手繋ぎ蝶

楠丸

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13章

~動乱の戦端~

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 日曜、朝。村瀬の肩に、菜実の両脚と両腕が掛かっていた。立位の村瀬が、腰を下から上に揺するごとに、菜実の鼻と縛った歯の間から愛らしい吐息が漏れる。村瀬が射精へいざなわれる感覚を体に覚えた時、菜実が小さな高い声を発し、村瀬の額に自分の額を着けてきた。村瀬が腰を震わせて菜実の中に精を注いだ時、深く閉じた菜実の目から、小粒の涙が溢れて、彼女の頬に二本の筋を引いた。

 すでに三回菜実を抱き、彼女を腕に包んで布団に横たわる村瀬の肚は、須藤からの友情ある警告を受けて三日目にしてようやく決まりかけていた。それは確かな悪にその身と命を形に取られている菜実を、というところに落ち着きつつあった。具体性を帯びたどうするか、は、まだ村瀬の中では結像はしていない。だが、菜実がいつこちらに自ら入信の勧誘をかけてくるかで、腹を括らなければならない。それによって、自分の体や命がどうなるかは分からない。だが、何かをやるということ以外は、今は胸にない。幸せの笑みを慎ましく浮かべ、キタキツネの顔で、自分の腕に収まっている菜実をカーテン越しに差し込む陽の中に見ている今は。

 数十分ほど褥の上で睦み合ってから、次は一階のリビングで交わった。テーブルの縁に手を着いた菜実を、背後から抱いた。脂肪の下にしなやかな広背筋が張っていると見て間違いない背中が波打つのを見ながら、肚決めを煮詰めようとした。

 四度目の射精を終えた村瀬は、テーブル縁に手を着いたままの菜実の背中に上体を載せ、腰を抱きしめた。迫っている現実を帳消しにするような、心地よい虚脱を村瀬は覚えていた。

「来週は土日は厳しいけど、早番だから、夕方からどこかで会うのもいいかもね」明るい浴室で二人裸で向き合い、菜実の髪を洗いながら、村瀬は誘った。髪の先まで指を通すと、躍るように揺れる乳房と陰毛に泡が滴り落ちた。陰毛についた泡を、菜実は掌で拭った。

「菜実ちゃんの会いたい時でいいよ。電話をくれないかな」村瀬は言いながら、菜実の髪に強すぎない給湯量のシャワーの湯を注ぎ、指で髪を梳いた。菜実ははにかんだように下を向き、キタキツネの顔に何かを言いあぐねた色を浮かべている。間もなく、向こうからの勧誘の言葉が来そうな気配だ。
「いいお話が聞ける所があるの」少々憚った小さめの声で菜実が言ったのは、脱衣場で体を拭き終え、村瀬がトランクス、菜実がパンティを履いただけの姿になった時だった。意を得た、と村瀬は思った。

「いいね、いいお話。それはどこへ行けば聞けるの?」「鎌ヶ谷なの」「鎌ヶ谷?」村瀬の問いに、菜実は「はい」と返事した。

「もしもためになるお話だったら、聞きたいね。菜実ちゃんが言うんだったら間違いないよね」村瀬の言葉に、菜実は首を垂れたきりだった。叱られた子供を思わせる顔と立ち方だった。

 午前は菜実を膝の上に乗せてテレビを観て過ごし、昼食もともにしながら、押し入れ奥から引っ張り出したオセロやトランプ、百人一首カードで坊主めくりを教えて遊んでから、午後の出る前にまた、二階で抱いた。

 抜けさせる。自分の体の下で、汗の玉が浮いた顔を伏せ、食いしばった歯の間から小さく喜びの声を上げる菜実を見ながら、村瀬は覚悟を肚の中に締めつつあった。両掌に包んだ乳房の柔らかさと、繋がる性器と性器の温もりが、その決意を加速させた。

 更衣室で私服から制服に着替えている時、真由美がしばらく休職するらしいという旨のことを、香川が伝えてきた。その顔と声に非難の調子はなく、ただありのままを伝えてきたという感じだった。

 制服に着替えて開店準備作業を行い、十時のオープンで、並んで待っていた客に、いらっしゃいませ、おはようございます、と声かけしてお辞儀をして出迎えた。菜実のためにやることが決まっているだけに、内心の不安は顔と態度に出ていないことが自分で分かっていた。

