手繋ぎ蝶

楠丸

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1章

~始点 移ろいと疵~

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「別の席ないの?」

汚物でも見たような嫌悪を表情に刻んだ若い女が、ウエイトレスに険を含んだ口調で訊いたのは、千葉中央の幕張寄りにある喫茶レストランの通路だった。

 背中までのワンレングス風のストレートヘアに、ジャケット、スカートともに朱のスーツを着た、目許、鼻筋は美しいが、下唇がめくれて歯が覗く口許が卑しげな二十代前半の女は、ポロシャツにジーンズの、整った顔立ちだが覇気のない佇まいをした同年代の男と一緒に来店、中央寄りの六人掛け席に案内された。霧のような小雨に街が煙るランチ時だった。厚い窓にも水滴が張りつき、傘を差した通行人が、店に面した歩道を行き交う。

 バブル時代はもう何年も前に終焉し、信託銀行、大企業が相次いで倒産、または吸収合併され、アルバイト情報誌もページが足りず、煎餅のように薄い世相だが、フード系はまだもっていて、客入りも悪くなく、広さ100坪ほどのその店の席も、その男女が案内された所以外は全て埋まっていた。

 その男女から見て、後ろの席には、女性が二人、向かい合って座っている。

 後ろには、髪にだいぶ白いものの混じった年配の女性、向かいが、もう大人の年齢のようだが、片口までの髪を児童のような額を出したお下げに編み、赤い薄手のナイロンの上着という姿で、床元から、可愛い動物の絵柄の長靴が見えている。表情は固く暗くこわばっているが、それは朱色のスーツの女がこれから連ねる言葉を予期しているからだ。同席する、おそらく母親で間違いないと思われる人物の年恰好を見る限りでは、そんなに若いと言える年齢ではなさそうだった。
 
「これ、シンチャンじゃないのかよ」

 朱色のスーツの女は、お下げの女性を人差し指で指差し、下唇を突き出した顔で、ウエイトレスににじり寄った。女の吐いた言葉は、障害者の揶揄称として使われる若者のスラングだが、知的も身体も一緒くたにした総称だった。

「こんなよだれ垂らして、あー、とか、おー、とか訳の分からない奇声上げて、周りに迷惑かける気持ち悪い奴の隣で、普通、ご飯なんか食べる気になれる? ていうか、こういうの店に入れる時点でどうかしてるよ。私、こういう奴ら見ると、目が腐りそうになるんだよ!」
   
 周りの席に座る年配の客達は一斉にぽかんとし、窓際のカップルが、いかにも面白いネタを採取したように顔を寄せ合い、笑いを洩らしている。何に笑っているかというと、連れの女の暴言におろつき、ただ案山子のように立っているだけのポロシャツの男の滑稽な姿に笑っているのだ。 

「申し訳ございません。ただ今、ほかのお席は満員でして、ご案内の出来るお席はこちらのお席のみとなってしまいます。もしよろしければ、あちらの待機用のお席でお待ち頂くことも可能ですが、いかがいたしますか…」

白のブラウスに紺のスカートの制服を着た、女よりもやや年齢が上と見えるウエイトレスは、両目に怯えを滲ませ、震えるか細い声を絞り出した。接客の仕事がやっと務まるか務まらないかの、対人恐怖が明らかな女性だった。それがその人の精一杯の対応のようだ。
 
 これだけの露骨で口汚い面罵を受けても、隣の母娘が席を立って向かってくる様子は、微塵もない。母親が萎縮していることは後ろ姿で分かり、お下げの娘は瞼を固く伏せてうなだれたきりだった。この人達にとって、こういう若い女は怖いのだ。その気持ちは、連れの男にはよく分かった。
  
 だが、男は、この恋人に一切ものが言えない。自分がやっと二言くらいを絞るとたちまち居直り、多彩な語彙の文句が機関銃のように十言、二十言と返ってきて、何かの出来レースのように必ず負ける。相手はこの女に限ったことではなく、誰に対してもそうだ。子供の時からずっとだった。だから、この不条理にも注意は出来ない。
 
 そこへ、母娘の注文品が来た。同僚が困っているのに我関せず、とばかりに取り澄ました態度のウエイターの手で、二皿のカレーが置かれた。ウエイターは全く関わる素振りもなく去っていった。
 
