手繋ぎ蝶

楠丸

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17章

~毒蛇~

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 村瀬はダブルデッキのベンチに腰掛け、スマホから「無期懲役、仮釈放」と打ち込んで検索をかけた。出てきたページによると、刑の執行から三十年を経過した時、「仮釈放審理」なるプロセスが始まる、とあった。

 あの霊感師殺害事件のニュースを村瀬が見たのは、娘の恵梨香が乳児の頃だったと記憶する。平日の夕方、ベビーベッドに寝た恵梨香のおむつを、妻に代わって替えている時に流れたのだと思い出した。だとすれば、今から二十年弱前ということになる。孝子が言うには、一般公開なしの審理でスピード判決が下され、それからすぐに母親は刑務所に収監された。だとすれば、仮釈放に向けたプログラムが開始されるのは九年後ということになる。

 菜実の持つ時間の観念は、ゆっくりと、どこか呑気なものだろう。言うなれば同じ陸地のように、過去が未来に繋がっていくという認知は極めて薄いはずだった。仮に九年という時間で母親が仮釈放を得られる可能性を知ったとしても、「すぐ」という「今」を求めてやまないだろう。だから、無知で粗暴な女である叔母に、願いを込めて、純法に体を売り渡した報酬の金を預けていた。それが別の小規模カルト宗教に流れているとも知らずに。弁護士云々は、孝子が吹き込んだものだ。

 それを菜実が納得するように話す術は見つかりそうもなかった。それでも一つ確かに言えることは、その叔母を菜実は怒りも憎みもしないということだ。ただ、母と暮らせる当てを永遠に失ったと思い、どれだけ悲しむか。いや、錯乱してしまうか。

 もし錯乱したら何が起こるだろう。自分の命を、自分が思いついた方法で断ってしまうか。それとも、見境をなくし、行き場のない悲しみ、絶望が矛となって周囲に向くか。

 どちらも、自分が断固として防がなくてはいけない。

 十五時過ぎの柏ダブルデッキには、背面に店名のロゴが描かれた赤いダウンコートを着たコンタクトショップのサンプラー達が高く張る声でチラシを配布している。それを縫って、下校中の、洒落ていたり地味だったりする制服のセンスをした中高生や、冬物を着た男女が行っては去っていく。その風景に特に感慨を覚えることもなく、村瀬はベンチを立った。

 警察へ行き、官法の手に一切を委ねようという決意のようなものが立ったのは、実籾駅を降りた時だった。あの支部での一件では、確かに過剰防衛に問われる可能性が大きい。だが、組織と比べてあまりに小さな立場の一般市民、一般国民であればこそ、遵法的に事を処理するべきだという考えに行き着いた。自分には刑法上の咎が生じ、何かしらのペナルティが課せられるだろうが、そのあとのことはその時に考えればいい。法律事務所もあることだ。菜実をあそこから救い出す手段として、それがベストだ。一人の月給生活者として。弁護士にも連絡し、法的にも自分を守ろう。

 母親の仮釈放への希望については、あと九年待つことを根気強く説明しよう。その時も、そばに自分がいる、一緒にお義母さんを迎えよう、と真摯に伝えよう。思いを胸に満ちさせながら。家に続く路地に入った時、腕時計を見ると、時刻は十七時前だった。ふと仰いだ、焼けた空が村瀬の胸に予期させたものは、血の気配だった。それは角に停まっている、スモークシールドをウインドウに貼った黒のボルボが目に留まったからでもある。

 角を曲がり、家の前に来た。ポストには町会の日帰り旅行参加者を募るチラシと、年金定期便が入っていた。それを持ってアコーディオン門に手を掛けた時、エンジン音を左後ろに聞いた。見ると、急発進したボルボが車体横部を見せて道を塞いでいる。ほぼ同時に、反対の、公園側の路地にボルボと同じ黒のリンカーンコンチネンタルが滑り込んできて、退路を断つように停車した。

 全身の血が凝固したような恐怖を村瀬は覚えた。ボディバッグの中のスマホをまさぐりながら、二台の外車との距離をとっさに計ろうとした。アプリの防犯ブザーを鳴らすつもりだった。手がスマホに触れた時、ボルボのリアドアから二人の男がばらばらと降りてきた。

