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♯6「その理を話す者」
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[西唐野中学校・保健室前廊下]
「さて…」
入り口の扉を完全に閉じ、旭は僅かに隈の出来た目で紡を見下ろした。ただの学校の回廊が、彼女の声でしんと張り詰めた空気に様変わる。早速本題というわけか。
「君のお陰で主の体は無事で済んだ。ましてやもっと酷い状況にまで発展しなかったのも、言うなれば君がいてくれたからだ」
重々しい話が始まるかと思いきや、彼女はいきなり紡に賞賛を投げかける。少なくとも片手に臨死寸前の化け物を掴みながらするのは、ちょっと何かの間違いとしか思えないが。
「あの……それ、何なんですか」
叫ぶ気力を無くした生命体をゆっくり指差す。血みどろの化け物の静脈がびくんと脈打ち、思わず喉に吐き気が沸いた。よく見れば、美久の体から伸びていたのと全く同じ白い糸のようなものが保健室の扉を挟んで何かに繋がっている。
「………どこまで知ってるのか、って質問はしなくていいか。君は現状それが「見えているだけ」だろうから」
また理解のし難い事を言う。ムッと怪訝に眉を顰めると、旭は両手を上げて白旗を示した。
「分かったよ青年、ちゃんと話す。結果的に君を巻き込んだ訳だからな」
彼女は緑の化け物を目線の高さにまで持ち上げた。入り口に敷かれたマットは既に黒く淀んでおり、そこに血の雫が幾度か垂れた。
「これは纏。人間の心を守る、まあ一種の殻みたいなものさ」
ま…とい?。
瞬く間に頭蓋を小さなハテナが占領する。どうにもSFチックな内容だが、それでいてしっかり現実味を帯びた話だ。この両眼ではっきりとその存在を視認したうえ、実際に殺されかけたのだから無理もない。
旭は構わず説明を続けた。
「心を持つ者は全て、こういった纏を必ず纏っている。人だろうが犬だろうが猫だろうが関係ない。心が何かによって壊されそうになった時、感情の起伏が心の容量をオーバーした時、纏は防衛反応の如く主の心と体を死守するのさ」
心が壊されそうになった時———。それは見覚えがある。
『やめろォッ‼︎』
校舎裏で初めてこの纏を見た時がそれだろう。巾着袋を男が切り刻もうと鋏を開いた瞬間、美久はそれはそれは鬼人のような剣幕で感情を爆発させていた。
「じゃあ、旭さんのあの象みたいな奴も…?」
「象じゃない。「ガネーシャ」だよ、青年」
ガネーシャって、たしか頭部が象の神だったよな。やっぱり象じゃん。
「私の場合は少し違うかな。勿論自分の情緒で纏が出てくる事はあるけど、今は大方自在にコントロール出来るし」
紡は素っ頓狂に頷いた。彼女の纏を見たのは計二回だが、そのどちらも感情が爆発していた訳じゃなかった。なるほど、それなら合点がいく。
「もちろん、君の中にもいるはずだよ。心が壊れていないのが何よりの証拠だ」
「はあ、心が壊れてない事…」
どういう意味だろうと小首を傾げる。旭は面倒がりながらも、若干楽しそうに言った。自分の胸元に掌を置く。
「心っていうのはとにかく繊細で、果てしなく脆いんだ。纏がいなかったら、一日も保たず粉々に砕けちゃうぐらいにね」
生唾を飲み込む。なんだか恐ろしい話だ。こんなおっかない化け物が、自分の心を守っているだなんて。
「(私も纏には救われたものだよ)」
昼日の射す窓辺を網膜に投影しつつ、聞かれたくないのか小声でそう呟く。天井から吊り下がった掛け時計がカチリと動き、昼休みの終了間際を宣告した。そろそろ教室に帰らないとまずい。
「質問タイムは以上かい?」旭は焦らすように尋ねた。
「ええっと、じゃあ最後に一つ」
どことなく、この質疑応答は有意義な時間にするべきだと心が囁く。
「どうして澁谷 美久さんを探してたんですか?」
旭がウチに来た要件は、簡単に言えば事情聴取だった。そこで初めて澁谷 美久という名前と見た目を教えてもらい、今思えばそこで初めて——纏を見た。
「ん~、それが仕事だから?」
旭は見事簡単に言ってのける。ズボンのポケットに彼女の名刺の存在を思い出したのはその時だ。
(仕事?。纏を完膚なきまでに血祭りに上げるのが仕事だって?)
