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喜劇 ハナクソ・カッポジリ・ブギウギ
しおりを挟む後藤部長は五十代後半、縁無し眼鏡をかけており、スマートな痩身で、若い頃には美男であったことが覗える顔立ちをしており、銀が少し混じるふさふさとした髪を持つ人物だが、男としては、良い意味での大雑把さがなく、女性的な細かさ故か、恒例化した朝一番の説教は、いつも長い。
「県外に最低二十件、契約を取るプランはどうなってるんだ」青のブルゾン姿でデスクの前に並ぶ課員達の顔を一人づつ見ながら、部長は詰問した。
「申し訳ございません。私達なりに努力はしているのですが」私は同時礼で頭を下げ、詫びた。
「この体たらくが、君達が努力した結果なのか」私は課員を代表するように、もう一度頭を下げた。
「いいか。年末の決算までに、県内、県外合わせて三十件の契約を取らなくてはいけないんだ。そのための緊張感を、君らは本当に携えて仕事をしてるのか」部長は私の顔を見て、一層檄した。
「今が我が社が上場出来るか出来ないかの瀬戸際なんだぞ。君達はそれをどう思ってる。出来ないプランなら最初から立てるな。口先だけでやる、やる言うなら、もう何もしなくていいんだ」
言いばな、いつもの定例が始まった。眉間の皺を寄せた顔。びろんと伸びた鼻の下。大きく拡がった両の鼻孔。そこへ鉤状に曲げた人差し指が挿入され、その手が右へ左へと半回転を繰り返す。指を呑み込み、膨らんだ鼻翼。冷めない怒りを宿す目。への字に開いた口。それを一心不乱に行う表情には、渋い哀愁さえ漂う。
抜かれた指先が運ばれる部位は一つだ。すぼんだ口許は、まるでロリポップをしゃぶる幼児のような愛くるしささえある。ここがまさに笑うつぼだ。しかし、笑えない。私を始めとする課員達は、この定例アトラクションに最後まで付き合わなくてはならない。
「このままじゃ、ボーナスの査定にも響くよ。分かったら、仕事に入って」部長が指を口から抜いて言うと、課員達は散開し、それぞれのデスクへ向かった。
「お世話になります。株式会社ムロノコーポレーション、瀬戸と申します。当社の製品をご紹介に伺わせていただきたいのですが」私は先のことを忘却するように努め、取引先の歯科医院にアポイントを取った。
私は、若い後輩がハンドルを取る社用の軽自動車に乗り、流山へ向かった。私が営業課員として勤める株式会社は、柏に本社オフィスを構える医療機器メーカーで、柏、船橋、佐倉、八千代に工場を持ち、資本金は約一億円、従業員数は千五百人程度、規模としては中堅くらいだ。私は新卒入社してから、今年で十一年目になる。この年間、仕事には真面目に打ち込んできた。再来月には、三十半ばにしてようやく父親になる。
「なかなかの難関だぞ、杉本君」流山の住宅地に建つ、モルタル造りの古ぼけた歯科医院前で、私は後輩の耳に囁いた。
「技工士、衛生士も置かず、奥さんと二人で五十年やってきた歯科だ。それをどう説き伏せて、前向きに検討させるかが君の手腕の見せ所だぞ」今年に入社したばかりの後輩は、はい、と自信なさげに答えた。
「私、株式会社ムロノコーポレーションの杉本と申します」後輩は、眉間に縦皺を刻んだ銀髪の院長に、作法に則って名刺を渡した。
「歯肉の切開、歯のホワイトニングを可能とする、最新のレーザー治療器の紹介に上がりました」製品の写真が印刷されたパンフレットをかざして紹介する後輩を後ろから監督しつつ、それとなく待合席を見ると、患者が一人、黒革のソファに座っている。綺麗な白髪の髪に黒のベレー風帽子を被り、黒を基調とする洋装のスカートルック姿をした、育ち賤しからぬ老婦人だった。
マスク越しにも、若い頃には相当の美貌を持っていたと思わせる顔立ちをしたその老婦人は、にこやかな顔のまま、マスクを押し下げ、口をへの字に開き、拡げた鼻孔に人差し指をぶすりと突き入れ、鼻の中を掻き回し始めた。
何故だ。私の思考が疑問を呈し始めた。だが、その疑問はわりと早くに解けた。
