色彩の処刑台

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第二章 濃赤の葬送曲

第二十一話 インクカートリッジの逆襲

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 クリスマスが明けた翌朝。 朝食を囲む響介と絢の間には、昨夜の「逆転」を物語る、冷たく張り詰めた空気が流れていた。

 響介と絢の間に何かあったであろうことはなんとなく察していた家政婦の安曇であったが、飽くまでも彼女は屋敷の「空気」として息をひそめていた。

 素知らぬ顔で安曇は、彼らに食後のコーヒーを運ぶ。そしてそそくさとキッチンに戻り、洗い物を片付け始めた。

「昨日は楽しかったな。いや、日付はまたいでたから今日か」

 コーヒーを飲み干した響介は、獲物をいたぶるような目で絢を見る。だが禁断症状の治まっている彼女は、もういつもの落ち着きを取り戻していた。

「今後もそうやって、私を焦らして弄ぶつもりですか。そんなことをして愉しいですか」

 昨夜屈服させられたことなど忘れたかのように、芯のある冷たい声で絢は言う。だがその華奢な肩は、僅かに震えていた。

「何澄ましてんだよ。俺の『色』にめちゃくちゃにされて、あんな声で鳴いてたくせに」

 絢は押し黙り、その瞳に隠しようのない屈辱の色を浮かべた。抗いたくても抗えない、快楽の記憶を植え付けられてしまった者の色だった。

 よほど気分を害したのか、彼女はコーヒーを半分も飲まずにリビングを出ていった。

 彼は絢の飲み残しのコーヒーも飲み干し、空のカップをキッチンへ下げに行くついでに、家政婦の安曇に言った。

「なぁ、それ洗い終わったら今日はもう帰っていいぜ」

「はい……?」

 わけがわからず目をぱちくりさせる安曇。

「ですが……まだお洗濯やお掃除が───」

「悪いがそれは明日まとめてやってくんねぇか」

 響介は安曇の言葉を遮って、

「今日はあんたにはちょっと外してもらいたいんだよ。絢には俺の方から言っておくから」

 元々従順で、事なかれ主義の家政婦を説き伏せるのは簡単だった。

「わかりました……」






 絢が家政婦の安曇が帰ってしまったことに気付いたのは、昼すぎだった。彼女が許可もなく勝手に帰るはずがない。きっと響介の指図だろう。

 絢は響介を呪いながら廊下を渡り、キッチンへ行って喉を潤そうとした。が、コップに水を汲んだその瞬間───また脳内で爆音が鳴った。

 幻覚と幻聴、動悸、息切れ。そして、「色」へのとめどない渇望───禁断症状が、また始まった。

 彼女は荒い息遣いでリビングのピアノに近づき、鍵盤を右手で何度も叩きつけ、その不協和音で響介を呼んだ。

「なんだよ、うるせぇな」

 気だるそうに彼がリビングに入ってくる。絢の様子を見ると、彼は残酷に微笑んだ。蜘蛛の巣にかかって藻掻く蝶を眺めて楽しむ子供のように。

 絢は今にも崩れ落ちそうな体をピアノに預けて必死で立っていた。その余裕のない目が、昨夜のように懇願の色を帯びる。

「お願い……ピアノを弾いて」

 響介はほくそ笑んだまま、無言で絢を見つめている。絢は挑発に耐え兼ね、彼の胸ぐらに掴み掛かった。その胸ぐらを千切れんばかりに揺さぶる。響介はその手首を軽々と引き剥がし、蝶の翅にピンを打つような無慈悲さで彼女を捻じ伏せた。

「そうだな……16時くらいになったら弾いてやるよ」

「16時……?そんなに待てというんですか……!」

「明日って言われるよりはずっとマシだろ?」

 意地悪く囁き、響介はリビングを去っていった。絢は絶望に顔を歪め、胸を押さえながら床にくずおれていった。





 16時過ぎ。漆黒のマセラティが豚の鼻息のようなエンジン音を撒き散らしながら、司城家の玄関ポーチに入ってきた。運転席から黒瀬が出てくる。彼は普段以上に香水の香りを漂わせながら、踊るような足取りで司城家の玄関まで歩いていった。というのも、今から十四時間前───深夜二時頃に、絢からメッセージが届いていたからだ。

『あなたに会って話がしたい』───と。

(もしかしたら、あの粗野な専属ピアニストが出ていってしまって寂しいのかもしれない。まぁ、彼女のことだからすぐに代替品を見つけるだろうが、弱っている彼女を慰めて恩を売るのも悪くない)

