手繋ぎ蝶

楠丸

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15章

~しゃれこうべの目~

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「不味いね。いつもと全然変わらない。一体何を考えてるの?」食卓には、小松菜のお浸し、じゃこの載った大根おろし、焼き鯖、ゆかりご飯と、わかめの味噌汁が並んでいる。「うちの味つけは、この家に入った時にあれほど教えたでしょう? 困るのよ。お前が育った品位が低い家の味なんかをうちに持ち込まれたらさ。味噌の分量も、魚の焼き加減も、こんな風にしろって、私が教えた?」

 これ見よがしにしかめた顔で副菜をつまみ、味噌汁を啜る姑の嫌味は、今日はいつもに増して激しい。白のYシャツにネクタイを締めた夫は上座で、母親に同調するような顔色で、妻の作った和食の朝食をつまんでいる。

 十三年前にまどかがこの家に嫁いできた時から変わらない、いつもと同じ朝だった。この姑にとり、一人息子も息子の嫁も、自分が県内、都内に保有する計数千坪の土地と同じ所有物で、偏愛するのも侮辱するのも、自分の勝手だ。この家の主人はまどかがここに入る前に車の事故で死んでおり、その際に妻である姑が、名義変更の上で夫の土地を継いだのだ。

「感謝ってものが感じられないよ。お前みたいな、他に嫁の行き手がない女をうちの嫁にもらってやっただけでもありがたいと思って尽くさなきゃ。パンツの洗い方だって、あれほど私が教えたやり方、無視してるよね。何の意図があってやってることなの? この子は、来年に市議選に出馬するのよ。お前がしっかり立てて支えてやらなくてどうするのよ」

 姑の君津勝子が言うことのまま、夫の君津俊彦は、すでに供託金を納め、立候補の準備に入っている。政策ビジョンの第一には「教育環境の充実」を挙げている。

 俊彦は五十後半で、まどかとは二十数歳の年齢差がある。二人の間には子供はいないが、勝子は俊彦の妹の子供である孫に満足しているため、これまで子供を作れというプレッシャーをかけてくることはなかった。夫の職業は学習塾のオーナーで、市内に二軒の塾を持ち、六段の腕前を誇る剣道家でもある。塾では自ら教壇に立ち、また、講師達を指導し、かたわら、体育館を借り切った剣道教室で師範代をしている。そのかたわら、教育指南の著書も過去に二冊出版している。

 体力、身体能力と勉強の出来には優れるが、家の経済的優位と、六十前の息子とべったりとした関係を保ち続ける母親による積齢というものを弁えない愛情を享受して、それに甘えたままのこの男の下に、まどかがこの家の従順な嫁、義理の娘として事実上身柄を売却された事情には、幼い頃に突如襲った出来事があった。それこそが彼女から普通の外見と、女としての平凡な幸せも奪取したものだった。

 まどかの父親は薬局やガソリンスタンド、喫茶店を経営、夫婦でそれを切り盛りするやり手の商売人だった。だが、ある深夜、商売仇の雇ったごろつきが、一家の住む家にガソリンを撒いて火を点けた。

 その火事は家を全焼させ、母親と同居の祖父母、まだ乳児だった妹の命、命を取り留めた父親とまどかから尋常の外観を奪った。父親は頭髪を失い、目が変形し、耳の耳朶が焼け落ち、唇が倍以上に膨らんだ顔になった。まどかは幼くして顔と体の半分が溶けた見た目になった。

 教唆犯、実行犯ともに逮捕されたが、それはまどか父娘にとっての溜飲のようなものにはならなかった。父親は仕事への意欲を失い、所有していた店舗の経営権を他人に売り渡し、娘とともに移った借家で朝から酒を浴びる暮らしを送るようになった。降りた保険金類はみんな酒と、パチンコ、競馬、競輪、競艇、オートレースなどのギャンブル代に費やされることになった。

