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最終章
未来は君のために
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栞との付き合いに自分なりに答えを見つけた。
思いがけず、自分の情けない部分や弱い部分も晒すことになり、ある意味以前よりも安定したような気がする。
自分に合う女性など見つからないと思ったけれど、思ったよりも近い場所に栞はいた。
(何年も一緒の空間で過ごしていたのに、まるっきりこんな展開は予想できなかったな)
こんなことを思いながらも、以前は何も意欲の持てなかった週末が楽しみになっている。
それは、つまり栞と過ごす時間が仕事をしている時よりも充実しているということに他ならない。
*
「佐伯課長」
昼休み。
会社の廊下で名を呼ばれて振り返ると、そこには部下の坂田が立っていた。
どこかすがるような視線を見て、ピンと勘が働く。
「仕事のことなら昼休憩が終わってからにしてくれないかな」
「いえ、仕事のことじゃないです」
その場では話しにくいから別室でお願いしたいという。
何を言いたいのか察しているのに話に乗るのは意味がないと思いつつ、これも身から出た錆だろうと思い、15分だけという約束で別室へ移動した。
「で、話って何?」
わざと離れた場所に立ち、簡潔に要件を言ってほしいと告げると、坂田は少し意外そうに目を見開いた。
「佐伯課長、変わりましたね」
「そう? どこが」
「以前は来るもの拒まずっていう感じの空気だったのに。なんだか……今は他人を警戒してるみたい」
言いながらこちらへ近づいてくると、体温が微かに伝わるくらいの距離で見上げる。
濡れた黒い瞳は魅惑的で、この視線で何人の男を落としてきたのかと思わせる。
(この瞳は佳苗さんと同じだ。異性に対してだけ、猛烈な性的アピールをする瞳)
数年前に坂田とは一度だけ関係を持ったのは忘れていない。
それでも、あの時の俺にとっては彼女も通り過ぎる人間の一人にすぎず、坂田もそれがいいと望んだから罪悪感も抱いていなかった。
(こう考えると、俺も相当に最悪な生き方をしてきたんだな。佳苗さんのことを言えない)
「警戒しているわけじゃない。誤解を与えたくないだけだよ」
「……それって、誤解されたくない相手がいるってことですか?」
「そう思ってもらってもいい」
俺としてはもう自分に対して”一晩相手にしてくれる男”という認識を捨てて欲しいという思いの方が強かったがそれは言わなかった。
(これ以上性的なアピールをするなってことなんだけどな)
こんな俺の気持ちは通じていないのか、彼女はさらに距離を縮めてきた。
「私、ずっと佐伯課長のことを忘れられなくて……」
シャツにそっと触れてくる指先からは、確かに猛烈な色香を感じる。
この香りに触れたら男はあっという間に飲み込まれるのがわかる。
危険でありながら、逃れることは許されない食虫植物のような甘い香りだ。
過去に夜を承諾した時、俺もこの香りには多少やられたんだろう。
(だが、今は胸がムカつくだけだ。過去の自分を見ているようで気分が悪い)
「手を離せ」
俺が腕をスッと引くと、坂田は驚いて瞬きする。
「どうして? 槙野さんがそんなにいいですか?」
「……」
どうやら坂田は俺と栞の関係を知っているようだ。
男女の関係を六感のようなもので理解する女性がいるのは知っているが、坂田はその能力が異様に長けている。
(おまけに自分以外の女性が幸せになるのが許せないタイプのようだな)
ため息をつきつつ時計を確認すると、まだ五分しか経っていない。
栞との時間は溶けるように過ぎていくのに、坂田との時間は拷問みたいに遅い。
「逆に聞くけど、槙野より自分の方が魅力があるって自信はどこからくるんだ」
「自信なんて……ないですけど。佐伯課長をあの人に取られるのが、なんか嫌なんです」