この老婦人が十代、二十代の時間を過ごしていた時代は昭和中期のはずだが、その頃はまだ日本人に衛生観念が行き渡っていなかったことは、知識として知っている。だから洟を垂らした子供が当たり前のようにおり、バキュームカーが走っていた。そして、羞恥の観念も薄かった。日本にティッシュペーパーが普及する以前は、男女老若を問わず、処理の基本手段は「指」だったと見て間違いない。
紙そのものは、紀元前に中国で発明され、日本には西暦610年頃に伝わり、ヨーロッパでは12世紀以降に広まり、日本では江戸時代に紙工業が盛んになり、高度経済成長期たけなわの頃に、我が国は世界有数の紙製品生産国となった。
そのプロセスをたどる中、紙というものが一般社会に定着する前まで、和髪に簪を差し、綺麗な和服姿をした町娘も、西洋の王妃も、銀幕の美しい女優も、スター俳優も、みんな「指」だった。
問題は、人前、公衆の面前で行うか否やかだが、それをはしたない、他人の精神衛生上良くないと初めて説き、啓蒙した人がどこの誰であったかは、私は知らない。
なお、中国や、その他ベトナム、タイ、カンボジアなどの衛生インフラ整備が行き届いていない国では、若い女性も人前で堂々と鼻くそをほじることを知っている。
老婦人は指を鼻から抜くと、指先の付着物を眺め、それをぴっぴと弾き飛ばし、ふん、ふん、と鼻を鳴らし、今度は左手指を左の鼻孔に差し込んだ。ぽごっ、ぽごっ、と聞こえる濁った音が立ち、指を抜いたあとは、同様に眺め、同じく弾いた。
後輩は性能、価格の説明をし、老院長は、検討すると言い、パンフレットを置いていくことになった。
「部長にも半端じゃない圧がかかってるんだ。それを理解しないとね」次の取引先である個人病院に向かう社用車の中で、私は後輩に言い、彼は心許なげに、はい、と答えた。
高貴な身分の女性の鼻くそ処理、銀幕俳優、女優の行うそれが貫禄に満ち溢れたものであっただろうと想像するのは自分だけだろうか、と私は思った。
次の個人病院では、最新のマンモグラフィ検査器を紹介し、院長は「前から欲しかった。前向きに検討する」と言い、契約締結の按配が見えた。
柏の本社オフィスに戻ると、戦略のプランニングが始まった。
「一件、上手く行きそうです。これから個人経営の医院に、重点的に営業をかけていこうと思います」プランニングを終えた私は、後藤部長に報告し、決まった方針を伝えた。
「出来れば一件ではなく、一日五件の締結報告が欲しいところなんだけどな。これは最低ラインだぞ」部長は苦渋の顔でぽそりとこぼすように言って、鼻の下を伸ばし、拡げた鼻孔にまた指を挿し入れた。
「努力いたします」私は一礼し、部長のデスクを離れた。
部長の行為は嗜みか。まるで人前でそれを行う特権を行使しているように見えるそれだが、低所得層の親や子供が行うその行為が下品に見え、部長のような立場の人がやるそれが、その人間の存在感を示しているように見えるのは何故だろうと思った。
もっとも、まともに考えたところで、自分自身の益に繋がるわけでも何でもない話だが。
無心の心持ちで定時退社した私は、ダブルデッキを通り抜け、東武野田線に乗車した。私の家は初石のマンションで、妊娠八ヶ月の妻と二人、正確にはお腹の子と三人で暮らしている。
マスクをし、スマホを眺める人の中で、ジャージ姿で通学バッグを持った、運動部らしい中学生の少女が二人、座席に座り、華やいで話をしている。アイドル関連の話題が交わされており、一人の少女が「私の推しは近藤君一人だから」と言っていた。そこへもう一人の少女が彼女の耳に口を当てて何かを囁き、二人の口から、きゃあ、という高い声が上がった。その時、「やかましいや、くそガキ! 殺てこましたろか、こら!」というしわがれた怒声が発せられ、少女達は表情を硬直させて身を縮めた。
怒鳴り、嚇したのは、彼女達の向かいに座っていた、見た目から判断する限りではそろそろ老齢に差しかかった年齢程をした男だった。口許を見ると、くしゃおじさんのようで、歯がないことが分かる。頭にはニットを被り、ナイロン地の黒上着、下は綿入りジャージという姿で、何が入っているのかが分からない紙袋を座席に置いており、乗客の誰かのためにそのスペースを譲ろうとする様子はなかった。