 しかし司城家の重厚な玄関扉から現れたのは、粗野な専属ピアニスト───霧生響介だった。

「おや……なんだ君───まだいたのか」

 思わず本音が零れてしまったが、格下の人間相手に彼は一切悪びれない。

「なんだとはなんだよ」

 ややムッとしたように鼻を鳴らした響介は、意外にもすんなりと黒瀬を中へ通してくれた。「とっとと失せろ」と嚙みつかれるかと思っていた黒瀬は拍子抜けした。

「そういえば家政婦の安曇さんはいないのか」

「ああ、今日は早めに帰ってもらった」

 なぜか上機嫌の響介に、黒瀬は疑念を抱く。

「で……絢は俺に何の用事がある?」

 黒瀬のさりげない問いに、響介はふっと笑う。

「実を言うとあんたにメッセージを送ったのは俺なんだ」

「は…?どういうことだ」

「まぁ、見りゃわかるよ」

 響介はリビングに繋がる扉を開けた。瞬間、黒瀬は目の前の光景にアッと息を飲んだ。かつて高慢なまでに美しかった絢が、髪を乱し、ピアノの脚に縋り付いて意味不明な言葉を呟いている。そして、その横で「主」のように振る舞うのは、絢のインクとして利用されていたはずのピアニスト───響介だった。

「おい、絢。客の前でみっともないぞ」

 響介が、以前とは別人のような威厳を持って絢を注意する。絢は顔を上げ、苦しそうに息をしながら響介たちを振り返った。黒瀬の顔を見て、彼女は少し理性を取り戻したようである。ふらつきながら立ち上がり、物問いたげに響介を見た。

「俺があんたのスマホを使って呼び出したんだよ。あんたが『麻薬いろ』の余韻に浸って動けない隙にな」

「な……なんのために、そんなこと───」

「決まってんだろ。インクカートリッジの逆襲を見せつけてやるんだよ」

 響介はピアノの前に腰掛ける。

「さぁ、何を弾くかな」

 彼は焦らすように鍵盤を端から端までなぞる。絢はピアノに寄り掛かり、じっと響介を見つめた。その瞳には、救いを求める信徒のような狂信的な光が宿っていた。

「そうだな。随分長くお預けを食らってたもんな」

 彼は絢の耳元に顔を寄せる。そして低く命じた。

「じゃあ、ちゃんとおねだりしてみろ」

 響介はそのおねだりの言葉を絢にしか聞こえない声で囁く。絢は震える唇を開いた。かつてのプライドを、自らの舌で踏み躙るように。

「……あなたのその濃い赤色で───私をめちゃくちゃに塗り潰して……」

「いいぜ。あんたの骨の髄まで、俺の色で塗り潰してやる」

 瞬間、ショパンの『革命』が爆発した。

 それは音楽ではなかった。絢の脳神経を、無数の赤い針で直接突き刺すような、粘着質で暴力的な「支配」の奔流。 左手の急速なパッセージが、彼女の失った左腕の深淵に直接毒を流し込んでいく。 

「あ……っ、ああ……!」 

 響介の「濃赤」は無数の触手のように絢の精神に絡み付き、暴力的なまでにその最奥をぐちゃぐちゃに掻き回す。絢はその甘美な刺激に涙を滲ませ、絶え間なく艶かしい声で喘ぎ続けていた。
 
 演奏が終わると同時に彼女は床に崩れ落ちた。余韻さえも彼女を蹂躙し、その繊細な肢体を小刻みに痙攣させる。

 黒瀬は激しい吐き気を覚え、一歩後退した。

  目の前にあるのは、芸術ではない。一人の男が、一人の女を「音」という麻薬で完全に壊し、自分なしでは呼吸すらできない家畜に作り変えた地獄絵図だった。

 響介の三白眼が、黒瀬を射抜く。 

『見ろよ。こいつはもう、俺のインクなしじゃ生きられねぇんだ』

  言葉はなくとも、その瞳はそう語っていた。

  黒瀬がこれまで築き上げてきた音楽の価値観は今、根底から覆されてしまった。彼は自分の聖域がこれ以上汚されないよう、逃げるように屋敷を去った。

 後に残されたのは、静寂。 そして───蝶の残骸のように床に蹲る、哀れな「元女王」の姿だけだった。
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