 社販品の弁当で昼食を食べ終えたあと、型をバックヤードで練習した。休憩を終えて売場に出て、出来上がったばかりの総菜類を「作り立てです、どうぞご利用下さい」と声出ししながら陳列している時、曲をまとった男の影が脇を通り過ぎた。それが吉富であることを確認した村瀬は、差別なく、いらっしゃいませ、どうぞ、と接客の声をかけた。

 今日の吉富は、背中一面に竜神と髑髏の図柄、銀色の「侠」の一文字が胸に刺繍されたジャージタイプの服を着て、肩を派手にいからせていたが、村瀬は特にどきりとすることもなく、その後ろ姿を横目で見送る。

 二週間と少しぶりに現れた吉富が、村瀬や他の店員に絡む様子は今日は見られないが、これまでと比べて挙動に不審さが見られた。自分がいつも買っていく、鰻や寿司、刺身、肉のコーナー前に立ち、まるで本社からの視察のように、それらを手に取ってまじまじと眺めてはラックに戻し、しばらく店内を周遊してから、また比較的値が張る商品の売場へ戻り、同じことを繰り返す。一時間余り、同じ行動を見せ、何かを思案する顔をし、何を買うわけでもなく退店していったのが、夕方近い時間だった。

 これはこれで嫌な予感のする思いがしたが、村瀬はそれを深追いする気持ちにもなることなく、今日のシフト定時まで動き、声を出し、いつもと変わりなく自分の仕事をこなした。

 待ち合わせ場所である前原駅の改札前に、約束の時刻よりだいぶ早くに来て待っていたと思われる菜実がいた。村瀬が笑顔で挙手すると、ギンガムチェックのツーピースに赤いカーディガンを着て、茶のバッグを持った菜実も笑んで手を振ってきた。明るい茶金色の髪は、輪っか大きめのお下げに編んでいた。

「鎌ヶ谷だったよね」村瀬が言うと、菜実はしんみりとした顔で小さく頭をこくりと下げた。

 二人が座れる席は空いていなく、立つことになった。京成松戸線の中で体を揺られながら繋いだ手は緩めのグリップで、お互いに言葉は少なかった。村瀬は片手に吊革を握りながら、駅が松戸方向へ進むごとに変わっていく車窓の外の景色を見ていた。

 初富駅に着くと、菜実は十字路右の白井方面へ村瀬を引くようにして歩いた。車道向こうの高架線路を、柏発船橋行の東武野田線が走り去っていった。昔から残る緑を含む古い名残の中に、所々新しさが顔を出す佇まいの道を、緩く手を取って進み、細く小さな道に入る。

 改修の跡がない昔ながらの民家が軒を連ね、小さな公園もある通りを数十メーター進んだところに建つマンションの前で足を止めた菜実は、茶のバッグからおぼつかない手つきで一枚のメモを出したが、そのメモには番号が書いてあった。築年度的にだいぶ新しいらしいそのマンションは四階建てで、外壁の塗装はグレー、エレベーター付きのようだった。

 菜実がゲートのパネルのボタンにメモの番号を打ち込むと、スピーカーから男の声が応答し、菜実が「池内です」と声を送ると、上がってきなさい、という男の返答があり、インターホンのスイッチが切られた。その声の背後から読経と思われる声が漏れていたのを聞き取った村瀬は、自分の体が小刻みに震えていることに気づいた。これから程なくした時間に、自分の身を襲うかもしれないことを、心が迎えている。それは菜実のためだが、その故が、心にかかる重圧をひとしおのものにしている。

 だが、これから足を踏み入れる純法の支部で具体的に何をという主語を省いても、「やる」ことだけしか頭にはない。それでいて、胸の内には確かな恐怖と不安を覚えている。その両者の感情は、自分の身がどうなるかが四割、もしも菜実をどうにも出来なかったら、というところが六割だった。

 この場で菜実から背を向けて逃げ出したくなる感情を抑え、絶望がちらつく不安の中に辛くも立っている勇気を支えているものは、菜実を思う気持ちだけだった。二十幾年前の若かりし頃、あの店で、のちに妻になる女による侮辱を含んだ暴言、恫喝から、気の弱さのためにあの母娘を助けられなかったこと。余裕のない自分がそういった人達に出来ることは、美咲のような人間が絶対に持ち得ない心からの優しさを、何かの形で分けて与えたいという思いの下にある愛。利己を利他に変えたいという自分自身への切願。