 まどかは小、中学校では「被爆亡霊」という仇名を陰からつけられ、主に無視のいじめを受けたが、不登校になることもなくこつこつと勉強に励みながら、精一杯父親を支えた。十代に成長してからは、顔の半分を伸ばした前髪で隠し、ファミリーレストランのホール係の仕事をしながら、親類の援助で進学した定時制高校で学んだ。その間、まどかに寄り着く男子はいなかった。まどかの人目前に出ている部分は美しいが、その「顔半分」はふとしたことから知れ渡っており、その赤紫色の皮膚、焼けた魚の目のような眼球、顎骨が剥き出しになった口から唾液が流れ出す顔に、男子生徒達がみんな尻込みしたからだ。それでも、まどかを色眼鏡で見ることなく優しくしてくれた数少ない人達の存在もあり、彼女は人間不信になることもなく、まっすぐで勤勉な心を保ち続けた。その間、身体障害者手帳も取得した。

 君津の家に嫁ぐ話がまどかの許に来たのは、彼女が定時制高校を卒業し、社会福祉士の養成所に通い、その勉強に勤しんでいた頃だった。塾の講師をしている年長の男で独身、母親が土地のオーナーをしていて金はある。その家が、息子の配偶者を報酬づくで求めている。もしもお前がそこへ嫁いでくれたら、百万円の礼金と、月々に二十五万円の月報酬がもらえる。頼む、と言って、父親は泣きながらまどかに土下座した。その頃、下りた金はすでに使い果たしており、兄弟からのわずかな援助も自分の慰み代に充てており、借家の家賃、光熱費は何ヶ月分と溜まり、消費者金融会社や銀行カードローンからの督促状も唸るほど来ていた。

 まどかはそれを数週間考えたのちに承諾した。承諾へ踏み切らせた動機は、父親へのひたすらな憐みと情だけだった。この要請を断ることは父親を切り捨てること、と、その時の心が認識したからだった。

 その時、まどかは二十歳だった。社会や世の中のことは手探りで知ろうとしていた。だが、金で嫁を募るような二十以上年上の男と送る結婚生活がどんな様相のものかはいくらか想像がついており、覚悟も据えていた。

 都内の高級ホテルで大袈裟な演出の結婚式を挙げてから、姑同伴の上、姑と息子だけで盛り上がっていた熱海への新婚旅行、それからは三人分の朝食を作って食べてから市役所、日によっては母子福祉施設へ出勤、疲れて帰ってくれば姑からは長い嫌味、夫からは怒鳴られ、その夫が、ただ仕事への不満の代用満足を求めてくるような営みがある夜。その不満をただ受けるだけのセックスに、まどかは一度も喜びを感じたことはなかった。夫は子供を作りたがらなかった。勤務する学習塾や師範を勤める剣道教室で、小学生から高校生の子供達に父親風を吹かせるのは愉悦だが、自分が子を持ってそれを育てることなどは煩わしいようだった。

 父親は娘の身柄を販ぐことで手にした金で、変わらず酒とギャンブルの放蕩を続け、それがもたらした病気で死んだ。行きつけの居酒屋で酒を飲んでいたところで大量に吐血し、救急車に担ぎ込まれたが、病院に着く前に、救急車の中で帰らぬ人になった。

 葬式は出さなかった。娘一人を除く家族を商売仇の悪意で亡くし、自分も娘ともども普通の容姿を失ったショックから自堕落な人間になり果てて以来、それまでついていた人がみんな去り、兄弟筋からも見放され、その死を悼む人がいなかったからだ。それに従業員の引き抜きなど、あざとく強引な手法で自らの商売を行っていたため、元々人の好意を得られていなかったということもあった。

 支援機関と連帯し、知的な所、精神や身体、または環境上のハンデを持つ人を支援に繋げていく社会福祉士の仕事を行う中で、まどかは一つの哲学を貫いてきた。周りの誰もがどうにも手がつけられない状態の世帯には障害が隠れ、世間の怒りを一心に浴びる事件の裏には、「生まれ持った愚」の問題がある。その愚によって、罪のない人が死に追いやられたり、一生消えることのない傷を負うことが、悪質、もしくは残虐な悪事の本質と見ている。

