38 / 54
37章
~クリームソーダ~
しおりを挟む七草粥の頃が過ぎた土曜の午後だった。銀色の壁面看板に緑の文字で「合同会社ラブリン デイサロン グっちゃんのお庭」とポップな字体で描かれた事業所は、鎌ヶ谷市道野辺の幼稚園近くに軒を構えている。社屋は、高齢の店主が死去したことで畳んだ生花店を改装したものだった。広さは八十坪で、中はフローリング床になっている。入口両脇には、それぞれ二十足ほどの靴が収まる靴棚がある。
「施工料金はもう振り込んであるんで、ありがとさんです」ジャージの上にジャンパー、サンダルという軽装の義毅は、ルーフに脚立を括りつけたライトバンの前に立つ内装職人に頭を下げた。
ちなみにグっちゃんという屋号は、義毅が中学時代に級友達から呼ばれていた「グズラ」という渾名に由来しているが、当時、彼はその渾名に腹を立てることはなかった。ちゃんづけは、自分で考えた。
「この辺りでいいか。見晴らしがいいかんな。可愛子ちゃん‥」義毅は唄うようなひとり言を呟き、キャンパス袋から一枚の絵を出し、銀の額縁にセットし、西側の壁に掛けた。絵のサイズは10号だった。
白のブラウス姿でカチューシャをした可愛い顔立ちの少女の肩にモンシロチョウと思われる蝶が止まり、少女がくすぐったそうに首を傾げているという内容の油絵で、提供者は船橋市内に住む女性だが、絵のモデルは十七歳の自身の一人娘だという。
その絵師を知ったつては、生花店の屋を不動産屋を通さずに、亡くなった店主の娘と交渉し、買い取る時にこれから始める事業の話をした際、絵を飾りたいと言った義毅に、予備校の美術講師をしながら娘さんを養育し、自分の作品を百貨店や駅のブースで展示している人がいるという話を聞き、まず、その娘から連絡を取ってもらい、許可を得た上で登録した番号に連絡し、絵を譲り受けた。
スーパーのレストコーナーで会い、タブレットに保存されているデータの数枚を見せてもらい、「これがいい」と決めたのだが、モデルに描いた長女は広汎性発達障害で境界線程度の知的ハンデを持っているとのことだった。それでも、破線を巧く使い描かれた写実的画風の絵の中にいる少女は、見る分には普通に愛らしく、見た目には障害は分からない。
義毅が名乗った苗字に、どことなく同じ姓を持つ知る人がいる風な反応が覗えたが、言及はしなかった。その時義毅は、元旦に新年挨拶の電話をして近況報告をした際の兄が、著しく元気を欠いていたことが気になり、とりあえず励ましておいたが、ことに男女のことになると人の世の常と考える、何かの否応ない変節にバットしているのではという勘が騒いだ。その勘が、面白いように的中していたことを明かす、光沢紙の紙っぺらが一枚、今、業務用デスクの引き出しにしまわれている。
玄関前で一服つけていると、小学一年生くらいと、未就学児と思われる二人の女の子が手を繋いでやってきて、立ち止まって、年長の少女が、社屋と壁面看板を交互に見た。小さいほうの女児は、表情に子供らしい華やぎがない。その顔には、言葉にしようにも、幼いためにそれが出来ないような悲しみの色がある。義毅はその女児が気になった。なお、年長の女児は、黄帯の道着の上にジャンパーを着た姿だった。
「合同会社ラブリン、グっちゃんのお庭‥」義毅は空いているほうの手で看板を指し、おどけた調子で事業所名を読み上げた。
「何の会社さんなの?」道着姿の年長の女児が、目を丸くして訊いた。
「君らみたいなお子ちゃま達と、障害持った大人の人達が、お話したり、一緒に遊んだりして、楽しむ所だよ。来週、オープンするんだ」義毅は説明した。
「お名前、田中新菜ちゃんって言うの?」義毅は屈み、道着の帯をつまんで、刺繍された名前を確認し、訊いた。