そんな職業、聞いた事がない。聞いた事がないが……
さっきまで己が心に何かを纏っているということすら知らなかったのだ。理解は出来ないが、受け入れるしかないんだろう。
「……分かりました。色々教えていただいてありがとうございます」
「うむ。こちらこそありがとう。気をつけたまえよ」
旭は侍のように畏まる。
丁度その時、昼休みの本格的な終了を意味する鐘が鳴った。これ以上油を売っている暇は無い。多分、きっと、おそらく、もしかしたら……というかほぼ確実に給食は片されているだろうけど。
「えっと、じゃあ僕はこれで」
「ああ。グッバイ、青年」
やけに発音の良い英語が、ヤニの味を覚えた彼女の唇を震わす。紡は振り返る事もなくその場を駆け去った。どうして纏について詳しく教えてくれたのかは、当然気にもならなかった。
[西唐野中学校・2ー3教室]
木は好きだ。年季を感じさせる苔っぽい色も、ざらついた表面が朽ちてでこぼこになった感触も。無論、それが印刷されたものであっても同じである。
老後はヒノキのログハウスを終の住処に選ぶのも良い。ガーデニングという小さな趣味を片手間に、ぽかぽかの陽気を浴びながら木の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
まあだからと言って、給食が下げられたまっさらな机とそこに印刷された木目を見たとて心が安らぐ訳がない。教室に着いてから初奈と隼人に聞いたが、かつてそこにあったほかほかの食事は案の定片付けられ、給食センターに運ばれてしまったんだそうだ。
「ノー、フュー、チャー…」
ぐーぺこの警鐘を幾度も鳴らす腹を摩り、紡はぺたんと机に前のめりに倒れた。
旭のことや美久のこと、それから纏のことなど。考えるべき事は山のようにあるのに、考える気さえ起きない。
「遅刻くんが給食を食べ逃すとか珍しいじゃん」
隣の空席に座る初奈がまたふざけた渾名で呼ぶ。午前の休み時間にも言ったけど、ぎりぎり遅刻じゃなかったんだって。
「先生にゴミ出しを任されたんだよ。そしたらまあ、色々あって」
あえて曖昧な言葉を返す。すると彼女は「はあ…?」と神妙な顔にはなるものの、濁した内容をわざわざ濾してまで掘り出すような真似はしない。それが初奈の良いところだ。
そうだ、言っておくべき事がある。まあ別に報告するべきでもないんだろうが、一応念のために。教室に戻り給食の話を親友から聞いた後、紡は校舎裏まで走ってゴミ出しを熟してきた。例の校舎裏も必然的に通ったが、大して変わっている所はない。
散乱した鋏と断ち切られた縄、それから美久が激昂するきっかけになったであろう巾着袋。なんとなくそれは回収すべきだと思い、紡は同じく散らばっていたハンカチやらポケットティッシュやらを一緒くたに袋に詰め、自分のポケットに収納した。
昼休みは多分時間的に無理だし、放課後にでも保健室に持っていこう。いなければ落とし物として先生に提出だ。
「ふーん。まあいいや。次の授業ってこの教室だったよね?」
初奈は行書体で「現代文」と書かれた表紙の教科書を目の前に突き出した。記憶の通りだとそのはずである。
紡が答えるより先に、担当の教員がファイルやらプリントやらを小脇に扉をがらりと開いた。同時に予鈴と、紡の空腹指数の上昇を示す腹の虫が教室の片隅に鳴り響く。
[西唐野中学校・保健室]
旭は青年が廊下を駆けていくのを見送り、チラッと保健室に目をやった。扉に取り付けられた小窓から中の様子を伺う。
「さてと。頃合いを見て中に入るかな」
「ギィ…」
纏が虫の息の声を発する。これだけの打撲を受けてまだ生きているとは、中々タフな奴だ。
「まあ生きていてもらわなきゃ困るんだけど」
纏には纏としての使命がある。誤って殺してそれを損なわせるのは、仕事人としてあってはならない行為だ。やむを得ない場合を除いては。
とはいえ侵入するにしても、このまま強引に押し入る訳にはいかない。学校の、しかも保健室なんて一番デリケートな場所だ。部外者を装って入るのは並大抵の労力じゃ測れない。やはり彼女—澁谷美久が目覚めるのを待つしかないか。
殊勝に考えを巡らせていると、廊下の向こうから4~5人の男子生徒がとぼとぼと歩いてきた。遠目ではみな仏頂面のような印象だったが、声が聞こえるぐらいの位置に来ると中央の一人を他の奴らが囲んで煽てているようだった。
「なあ、機嫌直せって。あんな状況じゃみんな逃げるしか無いだろ?」
「そ、そ、そうっすよ。澁谷があんなにキレるとは思わなかったですし…」
(……澁谷?)