 手早い愚者の救済。これこそが、私が社福士として働く間に一件でも多く成さなければならないこと、と心得て、数々の困難事例に立ち合ってきた。失敗の形になったケースも少なくなかった。だが、一度や二度の失敗で諦めはしない。それがまどかの揺るがない信念だ。関わるケースの中には、脱法、触法、人道上の罪の履歴を抱える者も少なからずいる。一度犯した罪は消えない。だが、償いを決意させることで、ソーシャル・インクルージョンの輪の中へ導くことが出来る。

「十三年前にうちに来た時から、お前は全然変わってない。社会福祉士なんて、いっちょ前に世間様の聞こえがいい仕事やってりゃ許されるってもんじゃないんだよ。ねえ、聞いてる? 俊彦君の市議選の出馬は来年に迫ってるのよ。そんな時に雑な家仕事ばっかりして、一体何考えてるの? 俊彦君が落選すればいいとかって思って、わざと私の言うことを無視するような家事をやってるの? お前みたいな気持ち悪い女が俊彦君の嫁になって、十何年もここに置いてもらえるなんてことは、本来あり得ないんだよ。ただでさえ定時制の高校ぐらいしか出られなかったのろまで、見た目も気持ち悪い化け物なんだから、しっかり俊彦君に仕えるぐらいのことはしなさいよ。この家は校長先生だって出てる血筋なんだよ。世間体が悪いったらありゃしないわよ」勝子は朝食を不味そうに食べながら、まどかを責め立てた。夫の俊彦はそれに口を挟むこともなく、黙々と食べているだけだが、面白くないものを噛んでいる不満の色が表情に出ている。

 その時、まどかが意を決した顔をして箸と茶碗をとんと置き、勝子と俊彦がその態度に不審の目を向けた。

「何? 何か言いたいことがあるの?」勝子が食事の手を止めて言うと、まどかはふた呼吸して唇を開いた。

「私の作るご飯が不味いと言うなら、今後は安心して下さい。今並んでいるのが、ここで私が作った最後のご飯です。これからはウーパーデリシャスでもコンビニの食べ物でも何でも、これまでよりもましなご飯を好きなように食べるのがいいと思います」「え? 何?」

 ぴんと背筋を伸ばして、これまで見せたことのない態度、宣言をしたまどかに、勝子だけでなく、俊彦も驚きを隠せない顔になっていた。

「私はここを去ります。言いつけに従ってお義母さんのお眼鏡通りにパンツを洗う新しい奥さんなど、その他、そのあとのことはご自分達でお考えになって下さい」「何の冗談でそんなことを言ってるの?」「私の言ってることが冗談でも何でもないことを証明する人が、今来ます」

「君津」の木札が掛かった、瓦屋根の、大きな門構えの和屋敷前に黒のソアラがすっと停まった。エンジンを止め、降り立った義毅は、手に紫の風呂敷を提げている。石段をステップ軽やかにほいほいと上がった義毅がチャイムのボタンを押してから返答があるまで、少しの時間があった。

 はい、という応答が遅れて返ってきた。「おはようございます、荒川と申します。そちらさんが土地をお持ちになってると聞きまして、ちょっとした商談のようなものをしに覗ったんですが。実はですね、そちらのお嫁さんのまどかさんと懇意にしている者でして」「懇意って何ですか? まどかはうちの息子の妻ですよ!」「まあ、とりあえず開けて下さいよ。学習塾を経営されてる息子さん、来年出馬でしょう? 話の運びによっちゃ、そのあたりで、息子さんの立候補が有利に働くかもしれないですよ。もっとも私の話をちゃんとお聞きになれば、ですがね」「お金が目当てですね。そういう類いの人は、主人が亡くなって、私が土地を相続してからたくさん来ました。お帰りいただけますでしょうか。帰らないと警察を呼びます」ドアホンの向こうから勝子が言った時、義毅は喉を鳴らして低く笑い、手に提げた風呂敷の包みを見た。