 間に合わない、と村瀬が判断してボディバッグから手を抜いた時、リンカーンコンチネンタルのスモーク貼りのリアウインドウが下がり、金色の立帽子を被った男の顔の上半分を覗かせた。年齢程は分かりづらいが、眼白が異様な光り方をする奇妙なほどに細く吊り上がった目が、身構えかけている村瀬に粘着質な視線を送っている。人間ではない。爬虫の目だった。

 ボルボから降りた二人の男も、こちらは黒灰色の立帽子を被り、地味な仕立てのスーツという姿だった。顔立ちは凡庸だった。だが、表情のない顔の中に、血を追うような色を光らせた目が、重く鈍い狂気を放っている。だいたい三十代ほどの年齢と見える男は、一人が細長い瘦せ型、もう一人が中背よりも少し低めの身長ながら、四肢と頸が筋肉に包まれている。

 痩せた男がレザーのスラッパーを頭上で振り、小柄な男の右拳には、表面の平たいメリケンサックが嵌められていた。

 スラッパーが、村瀬の顔面に振り下ろされた。自然のうちに前屈の左前構えを取っていた村瀬は、上体を引き、こめかみを狙った第二撃は、体を屈めてかわした。その瞬時、その二撃が誘いのフェイントであることを察知した。察した通り、顔に廻し蹴り加減のキックが来た。村瀬はそれに合わせるようにして、半身を地面に這わせるように伏せ、男の水月に右の足刀を吸い込ませた。互いの脚が交差する形になった。男が顎を突き出し、前転気味に額から倒れていった。

 手からスラッパーを取り落とした男が路面に前頭部を打ちつける音を後ろに聞きながら、その斜め後ろに、隙を伺うように構え、控えていたメリケンサックの男と対峙した。

 男は体を前傾させながら、水平に構えた両拳をゆらゆらと揺らし、顎を引いて、村瀬を睨み据えている。目つけ、姿勢に、先に倒した男以上の慣れが感じられる。一応の空手初段ながら今だによくは知らない格闘技のうちでは、総合、という言葉が思い浮かんだ。

 試されているのか。村瀬の胸に疑念が涌いた。それは後ろで呻いている痩せた男と、目の前のメリケンサックの男の二人が、村瀬を二人がかりで一気呵成に叩き潰そうとしなかったことから浮かんだ疑念だった。

 村瀬は左前構え、男は片手に凶器を嵌めた両拳を揺らし、じりじりと円形に動いて機先を図った。

 村瀬が先に、摺り足でレンジを詰めた。構えは、相手からの攻撃を受ける面積を減らす半身で、右拳を肋、左をこめかみ付近に浮かせたものになっていた。

 男が村瀬から見て彼の右側に移動し、体重の乗った左拳のフックを村瀬の頬に打ち込んできた。メリケンサックの右の準備がある。右がレバーを狙い定めていることも、ほぼ本能的に察した。

 村瀬の体が右傾した。フックが彼の左肩上の空間に載った時、すでに村瀬の右が男の顎を突き上げていた。刹那、反って伸びた男の脚を村瀬は払った。後頭部と背面から落ちていく男の腕を、村瀬は取った。男が後頭部を打って致命傷を負わないようにするための配慮だった。左肩から落ちた男の水月に革靴の踵を叩き込んだ。男は目を剥いて、鼻と口から透明の胃液を溢れさせた。

 その男を放した村瀬は、半身構えのまま残心を取った。路上に伸びた男の手から、メリケンサックが落ちた。

 髪の生え際から汗が滴り落ち、拳の中にも汗が握られている。頭蓋の中に、小刻みな鼓動の音が響いていた。

 自宅前の路上に身を崩して這っている二人の男に残心を配っていると、3メーター横に、ぴしりと地に足を吸わせて立っている人間に気がついた。

 その人間の見た目は、子供だった。村瀬よりも頭二つ低い身の丈と、顔の外見は、少年としか表現のしようがない。だが、まとっているウエアは、黒い襟無しの、薄手の革ジャンパーにグレーのツータックのコットンスラックスに革靴と、子供のものではなかった。サイズはいずれもSのようだが、生地が余ってだぶっとしているように見える。大人の服を着た少年といったところか。平仮名の「の」の字を思わせる形の目が愛らしく、すっと墨を引いたような濃い眉が、幼い印象を一層強調しているが、対象物を静かに射る眼の光と、修羅の経験値を呑んだように凛と締まった口許の顔は児童のものではない。コンマ0・5秒の時間で、村瀬はそれを認識した。