さしてマイナーな苗字でもないし、同音の漢字もごまんとあるが……聞いておいて損は無さそうだ。
一番フランクに話しかけた男と、塩らしくも果敢に反抗の旗を振り上げた豊満な男に、中央のヤンチャそうなやつはキッと眼を飛ばした。
「うるせぇ、とっとと離れろ。お前らみたいな雑魚虫に俺の仲間になる資格はねえ。いいから次の標的にされるまで教室の隅っこで弱っちく怯えてろ」
取り巻きと思わしき四人がシュンと勢いを無くす。そういえば、青年は澁谷 美久の学年をリボンの色で判断していた。彼らの制服にはそれがないが、代わりにほつれた赤いネクタイを着用している。もしかしたら、彼女とは同学年なのかもしれない。
「着いて来んな。怪我してんのは勇敢に戦った俺だけだ。雑魚が感染るだろ」
酷い言い方だな。今の中学生はみんなこうなのか…?
そんな事ない…と思いたいな。
とその時、取り巻きの一人が扉の前で立ち尽くす旭に気が付いた。
これは初出だが、纏も纏の血も一般人の目にはただの空気にしか見えない。旭さえ、こうしてサングラスを掛けていないと視認するのは不可能だ。裸眼で視えるのは、非常にごく稀なのである。
「おっと、ごめんごめん。どうぞ」旭はニコッと微笑む。
「………」
四人の仲間を率いて歩く中央の男は、さも当然のように旭の空けた道をずかずかと突き進んだ。相当不機嫌なんだろうか、それともこれがデフォルトなのか。まるで旭なんて見えていないかのようだ。
…本当に見えていないのか?。そんな疑問が頭をよぎる。まるで必死にこちらを見ないようにしているような………試してみるか。
「(———澁谷 美久)」
聞こえるか聞こえないかの微妙な声量で、壁を背にし立つ旭はぽつりと呟く。男は沸点を急上昇させ、血走った眼でこちらを睨んだ。タイミングを合わせ、わざと手にした纏を顔の高さまで持ち上げる。
「何だあんた。誰だか知らねえけど、俺の前であのクソの名前を出すんじゃ……」
男の黒目に、それがはっきりと映る。半骸と化した纏を見た途端、彼はごくりと息を呑んだ。顔からサーっと血が引いていく。ビンゴだ。彼はこの纏が視えている。
「う、うわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ⁉︎」
「ちょっ、おいどうした!」
男は半狂乱になって叫び、どたどたと足をもつらせつつ元来た道を走り出した。取り巻きも慌ててその後を追う。袖口から微かに見えたが、手首にいくつかの薄い傷があった。この纏から受けた裂傷なのだろう。
「依頼解決…にはまだ及ばないか」
掛けていたサングラスを器用に額に乗せる。目に映る世界は、驚くほど簡単に美しさを取り戻した。
「だがまあ、一歩前進だな」
旭は薄らと口角を上げ、保健室の扉を開いた。
ー次回「思い出を取り返す者」
「さて…」
入り口の扉を完全に閉じ、旭は僅かに隈の出来た目で紡を見下ろした。ただの学校の回廊が、彼女の声でしんと張り詰めた空気に様変わる。早速本題というわけか。
「君のお陰で主の体は無事で済んだ。ましてやもっと酷い状況にまで発展しなかったのも、言うなれば君がいてくれたからだ」
重々しい話が始まるかと思いきや、彼女はいきなり紡に賞賛を投げかける。少なくとも片手に臨死寸前の化け物を掴みながらするのは、ちょっと何かの間違いとしか思えないが。
「あの……それ、何なんですか」