「……呆れるほどに愚かだね」
「っ!」
こんなセリフを口にされることが普段ないのだろう。
坂田は意外にも傷ついた顔をする。
(この女性は、佳苗さんよりも哀しい人間なのかもしれない)
そうは思うが、今の俺にはしてやれることは何もない。
「美島は? あいつは坂田に本気なんじゃないのか」
(二度も栞から男を奪いたいと思う坂田の気持ちは、どうにもわからない)
坂田は困ったように眉根を寄せると、泣きそうな顔をした。
「彼のことは好き、ですよ。でも……満足できないんです」
「それは坂田が美島を大切にしないからだ。いや、それ以前に坂田自身が自分を粗末にし過ぎてるからだ」
(これは栞にも言った言葉だけれど、坂田はその事実をきっと認めないだろう)
はたして、坂田は強気な顔つきになると俺を睨んだ。
「ワンナイトを売りにしていたあなたに言われたくないです」
「そうか。ならもう俺に用はないよね」
「っ、そうじゃなくて……」
捨て身というのはこういうのを言うのか、彼女は俺のガードもくぐり抜けて抱きついてきた。
むせかえるような女の香りが吐き気を呼ぶ。
「……坂田。離れろ」
「いやです。頭が真っ白になるような夜を体験させてくれたのは、あなただけだった……愛なんて知らないけど、体が喜んだのはあなただけだった」
(性欲に負けているだけだ……なんて気の毒な女性なんだ)
「なら俺みたいなのを他で探すんだな」
引き剥がすように坂田の体を推しやると、俺はもう話すことはないと判断してドアノブに手をかけた。
「悪いけど、もう俺は以前のような生き方はしていないんだよ。いい加減、君も自分と向き合う時期なんじゃないか」
「向き合う……って、どうすれば?」
「さあ、それは自分で考えなよ」
我ながら最悪に冷酷な声だったと思う。
でも、坂田に対する感情は栞に抱くものの反対側だった。
どうにもできない。
(俺じゃない男に気づかせてもらうしかないだろ)
これからは仕事以外の話には乗らないと釘を刺し、部屋を出た。
坂田はそれ以上追ってくることはなく、仕事に戻ってからも昼の顔は完全に消していた。
その後、坂田は美島と無事に結婚すると噂に聞いて安堵した。
栞もそのことを知っていて、彼女もそのことを心から喜んだ。
「幸せになってくれるといいな」
ソファでくつろぎながら彼らの話題に触れると、栞は偽りのない表情でそう言った。
相変わらずの純粋さに、俺はやっぱり心配な気持ちになる。
(全く、どこまでお人好しなんだか)
苦笑しつつも、こんな栞をずっと守っていたいと思う。
過去の傷や罪が、彼女を愛することで癒えて赦されていくのなら……喜んで自分の人生を捧げよう。
「栞」
「なんですか?」
「結婚しよう」
「え?」
当然のように、栞は驚いている。
「栞とずっと一緒に暮らしていきたいと思ってる。そのためには、やっぱり結婚した方がいいだろうから」
「恭弥さん……」
今日言おうなんて、考えてもいなかった言葉が口について出た。
だが、それは心の底からの本音で思っている言葉だった。
(社会が決めたルールに縛られる関係に意味なんかないと思っていたが……)
栞が望んでいるのなら、拒む理由はない。
むしろそれで幸せを感じてもらえるなら、喜んで……と今では思える。
栞はプロポーズをきっと喜ぶ。
そう思ったら、結婚に対してそれほどの抵抗も感じない自分がいた。
「栞、返事は?」
「と、突然すぎて……」
「そうか……じゃ、改めてにするよ」
「や、そんな必要ないです!」
「じゃあ、結婚してくれる?」
「っ、はい」
真っ赤になって頷く栞がどうしようもなく可愛いと思う。
俺の汚れた過去も全部まとめて受け入れてくれる栞を、さらに大きく抱きしめていきたいと改めて強く感じた。
「ありがとう。幸せにする」
「ん……はい」
一緒に幸せに、なんて言えない。
俺は自分以上に栞が大切で必要なんだ……だから、必ず俺が彼女を幸せにする。