 この男はショートのインファイターだ。判断した村瀬は構えを中段ガードに直し、自分の間合に誘い込む考えを下した。

 幼い見た目の男はそれに呼応したように、両拳を頬の高さに構え、上体を軽く前傾させたセミクラウチの体勢を取って、水面を滑る水すましを思わせる足取りで、するすると村瀬の前に進み出た。

 村瀬はフットステップで後ろと左に移動しながら、自分のパンチとキックを送るための照準を絞ろうとした。膨らんだ鼻孔と「う」の音を発声する形に開いた唇から、何とか整えた腹式呼吸が漏れている。

 レンジが詰まった頃合に、村瀬は男の鼻に正拳を放った。男は軽く半身を捌くだけの動作でそれをかわした。準備していた顎への左の二撃目も、流れるようなスウェーで外された。男の顔に戦闘のさなかの力みはなく、あたかも何でもないことをこなすように落ち着き払っている。焦るな。村瀬は心の中で自分に言い聞かせた。その時、不可視なまでに速いショートレンジのストレートが左一発、右二発の三連打で村瀬の顔面中央に叩きつけられた。村瀬の頭部が、彼が昔にテレビで観たヘヴィ・メタルのコンサートで乗る聴衆のように、前後に激しく弾んだ。村瀬は自分のキーゼルバッハが切れる音を聞いた。それから両鼻孔から生温かいものがどろどろと流れ出すのが分かった。その痛みに、根性を振り絞って耐え、体勢を整えた。

 村瀬の腕が半円を描き、腰を落とし、中指を突き出した「一本拳」を、男のあばらに向けて唸らせた。自分の鼻血が上着のダウンジャケットの袖に散っているのが捉えられた。体重はよく移動していた。男が瞬くようなステップで半歩サイドへ移動したことを村瀬の動体視力が捉えた時、右脇腹から爆発的な衝撃が突き上がり、腰が浮いた。

 村瀬のレバーに男の強烈なショベルフックが抉り込まれていた。次は体が傾いだ村瀬の腹腔を、一瞬のうちに腕を弓の弦のように絞ったボディブローが貫通した。村瀬はたまらず膝から落ちた。横隔膜を打たれて呼吸がままならなくなり、苦悶を面一杯に浮かび上がらせた村瀬の両頬に、雨あられと左右交互のフックが降り注いだ。村瀬はその連打に頭を揺らされながら、自分の頬の肉と骨が立てる音を、頭の中で十七回聴いた。

 この細く小さな体のどこに、このパワーとエネルギーがあるのか。

 跪いた自分の体が斜めの軌道を描いて路面に落ちていくのを感じながら、村瀬は見上げた赤い空にその不可思議を問おうとしていた。かつ、これから身柄をさらわれ、囚われる恐怖と絶望も胸に噛んでいた。

 飛ばされた意識が戻った時、開けた目の下に、ゴムバンドで結束された手首があった。顔を上げると、運転席と助手席、二つのシート、ルーフが目に入った。走行する車のリアシートに自分の身柄がある。顔面にひりひりした痛みと、腹部に吐き気の疼きがあった。

「お目覚めですか‥」左脇から声がかけられた。村瀬は顔を上げ、声のほうを向いた。針のように細い目をした、鼻頭の平らな、全体的に扁平な顔があった。リアウィンドウから顔半分を覗かせ、先の一部始終を監査していた男だった。

 どれだけ眠っていたのか、おそらくリンカーンコンチネンタルであろうその車がどこを走っているのか、見当がつかない。ウインドウの外は暗く、道路標識や、落葉樹らしい木々のシルエットが通り過ぎる。