叫ぶ気力を無くした生命体をゆっくり指差す。血みどろの化け物の静脈がびくんと脈打ち、思わず喉に吐き気が沸いた。よく見れば、美久の体から伸びていたのと全く同じ白い糸のようなものが保健室の扉を挟んで何かに繋がっている。
「………どこまで知ってるのか、って質問はしなくていいか。君は現状それが「見えているだけ」だろうから」
また理解のし難い事を言う。ムッと怪訝に眉を顰めると、旭は両手を上げて白旗を示した。
「分かったよ青年、ちゃんと話す。結果的に君を巻き込んだ訳だからな」
彼女は緑の化け物を目線の高さにまで持ち上げた。入り口に敷かれたマットは既に黒く淀んでおり、そこに血の雫が幾度か垂れた。
「これは纏。人間の心を守る、まあ一種の殻みたいなものさ」
ま…とい?。
瞬く間に頭蓋を小さなハテナが占領する。どうにもSFチックな内容だが、それでいてしっかり現実味を帯びた話だ。この両眼ではっきりとその存在を視認したうえ、実際に殺されかけたのだから無理もない。
旭は構わず説明を続けた。
「心を持つ者は全て、こういった纏を必ず纏っている。人だろうが犬だろうが猫だろうが関係ない。心が何かによって壊されそうになった時、感情の起伏が心の容量をオーバーした時、纏は防衛反応の如く主の心と体を死守するのさ」
心が壊されそうになった時———。それは見覚えがある。
『やめろォッ‼︎』
校舎裏で初めてこの纏を見た時がそれだろう。巾着袋を男が切り刻もうと鋏を開いた瞬間、美久はそれはそれは鬼人のような剣幕で感情を爆発させていた。
「じゃあ、旭さんのあの象みたいな奴も…?」
「象じゃない。「ガネーシャ」だよ、青年」
ガネーシャって、たしか頭部が象の神だったよな。やっぱり象じゃん。
「私の場合は少し違うかな。勿論自分の情緒で纏が出てくる事はあるけど、今は大方自在にコントロール出来るし」
紡は素っ頓狂に頷いた。彼女の纏を見たのは計二回だが、そのどちらも感情が爆発していた訳じゃなかった。なるほど、それなら合点がいく。
「もちろん、君の中にもいるはずだよ。心が壊れていないのが何よりの証拠だ」
「はあ、心が壊れてない事…」
どういう意味だろうと小首を傾げる。旭は面倒がりながらも、若干楽しそうに言った。自分の胸元に掌を置く。
「心っていうのはとにかく繊細で、果てしなく脆いんだ。纏がいなかったら、一日も保たず粉々に砕けちゃうぐらいにね」
生唾を飲み込む。なんだか恐ろしい話だ。こんなおっかない化け物が、自分の心を守っているだなんて。
「(私も纏には救われたものだよ)」
昼日の射す窓辺を網膜に投影しつつ、聞かれたくないのか小声でそう呟く。天井から吊り下がった掛け時計がカチリと動き、昼休みの終了間際を宣告した。そろそろ教室に帰らないとまずい。
「質問タイムは以上かい?」旭は焦らすように尋ねた。
「ええっと、じゃあ最後に一つ」
どことなく、この質疑応答は有意義な時間にするべきだと心が囁く。
「どうして澁谷 美久さんを探してたんですか?」
旭がウチに来た要件は、簡単に言えば事情聴取だった。そこで初めて澁谷 美久という名前と見た目を教えてもらい、今思えばそこで初めて——纏を見た。
「ん~、それが仕事だから?」
旭は見事簡単に言ってのける。ズボンのポケットに彼女の名刺の存在を思い出したのはその時だ。
(仕事?。纏を完膚なきまでに血祭りに上げるのが仕事だって?)