 娘はカレーライスを銀のスプーンですくい、心底からの悲しみが満ちた面持ちで、視線を斜め横の空間に馳せて、口に運んだ。スプーンが彼女の歯に当たる、かちりという音が微かに聞こえ、それが一層悲しみを男に共有させたが、彼にはそれを見ていることしか出来なかった。見ているうちに、娘の目から粒の大きな涙が伝った。涙はカレーライスの上に落ちた。それから彼は、恫喝めいた暴言をもう二言、怯えるウエイトレスに浴びせて店を出る恋人のあとをおろおろと追い、店を出たのだった。


 二人の女が駅のダブルデッキのベンチに座り、黄色い紙袋に入った焼き鳥を分け合って食べている。通行する人がちらちらと、訝しみの中に恐れを入り交ぜた視線を遣って歩み去っていく理由は、その二人の女の、推定三十前という年齢に相応しくないセンスの髪や服ではなかった。

 一人の女はよく洗いがされておらず、ブラシが入っていない、もつれた肩までの髪の片方を丸いカラーポンポン付きのヘアゴムで結び、服装は、つんつるてんの生地をしたGジャンに、同じデニム地の股下ぎりぎりまでの短いスカートに、膝までの白いハイソックスにマジックテープ式の白のズックを履いている。着けている時計は、近くで目を凝らせば塩化ビニールのバンドで文字板に戦隊ヒーローの顔が描かれた子供向けのものと分かる。もう一人は、生え際の黒い茶色の髪をし、量販洋品店の処分品といったところの黒のナイロン製の上着を着、同じ黒の、綿のズボンという姿で、片方は幼く、片方は自分の祖父母のようなセンスだった。

 二人とも化粧はしていないが、彼女達の頭から服の上部に、赤のスプレーを浴びたように血が飛び散り、茶髪の女の右手には、砕けた豆腐のような物質が点々と載っていた。

 彼女の腰の隣には、直径30センチほどの箱が置かれているが、白い包装紙が箱中央に巻かれ、リボンがついたそれは、唯一人の人に宛てた大切なプレゼントという感じがし、魔法の、という文字が見える。

 その頃、世界は、様々な疑惑が取り沙汰された「9・11」を経て、「大量破壊兵器保持」疑惑から「有志連合」が侵攻した中東の戦争が一応の「大規模戦闘終結」の宣言こそ出ながらも、混迷の止まらない中東情勢のニュースが連日報道されていた。国内では衆議院選挙が行われ、テレビは、地上波デジタル放送が始まったばかりだった。

発熱と咳、筋肉の痛みが出る呼吸器の感染症がアジアから北米大陸にまで蔓延し、旅行のキャンセルが相次いでいた。自殺者数は、戦後最悪の数字を叩き出していた。それでも街の景況感ばかりは悪くはなかった。そんな中、卵から生まれる鳥のような生き物を育て、禿げた中年男性に変身したり死んでしまったりに一喜一憂する、商品名に充てられた食品そのものの形状をしたハンディなゲーム機が再発売されて第二次的な人気を博し、日焼けサロンで焼いた黒い肌、ルーズソックスは流行の主流の座から降りていた。

「もう小さいお金しかないよ‥」たれの腿串を食べ食べ、紺の財布の中を覗いて言ったのは、十二月の冷たい大気の中、薄い生地のGジャンを寒々しく着た女だった。「奥の箪笥に、もっともっとお金あったのに」Gジャンの女の口調は少し詰る調子になっていた。

「このお財布、八千円とちょっとあったのに‥」Gジャンの女からの悲しげな呟きに、茶髪の女は食べかけたレバー串を、ひしゃげた豆腐状のものが付着した手に持ってうなだれた。

「だって、子供に買ってあげたかったんだもん。この魔法のバトン」茶髪の女が言った時、大通り側の階段を昇って、制服の警官が二人やってきた。二人は表情を硬直させて、歩いてくる警官を見ていたが、やがてGジャンの女が茶髪の女の手を引いて立ちあがり、警官達と反対の方向へ逃げ出した。焼き鳥の袋と紺の財布はベンチに置き去りになった。だが、リボンのついた箱は、茶髪の女の小脇にしっかりと抱えられていた。

 脱兎の勢いで逃げる血塗れの二人の女とそれを追う警官の様子を、居合わせた通行人達は驚きと好奇心が入り混じった目で見つめた。百貨店前の階段で、女達は身柄を押さえられた。「署まで同行しなさい」警官の一人が言った時、階段下にパトカーが停まった。

 隣接する利根川沿いの市で、紐を首に巻きつけられ、金槌で頭部を粉砕されて、おびただしい量の血と脳をカーペットの上に撒いた初老の女の遺体の第一発見者は、近くに住む女の知人だった。凶器の金槌は被害者遺体のそばに、柄まで血と脳漿にまみれて落ちていた。知人は、電話に出ないことが気になって訪ねたところ、鍵が開け放しになっており、踏み込んで、原形を留めない亡骸となった被害者を見つけ、110番通報したのだ。

   
駆けつけた署員に、二人の女が家から出てきて、走り去るのを見た、と耳打ちした住民がいた。そこから非常線が引かれる中、「血を被った二人の女」を乗せた鉄道の駅員、乗客、同一人物らしい二人を接客したスーパー前の出店の焼き鳥店、「魔法少女かりぷそ」の「変身バトン」を買ったうち一人を接客したという玩具店の店員から通報が入り、目撃証言そのままの姿をした女二人がダブルデッキで悠然と焼き鳥を食べているところへ行きついたのだった。

 女二人は、あっさりと犯行を自供し、一人は「お金が欲しかったから」、もう一人は「子供におもちゃを買ってあげたかったから」と供述した。女二人は一審で実刑が確定し、一人が懲役三年、一人が無期懲役を打たれた。二人が奪った金はほんの数千円程度だったが、一人は強盗殺人の扱いになった。もう一人は「紐で首を締めただけ」ということで殺人未遂の容疑になった。

 被害者の女は、早朝の公園で一人ぶつぶつと念仏のようなものを唱えたり、道路の側溝を睨んでぷっぷと息を吐いて九字を切るという奇行を日常的に繰り返していた、近所で知られた自称霊感師で、同市、近隣市に何名かの「信者」もいて、加害者もその一部だった。マンションの部屋には、仰々しい神棚が設置され、得体の知れない石が祀られ、聖水、といった名前がつきそうな水が置かれていた。

 事件はさほど大きくは報道されず、後日に起こった別の出来事に押されるようにして風化した。それが識字、語彙力、計算、社会性、情緒が小学校低学年程度に留まっている知的障害者達の犯行であったという事実もろともに。

 そこからさらに時代が流れた。

 開け放しの引戸からぬっと入り、レストスペースに向かう男に、カウンターに立つ従業員の青年が、困惑の顔色を浮かべた。そのベッドハウスの宿泊料金は、一泊二千円だった。

 その困惑顔の理由は、男が料金を支払わずにカウンターを通り過ぎたことだった。床はコンクリートのうちっぱなしで、二段ベッドを連ねた三室を擁する二階へ上がる際には靴を脱ぐ。「土足厳禁」と太くマジックで書かれた貼紙が、逆さ柱に貼られている。カウンター前には熱帯の観葉植物が置かれ、壁に裸婦の絵画が掛かっているが、全体的に雑然とした、殺風景な内観だった。
  
「今、お前一人?」

サイドを刈り込んだリーゼントの頭をし、四角いフレームに濃い黒の、古めかしい威圧感を醸し出すリムレススクエアのサングラスをかけているが、赤く分厚い鱈子の唇に愛嬌を感じさせる男が訊くと、青年はワンテンポ遅れて、度数の濃い眼鏡の奥からおずおずとした目を向けて、頷いた。

「別段物騒な人間じゃねえ。今日、ここを利用してる人間に用があって来たんよ。長居はしねえから」
男は、恐れを刻んだ面持ちの青年に言うと、懐から大きなサイズの黒革の財布をすっと出し、「栄ちゃん」を一枚抜くと、親爺には内緒だ、と小声で囁き、差し出した。青年は数秒ほど躊躇する様子を見せたのち、小刻みに震える右手を出し、渋沢栄一の一万円札を受け取り、饅頭のように丸い頬を不安げに痙攣させて、もう一度、サングラスの男の顔を見た。
 
 新聞差しから夕刊を抜き、青年に背を向けた男は、中央に設置されたレストスペースに歩み進んだ。天井の端には黒いカメラが下がり、一階の空間を睨んでいるが、カウンター前のそれと同様に、フェイクの防犯カメラであることを、サングラスの男は瞬時に見破っていた。壁際に置かれた液晶テレビからは、公開前から話題沸騰の、天界から降りてきた神様の男と恋に落ちる女のラブストーリーのハリウッド映画のコマーシャルが流れている。

 安物のソファが二つ、ガラスのテーブルを挟んで向かい合っている。そのソファの右端に男が一人座り、館内の自販機で買ったらしい350ml缶のビールを呷っていた。不惑はとうに越しているが、定年まではあと数年ありそうな年恰好で、若い時分にはみっちり鍛え込んだことが覗える、横幅のある体を白のワイシャツと黒のノータックスラックスで包んでいた。サングラスの男から見える左耳は、柔道をやり込んだ者ならではの、「餃子」だった。だが、髪の豊かな家系なのか薄くはないスポーツ刈りの頭に混じる白いものと、思い詰めたように手元の酒缶を見つめる表情には、今の時間に抱えているものが滲んでいる。
              
 サングラスの男は、その体格に恵まれた壮年男の真隣にどかっと腰を下ろすと、夕刊を広げた。 

「四百人超拘束の韓国全域の反日暴動、収集がつかず、大統領が軍の出動を検討、か」男の口から、シビアなトーンの呟きが洩れた。

 それから三分ほどの沈黙が流れた。壮年の男はビールを飲み干すと、拳を握り締めた両手を膝の上に置き、目の前の缶に視線を集中させるように俯いていた。
  
「ここは居心地がいいかい?」サングラスの男が、新聞の紙面を見つめながら、隣で俯いたきりの壮年の男に声低く訊いた。答えは返ってこない。

「そうか。こんなゴキブリのアトラクションも観られるアンモニア臭えベッドハウスでも、奥さんからぎゃあぎゃあせっつかれる家よりましだろうからな。だから、ここんとこずっと、この木賃から出勤してんだよね。署にな」男は言うと、新聞から顔を上げた。

「まあ、先週、庁舎に覗って話したことの続きだね。あんたはノンキャリアから警視正に成り上がった苦労人だけど、そういう人間だって間違いは起こすもんなんだ。ボタンの掛け違いってやつもその一つだ。なあ、桜田門勤務の石井さん…」サングラスの男の言葉に、石井と呼ばれた壮年男は、言われていることを吞み込みかねている顔を向けた。
   
 サングラスの男は新聞を傍らに置くと、モスグリーンの革ジャンの懐から、小さなポケットタブレットを出し、ボタンを操作して、画面を石井の目の前にかざした。
 
 映し出されたものは、言ってみれば普通に今時風にチャラい、若い男の顔だった。年齢のせいもあり、まだ可愛さが残る顔をしている。男のシャツの襟を、別の男の手がむんずと掴んでいる。背後には、灰色の大理石で作られた壁があり、重低音の効いたトランスミュージックががんがんと流れていた。
 
 目を伏せ、口許に怯えを湛えた男の髪を、もう一つの手が鷲掴みにし、後ろへ強く引いた。画面がパンして、大柄な男が二人がかりで小柄な男を捕まえている画になった。三人の前には、体格、見せている横顔までが、そっくりそのまま石井を若者にしたような男が立ち、身柄を固められている男を見下ろしていた。シックなデザインの小便器が並んでいるのが映ったことから、どこかのクラブの男子トイレらしいことが分かる。サングラスの男はポーズボタンをクリックし、男の横顔が映った画像を止めた。 

「こいつはあんたの一人息子だ。遅くに出来たってことで、散々、可愛い可愛いって頬ずりして育てて、図体と自意識ばかりを一人前にした、な。警察学校の二年で、成績はそこそこ。術科はなかなかだけど、座学は今一つ。楽だからとかで、交通課希望とかと言ってるらしいね。これは親父に倣って警察の道を選んだ動機も、制服でえばり散らせる特権が欲しいからだよね」
  
 サングラスの男が語尾に嘆きの抑揚を入り混ぜて、再生をクリックした。石井の顔には、隠しようもない困惑の色が満ちており、両手と腰が、もう席を立つ準備をしている。

 動画の続きが始まった。石井の長男は、仲間が押さえつけている男の脇腹に、抉るようなフックをめり込ませた。男はえづくような声を上げて、膝を折ってつんのめった。そこへ、胸部を狙い、膝を畳んで足裏で蹴る少林寺系のキックを二発入れた。男の体は力を失い、別の男に髪を掴まれたまま、尻を床に突きかけた。アングルが斜め上からのものになった。息子は、至近距離から男の鼻に正拳をしなわせた。硬い破裂音とともに男が体を反らせ、カメラに苦悶の顔を向けた。発赤した鼻からどろどろと血が流れ出した。目尻に涙が滲んでいる。後ろの仲間が掴んでいた髪を離すと、男は床に這いつくばった。石井の息子が尻を蹴ると、男は腰を浮かせて呻き声を上げた。その呻きが、声を殺した啜り泣きに変わっていった。 

 石井が宛てのない助けを求めるように、背もたれに背中を押しつけ、きょろきょろと周囲を見回した。その顔と姿に、警察署副署長を張る人間の威厳はどこにもなかった。外観がいかにも武人然としているだけに、正視出来ないまでに不様だった。

 タブレットの画面の中では、男達の手で仰向けにひっくり返された男が、懐から財布を抜かれていた。石井の息子の半身が映った。

「十五万ゲット!」息子は扇形に拡げた札を画面にかざして笑い、周りから、うひゃらひゃらという下品な笑い声が沸き起こった。背後からは変わらず、大音量のトランスが流れている。

「こんなものを俺に見せてどうするつもりだ!」
 
 石井が背もたれに張りつき、目を剝いて叫んだ。斜め向かいには交通誘導警備の制服を着ただいぶ老齢の男がいつのまにか座り、館内の自販機で買ったらしいカップ蕎麦を啜り込んでいるが、そのやり取りに関心を示す様子は全くない。カウンターの青年も、波風が収まるのを待つように、遠くを見るような目で立っている。一万円札一枚は、もう財布の中にしまったようだ。サングラスの男は揃った上下の歯を見せて笑うと、ストップボタンをクリックしたタブレットを懐へ戻した。目が笑っていないことがサングラス越しにも分かる、狡い笑いだった。

「どうもへったくれもねえさ。警視庁学校に現役在学で、キャリアのコースに着実に乗って道を歩いてるとあんたが信じて疑わなかった息子の、れっきとした犯罪を記録した動画だ。あんたと世間様の目の届かねえ所で、喧嘩にカツアゲ、レイプ、ドラッグと、ひととおりの悪行三昧だ。どうするね」

 石井はスラックスの脚をがくつかせて立ち上がった。内に抱え込むしかないような悲愴が、目と口許に表れている。彼はソファの前を横切ると、ベッドを連ねた二階へ続く階段へ歩きはじめた。

「何だ、うちの子に限って、か。まだ話の途中だぜ。ベッドに逃げ込んで埒が開くのかね」サングラスの男もソファを立ち、石井の前に回り込んだ。石井の顔に刻まれ、肩の動きに浮かぶ恐れのわけは明白だった。自分よりも二回り年下の目の前の男に、これまで作ってきた実績が根本から揺るがされ、あと数年残る国家公務員職も、名誉も、のちの余生も完全に掌握されているのだ。逮捕権も、今は機能していない。

「どうやって今のを入手したかってと、動画に映ってたお友達にちょっと付き合ってもらって、天井から逆さに吊したら、機関銃みたいな勢いで喋ってくれて、そのあとでこっちの端末に動画を送ってくれたんだよ。勿論、その僕ちゃんの体はどこも傷つけちゃいねえよ。動画は今、俺のれつと共有してるんだ。俺はちょっと待てっつってんだけど、みんな浮足立ってるよ。この手のネタに飛びつく週間誌に売り込んで、新聞社にも流して、動画サイトにもアップするってね」

「金が欲しいのか」石井が唇を震わせて、詰まった声を絞り出した時、サングラスの男は喉の奥で笑った。

「まあ、そう簡単に結論づけんな。俺は根っからの警察シンパでね、警察は善良な一般市民の平和と安全を守るためにある公僕だって考え方を、これまでただの一度も崩したことはねえ。そんな俺が今ここに来てんのは、税金がまともに使われてんのかを、改めて問い質す目的もあってのことなんだ。たまにはぶれることはあっても、まともな平均線を保ってりゃ言うことはねえ。けど、平均線から落ちっ放れじゃ、声を上げてそいつを是正する権利が、俺ら一般市民にはあるんだ。ここはロシアや中国とは違えよ。子供の問題を、賄賂めいたもんで解決しようって考えは、ましてあんたみてえな立場の人は持つもんじゃねえと思ってるよ。あんたが曲がりなりにも桜田門に詰めてる親父としての威厳を、これから警察官になろうとしてる息子にきっちり示せっかどうかだよ。さあ、どうする?」

 ソファでは、老齢の交通誘導警備員が、スープの残るカップを前に、食後の一服をつけている。テレビからは、神奈川で無職の三十代の女が派遣社員の交際相手の男と共謀して、同居の母親を殺害して現金を奪って逃走中というニュースを女性キャスターが読み上げていた。殺された母親のスナップ写真が大きく映った時、大荷物を背負った中年の客が入ってきた。客はカウンターで料金を支払うと、おろつきも露わに立ち尽くす恰幅のいい壮年男と、堂々と胸を反らせたサングラスの男に目も向けず、足早に二階へと消えた。その男の横顔、背中と足取りには、身の安全上絶対に関わってはいけないことへの恐れがありありと出ていた。

「俺は金が欲しいとは言ってねえ。けど、かかる手数の報酬的なもんをくれるっつうなら、もらっとくよ。それをやることでこうなると確実に言えることがあるとすりゃ、あの動画が流れることはなくなるってことだね。あれを売るっつって、今、鼻息を荒くしてるれつの奴らを俺が抑えりゃ、あんたは息子の尻拭いに奔走する手間が省けるし、今の椅子が吹っ飛ぶこともなしに、定年まで務めることが出来んだ。ぎゃあつく奥さんと、ボタンを掛け違えた息子は、これからあんたが威厳を取り戻しゃ、何とかはなるだろうからな。もっとも、俺はあの息子には警察官なんざにはなってほしくねえけどさ。日本をコロンビアやエルサルバドルみてえな国にしねえためにもね」

 サングラスの男はひとしきり言うと、懐から小さなメモ用紙を出した。その用紙には、銀行の口座番号が走り書きされている。「大丈夫さ。あんたの地位なら、数年後に出る退職金だって相当のもんだろう。飲み代程度の金を失ったところで、たいした痛みはねえはずじゃねえか」
 
 サングラスの男に渡された用紙を手に持った石井は、焦燥に満ちた顔でがっくり肩を落とし、体を反転させて、コンクリートの床を見つめた。

「じゃ、今日はこの辺でお暇するわ。よかったな。ひとまずは名誉が守られることになってな。ただし、今回とりあえず、だぜ。まず、これまで奥さんに上がらなかった頭を上げなきゃ、息子の再教育なんて出来っこねえんだからな。近くに息子がパクられっか、マスコミに嗅がれねえうちに手を打つこったよ。それじゃ、またな」サングラスの男は言って、引戸のほうへ踵を返し、先しがた迷惑料の栄ちゃん一枚を渡した青年に「邪魔したな」と声をかけ、宿を出た。青年は心底ほっとした表情をしていた。

「ベッドハウス高須」という看板を掲げた木造二階建ての木賃宿を出ると、童女の頬を思わせる濃い朱色に染まった隅田川と千住大橋、遠くにそびえるスカイツリーがワイドに拡がっていた。男は路肩に停めた、ハロウィン前の濃厚な夕陽が車体に反射している黒のソアラに、肉づきのいい中背の体をしゅっと乗り入れると、千葉方面へアクセルを踏み込んだ。船橋へ続く京葉道路に入った時、男の中に、ある予感が湧いた。次のゴトで、俺の命はいよいよ地獄へ持っていかれるだろう。だが、俺らしくもなく、仏の要素を持つそれになって、何人かの人間を助けることになる。そいつらは‥自分への呆れのような笑いが浮かんだ時、斜め前に南船橋の街が迫っていた。
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