「まず、手荒なやり方であなたに接触を計ってしまったことは率直にお詫び申し上げます。私はこういう者です」

 金色の僧帽を被り、高級仕立のネクタイスーツの姿、針の目を持つ顔をした男は言い、茶のレザーのハーフコートの懐から名刺ケースを出し、一枚抜いて、村瀬の目の前に提示した。
 宗教社団 尊教純法 人例研究企画部イーストエリア総括マネージャー 李弘、 とある。

「どうぞ、お見知り置きを」李は名刺を、村瀬のボディバッグのチャックをじっと開け、勝手に入れた。陰惨な圧が籠った声だった。たとえれば、臓腑を割る、薄く鋭利な刃物の切れ口を思わせる。

 何分前かは分からなくなっているが、自分の体が覚えていた技術で、武装した人間二人を倒したことは、夢や、記憶の間違いではない。健康づくりを謳い、ほのぼのとした雰囲気の中でスローな練習を行う、殺気というものが全くない空手教室で初段を取得したところで、生きた人間を倒す自信などは到底得てはいなかったが、これは動かざる現実の記憶だ。村瀬が倒した男達は、担がれてボルボに乗せられ、どこかへ運ばれたのだろう。

 勝利の酔い、悲願的なことを達成した喜びは、ない。やむを得ざる力の護身に対し、暴力の報復を行う人間達との関わりを持たなくてはいけなくなったことを、この世の因果律に抗議しながら、これから永遠に目の覚めない世界へ送られるかもしれないという思いに心が震撼していた。

 それでも、その抗議の対象に、菜実の存在は入っていなかった。

 右を見ると、村瀬を超絶的なボクシングテクニックであっという間に昏睡に追い込んだ幼い男が、愛くるしい「の」の字の目で、村瀬を睨み留めていた。

 逃げることは不可能だ。村瀬は恐怖の中で悟った。

「俺をどうする気だ‥」肩と唇を震わせた村瀬が、車内の誰にともなく訊くと、左隣の李が笑った。

「今、この車が走ってるのは、隣の県の南部です。もうじき目的地に着きますので、そちらでちょっとお話が出来ればと思います。あなたのご都合はちゃんと弁えていますから、大丈夫ですよ。明日はお仕事でしょうし、遅くなりすぎない時間に、ちゃんとお家へ送り届けさせていただきますから‥」李は優しく嬲るような口調で囁いた。

「鎌ヶ谷の支部での一件は大いに驚きましたが、今回はそれがひとしおですね。さっきあなたが秒のうちに畳んでしまった二人は、うちの中ではかなり腕の立つ人間なんですよ。特に手に嵌め物をしたほうは横山ってんですけど、あれは総合の日本ランカーに近づいた、地下格闘技でも活躍した人間なんです。それがあなたに掛かって、赤子の手、でしたね。けど、上には上がいくらでもいるもんなんです」

 李は述べて、村瀬の右に座る「の」の字の目の男を返した掌で指した。

「別格ですからね。こちらの行川(なめかわ)は」李の口ぶりは、心底誇らしげだった。

 行川という氏名を紹介された男を見ると、彼は変わらず口を結び、ブレードのような光が籠った目で村瀬を見据えているだけだった。村瀬はうなだれた。おそらくは、拉致先で何かの交換条件を突きつけられるのだろう。それは金だろうか。それとも再度入信を強いられるか。それに対し、自分がどう答えるかは、皆目思い浮かばなかった。思考の中にも闇が立ち込めていた。

 同じく僧帽にスーツ姿をした運転者と助手席の人間は、黙と口をつぐんでいた。走行のエンジン音以外は、これからの村瀬の運命を暗示するかのように静かなリンカーンコンチネンタルの車内に、冷気を含んだ、声を落とした李の笑いが響いた。窓外の夜空は、すっかり日が落ちて暗くなっていた。

 車が未舗装の道に入ったと見え、車体が揺れた。車が停まり、エンジンが切られると、助手席の男がリアドアを開け、村瀬は襟首を行川に掴まれて降ろされた。続いてその男が反対側に回り、男が開けたリアドアから李が降りた。男は李の降りたリアドアを丁寧に閉めた。運転者は車の中に残った。