「おい、ガキ、こらぁ!」男は座席から立ち上がり、足をどすん、どすん、と踏み鳴らして、少女達の前に立ち、額を彼女達に寄せた。
「お前らなんざ淫売なんじゃ! 親の見てへんとこでな、何やっとるか分からんさかいな! 文句があるんやったら言わんかい! 胸糞悪い!」少女達を嚇し上げる男に周囲の視線が向いたが、誰かが何かの行動を起こす様子は見られない。私の隣に立つ会社員の男は、全く関することもなくスマホをいじり続けている。
日本人が、こういうことを情けないと思わなくなったのはいつからだろう。日本人の鼻くそほじりと同じ質量を持つ疑問だが、少しは無理ないと思わなくもない。つい先日、どこかの私鉄線の車両内で、無年金者の男が鉈を振り回し、数人の乗客に重軽傷を負わせる事件が発生したばかりだからだ。
怯懦の感情は確かにある。だが、何となくだが、車両内の乗客達が自分に期待しているように思える。
私は左掌に「人」という文字を指書きし、それをはっと呑み込むと、女子中学生達に絡み続けている、推定七十歳前後の男に歩を進めた。
「すみません」私が声を掛けると、男は何かの刺激に鈍く反応したような仕草で振り返った。私を睨む目には、紅蓮のルサンチマンが燃えている。
「まだ騒ぎたい盛りの子達じゃないですか。この辺で勘弁してあげて下さいよ」「何じゃ、お前」男は凄んで、私に体を向き直らせた。
「命が惜しいんやったら、関係あらへんことに口出すな。わしを誰やと思とんじゃ」男はアルコールとニコチンが臭う息を吐きながら、自分は只者ではない、あるいは堅気ではない、または前科者だとアピールする文言を吐いたが、そうは言われても、その外観から覗える素性的なものは、せいぜい生活に窮している住所職業不定者らしいことしか分からない。自称する、恐ろしい極悪人とか武闘派とかにしてはスケールがちますぎる。
「すみません。でも、こういうの、見てしまった以上は、関係ないで済ませるわけにはいかないことなので‥」「何や、じゃあ、お前、わしと喧嘩やるいうんか。勝負したるで。次の駅で降りたらんかい」「いや、そういうのは勘弁して下さい」「ふざけおって。お前みたいな、毎月サラリーもらっとるスーツ族にはな、わしみたいな人間の気持ちは分からんのや。これでも食らえ」
男は口をへの字開きをし、鼻孔を目一杯拡げた。への字の口から、前歯の欠損した歯列が覗いた。鼻孔からは白髪の鼻毛が伸びていた。男はしかめた顔の鼻孔に人差し指を突き入れ、手首を半回転させて抉り回した。
男の鼻の内容物が、私のジャケットの肩口になすりつけられた。私は、あっという声を上げただけだった。
次に男は、両手人差し指を両方の鼻孔に突っ込んでぐりぐりと回し、ひひひ、と醜猥な笑い声を上げた。
「ほれぇ!」男は悦とした声を発し、緑色の内容物の付いた指をかざし、それを私の頬、ジャケットの胸元に塗りつけた。
「ざまあみさらせ」男は勝ち誇った笑いと言葉を残し、豊四季で降車した。
初石駅のトイレで肩の内容物を見ると、ご丁寧にも鼻毛一本のサービス付きだった。私はそれを濡らしたハンカチで拭い落した。ハンカチは、駅のダストボックスに捨てた。先の男が、この程度の自己主張手段しか持ち得ないことの悲しみを覚えていた。
初石の八階建てマンションに帰ると、身重の妻が天婦羅を揚げていた。
「今日は早かったのね」「うん」「裕哉さんの好きなシシトウ、入ってるからね。メインは鶏天ね」「ありがとう」マタニティドレス姿で菜箸を手にした妻と言葉を交わした私は、冷蔵庫から缶ビールのロング缶を出し、プルタブを開けて一口啜った。
「ジャケットが濡れてるみたいだけど」「うん。ちょっとね」妻の問いに答えた私は、缶ビールを半分ほど軽くした。
妻は産休中だが、特別養護老人ホームの介護士の職にある。それこそ、尿や便、時に吐瀉物の始末を行ったあとで食事、ということは、彼女にとりルーティンでしかない。それは食事中にいささかの汚い話を振っても動揺しないことを意味する。