「どうぞ、警視総監でも検事総長でも何でもお呼びになって下さい。不退去なんてションベンも同じですから。実は、警察なんぞに介入されたら、そちらさんのほうが大いに困ることになる物を、今日、私は持ってきてるんですよ」「何だか知りませんけど、そんな物に覚えはありません。迷惑です。帰って下さい」「だから、私がこのまま帰ったら、あなた方が困ることになるんですよ。どうですか。そちら次第でどうにでも転ぶ話ですから。お時間は取らせませんよ」

 疚しいことを突かれたという風に応対する勝子の後ろを、席を立ったまどかがすり抜けた。「何やってるの! 開けるんじゃないよ、馬鹿!」ドアの鍵を開けるまどかに勝子がむしゃぶりついたが、まどかは構わず開けた。

 風呂敷を提げた一人の男の姿が現れた。勝子の後ろからは、不安げな顔の俊彦が顔を覗かせている。

 ブーツを脱いだ義毅は、風呂敷を手に廊下を渡ってリビングへ進んだ。後ろにまどかが続いた。

「君津俊彦さんだね」義毅が問うと、目一杯の不安を顔に刻んだ俊彦が、立ち尽くしたまま小さく頷いた。

「剣道式最強エリートの育成法。あんたの著書だ。古本落ちしてるのをちょっくら読ませてもらったよ。呼吸を読む。それで敵の足許をすくう。それで蹴落とす。それがあんたが考える出世の方法か。楽しみだな。そんな考えに凝り固まってるあんたが、市政でどんな辣腕を振るうかがな。俺はいいぜ。一票入れてやってもさ」義毅が足を進めて寄ると、俊彦は後ずさった。

「帰れ、このチンピラ!」ヒステリックな声を張り上げた勝子が、義毅の肩に拳の小指側を打ちつけるようにしてぽかぽかと殴りかかった。義毅がそれを軽く払うと、勝子は小さな悲鳴とともに尻餅をついた。

 義毅はテーブル中央に置かれている花瓶をシンクに移し、そこに風呂敷の包みを載せた。「これを見ちゃもらえねえかな」さらっと言って、風呂敷の結びをちゃちゃ、と解き始めた。俊彦はへなりと立ち、勝子はテーブルの縁に手を着いて立ち上がりながら息を吞んでいる。風呂敷は、縦に長い白い箱を包んでいた。箱の蓋が開けられると、濁った色をした半円形の物が見えた。

 義毅が両掌に包むようにして箱から出し、ぽんと置いたものは、灰色にくすんだ、顎骨までがついた人間の頭蓋骨だった。サイズとしてはいくらか小さく、骨としてはどこか優しげな面持ちをしている。少女の頭蓋骨、という感じがする。
 勝子が空気を裂く高い号叫をほとばしらせ、俊彦が不安を爆発させたような顔になってのけ反った。

「これが何だか分かるか。骸骨だってことは幼稚園生でも分かるがね。本物だ。何もどっかの理科室からかっぱらってきた標本じゃねえ」

 義毅が指を揃えて伸ばした手で頭蓋骨を指して言うと、勝子がまた尻餅をついた。目と同じく動揺の出た形に開いた口から震える呼吸を漏らす俊彦の顔に、汗が光り始めている。

「本当に覚えがねえっつうんなら、きっちり説明するこった。君津さん、これ、あんたの何だっけ」問う義毅に、俊彦は答えない。まどかは義毅の隣に並んで立ち、事の次第を冷静に据えて見ている。

「じゃ、代わりにこっちから行くぜ」義毅は勝子と俊彦を順繰りに見回した。

「こんな話が乗ってる新聞の縮小版なんて、今さらどこの図書館にも置いてねえ。今から三十二年前、習志野台のアパートで、中年の女がベルトで首を締められて殺されたんだ。着衣の乱れはなかった。逮捕されたのは、別居してた旦那だった。不自然な点がいくつかあったけど、その旦那が黒と見なされて、実刑判決だ。何故なら杜撰な捜査の上、自白を強要、誘導されたからだ。その別居夫婦は二人とも、その頃の言葉で言う知恵遅れ、精神薄弱者だった」義毅の顔と声の色に、かすかな悲しみが滲んだ。