 右手には雑木林が茂り、左の崖下には、痩せた土の廃田畑と思われる数百ヘクタールに及ぶ空間が広がっていることが分かる。その向こうにも、原始林の丘が小高くそびえている。遠くを走るエンジンの音が聞こえる以外、人気はない。
 行川に襟を掴まれ、李が先頭に立つ輪に囲まれるようにして、左右に枝の垂れる細い獣道に引きずり入れられた。頬の傷に冷たい山風が染みた。

 獣道を十数メーター引かれたところで後ろの男に膝裏を蹴られ、生い茂った草の上に座らされた。目の上に李と行川の影が、雲をフィルターにして下界に挿した月明りに浮かび、正座の恰好で座らされた村瀬の後ろには助手席の男が立ち、村瀬の髪を軽く引いて握った。村瀬の荒い呼吸の音が、静かな雑木林の空間に小さく響いていた。

「食欲の秋もたけなわですが、もうじき、白子とつみれと鮭、季節の野菜がふんだんに入った、石狩鍋が恋しい季節が来ますね」李が腿に手を置いて、村瀬の顔の高さに腰を屈めながら囁いた。

「仕事をこなしたあとで美味いものを食うことは、私にとって最高の楽しみなんですよ。私の場合、冬の鍋のお供はやっぱりきんきんに冷えたビールですね。村瀬さんは現在お一人暮らしということですが、料理などはされますか?」

 薄い唇から歯を覗かせた李は、目と同じ角度に吊った口端に笑いを刻んで、雑談調の会話を親しげに村瀬に振った。

「だけど、クックの基本は、やっぱり素材の調和ですよ。使う素材によって、味付けは分けなくちゃいけない。自由な発想をもって、料理の世界にルールはいらないなんて意見もあって、それはそれでいいと思わないこともありませんが、格調ってものが損なわれてはいけません。それがもたらす調律があるから、どんなものでも美味しくて、それでいて美しいはずなんですよ。ちなみにステーキは、私は血が煮立つレアのガーリックソースで、お供の酒はオールドパーのオンザロックがいい」

 李の雑話を聞きながら、村瀬は自分の手首を拘束しているゴムバンドに目を落とし、李の目を睨んだ。

「そんな凄い顔をすることはありませんよ。支部で峰山が言ったことはともかく、これから私が話させていただくことに、強要なんてもんの要素はどこにもありません。あなたに利益が発生して、こちらも非常に助かるって話の相談です。ギブアンドテイクってやつですよ」鳥の飛び立つ音と鳴き声が遠くから聞こえた。恐怖の中、村瀬は心身がぎゅっと固まる思いを覚えていた。

 李は立ち上がると、ハーフコートの胸ポケットからシガレットケースを出し、一本を引き出して咥え、闇の中でも高級感が伝わるライターで火を点けた。愛煙の心得確かな手つきで、心底旨そうに吸い込んだ煙を吐いて撒いた。口許が笑っているのが、闇の中でも分かった。

「私どもの布教理念については支部でもご説明を受けたことと存じます。この辺はあなたもお聞きになってご存じでしょうからここでは省略しますが、私どもは、環境、生育歴、生まれのもののハンディキャップの問題などから、恋愛、結婚という人生で当たり前に用意されなくてはいけないステージに望んでもたどり着けずにいる人達に、福祉の言葉でいう人生の質というやつを普くサプライすることを一本筋の信念に据えて活動させてもらってます。勿論、頭脳や身体の機能に何の問題もないのに縁に恵まれない人達も、お救いの対象です。その中で生じる、尊教導きと呼ぶ入会金、月串という月会費、本会で財捨と呼ばせていただいておりますお布施は、たとえれば恵みの配当を受け取るために必要なデポジットのようなものです。ところが逃げ口上をこねくり回して、それを支払わず、布施返しの報酬だけを持って逃げようとする連中が大勢いるんですよ。これは宗教者以前に、人間としての問題じゃないですか。常日頃、大法裁様がどんな思いを持たれて、本会の代表者として執務を行われているかを無にして、後ろ足で砂を引っかける行いと言われてもしかたありません」李は携帯灰皿に灰を落としながら、抑揚の中に嘆きを織り交ぜた話調で述べた。