「唐突で悪いんだけど、ちょっと教えて」絵画のコピーが飾られ、整理整頓が行き届いた居間の座卓に並ぶ、芋天、春菊天、鶏天、シシトウ天、混ぜご飯を前に、私は振った。
「みどりは、何歳まで、人前で鼻くそほじることに抵抗なかったのかな。やっぱり、幼稚園くらいまで?」
私に問われた妻のみどりは、顔を軽く横に向け、流し目を送り、うふふ、と笑った。
「カッポジラーみどり。それが私の小学校時代の仇名」「え?」流し目のままの打ち明けに、私は固まった。
「未就園の頃から小学校四年ぐらいにかけて、暇さえあれば、所構わず鼻くそをほじってたの。幼稚園の時なんて、クレヨン使った指でほじって、鼻の中が真っ赤になった時もあったよ。それでお母さんが、病院に相談したのよ。そしたら医者の先生は、やらしときなさいって言ったんだって。そんな癖はあっても、一応友達はいたけどね」
アルバムを見て知る顔をした、少女時代の妻が鼻くそをほじる姿を想像すると、形容表現は「破壊」しかない。交際を経て結婚するまでの六年間、全く聞いたこともない話だった。
「それ、本当?」「本当よ。お父さん、お母さんに訊けば分かるから。お父さんによく言われたもの。みどりは鼻くそほじり大会で一等賞になるよな、ってね」妻は言って、碗を取り、卵スープを啜った。
「うちの部長が、朝の説教がてらにいつも鼻くそをほじって、食べるんだ。それは部長なりの何かのランゲージなのかなって思って」「あの頃の私がほじってたのは、ただ鼻があることが気になってたからなんだ。私にとって、鼻っていうものは、呼吸をする、匂いを嗅ぐためにあるっていう以上に、いじるためにあるものっていう認識だったの。私が思うには、部長さんが鼻くそを食べる時は、やりきれない、または切羽詰まってる時だから、それを誰でもいいから汲み取ってほしいっていうアピールをしてるんだと思うのね。だから、鼻くそを食べずにはいられないのよ」
私には、妻の解説が落ちたように思えた。後藤部長のあの行為は、幼児退行の欲求なのだ。
「今日、僕のスーツが濡れてたのは、電車の中で、中学生の女の子達に絡んでる爺さんを注意して、殴られはしなかったんだけど、鼻くそをくっつけられたからなんだ。それをトイレで落としたから」
妻は目立った反応を見せず、天婦羅と混ぜご飯を、しっとりとした仕草で口に運んでいる。
「僕だって、幼い時分には、やったことが一度もないわけじゃないよ。だけど、今日の爺さんみたいに、大人になってもそういうことを誇りにしてる人のことは全然分からなくて」「分かってあげるまでのことは考えなくていいと思うよ。その人は、下品なことをして張り合う、子供の頃から成長してない人だと思えばいいんだから」妻は言って箸を置いた。
「人それぞれのその行為には、みんなそれぞれのわけがあるのよ。部長さんは自分を見てほしい、分かってほしいっていうアピールだけど、煙草を吸わない私なりに思うことで、言ってみれば一服の気持ちでそれをやる人もいると思うのよ。ちなみに私は、子供の頃にそれをやったあとにいつも感じてたものは、解放感だった。親や先生が何を言おうと、あれは誰にも侵せない、私の心の自由だった。つまり、あれをやる権利は、誰にも等しく保証されてるの」
妻の哲学的な解説に、なるほど、と私は思わずにはいられなかった。
思えばカッポジラーと言えば、小学校から中学にかけて、友達の友達という間柄だった者で、中学生になっても人前でそれを決める男子がいた。通学路や、女子の目の前でも憚りなく決めまくる彼は成績不振者で、今なら発達障害に該当すると思われる。
今日、私のジャケットを汚損した男も、明らかに健常とは大きくかけ離れている。羞恥や衛生の感覚が遅達、または概念づかないということは、それ自体が障害に当てはまる。
一服、か。私は思いながら、妻の揚げた天婦羅に露を漬け、噛んだ。そうだ、一服と言えば。