 エレベーターの中でも手を取り、四階へ上がり、右端の部屋の前に立った。菜実がチャイムを押すと、ロックが開く音がした。菜実が内側開きのドアを開けると、カーテンを閉めた部屋の薄暗さが目に入り、一室からのものと思われる読経がわっと聞こえてきた。

 見渡した限りでは、部屋は4LDKのようで、読経は面して西側の室から聞こえていた。村瀬は無宗教者の上、無神論、唯物論に近い考えを持つが、母方の祖母が浄土真宗の檀家だったため、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の違いについては多少知っている。

 部屋から聞こえる経には創作が臭っており、それを唱えている複数人の男女の声も、経を読み慣れていない者の感じがする。音程のずれた幼児達の合唱を思わせた。

 菜実の後に続いて進む渡り廊下に、老人が立っている。老人は白のYシャツに黒のネクタイ、黒のスラックスという姿だが、白髪で薄い髪の頭頂部から血が流れて目にまで滴っており、顔の半分が青く腫れ、口許にも血が滲み出ていた。Yシャツにも点々と血が飛び散っている。間違いなく、暴行を受けた跡だった。

 リビングに面した部屋には二点ほどの絵画、人物の写真が掛けられ、応接セットが設置され、一人の男が座り、別の二人の男が隣と脇を固めていた。ソファに座っているのは、黒の僧帽を被り、黒のネクタイスーツ姿で、黒縁の眼鏡をかけた、四十過ぎの年齢恰好をした男だった。その隣には、小柄で貧相な男が立っているが、ベランダ側にいるのは、中背でシャツ腰にも筋肉膨れが分かる体をした、刈り込んだ短髪の男だ。この二人は僧帽を被っていない。村瀬の目は、まずその男に引きつけられたが、抜けるように白い肌の顔にある切れ長の目、端が吊った赤い唇、不逞に尖った口吻部の人相が、いかにも好戦的な喧嘩好きの感じがする。

「村瀬様とお聞きしております。お忙しいところよくぞいらっしゃいまして、誠にありがとうございます」うやうやしく言った僧帽の男の背後の壁高くに、木製の額縁に入った大きな人物近影の写真が部屋を睥睨するように掲げられている。高価なスーツにネクタイを締めた、金色の長い阿闍梨帽を被った男が数珠を手に合掌している。

 村瀬は目を剥いた。写真の男の三白眼の目、上を向いた円形の鼻孔と薄い唇、丸い輪郭。それら人相が、これがトヨニイの身を助けることになるかも、と言って義毅が置いていった古いニュース映像に映っていた、児童殺害犯である金沢直人のものと、違う所が一つもない。

 この男は、金沢だ。確信した村瀬の胸に恐怖が涌いた。自分の犯した罪ばかりか、逮捕の意味さえ分からない男が、今、カルトの枠さえ超えている危険団体の教祖をやっている。それがどういうことかと考えた時に浮かび上がるのは、忌まわしい構図だ。

 軽度知的の境界寄りか境界線の知的寄りは分からないが、どこからどう見ても健常の人間ではない金沢を、宗教を隠れ蓑にするこの組織が囲い込んで、教祖に祀り上げて利用しているのだ。それは普通の判断力、抗弁力がないこの男に、罪を全て押しつけるためだが、彼の財産も組織が差し押さえていることだろう。

 だが、今は金沢に同情している余裕などはない。

「どうぞ、こちらへお掛け下さい。お茶とコーヒー、どちらがよろしいですか? 紅茶もございますが」「いや、いいです」村瀬が顔の前で小さく手を振って小声で断った時、男の前に並んで二つ置かれた高級椅子の一つに菜実が座った。

「そうですか。では、せめてお座り下さい。せっかくご縁があってこちらにいらしていただいたのですから、私どもで尊教と呼びます、素晴らしい御教えと、本会の開祖であらせられるこちら、金沢聖(ひじり)大法裁様がお作りになった実績について説明させていただきますので」眼鏡の男は言って、壁に掲げられた金沢の近影を手で指した。

「私はこういう者です」すぐにさっと立てるように浅く椅子に座った村瀬に、男は名刺を差し出し、村瀬は受け取った。名刺には、「宗教社団 尊教純法 広報部主任 峰山克明」とある。