「その夫婦には、娘が一人いた。その娘も知恵遅れだった」

 俊彦の体が強張りを見せた。勝子は座り込んだきりだった。
「その女を殺したのは、君津さん、あんただよな」「何を言ってるんだ! 俺が何でそんなことをやらなくちゃいけないんだ!」俊彦が初めて口を開いた。

「証拠はあるのか! お前が誰だか知らんが、俺がそんなことをやらなくちゃいけない理由はないぞ!」俊彦は顔を汗で濡らしながら、分けて整えたグレーの髪を逆立たせて叫んだ。

「なるほど、周りから頭脳明晰と勘違いされて、おだてられていい気になってやってきたあんたらしい突っ込みだな」「名誉棄損と誣告罪で告訴してやる!」「どうぞ、告訴してくれよ。けど、こっちにも、今言ったことの全概要をあっちゃこっちゃに流す用意はあるぜ」「ふざけるな!」「ふざけちゃいねえさ。この可哀想な女の子のしゃれこうべこそが、動かねえ証拠であって、もう物を言うことのねえ当事者だからな」

 テーブルの頭蓋骨は、四人の生きた人間のやり取りを、どことなく庇いを含んだ眼差しで眺めているように見えた。

「事件の二ヶ月前だったんだよな。その障害者のおばさんから、あんたら親子がその娘を嫁として、三十万の金で買い取ったのは。その娘は、お嫁さんになれるっていうことで飛び上がって喜んでた。お袋さんも喜んだ。娘の結婚を、というよりも、自分が好きなものをたらふく食える金が手に入ったことでな。その女の子を、あんたらは労働力として使い潰して、来る日も来る日もいじめ抜いたんだ。あんたは日常的に暴力も振るってた。そのDⅤで、死なせちまったんだよな、この前妻さんをさ。ここの家筋は、あんたを含めて教育者を何人か輩出してる。遠縁には、地方の大学の学長もいる。あんたの名誉と家柄に傷がつくことを恐れて、こっちの母ちゃんと二人で、風呂場かどっかで死体を解体したんだ。それであっちゃこっちゃに分散して深く埋めたんだ。立地条件上々の土地なのに、三十年以上買手を募ってねえ。もっとたちの悪いのに嗅がれる前に俺が嗅いだってわけだよ、良心からな。いい仕事してくれたよ。知り合いのブリーダーから拝借したシェパードの仔犬がね」「出任せを言うな! でっち上げだ!」怒鳴った俊彦の顔は、泣く恰好に歪んでいる。

「美味いもん食いたさに三十万ぽっちに目をくらませたお袋さんを殺したのは、いなくなった理由を隠し通せねえための口封じだったわけだ。それでその旦那、この女の子の親父に嫌疑がかかって判決が下りた時にゃ、にちゃりと笑って喜んだんじゃねえのか」俊彦は左右に視線を走らせた。

「お袋さんを口無しの死人にして、その旦那に罪をなすりつけることには確かに成功したよな。だけど、意外な証人がいたんだ。それは、この前妻さんが入って生活してた女子寮で、ここに来るまで仲良くしてた女の子だ」義毅が述べると、俊彦の目が丸く見開かれた。

「その子は、手紙をやり取りするために番地を教え合ってたから、ここの住所を知ってた。だけど、ある時から手紙の返事が来なくなったことを、その子なりに不審に思い始めたんだ。それでここを訪ねた。その時は正月時で、あんたは大学で学友だった仲間を集めて、昼飲みして馬鹿騒ぎしてた。沙織ちゃんはどこ行ったの、と訊いたその子を引っ張り込んで、あんたは居合わせた仲間と七、八人がかりで輪姦して、ポラロイドカメラで写真を撮った。その子を犯しながら、酔いの勢いで、あんたは言ったんだな。あれはもう土の中に埋まってるんだよ、俺が埋めたんだよ、ってな。これを誰かに言ったら写真ばら撒くぞって脅すことも忘れなかった。以上のことは、今、船橋の社福がやってる入所で生活してる、その子本人が俺に直接話してくれたことだよ」