あれは三十年ほど前の記憶だ。私は五歳くらいで、家族で、どこかのショッピングモールへ行った時のことだった。買い物をし、店内を周遊し、食事をするために広いフードコートに入り、席を確保した。隣の席、その後ろの席を、今にして思えばクラバー、あるいはチーマーというものに分類されるであろう、サングラスを髪に差していたり、キャップを逆さに被り、だぼっとしたパンツを履いた、皆一様に目つきの悪い、威圧的なオーラを放つ若い女の集団が埋め、煙草を吸い始めた。その女達はやくざな言葉遣いで、幼い私には語彙の意味を拾えない会話をしていたが、その中の貫禄上と思われる、流行のキャップを被った女が「‥だからさ」という言葉を発しばな、目を泳がせ、鼻の下を伸ばし、鼻孔に深々と人差し指を挿入し、決めた。鼻翼をもごもごとさせてほじくり果たしたあとは、フロアに手を落とし、内容物を指で弾き捨てていた。
その様を写真にでも撮れば、「迫力の一服」というキャプションがつくものだったかもしれない。その女は、人前でそれを行う権限を持つ立場にも見えた。
なお、私にはすでに結婚し、子供もいる妹が一人いるが、彼女が鼻くそをほじったり、おならをするところを、子供の時分から一度も見たことがない。私の両親、祖父母も同じく、家族の前でも鼻くそほじりはしなかった。
雑学的考察になるが、人がそれを人前で決める時の心理を究めてみたいという気持ちが起こっていた。
翌日、土曜。私は身重の妻をワンボックスカーに乗せ、南総方面までドライブに出た。海を見て、木更津のドライブインで食事を摂ることにした。妻を席に待たせ、二人分のラーメン、餃子を運んだ。妻は二人分の栄養を補給するような食べっぷりを見せた。
私達が座り、食事をする席の隣に、十歳くらいに見える少女が入ってきて、立った。技巧を凝らしたパーマの髪に、年齢に似つかわしくないブランド風の服を着た、生意気な表情つきをした少女で、顔にはメイクが施されている。
その少女は、商品受け渡しカウンター上部のメニューパネルを眺めていたが、やがて顔を歪め、小さな鼻孔に人差し指を挿し込み、手首を激しく反転させ始めた。まるで鼻の奥の「くそ」を執念深く追うような、ブルータルな「決め」だった。十数秒、鼻の中を掻き回したのち、抜いた指を口に運び、まるでソフトクリームでも堪能しているような表情を見せた。そこへ同じく派手な髪色、派手な服を着た両親、弟と思われる男児が来て、少女を促して席をキープさせ、ぞろぞろとカウンターへ歩み進んだ。なお、その少女は、席に座っても鼻くそをほじり続けていた。
こういうことはあるものなのだな、と、私には改めて思えた。親の嗜好で異性受けを狙う派手な髪、服装をさせても、基本的な衛生、恥じらいをきちんと教えなければ元も子もなくなる。おそらくは、派手な親も、子供の前、他人の前でも鼻くそをほじくり散らかす人間であると見て間違いないだろう。
「みどりは、子供を自由にする方針で行くのかな」帰りの国道で、私は妻に訊いた。
「その辺りでは、ちょっと不自由させるかもしれないね」答えた妻は、運転席の夫の問いを理解している。
「家の中であれをやるな、これは駄目、ばかりは、子供にとって酷だと思う。だけど、せいぜい人前ではやらないようには教えていこうと思うよ。カッポジラーは、私の代だけで充分だから」「そうだね」ハンドルを取る私は苦笑した。妻の胎内からキックする子供は、エコー検査で、女の子だと判明しているのだ。
「おはようございます、瀬戸さん」本社オフィスの入るビルのエントランスで、佐藤和歌が私に辞儀をした。よくブラシの入った背中までの綺麗な髪を後ろで束ね、秋物スカートルックの姿をした彼女は、小柄な身長に兎を思わせる顔立ちをした二十代女子で、ムロノコーポレーションの経理部員である。
「今日は顔色がいいですね」「うん。仕事のモチベーションが上がってるからね。僕達営業、みんな士気旺盛だから。年末までに契約件数を少しでも増やして、一部上場に近づけることに燃えてるから」私と和歌は笑顔を交わした。
「後藤部長のこと、知ってますか?」静かに五階へ昇るエレベーターの機内で、和歌が問うてきた。
「部長がどうかしたの?」「熟年離婚‥」和歌が答え、私達の間に短い黙が流れた。
「小須田課長と話してるのを拾ったんです。離婚の理由までは分からないけれど、それで定年を待たないで、早期退職するかもしれないって」「そうなんだ」「圧をかけてるのは、自分の在職中に、営業部全体の成績を上げて、一日でも早く、一部上場に繋げたいからだって思えて」