「一昨年に立ち上げたばかりですが、私どもで法徒と呼ぶ会員も順調に増えて御教えもだいぶ広まり、宗教法人格の取得も近いという段階に来ております」

 慇懃だが、基本的に他人を見下していることが分かる顔と口調だった。机の上には、捺印欄のある入信誓約書が、まだ村瀬の同意も取りつけていないというのに置かれている。パンフレットなどはない。もしも誰かが警察に駆け込んだ場合、それで足がつくからだろう。自分の意志で開催会場に出向くように仕向け、クーリングオフの対象外にするなど、消費者センターへの対策も抜け目なく考え抜かれている。

 渡り廊下向こうのドアにはストッパーが掛けられ、半開きの上体になっているが、それが監禁罪対策であることが村瀬にも分かる。

 ここにいる者達の分担された役割がおおかた分かった。頭から血を流し、顔に傷と痣の殴打の跡がある老人は、テーブルの下座に立ち、悲しみの籠った陰鬱な視線を下に向けているが、この男はお茶汲みなどに使われる立場だ。小柄な男は、どこかルサンチマン染みた狂気を目に込めて、村瀬の背後の空間を見つめながら立っており、村瀬が入ってすぐに注視の目を引かれた獰とした男は、ベランダ前から油断のない監視の目を村瀬に送り続けている。

「本会の成り立ちと、今後の展望について説明させていただきます」峰山は人を小馬鹿にした笑みを浮かべ、話を振り出した。

「尊教純法開祖である金沢大法裁様は、昭和四十ⅹ年、国際商社にお勤めになっていたお父様、外語講師をされていたお母様の間にお生まれになりました。下には妹様がいらっしゃいます。十五歳になるお頃まで、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギーを股にかけて生活され、そのために外語に堪能で、幼少時から学術、絵画、彫刻、音楽などの芸術に神童ぶりを発揮されていて、その後帰国された日本では日本有数の進学校の高校から二ツ橋大学法学部に現役合格、バブル経済の絶頂期でありました当時の世の中の風俗的、倫理的な乱れを痛切にお感じになって、この世相を正すには何をすべきかとお考えになって、仏教、キリスト教の教義の基本、教えの実用というものを突き詰められ、お父様と同じく商社にお勤めになりながら研究、研鑽を積まれ、部長職にまで昇進されながらも惜しまれつつ退職、一昨年に、ともに宗教の救いを学んだ同志の何名かと一緒に本会を設立されました」

 笑わせる。この男が有名四大の法学部に在籍していたとされる頃は、罪のない子供を殺して刑務所に服役している。この豚の顔をした五十男に、外国で暮らし、知性を育むような環境など望んでも望むべくもない。

「私どもの活動理念は、心の正しい男性、女性には良きご縁を、そのあたりではまだ成長段階にある方には神仏の慈愛に基づいた教育を供給して、反倫理的な交際、婚姻の関係にある男女を清い道へとお導きすることにあります。これを本会では、お繋ぎ、と言います。こちらの池内菜実さんは、金沢大法裁様から、兎、忠犬、獅子、孔雀、鳳凰のうち、最高位である鳳凰の位を授けられた会員、法徒でありまして、今回こうして池内さんと村瀬様のご縁が繋がったことは、大法裁様が修行の結果にその存在をお知りになり、お繋がりになった、宇宙の中心から生きとし生ける者全てを見守っておられる大本尊様がお与え下さった素晴らしい奇跡です」峰山は聞き慣れない言葉をひけらかすように織り交ぜながら、教義の説明をした。

 分かりやすい、と村瀬は思ったが、それは峰山が半ば陶酔して語る、この陳腐な教義についてだけではない。

 その大本尊とかが存在するとかの説得力的なものは、実はどうでもいい。村瀬が少年の時間を送っていた三昔前の新宗教ブームの時は、こういう連中は祟りや裁き、終末、破滅、地獄へ堕ちる、などという言葉を巧みに使い分け、人の不安につけ入って脅し、幸せを呼ぶ、または霊の怒りを収めると称する壷や掛軸、先生の念が入魂されているなどという触れ込みのペンダントや数珠を売りつけ、しこたま儲けた。あの頃の狙い目は主に、大事にされすぎて育ったために疑いというものを知らない若い男女、悩みのあまりに判断力の揺らいだ主婦達だった。それが今のつけ入りどころは、加齢、老いの寂寥だ。それは三昔半前の広告代理店による「楽しんだ者勝ち」の宣伝、安易な規制緩和によって林立していったアウトソーシング業が生み出した功罪だ。その流れの中で、一人の異性にももてることなく、いつかは年少の綺麗な相手と出逢い、満ち足りた幸せな暮らしを手に入れたいと、現在の孤独の原因を整理、反省もすることなく、いくら渇望しても得られないものを求めながら老い、看取る人もなく一人で死亡、無縁墓地送りになる見通ししか持てない者が溢れている。そういう人達からすれば、峰山が述べた教義の蘊蓄も、最後にすがる藁となり得る。