そう強く胸に誓い、涙を滲ませる彼女の唇にキスを落とした。
END
思いがけず、自分の情けない部分や弱い部分も晒すことになり、ある意味以前よりも安定したような気がする。
自分に合う女性など見つからないと思ったけれど、思ったよりも近い場所に栞はいた。
(何年も一緒の空間で過ごしていたのに、まるっきりこんな展開は予想できなかったな)
こんなことを思いながらも、以前は何も意欲の持てなかった週末が楽しみになっている。
それは、つまり栞と過ごす時間が仕事をしている時よりも充実しているということに他ならない。
*
「佐伯課長」
昼休み。
会社の廊下で名を呼ばれて振り返ると、そこには部下の坂田が立っていた。
どこかすがるような視線を見て、ピンと勘が働く。
「仕事のことなら昼休憩が終わってからにしてくれないかな」
「いえ、仕事のことじゃないです」
その場では話しにくいから別室でお願いしたいという。
何を言いたいのか察しているのに話に乗るのは意味がないと思いつつ、これも身から出た錆だろうと思い、15分だけという約束で別室へ移動した。
「で、話って何?」
わざと離れた場所に立ち、簡潔に要件を言ってほしいと告げると、坂田は少し意外そうに目を見開いた。
「佐伯課長、変わりましたね」
「そう? どこが」
「以前は来るもの拒まずっていう感じの空気だったのに。なんだか……今は他人を警戒してるみたい」
言いながらこちらへ近づいてくると、体温が微かに伝わるくらいの距離で見上げる。
濡れた黒い瞳は魅惑的で、この視線で何人の男を落としてきたのかと思わせる。
(この瞳は佳苗さんと同じだ。異性に対してだけ、猛烈な性的アピールをする瞳)
数年前に坂田とは一度だけ関係を持ったのは忘れていない。
それでも、あの時の俺にとっては彼女も通り過ぎる人間の一人にすぎず、坂田もそれがいいと望んだから罪悪感も抱いていなかった。
(こう考えると、俺も相当に最悪な生き方をしてきたんだな。佳苗さんのことを言えない)
「警戒しているわけじゃない。誤解を与えたくないだけだよ」
「……それって、誤解されたくない相手がいるってことですか?」
「そう思ってもらってもいい」
俺としてはもう自分に対して”一晩相手にしてくれる男”という認識を捨てて欲しいという思いの方が強かったがそれは言わなかった。
(これ以上性的なアピールをするなってことなんだけどな)
こんな俺の気持ちは通じていないのか、彼女はさらに距離を縮めてきた。
「私、ずっと佐伯課長のことを忘れられなくて……」
シャツにそっと触れてくる指先からは、確かに猛烈な色香を感じる。
この香りに触れたら男はあっという間に飲み込まれるのがわかる。
危険でありながら、逃れることは許されない食虫植物のような甘い香りだ。
過去に夜を承諾した時、俺もこの香りには多少やられたんだろう。
(だが、今は胸がムカつくだけだ。過去の自分を見ているようで気分が悪い)
「手を離せ」
俺が腕をスッと引くと、坂田は驚いて瞬きする。
「どうして? 槙野さんがそんなにいいですか?」
「……」
どうやら坂田は俺と栞の関係を知っているようだ。
男女の関係を六感のようなもので理解する女性がいるのは知っているが、坂田はその能力が異様に長けている。
(おまけに自分以外の女性が幸せになるのが許せないタイプのようだな)
ため息をつきつつ時計を確認すると、まだ五分しか経っていない。
栞との時間は溶けるように過ぎていくのに、坂田との時間は拷問みたいに遅い。
「逆に聞くけど、槙野より自分の方が魅力があるって自信はどこからくるんだ」
「自信なんて……ないですけど。佐伯課長をあの人に取られるのが、なんか嫌なんです」
「……呆れるほどに愚かだね」
「っ!」
こんなセリフを口にされることが普段ないのだろう。
坂田は意外にも傷ついた顔をする。
(この女性は、佳苗さんよりも哀しい人間なのかもしれない)