私はそれ以上の相槌は打たず、二人で黙したまま、エレベーターはオフィスのある五階に到着した。
「プランニングを緻密に立てて、企画を徹底的に練ってくれ。上場が第一の目標だ。頼むぞ」後藤部長はデスク前の課員一同にぶちながら、人差し指を鼻孔に押し込んだ。勿論、笑う者はいない。笑うことは許されてはいない。しんと引き締まった雰囲気の中で部長の鼻から掻き出された中身は、今日もおもむろに口へと運ばれた。
そうだ、寂しさだ。私の中に答えが落ちた。先週、私のスーツに塗りつけられた鼻くそは、もしも食べたら、切なさを含んだ塩気が味わえることだろう。今の部長は、それと同じ味を噛みしめていることだろう。あの高齢の男の抱えるものも、時間を経て、伝心するように理解出来る思いになる。あの鼻くそは、部長と同じく、「自分を見てくれ」という訴えであり、心の涙だったのだ。
昼に杉本とともに社に戻った私は、妻が詰めた弁当をデスクで食べ、電子タバコを手に給湯室奥の喫煙ブースへ向かった。給湯室前では、和歌を始めとする女子の経理部員達が立ち話をしている。話題は、結婚関連のものだった。
「私個人は入籍だけでもいいんだけど、親は式挙げなさいっていうから」述べる和歌の小さな可愛い鼻孔には、人差し指が突っ込まれ、その形相は、原形が完全に破壊されたもので、品性知らずの親爺顔負けの凄まじさだった。人差し指は、ごにょごにょという音を伴って回され、抜かれた指の付着物は、床にぴっぴと弾かれるスタンダードな処理を受けていた。それを目撃した私の心には、さほど大きな驚きは起こらず、「こういうものだ」という思いだけが、一陣の風のように吹き抜ける感じを覚えた。
定時の時刻だった。お疲れ様です、という声が交わるオフィスで、後藤部長に目を遣ると、その人差し指はまた鼻に入っていた。
「部長、お疲れ様です」私が声掛けすると、部長はどこか虚ろな泳ぎ目で鼻から指を抜き、指先のものを丸め、こねた。
「年末の決算までを見込んだ県外の営業、お任せ下さい。私が陣頭指揮を取りますので。杉本君も、これから伸びる人材だと思います」「ああ、頑張ってくれな」返答した部長は、眼鏡奥の目を寄せて、指先の付着物を眺め、ころころと丸めた。
ダブルデッキに立った私は、行き交う雑多な人々を眺め、口を鼻下伸ばしのへの字に開き、目つきを虚ろなものに決め、立てた人差し指を拡げた鼻孔に挿入した。手首を右、左に半回転させるうちに、鼻の奥に手応えを得た。指を抜くと、予想以上の大物が付着していた。茶褐色のそれを口に運び、頬をすぼめた。心には確かな解放感があり、少女時代の妻の気持ちがよく理解出来た。
通行人からは何の反応も返ってくることがなく、みんな、自分のことだけで手一杯という知らぬ顔をし、それぞの目的方向へ消え、また、新しい人達が現れては消えていく。
ここも都会だ、という思いを新たにしながら、私は両方の人差し指を両鼻孔に突っ込む「ダブル」を、秋の夕空の下に決めた。
追伸 著者の私、楠丸も、遠い幼稚園時代、母親から、医療的措置が必要とまで見なされたカッポジラーでした。ある日、母が私の右人差し指にピンクのリボンを付けてくれ、「これ、おまじない。ほじりたくなったらこれを見るのよ。他の子が、取ってみせて、と言っても取っちゃ駄目よ」と優しく言いましたが、その当日、クラスを同じくする女の子から「ゆうちゃん(私の本名で、当時の愛称)、そのリボン何? ちょっと取ってみせて」と興味深々に言われ、リボンを彼女にあげてしまったことにより、母の願いは水泡に帰し、再びカッポジラーライフが始まったという始終がありました。なお、私のその鼻くそ追いは、小学生になってから落ち着きましたが、周りにはカッポジラーは一定数おり、気に入っていた本にブツをくっつけやがった友達もいましたが、私は怒らず、ブツの付着した部分を挟みで切り取りました。
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