「それの取り立てをやれっていう話か」李を見上げながら質した村瀬に、李は紫煙を闇の中に吐きながらまた笑った。行川の体勢に変化はなく、李よりも丈の低い体をその隣に並べ、村瀬を目で射定めている。

「傍からみた場合、確かに取り立てって表現も充てようがある話です。あなたに嘘を言っても埒が明きませんからね。でもそれは、権柄づくな未納税金の督促とか、恋愛感情をそそるCM流して巻き舌使う消費者金融なんかに比べたら、はるかに穏やかな話し合いですよ。小泉八雲の怪談よろしく、凍えてる子供の布団を引っ剝ぐとかじゃないんです。払える範囲で払いませんか、という相談をしに行くだけのことですよ。穏やかさってものを成立させるのも、お話した、料理の素材と同じです。そこで私どもは、穏やかさと毅然を併せ持ったあなたに、是非、そいつを手伝ってもらいたい。今週末までの何曜日でもいい。たったの一日で、回るお宅は四件ほどです。勿論、ただでって話じゃありませんのでご安心下さい。それ相応の代価をあなたに現金払いさせていただきますから」李の声調子には上機嫌な弾みがついている。

「断る‥」村瀬は恐怖に乱れた呼吸を正して、精一杯の言葉を出した。

 闇の中に沈黙が落ち、李が何かを思案する風に上体を横に向けた。橙色をした煙草の火が、吸われて長く伸びた。

「池内さん、いい女ですよね」李が煙草を燻らせながら、ぬめりと言った時、村瀬の体がびくりと震えた。

「顔も体もアイドル並みで、気立てもいいと来てる。料理というかデザートにたとえれば、チョコレートとホイップクリーム、ストロベリーがボリューム豊かにセンスよく盛りつけされていて、舌の上に乗せた瞬間に頬一杯に幸福が広がるアートフルな創作ケーキのような女性じゃないですか。頷けますよ。あなたが夢中になるのは」李のにやりとした顔が、木影の闇にも分かる思いがする。

「菜実には手を出すな!」村瀬は髪を後ろから掴まれ、手を拘束された体を乗り出して、叫んだ。

「手を出す? それはどういう旨のことをおっしゃっているんでしょうか」李が体の向きを村瀬のほうへ直した。李が目を丸くしていることが、闇目にも分かった。

「あなたが穿って考えるようなことは、こちらは何一つ意図していませんよ。私のお願いは、むしろ池内さんは勿論のこと、村瀬さんご自身にとっても益になることの提案です。先程も申し上げたように、報酬もきちんとお支払いします。それはもらって困るものではないはずでしょう?」「弱い立場の人間を、脅して騙して巻き上げたものが財源の、汚い金だろう。そんな金をもらうために、脅迫の取り立てなんかをやる気はない。俺は自分が働いて稼ぐ金だけで充分だ。そんなものはお断りだ!」村瀬が言い放った時、李の顔色が変わるのが分かった。

「社会人経験の豊富なあなたなりの立派な矜持ですね。当たり前ですが、こちらも社会に出てから年数を踏んでる人間なので、ねんごろな理解の上で敬意を払いたいと思います。ただし、言葉にはお気をつけなさったほうがいい」李は最後のセンテンスに肚から低く唸る調子を込めた。

「あなたに無理強いはしませんよ、入会などは。あなたが嫌と言っている以上はね」李の持つ短くなった煙草が、携帯灰皿になすられて消された。

「尊教の素晴らしさとか、あなたにとって退屈な話などはこれ以上はしません。でも、弱い立場の者をどうしてこうして、特に巻き上げたとかっていう言い方には、とんでもない誤解が入ってますよ。我々の活動理念には、どんな立場の方にも平等に人並みのものをってのが根底に据えられてるんです。性別、地位、立場ってものを超越した社会愛っていう論理で動いているんですよ。それをそこまで味噌糞一緒の言われ方をされるなんて、私としてもとても悲しいです」「断ると言ってるんだ!」恐怖を振り払うように叫んだ村瀬の声は怒りを帯びていた。