 それを思った村瀬は、気づけそうで気づけずにいた重大なことに気がついた。高齢独身者の問題には、福祉からこぼれ落ちた障害者の問題が隠されていること、そこで峰山ら純法は、そうした人々を、教団を実質的に回す者達に金を引く鴨としているということだ。現に、金沢と菜実を利用している。それと山田月子、ゆきのような女も。つまり、この連中は主として、先天、後天問わず知的に平均域にない人間達を狙い、利用して金を蓄え、勢力拡大の基盤を調えているところなのだ。何よりも、こうした人達が、観念的なものにすがりがちな傾向にあることが一番の好都合だ。

「質問があります」村瀬が鋭く切り返した。

「どうぞ、何なりと。これからの村瀬様と池内さんの幸せな前途、大法裁様のご加護の下に作らせていただくお手伝いが出来るのであれば」峰山は言い、狡賢い笑いをその顔にへばりつかせた。他人を陥れることに愉悦を感じる人間がよく浮かべる笑顔だった。眼鏡の奥の目に、人を馬鹿にしきった光が見える。

「私は宗教を否定も肯定もしませんが、お話を聞く限りでは、お救いすると言う対象の枠が狭いように思えます。昨今年の社会情勢や、日本社会が抱えている問題については、尊教純法ではどうお考えなのですか」村瀬の声の背後には、調子のずれた読経が流れ続けているが、時折それに叱責らしい声が混じり出している。

「世の中が抱える問題は時代によって違います。でも、当たり前ですが、世の中には、様々な理由や事情を背負って、いつ終わるかも分からない悲しみや苦しみの中にいる人が、日本の内外にたくさんいます。戦争の難民もいれば、災害で家族や家を失って、今も仮設住宅で苦しい生活をしている人達もいます。いじめや差別に遭って苦しむ人、借金を抱えてひもじい暮らしをして、子供の給食費も払えない人、普通にご飯が食べられない子供もいます。難病の患者もいます。ひいては、支援の放置や虐待を受けている、高齢者、障害者の人達や、若くして、いや、まだ幼いと言っていい年齢で、難病や障害を抱える親のケアに追われて、勉強の時間を設けることも、子供らしく遊ぶ時間さえもない子供達や若者達もいます。ご存知でしょうが、それがいわゆるヤングケアラーです」

 村瀬の言葉に、老人がぴくりと反応したように村瀬を見た。菜実も隣の村瀬を振り返って見たことが分かった。村瀬を見る老人の目は、助けを求めてすがるそれだった。

「あの、それはですね」峰山は、村瀬の態度に驚き戸惑った様子から相好を作り直した。

「元を手繰れば、それらの問題を解決する糸口は男女の和合にあるという考え方が、本会のバックボーンとなっております。それをあまねく社会に啓蒙して、ひいては差別も争いもない、先ほど村瀬様が仰せられたように、虐待などもない世界を建設していこうということが、大本尊様の御心であって、大法裁様の信念です」

 峰山がそこまで言った時、読経の声が消え入るように止んだ。「村瀬様と池内さんが繋がったことも、本日、この支部で村瀬様と私が出逢えたことも、大本尊様のご願力によって成された、ありがたい奇跡ですよ。ですので、これは是非‥」

 その時、一室から響いてきた男の怒号の方向へ村瀬は顔を向けた。

「何だ、その照経は! 大法裁様を敬う心が全然籠ってないじゃないか! 土屋! 貴様、導師でありながらその有様は何だ! よくも尊い照経の場を汚しやがったな! 歯を食いしばれ!」抜けるように高い壮年の男の怒声に続いて、どかどかと床を走り踏む音がし、人が人の頬を叩く乾いた音と、どかっと人体を蹴る音が聞こえてきた。