そんな職業、聞いた事がない。聞いた事がないが……
さっきまで己が心に何かを纏っているということすら知らなかったのだ。理解は出来ないが、受け入れるしかないんだろう。
「……分かりました。色々教えていただいてありがとうございます」
「うむ。こちらこそありがとう。気をつけたまえよ」
旭は侍のように畏まる。
丁度その時、昼休みの本格的な終了を意味する鐘が鳴った。これ以上油を売っている暇は無い。多分、きっと、おそらく、もしかしたら……というかほぼ確実に給食は片されているだろうけど。
「えっと、じゃあ僕はこれで」
「ああ。グッバイ、青年」
やけに発音の良い英語が、ヤニの味を覚えた彼女の唇を震わす。紡は振り返る事もなくその場を駆け去った。どうして纏について詳しく教えてくれたのかは、当然気にもならなかった。
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木は好きだ。年季を感じさせる苔っぽい色も、ざらついた表面が朽ちてでこぼこになった感触も。無論、それが印刷されたものであっても同じである。
老後はヒノキのログハウスを終の住処に選ぶのも良い。ガーデニングという小さな趣味を片手間に、ぽかぽかの陽気を浴びながら木の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
まあだからと言って、給食が下げられたまっさらな机とそこに印刷された木目を見たとて心が安らぐ訳がない。教室に着いてから初奈と隼人に聞いたが、かつてそこにあったほかほかの食事は案の定片付けられ、給食センターに運ばれてしまったんだそうだ。
「ノー、フュー、チャー…」
ぐーぺこの警鐘を幾度も鳴らす腹を摩り、紡はぺたんと机に前のめりに倒れた。
旭のことや美久のこと、それから纏のことなど。考えるべき事は山のようにあるのに、考える気さえ起きない。
「遅刻くんが給食を食べ逃すとか珍しいじゃん」
隣の空席に座る初奈がまたふざけた渾名で呼ぶ。午前の休み時間にも言ったけど、ぎりぎり遅刻じゃなかったんだって。
「先生にゴミ出しを任されたんだよ。そしたらまあ、色々あって」
あえて曖昧な言葉を返す。すると彼女は「はあ…?」と神妙な顔にはなるものの、濁した内容をわざわざ濾してまで掘り出すような真似はしない。それが初奈の良いところだ。
そうだ、言っておくべき事がある。まあ別に報告するべきでもないんだろうが、一応念のために。教室に戻り給食の話を親友から聞いた後、紡は校舎裏まで走ってゴミ出しを熟してきた。例の校舎裏も必然的に通ったが、大して変わっている所はない。
散乱した鋏と断ち切られた縄、それから美久が激昂するきっかけになったであろう巾着袋。なんとなくそれは回収すべきだと思い、紡は同じく散らばっていたハンカチやらポケットティッシュやらを一緒くたに袋に詰め、自分のポケットに収納した。
昼休みは多分時間的に無理だし、放課後にでも保健室に持っていこう。いなければ落とし物として先生に提出だ。
「ふーん。まあいいや。次の授業ってこの教室だったよね?」
初奈は行書体で「現代文」と書かれた表紙の教科書を目の前に突き出した。記憶の通りだとそのはずである。
紡が答えるより先に、担当の教員がファイルやらプリントやらを小脇に扉をがらりと開いた。同時に予鈴と、紡の空腹指数の上昇を示す腹の虫が教室の片隅に鳴り響く。
[西唐野中学校・保健室]
旭は青年が廊下を駆けていくのを見送り、チラッと保健室に目をやった。扉に取り付けられた小窓から中の様子を伺う。
「さてと。頃合いを見て中に入るかな」
「ギィ…」
纏が虫の息の声を発する。これだけの打撲を受けてまだ生きているとは、中々タフな奴だ。
「まあ生きていてもらわなきゃ困るんだけど」
纏には纏としての使命がある。誤って殺してそれを損なわせるのは、仕事人としてあってはならない行為だ。やむを得ない場合を除いては。
とはいえ侵入するにしても、このまま強引に押し入る訳にはいかない。学校の、しかも保健室なんて一番デリケートな場所だ。部外者を装って入るのは並大抵の労力じゃ測れない。やはり彼女—澁谷美久が目覚めるのを待つしかないか。
殊勝に考えを巡らせていると、廊下の向こうから4~5人の男子生徒がとぼとぼと歩いてきた。遠目ではみな仏頂面のような印象だったが、声が聞こえるぐらいの位置に来ると中央の一人を他の奴らが囲んで煽てているようだった。
「なあ、機嫌直せって。あんな状況じゃみんな逃げるしか無いだろ?」
「そ、そ、そうっすよ。澁谷があんなにキレるとは思わなかったですし…」
(……澁谷?)