 俊彦は奥の部屋に走った。戻ってきた俊彦の手には、黒い柄に鞘の、一振りの備前長船が掴まれている。荒い息を吐きながら、俊彦が鞘を払い、刀身が現れた。俊彦は備前長船を八双に構えた。義毅の目は、その刀身と俊彦の顔を交互に見つめた。体勢は全く動かない。刀身を見ても、顔色も変わらない。

「その刀で俺を斬るのか?」義毅は飄々と問うた。

「太く短く、が俺の人生流儀でね。おむつ着けて徘徊するボケ爺さんになってまで長生きしてえとは思わねえから、やるならばっさり首飛ばしてみろよ。ただし、そいつをやんなら証人も始末しなきゃならねえよ」

 義毅はまどかをさっと指した。まどかの冷静な顔、姿勢もそのままだ。小さく愛らしい頭蓋骨は、静かにテーブルからその様子を見ている。

「洒落込みじゃねえけど、二つもの死体を始末すんのは骨だぜ。風呂場で解体すんのは勝手にやれって話だけど、市議会議員候補の教育者から死刑囚になり果てるってのも世話ねえな。そうなりゃ、集団強姦一件、時効のものを含めた殺人が四件、遺体損壊に遺体遺棄がこれまた四件だぜ、四件。どうするよ、先生」義毅は語尾に小さな笑いを交えた。

 俊彦もつれた足でどたどたと後退し、備前長船の柄を握りしめたまま、壁に背中をつけた。柄を持つ手が緩み、備前長船が床に落ちた。背中が滑り、床に尻が着いた。端を下げた目を四方にさまよわせ、への字に開いた口からは、悲鳴とも嗚咽ともつかない声が漏れている。母親の勝子も座ったままだ。

「いくら欲しいんだ‥」恐ろしいものから目を反らすように目線をそっぽに向けた俊彦が、Yシャツの胸を収縮させながら、咽びの入った声を絞った。

「五つで手ぇ打とうか。そいつは服を買う金じゃねえ」義毅は言い、右手の指を五本立てた。

 菱形に開いた口から、ああ、ああ、と子音を切るような泣き声が上がった。頬には堰を切ったように流れ出た涙が伝っていた。

 モスグリーン色をした義毅の革ジャンパーの懐から、二つ降りされた一枚の紙切れが取り出され、まどかが手を出して受け取った。まどかは受け取った紙を、泣くばかりになった俊彦の足許に置いた。それはすでにまどかの署名がされている離婚届だった。

「ここに署名と捺印をして」まどかは夫の涕泣がいくらか鎮まるのを待って、声を落とした。

「頼む! 赦してくれ!」俊彦はまどかの腰にしがみついた。「お前がいないと俺は駄目なんだ。お袋の目が届かない所をやってくれる女がいないと、俺は困るんだよ。だから、別れるのは思い留まってくれないか。これでもお前のお陰で俺は助かってたんだ。口じゃいろいろ言ったし、良くない態度を取ってしまったこともたくさんあったよ。でも、心じゃお前に感謝してたんだ。本当だ。お前がいなきゃ、来年の市議選で勝って議席入りする自信も持てそうにないんだ。これまでのことがまずかったなら、謝る。だから頼む! 俺を捨てないでくれよ!」俊彦は咽びながら、腰を両手で掴んだまどかの体を揺さぶった。

「お袋も口調はきついけど、お前に向上してほしくて言ってたんだ。理解してくれ」俊彦はまどかの下腹に顔を埋めて啜り泣いた。まどかは体を引いて、すがりつく俊彦を避けたが、彼に注ぐ目に冷たさはなかった。俊彦は両手を挙げた恰好でまどかを見上げた。