「今のご自分の状況はどれだけ分かっておられますか、村瀬さん‥」李は声を低く圧して、村瀬に歩を詰めた。

「この辺りは関東では珍しく、狩り込みが行き届いていなくて、野犬が多いんですよ。もしも我々がここで人の手のみならず足まで縛って、ここに置き去りにしたら、どれだけ泣き叫んで助けを求めても誰も来はしません。その人が流してる血の匂いを嗅ぎつけて、数頭以上来ると思います。そうなれば、明日の朝には、食い散らかされた骨や胃袋、大腸などの内臓や眼球がここいらに散乱して、人相が分からなくなるまでに顔の肉を食いちぎられた人の首を咥えた犬が、この近くの道をとことこ歩いているんじゃないでしょうかね」

 李が言うと、後ろの男が村瀬の背中に膝を押し当て、握っていた髪を強く引いた。村瀬の体の震えはより激しいものになった。村瀬は言葉を失った。自分の心が、自分を前後に囲んでいる凶然とした男達に必死の命乞いをしていることが自分で分かった。

比較的近くから、複数頭の犬の唸り、吠える声が聞こえた。それが村瀬の恐怖をさらに増幅させた。

「やってみて、自分に合わないなと感じるものは、無理に続けなきゃいけないなんて法律はありません。あなたが池内さんを脱会させたいって思いには、本会を見て、あなたなりの思うところがあってのことだったと思います。だけど、うちの法徒の片目を失明までさせといて、ただ逃げるだけって了見は良くない。そこでこれは、私どもが懸命に考えた提案ですよ。穏やかな話し合いの上で未納金を回収。たったの一日きりで、時間はせいぜい三、四時間。それに参加して力を貸していただけたら、支部での一件はクロブタ、ひいては池内さんの、無料の即日退会を認めて、彼女にもあなたにも、我々は今後一切関わりはしない。その上、報酬つき。この条件のどこに不服がありますか、村瀬さん」

 村瀬の喉からは笛の音のような呼吸が漏れている。鼻は、流した鼻血で塞がり、息が出来ない。髪を引かれて曇った夜空を向いた顔を、李が覗き込んだ。

「いいですか。今後、あなたが愛する池内さんの幸福と、あなたご自身の身の安全、平和な前途が保証されるか否やかは、あなたの態度次第なんですよ」

 李は針の目を据わらせて口許に薄笑いを刻んだ顔を月明りにほんのりと浮かび上がらせ、囁きを落とした。

「菜実に手を出さないでくれ‥」村瀬の声は懇願のものになっていた。

「ですから、そんなことはこちらはする気はないと、さっきから何度も言ってます。あなたも明日は仕事があるわけですし、私もさっさと帰って、今日は寄せ鍋で一杯やりたいんですよ。さ、こんなくだらない水掛けはとっととやめにしましょう。たった一日の、ほんの何時間か程度で終わる話なんですよ。我々は良識ある社会人の団体です。それが終われば、池内さんは勿論、あなたのことも今後一切追うことはしません。私を男にしてはもらえないんですか?」

 廃田畑のほうから、種名の分からない鳥群の合唱が聞こえてくる。北から下ろされる風が木々の葉と草をそよがせる音も、禍々しさをもって村瀬の耳を打った。闇は、四人のいる獣道の空間に、先より深く落ちていた。

「今回きりだ‥」村瀬の口から泣くような声の答えがこぼれた。

「そうですか、請けていただけますか。これは有り難い」李の声が弾んだ。

「今回、私があなたに白羽の矢を立ててお願いしたのは、効かせるべき押しを効かせることの出来る人が欲しかったからです。これは確かに回収ということになりますが、人としてのけじめつけの促しという要素のあるものです。それを村瀬さんにご理解いただけたことを、今、私は大変嬉しく思います。お礼のお金は、是非期待して下さい。早速ですが、明日でお願い出来ますでしょうか。十八時半から十九時の間に覗いますから、お家でお待ち下さい。おい‥」李が撫でる声で言って、村瀬の後ろの男に顎をしゃくった。男は髪から手を離して、村瀬の襟首を持って立たせた。