「うん‥」「いくつ?」「今年、二年になるの」新菜という女児は答えた。「今、一年生、春に二年生か。空手やってるんだ。すごいね。どこの道場行ってんの?」「玄道塾船橋本町教室」「玄道塾か。聞いたことあるな」「今、七級で、来月、帯の色が変わる試験受けるの」「へえ‥」義毅は頷いて、新菜に手を継がれている、悲しみを顔一杯に刻んでいる女児に顔向きを移した。
「君は、お名前、何ちゃんかな?」女児は瞼を伏せたきり答えなかった。
「この子、樹里亜ちゃん。去年まで、お父さん、お母さんと一緒に住めない子がいっぱいいる、じどう何とかっていう所にいたんだけど、今年になって、うちに来て、一緒に住んでるの。うちのお父さんが手続きして、もうすぐ私と同じ田中っていう苗字になるんだ」新菜の説明語彙は拙いが、義毅には、そのじゅりあという子の顔が、言葉の代わりに表しているものが分かった。
「時間あんなら、おじちゃん特製のクリームソーダ、飲んでくか?」義毅が言うと、新菜が頷いた。義毅はじゅりあという女児の肩に優しく手を添え、二人を中へ入れた。
二人の女児は、義毅が勧めた座布団の上に座った。義毅は冷蔵庫から2lのメロンソーダを出して、用意したコップに注ぎ、冷凍庫のバニラアイスをディッシャーでよそり、ストローとヒメスプーンを差し、盆に載せて運んだ。
「ありがとうございます‥」新菜は丁寧な礼を言い、義毅が作ったクリームソーダのコップを取り、ストローに口をつけた。
新菜がヒメスプーンでバニラアイスを食べている横で、じゅりあは悲しげに俯いたままだった。
「遠慮しないで。おじちゃんのクリソ、美味しいぞ」「クリソ?」義毅のじゅりあへの声かけに、新菜が言葉の意味を訊き返した。
「いや、クリームソーダを縮めてクリソってんだ。昔、ちょっと喫茶店で働いてた頃があってさ、店員は略すんだよ、忙しいかんな。アイスコーヒーがアイコ、アイスココアがアイココ、アイスミルクティーがアイミティー、海老ドリアがエビド、デラックスピラフがデラピラ。クリームソーダは、クソっつうわけにはいかなかったな。飲食店だから」義毅が説明し、新菜が笑った。じゅりあは顔を上げなかった。
「これはもう、地獄ん中の地獄見てきてんな」義毅は独り言のように言って、ほうれい線を浮き出させた顔で俯いたきりのじゅりあの頭に手を置いた。
「新菜ちゃんの父ちゃんと母ちゃんは優しいのか?」じゅりあの頭を撫で撫で、義毅が訊くと、新菜はこっくりと頷いた。
「パパは大きい流通センターっていう所で、フォークリフトの運転やってる。ママは老人ホームで、パートのお仕事してるんだよ。お爺ちゃんとお婆ちゃんの、ご飯作るお仕事なんだって。パパ、お休みの時、いろんな所連れてってくれたり、遊んだりしてくれる。ママ、私がお熱出すと、夜寝ないで見てくれる。でも、子供が悪いことして、怒ると、すごい怖い‥」「そうか。でも、それでいいよな」義毅が言うと、新菜は何かを考え込む顔になり、ストローを咥えた。
「バニラ、食べな。溶けちゃうぞ」義毅はじゅりあに声かけし、コップを手に取り、ヒメスプーンでソーダの上に載るバニラアイスを掬い、言葉にならないものが浮き出た口許に運んだ。じゅりあは口を開け、舌を出した。その舌の上に、義毅は数mgのアイスクリームを載せ、ストローを差し出した。じゅりあは口をすぼめ、小さく喉を鳴らして、ソーダを飲んだ。
「おじちゃんのこと、怖いか?」ストローを離しざま、義毅が訊くと、じゅりあはようやく顔を上げ、下から彼の目を見上げた。その時、義毅は、彼女が未来に美人になる下地のある顔立ちをしていることに気づいた。
一寸の間ののち、じゅりあがゆっくりとかぶりを振った。義毅の目を見つめる、瞳の大きな目に、彼への不信や警戒の色はなかった。