「そういうのは確かにあったかもしれないよね。でも、あなたは、自己都合で、罪のない女の人を二人殺めてる。酔って歯止めが利かなくなった欲望に任せて、知的障害者の女の子相手に、最低のレイプまでやった。それを償うでもなく、反省するでもなく、お金に囲まれて今日まで来て、時効も迎えた。私は、あなたが死なせた前の奥さんの穴埋めに、この家に売られてきたの。赦しっていうものは、私とその人達、どっちに求めるべきだと思う?」「まどか! 頼むよ!」「私は父を助けるために、お金で買われてこの家に来た。あなた達の仕打ちにこれまで耐えてきたのは、全て父のためであって、あなた達のためじゃないの。でも、私が支えてきた父はもう死んだ。それからずっと考えて、今日、結論を出したのよ。あなたが今さらそんな風に泣いたって、私がここにいる理由はもうないの」俊彦はより激しい泣き声を上げ、カーペットの上に突っ伏し崩れた。

 義毅が歩いて俊彦の横に移動し、日本刀を遠くへ蹴り遣った。飛んだ備前長船を見る目にはクールな光があった。その光を宿したままの目で振り返り見て、二人のほうへ向き直った。

 前妻のしゃれこうべは、優しい顔のまま佇んでいる。それは長い間埋まっていた冷たく寂しい土の中から、自分を見つけてくれた感謝を伝えているようにも見えた。勝子は足を崩してすわったまま呆然と、泣く息子を見ている。

 俊彦はのろのろと立ち上がると、乱れたグレーの髪もそのままに角の箪笥に寄り、腰をかがめて、引出から印鑑を取り出し、ペン立てからボールペンを一本取った。まどかの置いた離婚届の用紙を、しゃれこうべと朝食が並ぶ食卓まで持っていき、背中を震わせながら名前を書き、捺印した。義毅がそれをひったくるような手つきで取り、まどかに渡した。

 それからまどかはキャリーバッグに下着などの何点かの衣類、生理用品や整容用品、保険証、印鑑など、身の回りの物を詰め込んだ。俊彦はうなだれていた。勝子は立ち上がらなかった。食卓の朝食は冷めてしまっているようだ。

「愚かな人、経済的な貧しさから心までも貧しくなった人の手を取ることが、私の仕事なの」まどかが言うと、俊彦は涙の乾かない顔を上げた。

「あの頃の私が持ってた知恵では、悲しみとトラウマのために愚かになった父のために出来ることは、あれが手一杯だった。今の私があなたのために出来ることは、何の意味もない関係性を終わらせることなの。あなたは私に不満や苛々をぶつけることで、これまで私に甘えてきた。私はそれを受けてきた。これからあなたが甘えられる人は、お母さんだけ。あなたが持ってる塾の社屋だって、家のお金で買ったものだものね。私は今日をもって、あなたの甘え役を降りる。これからは、自分の苛々事は自分で処理するか、せいぜいお母さんに存分にぶつけるのよ。あなたにそれをされることは、むしろお母さんにとって喜びなんじゃないの? だけどお母さんだってもう八十を回ってるわけだから、そう長くは生きないことは間違いないよね。そのあとのことは自分で何とかする知恵を、時には誰かの助けを借りても練っておくことね。社福士の立場からだったら、いつか、どうにもならなくなったあなたを助けることも出来なくはないから」

 沙織という生前名をしていたという、戒名もない頭蓋骨を、義毅は箱と風呂敷に包み直し終えていた。俊彦は立ち、慄く手で、箪笥から出した小切手に数字を書き込んで義毅に渡した。義毅の言った五つ、五百万の金額が書かれている。義毅はにんまりとした顔でそれを受け取って、革ジャンの懐にしまった。

「こんな所に置き去りは可哀想だからな。こっちで、簡易的なりに手厚く葬らせてもらうよ。あばらや大腿はあそこに埋まったまんまになっちまうがね、これは時間の都合上しかたがねえ」消え入るような言葉尻には、憐憫らしいものと一緒に残念そうな響きがあった。

「お世話になりました」まどかは床に尻を着いたきりの義母と、届出書を提出次第、夫でなくなる男に挨拶し、キャリーバッグを引いて玄関へ向かった。その後ろから、据わった目の顔を向けた義毅が続いた。