 殴打音と蹴りの音は連続して聞こえ、老いた女の悲鳴と、ごめんなさい、赦して下さい、必ず心を入れ替えますから! という懇願が音に交わった。

 その音声と、想像がつく部屋の中の様相に、村瀬の心が動くことはなかった。分かりきった「こういうもの」の域から出ることのない出来事に過ぎない。

 読経を監督していたと見る男による制裁の音と声が聞こえている間も、峰山は勧誘の文言を村瀬に説いていた。村瀬はそれの聞き取りをスルーしたが、この時点でお断りというのは、大本尊様がお定めになった重い罪に、という部分は聞き取れた。同時に峰山が、入信の誓約書を指で押して進めてきた。

「多くの人を幸せに導いた実績を大法裁様がお認めになった法徒の方には、お布施返しという、大法裁様直々の報酬もございます」峰山が言った時、村瀬が椅子から立った。

「入信の強要ですね。こんなものに、私は署名も捺印もしません。拇印も捺しません」ぴしゃりと言った村瀬を見る峰山の表情から、潮が引くように笑いが消えていく。ベランダ前の男と、小柄な男が気色ばむのが分かった。

「憲法で定められている通り、誰が何を信じようが自由です。だけど、威圧やお金で人の心に立ち入ろうとすることは、権利の侵害です。そのお布施返しっていうのは、貧しくて寂しい人達から、脅迫づくで巻き上げたお金が財源じゃないんですか。そんなお金でいい思いをする気なんか、私はさらさらありません。第一、人を集めるのに、どうして正体を隠して、あんな手繋ぎなんてものを開く必要があるんですか。本当に差別も争いも虐待もない世界を作れるという自信をお持ちなら、正体を隠して、あんな手繋ぎなんて看板を出す必要はどこにもないはずですよ」峰山の顔からは、完全に笑いが消えていた。それが徐々に憤然としたものになった。

「ありがたい奇跡とかいうもの以前に、人間としての当たり前の倫理観、良心があるなら、彼女のような人を利用するのはやめたらどうですか!」菜実を手で指した村瀬のありったけの喝に、峰山が首をすくめる態度を見せた。

「宗教に詳しくない人間なりに言わせてもらいます。人を理解して、深い無条件の愛を、ありとあらゆる人に普く注ぐのが、本当の宗教の在り方です。それが信者の心に安らぎを作るのが、本当の信仰ですよ。ここには、それがありません。あるのは、私利私欲のための利用だけじゃないですか!」

 村瀬が言った時、読経の部屋からまた怒声が聞こえた。お前みたいな尊教流布の不覚悟者など死ね! 死ななきゃ俺が殺すぞ! 今、ここで殺してやろうか! と聞き取れた。それに続いて、先のものよりも激しい折檻の音と、赦して下さい! という懇願が聞こえ始めた。

「菜実ちゃん、行くよ」村瀬は菜実の腕を取って、椅子から腰を離させた。それに抵抗する力は伝わってこなかった。

 別室からは、また素人丸出しの読経が聞こえ始めていた。
 菜実の腕を持ち、玄関へ数歩走った村瀬の前に、二人の男が回り込んで退路を断たんとした。

「どいて下さい。帰ります」やくざ者然とした男を背後に立つ小柄で痩せた男が、村瀬の言葉に興奮を露わにした。男は言葉にならない奇声を上げて、村瀬の襟を目がけて掴みかかった。村瀬は大きく円を描くようにして男の両手を捌き、腰を入れて顎に掌底を当てた。男は踵を滑らせて、面白いまでに見事に床にひっくり返った。この男が素人であることは一目瞭然だった。

 その時、頬骨に重い痛みを覚え、村瀬の体が傾いだ。風圧とともに来た第二撃のパンチは、体を肩ごと倒してよけた。
 横幅のある短髪の男が、機先を制した攻撃を仕掛けてきた。

 瞬く速さで、開掌の男の右腕が村瀬の頭部に伸びてきた。髪を掴まれる。思った村瀬はとっさの体捌きでそれをかわした。
 次に、村瀬の鼻柱に狙いを定めたストレートが重く唸った。体重の乗った攻撃だった。村瀬は腰を入れて脚を踏みしばりながら、手刀受けでそれを捌いた。