 それから四十分ほどリンカーンコンチネンタルのリアシートで、左右を李と行川に囲まれて揺られ、家の前で解放される時、李は「もしあれば、黒の革手袋をご用意いただけますでしょうか」と言ったが、村瀬はそれには答えず、行川の視線に射られるままになっていた。

「では、急で申し訳ありませんが、明日‥」という李の声とリアドアの閉まる音、去っていくエンジン音を背中に聞きながら玄関に向かう脚には全く力が入らず、アコーディオン門を開ける動作は、まるでロボットのようだった。

 洗面台の鏡で自分の顔を見ると、頬、唇にいくつもの小さな裂傷が出来、目尻が切れて血が滲み、瞼と両頬が青く腫れて、右目の眼白にも毛細血管が切れたことによる充血があった。鼻孔下の鼻血は乾き、かさぶたになって張りついている。

 村瀬は創痍の顔を洗うこともなく、項をすくめて、両親の遺影に見下ろされる居間へ行った。円卓の横で、力を失った膝が畳に着いた。畳に肘を落として四つ這いになると、体が痙攣を始めた。

 これまでの人生で深くは関わったことのなかった、的を見る目で人を見る組織集団の人間に侵され、その掌中に落ちた。自分の生活、人生、個人情報の一切が。

 菜実もろともに。

 しばたかせた目の瞼に押されて、涙が溢れて畳に落ちた。腸が萎縮する感じを覚えた。

 遺影と仏壇のある八畳に、底知れない恐怖と絶望の中に沈んだ人間の嗚咽が響いた。李達が掌を返して自分を始末するかもしれないという思いもさることながら、もしもあの魔の手から菜実を守れなかったら、自分の存在理由自体が、自分の窺い知れない所へさらわれてしまう。たとえ命があっても、自分は在って亡いものとなる。今が、その「存立危機事態」なのだ。

 秒針の音以外は無音の部屋で一人で哭きながら、改めて気がついた。高齢者も勿論だが、障害者の支援職も、人の命を預かる業務だ。

 自分は、菜実をある意味で不本意に預かったことを理解した。あの喫茶レストランの一件がなければ、彼女のような人に対して、自分の心や体が、あそこまで、ここまで傷を負う沙汰に身を挺する行動を取ることが出来たか。

 それをメリットのない無意味な情だと言う者がいるなら、言いたいだけ言わせておけばいい。自分は、その無意味の先にある意味、を、歯噛みに伴う涙の中に視ている。

 連日のように報道されている、障害者支援施設での各種虐待事件は、人間の命への否定に端を発して起こることだ。

 村瀬は福祉の専門家ではない。だが、解る。聞こえる。彼らが、幼年の頃から、見えない手が描いた「誰にも助けてはもらえない弱者」の枠に組まれてきたことにより、自分が暗中で人知れず叫んできた言葉と、確実に聞いてきた、昏い底からの、声をつぐんだ泣哭が。

 村瀬は畳を拳で二回殴ったあと、冷蔵庫まで歩き、麦茶のポットを出して、円卓の上に置かれたままのガラスのコップに注いだ。それを飲み干すと、コップを右拳に握り、力を込めた。顔は、まだ恐怖の涙で濡れていた。コップは掌の中で割れ、指の間から血が流れ出した。痛みはまるで感じなかった。恐怖と絶望を押しのけて涌いた、李と行川への怒りのためだった。

 警察も司法も、民事裁判も、もう間尺を外れている。それでも、菜実を守り抜こうと思った。その上で、生き残ろうと肚を決した。菜実のために。

 たとえ、凍死寸前の子供の布団を剥いでも。老人を半殺しにしても。女を凌辱しても。障害者を嬲りものにしても。女子供を殺してでも。それらに代表される、どれだけ残虐なことをやってのけても。その決意が胸に留まった時、また涙が溢れてきた。壁掛け時計に目を遣ると、時刻は二十一時を回っていた。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

BODY SWAP

廣瀬純七
大衆娯楽
ある日突然に体が入れ替わった純と拓也の話

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