 キャリーバッグをトランクに納め、まどかを助手席に乗せて走り出したソアラのエンジン音に混じり、「覚えてろ!」という金切り声が聞こえた。バックミラーには、両拳を振り上げて立つ勝子の姿が写っていた。ソアラは滝不動から、296号の方面へと走り出した。

 まどかと義毅の馴初めは半年前に始まった。まどかは義母には「同僚と食事をする」と伝えた上、一ヶ月に一回程度の楽しみで、南船橋駅近くのダーツバー「フリーゲール」に通い、カクテルを味わっていた。

 ボリュームほどほどに流れるオールディロックを聴き、もっぱらウイスキーベースのカクテルを傾けながら、自分はほとんどやらないダーツを他の客がやるのを鑑賞するのが楽しみだったが、来るたびに居合わせ、ダーツの矢をいつも百発百中で的の中心に当て、豊富な人生経験が覗えるトークでバーテンダーと盛り上がっている、赤い鱈子唇が印象的な三十代の男に、自分から声をかけて意気投合した。それが義毅だった。

 浄水器をネット販売する自営をやっている、と自分の職業を語った際、一般社会から反れたような怪しさも確かに感じたが、自分やバーテンダーと交わす話の内容に、口調こそいささかの悪羅つきが見られながらも、人間的な優しさも感じ取った。そこにまどかは「解放者」を見出した。

 ラインを交換し、はしごでもう一軒行こうとなって、連れ立って店を出た時、人通りの少ないビルの陰で、まどかは前髪をたくし上げて、ケロイドで変形した顔の半分を義毅に見せた。義毅は、そんなものが何だと言わんばかりに笑って、ケロイドの頬にキスをした。まどかが義毅と結ばれたのは、二軒目に入った寿司屋で、義毅がビール、まどかがウイスキーの水割を飲みながら、一つの皿の上寿司を一緒に食べたのちの時間だった。

 限られた時間で逢瀬するうち、まどかは義毅に、自分が嫁として入っている家の実情を話した。義毅はそれとなく、詳しく知りたがり訊いてきた。そこで彼が自分のいる家の財を狙い始めていることがはっきりと分かったが、たとえあなたがそれを全て奪うつもりでも、私はあなたについていく、と、情事のあとでまどかは義毅に言い、義毅は、そんなことは別に俺は、と言って笑った。それから、君がそのオーナー先生と別れたいなら俺が手伝う、と言って、独自に身辺や過去の洗った情報をまどかに話し、今日、決行に運んだのだった。

 沙織の頭蓋骨は、八千代の新川付近の雑木林の奥まった場所に、トランクに携えていたスコップを使って深くに埋めた。埋め終わり、片手でちゃっと拝んで立ち上がった義毅の目に、涙の光が一瞬だけ見えたように思えた。

「出来たかもしれないの」下腹に手を置いたまどかが言った時、車は彼女があらかじめ借りていたウィークリーマンションのある勝田台へ向かい、国道十六号を昇っていた。

 俊彦との間に、もう数年と夜の生活がなかったことは事実としてすでに話し済みだった。

 義毅がアクセルを踏むソアラは、通学バスに続いて宮内歩道橋を潜ったところだった。義毅はまどかの打ち明けにちらりと顔を向け、また前方へ視線を戻した。

「初めて会った時に言った通り、俺は特定の女はめとらねえ主義でね」

 義毅の言葉は、あしらう、または言い捨てる風でもなかった。まどかには言わんと意図することが分かる。

 哀れな父(てて)無し子を作る結婚などは初めからしない、ということだ。

「でも、私、産む‥」まどかが言った時、義毅が頷いたように見えたのは気のせいではないと思えた。カーステレオのFMからは、夜明け前のミルキーウェイ、二人で見ようよ、手をとって‥というJ―POPのウェディングソングのバラードが流れていた。

 まどかはそれを聴き留めながら、しゃれこうべの沙織が自分達の子として来世を設け、生まれてきてくれたら、と願い想った。
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だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

BODY SWAP

廣瀬純七
大衆娯楽
ある日突然に体が入れ替わった純と拓也の話

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