 相手の隙を探さなくてはいけない。だが、この男は「攻撃を最大の防御」とする、力で押すタイプの喧嘩屋だ。おそらく、掴んで固定し、相手を掴んで執拗な殴りを入れ、蹴りで留めを刺すやり方で、これまで数々の修羅場をしのいできたのだろう。

 受け、捌きだけでは、こうしているうちに決定的な一撃を入れられてしまう。この男をどうにかしない限り、菜実ともどもここからは出られない。

 下から掬い上げる左フックが村瀬の顎を目がけて振り出された。村瀬はスウェーのように上体を反らし、それを避けた。そのフックをかわされた男は間一髪で、上から打ち下ろすような右フックのパンチを、村瀬の顔面に放ってきた。

 かん、と食らった。足許が怪しくなり、意識が遠のく感覚を覚えた。それでも立っていられるのは、昔に教わった立ち方のお陰だ。

 体を傾かせた村瀬の襟首に、男の手が伸びてくる。片方の手は拳を握り、殴りを準備している。

 その時、村瀬が腰の後ろへ手をやったのは、本能に准じた動きだったか。硬く、丸みを帯びた物を村瀬の手が掴んでいた。それが自分の顔の脇から突き出された時、一本の傘だということが分かった。紺色をした雨傘だった。

 傘の石突が、男の左目に突き刺さっていた。男が高く呻いて、筋肉質の体を反り返らせた。

 石突が刺さったままの男の目から、穴の開いた酒樽を思わせる勢いで血が流れだし、白シャツを赤く汚していった。村瀬が傘の柄から手を離すと、石突が男の目から抜け、傘は床に落ちた。

 男は体を震わせて、反った体を膝から崩し、顔の片面を手で覆って、仰向けに倒れた。口からは異様な呻きが上がり、指の間からとめどなく鮮血がこんこんと流れ出している。

 自分が行ったことの重大さに愕然とし、立ち尽くしている場合ではないと、村瀬は判断した。菜実は村瀬の後ろで、泣きそうな顔で立っている。

 幼稚園の時分から、暴力の類いは一方的に振われる側だった。過去に通っていたファミリー健康空手教室の稽古メニューに、組手はなかった。生きた人間を相手に戦ったのは、これが生涯の初陣ということになる。

 勝利の快感は覚えていない。目の前の光景の凄惨さだけが、村瀬の胸に禍々しく、暗く響いているばかりだった。

 村瀬に掌底打ちで転倒させられた小さな男は、座り込んだきり立ち上がろうとしない。目にははっきりとした怯えがある。

 読経はしんと止み、それを響かせていた部屋から、三名ほどの中高年の男女が、驚きと不安を刻んだ顔を出して見ていた。顔に殴打の跡がある老人は、なす術もないという思いを面持ちに刻んで立っている。

「貴様!」石突で片目を潰された男の低い呻き声と、床の上で体をのたうたせる音に、渡り廊下に立つ峰山の甲高い声が重なった。

「このままで済むと思うな! 貴様は今日、大本尊様のお怒りに触れたんだ! 大法裁様の法力で、貴様を生きながらの無間地獄へ堕としてやる! 畳の上で死ねると思うな!」

 峰山は顔を汗で光らせ、村瀬に人差し指を突きつけて喚いた。村瀬が二歩、足を進めて近づこうとすると、峰山は女々しい悲鳴を喉から張り上げてどたどたと後退し、足をもつれさせて尻から転がった。

 菜実の手首を取って、非常階段を駆け降り、初富の街へ出た。とにかく、一秒でも早く遠くへ逃れなくてはいけない。

 喧嘩慣れした男は傘で倒した。小男は、たった一発の掌底打ちで怯えきって戦意をなくした。峰山を殴って気絶させておけばよかったと思った。そうすれば、気絶から覚めるまでに、遠くへ逃げる時間を稼げたのだと後悔した。創作の経を読み上げていた者達などは誰も、何も出来ないことだろう。

 峰山がこれから連絡を回す。村瀬は純法の商品を持ち逃げしたことになる。一時的にでも遠くへ行くしかない。そのあとは、縁を切らせるために、自分が何とかする。資源を使い、場合によっては、先のように体を張っても。村瀬は自分の眦が決まっているのを感じながら、菜実を引いて走った。
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

BODY SWAP

廣瀬純七
大衆娯楽
ある日突然に体が入れ替わった純と拓也の話

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