そうは思うが、今の俺にはしてやれることは何もない。
「美島は? あいつは坂田に本気なんじゃないのか」
(二度も栞から男を奪いたいと思う坂田の気持ちは、どうにもわからない)
坂田は困ったように眉根を寄せると、泣きそうな顔をした。
「彼のことは好き、ですよ。でも……満足できないんです」
「それは坂田が美島を大切にしないからだ。いや、それ以前に坂田自身が自分を粗末にし過ぎてるからだ」
(これは栞にも言った言葉だけれど、坂田はその事実をきっと認めないだろう)
はたして、坂田は強気な顔つきになると俺を睨んだ。
「ワンナイトを売りにしていたあなたに言われたくないです」
「そうか。ならもう俺に用はないよね」
「っ、そうじゃなくて……」
捨て身というのはこういうのを言うのか、彼女は俺のガードもくぐり抜けて抱きついてきた。
むせかえるような女の香りが吐き気を呼ぶ。
「……坂田。離れろ」
「いやです。頭が真っ白になるような夜を体験させてくれたのは、あなただけだった……愛なんて知らないけど、体が喜んだのはあなただけだった」
(性欲に負けているだけだ……なんて気の毒な女性なんだ)
「なら俺みたいなのを他で探すんだな」
引き剥がすように坂田の体を推しやると、俺はもう話すことはないと判断してドアノブに手をかけた。
「悪いけど、もう俺は以前のような生き方はしていないんだよ。いい加減、君も自分と向き合う時期なんじゃないか」
「向き合う……って、どうすれば?」
「さあ、それは自分で考えなよ」
我ながら最悪に冷酷な声だったと思う。
でも、坂田に対する感情は栞に抱くものの反対側だった。
どうにもできない。
(俺じゃない男に気づかせてもらうしかないだろ)
これからは仕事以外の話には乗らないと釘を刺し、部屋を出た。
坂田はそれ以上追ってくることはなく、仕事に戻ってからも昼の顔は完全に消していた。
その後、坂田は美島と無事に結婚すると噂に聞いて安堵した。
栞もそのことを知っていて、彼女もそのことを心から喜んだ。
「幸せになってくれるといいな」
ソファでくつろぎながら彼らの話題に触れると、栞は偽りのない表情でそう言った。
相変わらずの純粋さに、俺はやっぱり心配な気持ちになる。
(全く、どこまでお人好しなんだか)
苦笑しつつも、こんな栞をずっと守っていたいと思う。
過去の傷や罪が、彼女を愛することで癒えて赦されていくのなら……喜んで自分の人生を捧げよう。
「栞」
「なんですか?」
「結婚しよう」
「え?」
当然のように、栞は驚いている。
「栞とずっと一緒に暮らしていきたいと思ってる。そのためには、やっぱり結婚した方がいいだろうから」
「恭弥さん……」
今日言おうなんて、考えてもいなかった言葉が口について出た。
だが、それは心の底からの本音で思っている言葉だった。
(社会が決めたルールに縛られる関係に意味なんかないと思っていたが……)
栞が望んでいるのなら、拒む理由はない。
むしろそれで幸せを感じてもらえるなら、喜んで……と今では思える。
栞はプロポーズをきっと喜ぶ。
そう思ったら、結婚に対してそれほどの抵抗も感じない自分がいた。
「栞、返事は?」
「と、突然すぎて……」
「そうか……じゃ、改めてにするよ」
「や、そんな必要ないです!」
「じゃあ、結婚してくれる?」
「っ、はい」
真っ赤になって頷く栞がどうしようもなく可愛いと思う。
俺の汚れた過去も全部まとめて受け入れてくれる栞を、さらに大きく抱きしめていきたいと改めて強く感じた。
「ありがとう。幸せにする」
「ん……はい」
一緒に幸せに、なんて言えない。
俺は自分以上に栞が大切で必要なんだ……だから、必ず俺が彼女を幸せにする。
そう強く胸に誓い、涙を滲ませる彼女の唇にキスを落とした。
END
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