鍵に指を添えた。

 ハチャトゥリアンの『仮面舞踏会』が、鮮烈に幕を開ける。重厚で、どこか狂気を孕んだワルツの旋律が、リビングを支配していく。

「へぇ…。まぁ、独学にしてはそこそこ上手いんじゃないか」

 黒瀬は腕組みをし、値踏みするような視線で感想を漏らした。その声には、上に立つ者特有の余裕が滲んでいる。

「でも、まだ粗削りだな。強弱の付け方が独り善がりだし、決定的に繊細さが足りない」

 断罪するような評価。しかし、絢は眉ひとつ動かさなかった。

「私は技術など二の次なので気にしません」

 氷のように冷ややかな声で黒瀬を切り捨てると、彼女は響介の方を見た。その瞳には、黒瀬に向けるものとは正反対の、熱を帯びた悦惚が宿っている。

 地響きのような低音のワルツ。鮮やかな紫と深紅の線が、まるで生き物のように絡み合いながら、螺旋を描いて絢の脳に流れ込んでくる。舞い散る羽と銀の火花。曲が激しくなるにつれ、羽は吹雪のように舞い散り、その隙間を銀色の鋭い閃光が切り裂いていく。絢の瞳は響介の紡ぎ出す音色だけを追いかける。その高潔で鮮やかな色彩を………。

「そんなにうっとりするほど良いものが見えているのか?」

 黒瀬のせせら笑いが異物となって絢の世界にヒビを入れた。美しい絵画に産業廃棄物の塊をぶちまけられた気分になり、絢は内心で黒瀬を呪う。

「俺にも教えてくれないか。君が心酔している彼の演奏は、一体君にどんな景色を見せるのか」

「あなたに教える必要はありません」

 絢は視線すら向けず、声だけで黒瀬を突き放す。その唇に浮かんだのは、理解し合えぬ者への、冷徹なまでの嘲笑だった。

「ふっ……まぁ、いいさ」

 黒瀬は鼻先で笑い飛ばすと、座り直すふりをして絢の方へじり、と身を乗り出した。物理的な距離を詰め、彼女の反応を愉しむような仕草。

「Und? Läuft da wirklich gar nichts zwischen euch beiden?(実際、彼とは何もないのかい?)」

 突如として彼が、ウィーン時代を彷彿とさせる流暢なドイツ語を操り始めた。響介に聞かせるべきではない「秘密の会話」が始まる予感に、絢もまた、反射的にドイツ語で応じた。

「Wie bitte?(はい?)」

「Ich rede von Kiryu. Ich frage mich, ob ihr nicht in Wahrheit viel... vertrauter seid. Als würdet ihr eure Haut aneinander spüren.(霧生くんだよ。本当はもっと、こう……肌を重ねるような親密な関係なんじゃないのかって聞いてるんだ)」

「Ich habe es Ihnen schon einmal gesagt: Er ist ein Pianist, und ich bin nur eine Zuhörerin. Nicht mehr und nicht weniger.(前にも言ったはずです。彼はピアニストで、私はただの鑑賞者。それ以上でも以下でもありません)」

 絢の答えは機械のように淀みなく、冷たい。しかし、黒瀬はその拒絶を心地よく受けているかのように笑った。

「Haha, Verzeihung. War eine dumme Frage. Für dich ist dieser Kiryu ja doch nur eine Tintenpatrone, nicht wahr?(ははっ、悪い。無駄なことを聞いたよ。君にとって霧生くんは、ただのインクカートリッジだもんな。キャンバスを染めるための色を絞り出すだけ絞ったら、前の彼みたいにあっさり捨てるつもりなんだろう?)」

 黒瀬のねちねちとした憎まれ口には、隠しきれない嫉妬の棘が混じっていた。絢はふっと冷笑を浮かべ、鬱陶しいハエを叩き潰すかのように冷淡に言い返した。

「Ich werde ihn so schnell nicht gehen lassen. Er ist schließlich fähig, mich in so leuchtende Farben zu tauchen.Ganz im Gegensatz zu Ihnen – Sie sind wie trübes Schlammwasser, das nichts anderes kann, als die Leinwand zu beschmutzen.(そう簡単には手放しませんよ。彼は私をあんなにも鮮やかに染め上げることができるんですから。キャンバスを汚すことしか能がない、濁った泥水のようなあなたとは違って)」

 黒瀬の瞳には燃えるような怒りが宿ったが、彼はその激情を辛うじて飲み込んだようだった。

「ふっ……随分とご立派な審美眼だ」

 黒瀬は吐き捨てるように言うと、テーブルに置いたままの菓子折りを、ひったくるように掴み取った。

 「これは返してもらうよ。三流の演奏を好む君に、一流の菓子の味はわからないだろうからね」

「そもそも受け取った覚えすらありませんが」

 演奏が終わるのを待つことなく、彼は傲然と席を立った。

「そろそろ帰るよ。低次元の君らには付き合ってられない」

 ピアノの前を横切る際、黒瀬は響介の耳元に、わざとらしく掠れた声を滑り込ませた。それは親切な警告のようでもあり、毒を含んだ呪いのようでもあった。

「彼女には気をつけろよ。……このままじゃ、どんどん色を吸い取られて、最後には空っぽの抜け殻だ」

 響介の指が跳ね、唐突に音楽が途絶えた。静まり返ったリビングに、黒瀬の去りゆく足音だけが虚しく響く。重苦しい沈黙の中で、響介は震える声を絞り出した。

「吸い取られるって……どういう意味だ」

 動揺を隠しきれず、疑うような、縋るような視線で絢に答えを求める。

「つーか、さっき二人でなんかコソコソ話してたろ。英語だかオーストリア語だか知らねぇけど……。何話してたんだよ」

「さぁ……あまりにくだらない事なので、忘れてしまいました」

 彼女はどこまでも涼やかに惚け、彼の疑念を撥ねつけた。

「あの人の言った事など、気にする必要はありません。彼はただ、自分にはない光を持つあなたに嫉妬しているだけですから」

 彼女の肯定は耳朶に甘く響く。けれど、一度落とされた黒いインクは、響介の心に消えないシミを作っていた。

「あんた……俺に、何か隠してるんじゃないか」

 問い詰めたところで、彼女が素直に真実を差し出すはずがない。それでも、聞かずにはいられなかった。乱れた響介の呼気と、張り詰めた心の色を読み取ったのか、絢は緩やかにソファから立ち上がった。

「ちょっと待っていてくださいね」

 それだけ言い残すと、彼女は静かな足取りでリビングを後にした。
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