手繋ぎ蝶

楠丸

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44章

~思い合い~

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 円卓に載ったイチゴショート、モンブラン、サバランのケーキには、全く手がつけられていなかった。

 ハロウィン前に津田沼文化ホール開催の手繋ぎ式に参加、二回り齢の離れた女子と出逢い、愛を交わす間柄になったが、知的障害を背負いながらも、他者を決して斜めには見ない人間性を持つその女子が、正体を隠して男女ミートのイベントを開いていたカルト宗教団体の勧誘員で、その掟に従い教団組織の一員として自分を引き込もうとしていた彼女を組織から抜けさせるために、命を失う縁を歩くことになった。

 その中では、その人を助けたい一心で、羅刹にも勝る非道なことを行い、これ以上の地獄はないと言えるまでの地獄も目の当たりにした。その地獄とは、たとえその当事者に命があっても、その後の人生はあってないものになるそれだった。そしてその女子が、地方の農家に金で買われて強要の結婚をさせられそうになったところを、義毅が助けだした。奴らは自分の頬を金で叩くこともしてきたが、自分はそれを最初から最後まで一貫して拒み続けた。

 その宗教団体とは、今、渦中にあり、政界、警察組織までを激しく揺らし、その根本の在りようを世間に問いかけている「尊教純法」。事実上、掴まれていた警察を動かすことになったものは、義毅の働きだった。

 父親がその一連を話す間、娘、息子は、語られる事柄の一つ一つに質問を加えることもなく、目を見張って、言葉を出すこともなく耳を傾け続けた。二人の口から出た者は、語る内容の凄惨な、また、胸を打つ山場に差しかかった時の、絶息のような哀嘆だけだった。

 その表情には、自分達が知っている目の前の父の、一種の本性的な別の顔があることを知りしめた驚きが満ちていた。

 祖父母の遺影が見下ろす居間で、爆ぜんばかりの驚愕が立ち、それは悟りの気に変わり、雨音と時計の秒針が静かに時間を刻む部屋に立ち籠った。

「この人だ。池内菜実さんっていうんだ」村瀬は言い、ハロウィン前の印旛沼デートの時に風車をバックに撮った写真を、恵梨香、博人に見える位置に置いた。博人はその美しさに魅惚れた顔をし、恵梨香の表情は動かなかった。

「お父さん」フォークを通していないイチゴショートを前に、恵梨香の唇が開いた。

「お父さんも博人も知ってるように、私、今、知的障害者の施設で働いてる‥」恵梨香の声は重く這う調子を見せていた。

「まだ一つの職場しか知らないなりに分かってることだけど、お金を稼ぐっていうことは大変なことだよね。それはお父さんもよく知ってることのはずだと思う。私の仕事で何が一番大変かっていうと、職員同士の人間関係も勿論そうなんだけど、素、に従って生きてる人達を見なくちゃいけないことが、一番大変なんだ。素のままだから、自分が言いたいこと、やりたいことに正直なんだよ。自分の体の清潔管理とか、世の中の決まりとか、他の人の感情を読み取るっていう、社会の暮らしでは当たり前に必要になることを覚える力が、健常って呼ばれてる人よりも弱い人達なの。そういうものがあることも知らない人も、たくさんいるんだ。場合によっては、そういう人達の感情、気持ちまで管理して、職員の型に嵌めるっていう要素を持ってるのが、私の仕事なんだ」恵梨香は顔を上げ、村瀬の顔をまっすぐに見た。

「私の職場は、障害支援区分が重めの人達が八割方なのね。重心っていって、知的と身体両方持ってて、車椅子で生活してる人達も多いんだ。そういう人達のお世話をするのは、当たり前だけど、遊びじゃないよ。ほんの一瞬の不注意が、新聞に載るような事故に繋がることもあるんだから。だけど、そんな誰もが避けるような仕事を私がしてるのは、自分の生活のためなんだ。社会保険引かれて手取り十五万とちょっとが、私の平均月収なんだよ。そのお金は、裕子さんが借りてる家の家賃と食費の何割か、それに自分の携帯代と生理用品とか買うのと、将来のための貯金のためにあるんだ。私は、それのために、そんなストレスのかかる仕事を頑張ってるんだよ。どうして頑張れるかっていうと、お金が間に入るから‥」俯いた恵梨香の目が瞬いた。

「でも、お父さんが今やってること。これからもやろうとしてることは、それとは違う。お金をもらって人を見ることと、そういう利益なしで人を見ることは違うんだよ」恵梨香の声が強まった。

「この写真の人は、多分、お父さんから見た目は純粋に見えるかもしれないよね。だけど、見た目とか、振る舞いから視える姿っていうものは、その人の本当の姿とは違うものなんだよ。だから、一緒にいることが、絶対にこの人のためになるかって言ったら、それは違うと思う。もしもお父さんがこれからもその人とって思うんだったら、自分自身のポジションを変えていかなくちゃいけないよ。だって、いくらお父さんがこのなみさんのことを純粋だって思ってるとしても、先は分からないんだから。その純粋さは、この人の本当の人間性じゃないんだよ。特性なの」恵梨香は伏せていた顔を正面位置に戻し直し、さらに声を強くした。

「抱きたい時に抱けるから、一緒にいたいっていう気持ちが、お父さんの中にあるんじゃないの?」言った恵梨香の声には、恐れが籠っていた。

「お姉ちゃん、言いすぎだよ」ぽつりと言った博人の声には、諭しの色があった。

「あの時、お姉ちゃんだって、見たはずだろ。お父さんのぼこぼこになった顔。こないだも、お父さん、顔中血だらけにして帰ってきたんだよ。今だって、傷跡がまだ少し残ってるじゃん。これは、お父さんが、この人のために命懸けてるっていう証明なんだよ。自分が死ぬかもしれないのに、菜実さんを守るために、あんな恐ろしい奴らとこれまで関わってきたんだよ。それはこの人、菜実さんは、お父さんから見て、この人のためだったら死んでもいいって思わせるものを持ってたから出来たことなんだよ。お父さんの性格は、お姉ちゃんもそうだろうけれど、俺もよく知ってるよ。親子だもん。そのお父さんが好きになった人だよ。いいじゃん。外から見えるのとは違う顔が一つぐらいあったって。なみさんの本当の姿がどうだって、お互いがお互いを心から好き合ったことに意味があるはずなんだよ」博人はひとしきり言うと、虚しい正論を述べてしまったような気恥しさを噛んだように、顔を歪めて、その顔を姉と父から背けた。

「だから、応援してあげようよ。関係ないんだよ。歳の差も、障害も‥」博人の語尾が、雨音に溶け込むように消えた。

 三人の父子が言葉をつぐみ、黙然とした静けさが居間に落ちた。その時間が一分ほど続き、その沈黙を父親が破った。

「お前達の言うことは、どちらも正しいと思う」村瀬の述べに、二人の姉弟は、目線をケーキから父親の顔に戻した。
「菜実さんには、出産と育児歴があるんだ」村瀬の打ち明けに、子供達の顔が改まったように見えた。

「障害の認定を受けたのが二十代初めの頃で、学校じゃ一般学級、中卒で、社会じゃ一般枠で働いてた。それがどれだけ苦しくて、悲しいことが付きまとうか、お前達にも想像がつくものと思う。行く先々で、暴力を含む陰湿ないじめを受けて、どんなに一生懸命頑張っても解雇されて、それでも他人や自分の境遇を恨むということをしないで働き続けてきたんだ。その子供は、パチンコ屋に勤めてた頃に、客の男に騙されて、妊娠させられて出来た子供なんだ。だけど、子供は一歳半の時に、自分の不注意の事故で亡くしたんだ。その悲しみがどれほどのものだったか、まだ子供のいないお前達には理解しきれないかもしれないよな」

 恵梨香と博人は深くうなだれた。

「彼女の背負ってるものはそれだけじゃない。幼い頃、お母さんが刑事事件を起こして、無期懲役で今も服役してるんだ。父親は生き別れで、去年にばったり、一目だけ再会したらしいんだけど、何だか悪質な法人に囲われて搾取されてるっぽいんだよ。育ての親的なポジションにいたのは叔母さんだったんだけど、その人は、母親を仮出所させるために必要な弁護士費用を自分に預けろと言って、菜実さんにお金を送らせてた。だけど、弁護士云々は真っ赤な嘘で、菜実さんを騙してせしめたお金を、純法とは別のインチキ宗教に献金してたんだよ」

 二人の子供は顔を上げなかった。恵梨香の目尻が、頬から引かれるように下がり、目の奥には涙が見える。

「お父さんは、その叔母さんの所へ行って、それをやめろとお願いして、菜実さんにも、もう縁を切るように促したんだよ。それで縁は切れた。だけど、菜実さんは、自分を騙したその叔母さんを憎んではいない。そればかりか、今も案じてて、思い慕ってるんだ。彼女が持つその人としての大きさは、特性と言えばそうなのかもしれないよな。だけど、お父さんはそれは、彼女の持つ心とは、絶対に無縁じゃないと信じてるんだ。高校の時に受講した、仏教の教養講座に出てきた菩薩の話だ。棒で殴られて、石を投げつけられて、口汚く罵られても、我汝を軽しめず、皆正に作仏すべし、つまり、私はあなた方を軽んじません、あなた方も必ず仏になることが出来る人達なのですから、と言って、人の仏性を礼拝したという人だよ。その頃のお父さんには、一種の精神異常者としか思えなかったけれど、そういう人が、令和の日本に本当にいたんだ。ただ、菜実さんの違いがあるとすれば、その菩薩は、石や棒の届かない所へ退避して法を説いていたというけれど、菜実さんは、たとえれば、石と棒を顔に、体にまともに受けて、たんこぶ作って血を流しながら、自分の前の、周りの迫害者達を赦して、愛する人なんだ。だから、お父さんの中に、お前達の新しいお母さんとして紹介したい人は、今は、菜実さんしかいないんだ」

 恵梨香が涙を流していた。博人はどこかおろついた顔を村瀬に向けていた。

 恵梨香の流している涙は、わけを一つにはしないものに見える。

 隣の博人も泣き始めた。肩を震わせ、滝水のような涙を頬に落としていた。

 村瀬は、はにかみと少しの苦みの入った笑いを口許に浮かべて莞爾となった。

「さ、ケーキを食っちゃおう」村瀬は言うと、フォークを手に取って、サバランのケーキをフォークで割り始めた。

 外の雨は、いくらかミリ数が減っているようだった。恵梨香のイチゴショートと博人のモンブランは、ホイップにデコレイトされた外観部を光沢めかせ、しばらくの間、静物の姿形を留めていた。

 二時間ほどが過ぎ、村瀬は博人とともに、恵梨香を実籾駅まで送った。雨は止み、黄色い銀杏の落葉が、雨に濡れた路面に貼りついていた。

 駅までの道すがら、三人の間に会話はなかった。父親は、いつかは打ち明けなければならなかったことを包み隠さず明かした、という涼しくすっきりとした顔をし、博人はどことなくもどかしげで、恵梨香は父への案じがまだ抜けていない面持ちをしていた。

「恵梨香。まだ子供だったお前を、遊び仲間の奴らと一緒に嬲りものにしてた、お前達の継父だった男は、去年の秋に俺がきっちり制裁した。財を丸ごと失って、千葉の裏手で物乞いをしてる所を見つけてな。お前達が受けた傷は、しっかりとあいつの体に返礼してやったよ」改札前での父による報告に、恵梨香は徐々にその顔に新しい驚きを満ちさせた。

 カードをタッチし、駅の改札を潜ったところで、恵梨香は父に向かい、深々と頭を下げて辞儀をした。その辞儀は長く、一分あまり腰を折り続けた。

 それから背にした父と弟の表情は、恵梨香には、背中に目があるかの如しに想像がついた。

 普通上野行の三両目の席に座りながら、恵梨香は、今日自分が流した涙の理由に整理をつけようとしていた。

 純法と関わっていたことまでは、あの夜、殴打跡に腫れ、皮膚の切れた顔をして、あの男達と一緒に高津の家にやってきたことから知っていた。だが、それ以降、自分の知らない所で、その父がたどってきた凄絶な経緯に自分の心が打ち据えられたこと、また、つい去年の、ほんの何ヶ月か前まで、弱い男と見なして故の軽蔑、それに加えて見捨てられたという被害感情しか持ち得なかった父が、一人の女のために、矮小な市民の身でありながら死線までも見、罪の因業まで背負うことになり、写真の「なみさん」を守ってきたという、真に迫った話に魂魄を揺さぶられたのだ。

 落ちた。言葉の代わりに出た涙のわけが。また、父が幼い自分に性加害を与え続けた江中を成敗したという打ち明けにも、長い間記憶に根を下ろしていた、黒く、重く、忌まわしい霧を綺麗に取り除いていた。

 答えを胸と肚に噛みしめる心境で、京成船橋駅南口の改札でカードを出した時、男の怒号が聞こえた。

 タッチを済ませて改札を出、見ると、券売機の前で、ノーネクタイのスーツの姿をし、背中に四角型のリュックサックを背負った中年域の年齢恰好をした男が、電動車椅子に乗った初老の男に詰め寄っている。

「お前のその邪魔な車椅子が遅えからだろうが!」リュックの男が敬意のかけらもない汚い言葉で車椅子を指して怒鳴り、初老の男は、「あのね‥」と説明を試みている。

 列車を降りた、また、これから乗ろうとして行き交う乗客達は、その光景にちらりと目遣りをしては、自分の行こうとしている所へ歩み去っていく。

 何故、判で捺したようなこういった風景が見られるかというと、勇気の欠如というよりも、誰もが余裕を持たないからだという結論が、恵梨香の中に導き出される。

「ごめんなさい。遅くて迷惑をかけたのは僕が悪いかもしれないね。でも、順番は守らなくちゃいけないんだよ。それに、今、あなたの遣っている言葉は良くない。それを浴びせられた人と、周りで聞く人の心を、物凄く傷つけるよ」「関係ねえんだよ! てめえが悪いんだからよ! 急いでる奴が並ぶ券売機の前、いつまでもちんたらちんたら陣取りやがってよ! 俺はこれから夜勤の仕事なんだよ。遅刻しそうになったら、てめえがタクシー代でも出してくれんのかよ。おら、何とか言ってみろよ、爺い、てめえ、こらぁ!」リュックの男は初老の男に鼻先を突きつけ、チンピラまがいに凄み立てた。初老の男は、それを悲しげに見上げていた。

 背面に杖が掛かっている電動車椅子に乗った男の横顔に、古からぬ見覚えを感じた恵梨香は、深呼吸を整えて、一歩づつ踏みしめるようにして、歩を進めた。

「何やってるんですか」車椅子の真横に立った恵梨香は、リュックの男に、少し憚った声をかけた。男は反応せず、初老の男を睨み下ろしている。

「何をやってるんですか」一文字だけを加えた言葉をまたかけると、リュックの男がゆっくりと振り向いた。

「ああ?」「やめなさいよ。いくらストレスが溜まってるからっていって。話は聞いていました。タクシー代がどうのなんて、お門違いもいい所ですよ」背筋をぴしっと伸ばし、毅く言い放った恵梨香に、リュックの男は大きく目を剥いた。

「何だ、このガキ!」「私はガキじゃありません。二十二歳の大人です」「これは俺とこの爺いの話だよ! 引っ込んでろよ、関係ねえ奴はよぉ!」「関係なくないから声をかけたの」恵梨香の投じた言葉に、リュックの男は怪訝な顔持ちになった。

「あなたは券売機の順番を守らなかったから、当たり前に注意を受けただけなんです。これは自分が悪いんです。それを謝りもしないで、こんな風に怒りで返すなんて、大勢の人の前での恥晒しですよ。第一に、相手がどういう方か、見れば分かるはずじゃないですか」駅のアナウンス、乗客達の急ぎの靴音に被って、恵梨香の張った声が凛と響いた。

 リュックの男が怪訝な顔のまま、少し気圧されたように見えた。電動車椅子の男は、見覚えのある人間を見たという以上の、驚きの顔で恵梨香を見ている。

「他人の話にしゃしゃり出んじゃねえよ! 俺を誰だと思ってやがんだ! ただじゃ済まねえぞ!」男は虚勢を作り直し、今にも殴らんばかりに恵梨香に歩み詰めた。恵梨香は退かず、見上げるようにして男に視線を合わせた。

 遠くから巻く人垣が出来ており、その中から、早く駅員さんを、というものと、警察、という声が被さって聞こえる。
 その人垣の中から、一組の壮年らしい男女が進み出てくる様子が、恵梨香の視界の隅に捉えられた。

 それは、鼻から通す酸素吸入器をつけ、ボンベバッグのカートを引いた六十代の男と、その妻らしい女だった。

 男は、昔の銀幕ブロマイドを思わせる整然とした顔立ちをしているが、現在、その体が背負ったものを表す吸入器とボンベが、重い景観を醸している。

「お兄さん、どうしたんですか」リュックの男と恵梨香の間にすっと立ったボンベバッグの男が尋ねた。

 リュック男の表情から目に見えて怒気が消えていった。ボンベバッグの壮年男は、しんと穏やかな顔をしているが、あなたはどうしたのだ、と問う声には、静かに相手の感情を封じるような迫力があった。

「人には、みんな背負ってるものがあるんです。それを思い合うことが、人の生きやすい社会を作っていくものなんですよ。先からお話を聞いていたんですがね、相手がどんな立場の人であっても、順番をきちんと守ることも、当たり前の優しさであって、思い合いです。もしも今、お兄さんが何かに苛々して、どうにもならないっていうんなら、一人で静かな所へ行って、ゆっくりと気持ちを整えるのがいいんじゃないかと思いますよ。いいじゃないですか。これからお仕事なら、今日ぐらいお休みして、家でお酒でも飲みながら、静かに過ごすのも」

 リュック男の顔に、畏れと、怒りを封緘された苦みがありありと浮かび、彼は項を折って顔を垂れた。彼のその態度からは、勤務する職場その他の環境でいかなる立場にいるかが、恵梨香にも窺い知れた。

 リュックの男は深く項を垂れたまま、体を旋回させると、苦渋に満ちた背中姿を見せながら、南口の階段へと歩んで、その姿を消した。

「ありがとうございました。私一人じゃ、たいしたことが出来なかったところを、助けていただいて」「いやあ、何てことはありませんや」恵梨香の礼に、酸素吸入器を着けた壮年の男は、涼しく笑った。

「あなた、お願い。こういうことにはもう関わらないで。あなた、今、集中的に治療を受けてて、やっと一時退院が許可されてる身なんだから‥」「黙ってろ」男は妻の訴えごとにつっけんどんな言葉を返した。妻は何も言えなくなった風に下を向いた。

「お姉さんは、とても勇気がありますね」「いや、私は‥」恵梨香は気恥ずかしさを堪えて下を向いた。

「あれは去年の秋口でしたかね。JRの近くで、障害の女の子と、その保護者にも彼氏にも見える男性が、分別のねえ若い奴らに絡まれてるのを助けたんですがね、その時は、ただただ可哀想だなって思いましたよ。絡まれてた被害者でなしに、絡んでた奴らがですよ。子供の時分から、我慢も思いやりも教わらないで、我儘放題、やりたい放題を許されて、図体と、垂れる理屈ばっかが一端になって、今、政界絡みの集団強姦ビデオとかで騒がれてる東京フレンドシップカレッジだって吐かせたんですが、その大学まで入れてくれた親に感謝の気持ちも持たねえで遊び惚けてる奴らです。この先どんな中年になって、どんな爺さん、婆さんになるかが心配になるような、お兄ちゃんとお姉ちゃん達でしたね。だから、見てられなくてね、その時も割り込んじまったんですよ」「そうなんですか‥」

 遠巻きに始終を見ていた乗客達が、一人一人とその場を離れていったが、少数の人間が立ち止まり、壮年男の話を聞き入っているように見える。

「そいつらと同じぐらいの頃、私はぐれて、十本の指を立てても余るまでの悪事を働いてました。そのわけは、てめえの生い立ちへの恨みと人間不信で、その時、彫物も入れちまったんです。その間は、他人の体や心を散々傷つけて、自分も深く傷つきました。その自分の傷つきに、てめえで気がついてなかったんですよ。それが変わったのは、私がてめえの人生を粗末にしてることを本気で怒ってくれた人間がいたからなんです。それで、境遇が自分と似てて、踏み外しの坂を転げ落ちかかってるような奴らを拾って、自分が経営する土建の会社に雇い入れるってことを長年やってました。それでそこそこ見られるようになった奴もいますが、裏切られたこともたくさんありましたよ。七十まで現場に立とうと思ってたんですが、癌を患っちまってね、それもままならなくなっちまったんですよ。それで会社は、信用出来る後進に譲渡して、私は引退です」壮年男は語ると、踵を改札口へ軽く向けた。

「お姉さん、どうか一期一会ってもんを大切になさって下さい。それを大事にすることで、幸せの道ってものは開けるんです」斜めの横顔を恵梨香に向けた男は、丸い背中を見せ、ボンベバッグを引いて、妻に手を添えられて改札へ歩み去った。恵梨香は、その姿が見えなくなるまで、目で見送った。姿が見えなくなる頃、つい先しがた、父にやったように、深い辞儀をした。

 男の話に登場した、語彙表現的に中年と思われる男と、障害者だと言っていた女子のカップルは、恵梨香の中ではどうにも、それが父の豊文と「なみさん」であったこと以外のイメージが思い浮かばなかった。

「あの、お嬢さん」電動車椅子の男が、改札に向かって辞儀をしている恵梨香に声をかけた。恵梨香は腰を折ったまま、男を振り返り見た。

「お嬢さん、去年、西船で会わなかったかな‥」男に向き直った恵梨香は、顔を俯けて、かすかな頷きを返した。

「ありがとうね。助けていただいて。顔を見た時にすぐに分かったよ。あの時のお嬢さんだって」恵梨香は目を構内の路面に落としたままだった。

「あの時の君の目には、物凄い憎しみの光があったけれど、今は優しい目をしているね。顔に、人を助ける相が出てるよ。あの時から、いろいろあったんだね」

 恵梨香はそれには答えず、また辞儀をし、踵を駅の階段に向けて歩み出した。

「お嬢さん! どうか幸せにね! 今日のことは、僕は忘れないよ!」 
 
男の投げる言葉が、去っていく恵梨香の背中を打った。五ヶ月前、京成西船近くの歩道で、仲間達と絡み、嚇した時のことが思い出され、心の奥底からの恥を感じ入り、それが詫びの言葉を省略させていた。

 市川の、ステイしている家に着いたのは、十八時過ぎだった。ただいま、と言って、上がり待ちに入ると、美春が満面の笑顔で出迎えた。お帰りなさい、という裕子の声とともに、カレーの匂いがした。

「今日は、かじきのカレー風味よ。もうすぐ出来るから」「うん」裕子が、じゅう、と音を立てるフライパンの上に載ったかじきを菜箸で返しながら言い、恵梨香は頷いた。彼女のアウターの裾を、美春が、きゃきゃ、と笑いながら掴んで引いている。

 それから恵梨香は美春と一緒に入浴し、カレー粉とパン粉をまぶして焼いたかじきとブロッコリーサラダ、麦飯、とろろ、野菜の味噌汁の夕食を済ませ、あてがわれている六畳の部屋で、介護職員初任者研修の勉強を始めた。

 時折休憩を入れながら二時間ほど勉強してから、リビングへ行った。テーブルでは、入浴を終えて寝間着姿になった裕子が保護司の勉強テキストを開き、赤い半透明のアクリルプレートをずらしながら、唇をぷつぷつと動かしていた。

「レモネード、飲む?」裕子が言い、テキストから顔を向けた。

「今日は、戸惑った。でも、嬉しかった‥」テキストと、断熱ガラスのカップに入った二つのホットレモネードを前に、恵梨香はこぼし、裕子は優しく眦を下げた顔をしていた。

 恵梨香は、今日の日に父から聞いた内容を裕子に話した。割愛箇所はなかったが、その中身の織り成しは、恵梨香にも分かっての通り、過去の裕子には遠い世界のことではない。恵梨香の話をじっと聞く裕子の表情には変化がなかった。聞いたありのままを呑み込むような面の持ち方だった。

 そこへ寝室で起きた美春が来た。裕子は立ち上がり、彼女の分のミルクをコップに注ぎ、椅子に座った美春の前に置いた。美春はコップに顔を寄せて、ミルクを啜り込んだ。

「それはお父さんが、ずっといろいろなことに対して、地道に真面目に打ち込んできた人だからよ」「え?」裕子が言い、恵梨香が短い疑問符を返すと、コップを小さな両手に握った美春が、かすかな興味の光が見える目で母親を見た。

「自分が死ぬかもしれないっていう恐怖と戦って、罪を作ってまで愛する人を守り抜こうとしたのよ。お父さんは、物凄く怖かったはずよ。だって、自分の命が的にかけられてたんだから。恵梨香ちゃんの知らない所で、その怖さに泣いていたかもしれないのよ。だけど、守るっていう愛の論理だけで、怖さに立ち向かって、その愛する人を最後まで立派に守ったの。これは、やるべきことをきちんとやり抜くっていう、本当の意味での根性がなければ出来ないことなんだから」述べる裕子に、美春の目が注がれている。彼女が母親が述べていることの意味をどれだけ拾っているのかは分からない。だが、美春は美春なりにそれを拾おうと努めようとしているのかもしれない。

 自分の親を含む人間達への不信が自らを悪鬼の道へ引き、罪のない他者に地獄を与え続け、それを強制清算させられたという母の半生を知っているからこそ、その親の述べを懸命に理解しようとしている。ほぼ全く同じ中身をした地獄の少女時代を背負う恵梨香には、分かる思いがする。

「恵梨香ちゃんのお父さんは、三十何年前にもてはやされたタイプの男の人とは、確かにタイプは真逆の人のはずよ。だけど、大っぴらに標榜されるものは、みんなその実体がないものなのよ。二言目には根性がどうだ、漢気がどうのって言って、必要以上に自分の男らしさを強調する男の人は、たいていが女々しいものなの。危機に陥った時に問われるものは、その人がこれまでどうしてきたかっていうものなの。昔の私みたいな、怠けて生きてる人には、誰かのために自分の身の安全も顧みないで、命を張るなんてことは出来ないんだから」「そうかな」「そうよ」テーブルに間が落ちた。

「裕子さん。私、自信が持てないんだ」恵梨香はレモネードを一口啜りざまに呟いた。

「当たり前だけど、私は男の人に対する恐怖心が、たったの半年前まで拭い去れてなかったんだ。今はいろいろなことの整理がつきかけて、それがだいぶ和らいできたんだけど、いつか、誰か男の人を自分の体に受け入れることになる時、昔が噴き出してきちゃうような気がして、それが不安なんだ。その人が、どれだけ私のことを思ってくれて、愛してくれるとしても、その人がいい人だったらいい人の分だけ、私が応えてあげられるかどうかが、分からないんだ。だって、私は、二回も、自分の子供を自分で‥」「恵梨香ちゃん‥」裕子が優しく挿した。

「子供に罪を作った私が、子供を産んで育てるなんて」「恵梨香ちゃん、それはその時の恵梨香ちゃんなりの、追われてやむなくのことだったはずでしょう? 自分が望まない目に遭って、望まない赤ちゃんが出来て、まだ子供の恵梨香ちゃんには、そうする以外の方法はなかったんだよね。その時の恵梨香ちゃんが、どんな思いでいたかは、私にはよく分かるの。でも、今、こうしてそういうことを省みて、整理してる恵梨香ちゃんがいることが、これからのあなたの未来にとって大きいのよ。何故なら、今の恵梨香ちゃんを、本当に心のある人は誰も軽んじはしないから」「裕子さん、でも、私は」「いいの」裕子の手が恵梨香の手に載った。美春がコップを口に着けながら、隣の恵梨香を振り返って見た。何が話されているかは、雰囲気で充分に察しているらしい。

 中年と若年の二人の女と少女が集うリビングに、号咽が鳴った。泣き咽ぶ恵梨香を、裕子が後ろから抱きしめた。泣く恵梨香の頭を、美春の小さな掌が撫でていた。三人が暮らす借家の灯りは、泣き続ける恵梨香と、それを理解する裕子と美春を優しく包んでいた。
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