さしてマイナーな苗字でもないし、同音の漢字もごまんとあるが……聞いておいて損は無さそうだ。
一番フランクに話しかけた男と、塩らしくも果敢に反抗の旗を振り上げた豊満な男に、中央のヤンチャそうなやつはキッと眼を飛ばした。
「うるせぇ、とっとと離れろ。お前らみたいな雑魚虫に俺の仲間になる資格はねえ。いいから次の標的にされるまで教室の隅っこで弱っちく怯えてろ」
取り巻きと思わしき四人がシュンと勢いを無くす。そういえば、青年は澁谷 美久の学年をリボンの色で判断していた。彼らの制服にはそれがないが、代わりにほつれた赤いネクタイを着用している。もしかしたら、彼女とは同学年なのかもしれない。
「着いて来んな。怪我してんのは勇敢に戦った俺だけだ。雑魚が感染るだろ」
酷い言い方だな。今の中学生はみんなこうなのか…?
そんな事ない…と思いたいな。
とその時、取り巻きの一人が扉の前で立ち尽くす旭に気が付いた。
これは初出だが、纏も纏の血も一般人の目にはただの空気にしか見えない。旭さえ、こうしてサングラスを掛けていないと視認するのは不可能だ。裸眼で視えるのは、非常にごく稀なのである。
「おっと、ごめんごめん。どうぞ」旭はニコッと微笑む。
「………」
四人の仲間を率いて歩く中央の男は、さも当然のように旭の空けた道をずかずかと突き進んだ。相当不機嫌なんだろうか、それともこれがデフォルトなのか。まるで旭なんて見えていないかのようだ。
…本当に見えていないのか?。そんな疑問が頭をよぎる。まるで必死にこちらを見ないようにしているような………試してみるか。
「(———澁谷 美久)」
聞こえるか聞こえないかの微妙な声量で、壁を背にし立つ旭はぽつりと呟く。男は沸点を急上昇させ、血走った眼でこちらを睨んだ。タイミングを合わせ、わざと手にした纏を顔の高さまで持ち上げる。
「何だあんた。誰だか知らねえけど、俺の前であのクソの名前を出すんじゃ……」
男の黒目に、それがはっきりと映る。半骸と化した纏を見た途端、彼はごくりと息を呑んだ。顔からサーっと血が引いていく。ビンゴだ。彼はこの纏が視えている。
「う、うわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ⁉︎」
「ちょっ、おいどうした!」
男は半狂乱になって叫び、どたどたと足をもつらせつつ元来た道を走り出した。取り巻きも慌ててその後を追う。袖口から微かに見えたが、手首にいくつかの薄い傷があった。この纏から受けた裂傷なのだろう。
「依頼解決…にはまだ及ばないか」
掛けていたサングラスを器用に額に乗せる。目に映る世界は、驚くほど簡単に美しさを取り戻した。
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