「これまで、心がねえ親んとこで、散々酷え目に遭わされてきたんだよな。今はまだ、大人が信用出来ねえかもしれねえよな。だけど、これから素晴らしい大人達にたくさん出逢うことになんぞ」語りかけられながらソーダを飲むじゅりあの頭を、義毅はまた撫でた。
「前の樹里亜ちゃんのお家、義理のお父さんとお兄ちゃんがいて、お父さんもお母さんもお仕事とか全然しないで、いっつもお酒飲んで、ゲームで遊んでたんだって。それでいつも、じゅりあちゃん、義理のお父さんとお兄ちゃんにぶたれたり蹴っ飛ばされたりしてたんだけど、お母さんが助けないんだって。それで、お病気になっても、お医者さん、連れてってもらえなかったって、うちのパパとママがお話してるの聞いたんだ‥」新菜がストローから口を話して述べた。
「そうか」義毅は体を左右に傾がせて、膝上の手を組んだ。減らねえ話だな、という微声の呟きが、二人の子供の耳に入ったかは分からなかった。
「その親父が今どうなってるかなんて、新菜ちゃんは知らねえよな」「スーパーで、お金、脅して取ろうとして、その時、他のお客さんの女の人にエッチなことやって、お巡りさんに捕まったんだって。ニュースになって、新聞にも載ったんだよ。その女の人助けたの、そのスーパーの店員さんなんだよ」
義毅は、おそらくそれであろうニュースをちらりと見たことを思い出した。印象から薄れていたのは、ごろつき風情の生活保護受給者による恐喝事件というところで、特に物珍しさを感じなかったからだ。
その時、義毅は変化を見た。じゅりあが、自分からコップを取り、ヒメスプーンでアイスを食べ、ソーダを飲み始めた。
最も誰かに聞いてもらいたかったことを、義姉の口を介して聞いてもらえたためだと思われた。
「さっきも言ったけど、来週の木曜に、ここ、開くんだ」義毅が告げると、新菜とじゅりあが二人一緒に見上げた。
「障害持つ人達には日中一時支援っていう事業所で、子供には、閉まるまでずっといてもいい遊び場でもあって、ぶらっと寄って、お話して、おやつ食ってく居場所でもいいんだ。だから、よかったら、二人で来な。利用者はもう何人か決まってんだけど、みんな、優しくて子供が好きな、いい奴らだぜ」義毅は言いながら、まさかな、という思いを巡らせていた。
恐喝と不同意猥褻があり、容疑者がほぼ現行犯で逮捕されたというスーパーは、店名は伏せられていたが、千葉県船橋市内と報道されていたことは覚えている。
容疑者をその場で制圧したという店員は、四十七歳と出ていた。もしもそのまさかがまさかだとすれば、ちゃんと仕事を遂行したトヨニイを、弟として心から尊敬するしかない。今は、愛した女の心変わりにより、自分にも誰であるかが臭う女に足をかっさらわれているにせよ。その女とは、まだ子供だった自分が、結婚相手として兄に勧めた女だ。
今のじゅりあが、まともな養父母と縁組する運びになったことは、その店員がきちんと業務をこなした縁による。
「じゃあ、パパとママ、心配するから、今日は行くね」空になった二つのコップを前に新菜が言い、じゅりあに、帰ろう、と声をかけ、座布団を立った。
「ごちそうさまでした‥」「どういたしまして。絶対来いよ」「うん‥」頷く新菜に手を繋がれたじゅりあは、不思議なものを見る目で義毅を見上げていた。
手を取って辻の先へ消えていく、二つの小さな姿を見送った義毅は、屋に体を滑り込ませて入り、盆に載ったコップをシンクに片し、事務用デスクの引き出しから、例の紙を出し、しょうがねえな、とばかりの呆れを滲ませた顔で眺めた。その紙面には、どこかの飲食系の店で撮影されたらしい一枚が載っており、その中には、隙だらけの、間抜けな表情を晒した兄が写っていた。その顔は、曲がりなりにも空手初段を持つ格闘家のものでは到底なかった。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる