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12章
野望と怨瘴
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一方のワンツーを、もう片方が、巧みな体捌きのみで流す。やがて、先まで捌きに回っていた男は、相手のキックを掬い上げ、開いた金的に掌を打ち上げ、呻いて前のめりになった相手の耳後ろに手刀を打ち下ろす。
もう一組は、一方が、後ろ回し蹴り加減のキックを繰り出し、もう一方が、その脚を関節方向へ曲げ、そのまま躰ご相手を押し、前方へ倒し、後頭部に左右の拳をぶち込む。
離れた場所では、並ぶ人型の藁にナイフを刺突する訓練を行っている者らもいる。
あの三日間の戦から生存した、ここにいる兵徒達は、双方組織の第二長同士がウインクを交わしていることを知る由もない。
カーキ戦闘服の上にハーフコートを掛けた姿の賢は、ブリキで建てられた練習場で行われている部下達の自主戦闘訓練をしばらく眺めると、涼しい表情で、コートのポケットに両手を差し入れ、肩向きを返した。
これから、悟実を抱きに行くためだった。
「ボンバ銅貨が八だ。今日はオフにしてやるから、自由に使え」
兵徒達が住み込む大長屋の離れに、雄大の住むスイートが与えられている。塗炭造りの四畳一間だが、一人で棲むことが出来るだけ、良い。
そこへやってきた砂山が、言って銅貨を差し出した。
「もらって、いいの?」「馬鹿なことを訊くもんじゃない。やるから出してるんだ。あの三日間、充分以上に正規の片鱗を見せて、戦力として役に立ってくれた報酬だ。これは俺のポケットから出てるもんだ。受け取れ」
雄大は、おずおずと手を伸ばし、八枚の銅貨を受け取った。
「あり、がとう」「習北に、深海通りって花街が開けてる。俺達、明座商会の経済的基盤の一つだ。そこでいっちょ、女でも抱いてこい。一戦交える前に、永山の親爺のステーキ屋で腹ごしらえすんのもいいだろう」「はい」雄大は、ぎりっと銅貨を握りしめ、目を瞬かせながら、敷居を見つめるように俯いた。
「何だ、その不安げな面は。お前、やり方知らねえとかじゃねえだろう?」砂山に問われた雄大は、えっ、という声を発して、顔を上げた。
「知ってるよ。これでも、一回、体験、してるもの」雄大が答えると、砂山はかはっと笑った。
「そうか。非童貞なら問題ねえな」
雄大はまた俯いた。
「自信持て。お前のその面は、粗末なちんぽこ持ちの面じゃねえ。見たことねえなりに言わせてもらったぜ」砂山は言い、肩向きを返した。
「お前は、もう黒土の徒なんだよ。奪われることに甘んじてる人間じゃねえ。支配を敷く側の人間なんだ。だから、そんな面をするな。だからこそ、近いうちに手伝ってもらいたいことがあるんだ」
砂山は雄大にスーツの背を見せ、二、三、歩進んだのち、彼の顔を肩から見た。
「黒土は、場合によっちゃ、てめえらの上部にも容赦はねえんだ。前代の任侠と違ってな」
意味を含んだことを残し、去りゆく砂山の背中をしばし見た雄大は、また俯いた。
銅貨を握る掌には汗が沁みだし、力が籠った。
賢は、悟実の脚を肩に担ぎ、腰を縦に揺すり立てながら、命というもののことを考えていた。
デストラクション前、偏右政党が与党となるまで、特段、自分の安全を自分で守る必要には駆られぬ生活を送っていた。それがあの是政新党が政権を取ってから、変わった。
破滅が来る予感の中、家族、仲間が全て死に絶えて己一人の身となっても、生き残らねば、という誓いを立てていた。
だから、街中で民族の同胞が和人のグループに絡まれ、時に暴行を受けている様子を目にしても、見て見ぬふりをして通り過ぎた。そんなものは、賢にとっては他人事だったのだ。
その予感に従うようにしてダブルデストラクションが日本一面を焦土に変え、家族もクラスメイトも、皆、死に、齢稚くして一人の身の上となった。
やがて、酷薄な世界で自分が生き残るため、黒土に身を投じた。今あるこの生を、さらにそれに適ったものとして昇華させる。その内容は、カルテルの代貸同士で、隠密に打ち合わせている。
悟実は、賢の頸に腕を巻きつけ、伏せた顔の瞼を閉じながら躰を揺すられ、食いしばった歯の間から、仔犬の甘え鳴きに似た小さな声を断続的に発していた。
射精した賢は、悟実の躰を抱いたまま、褥に横たわり、小刻みな吐息を漏らす彼女の耳朶を、軽く、弱く噛んだ。耳を食まれた悟実が、呼吸の中に、あん、という声を混ぜた。
雄大は、北本町のバラック街に軒を構える、狭い坪数の「steak House ナガヤマ」で、先日に砂山と同席した席に着き、半分、生のやつ、とオーダーした。有線放送のBGMは、フォスターの「ネリー・ブライ」だった。
他に客がいないため、ものの数分の待ち時間で、ミディアムレアのランチセットが席に届けられた。
先日、砂山に連れられて来店した際、店主が自分に縋る目をしていたことは覚えているが、今日の夫妻は、一人の客である雄大に、何かを打ち明けあぐねている葛藤が限界に達している顔をしている。
雄大は、フォークで肉を留め、ナイフでそれを切り、ライスとともに口に運んだ。その間、葛藤の視線を、食事をする自分の肩と背中に痛く感じた。
「サービスの珈琲はいかがでしょうか。そのついでに、私達のお話、聞いていっていただけますでしょうか」残った肉の一切れを口に入れた雄大に、テーブル脇に来た店主が覚悟を決めた顔で言い、細君の手でソーサーに載ったカップが置かれ、サーバーから珈琲が注がれた。
「あり、がとう」「あなたが全開ここに来た時、これはあなたに話さずにはいられないと思ったものですから」店主は言い、深く瞼を伏せた。
「は? 夢?」二人、裸の躰を横たえる褥上で、賢は悟実に愛想なく問い返した。
「性別越えて、あいつと一つに溶け合うことかな。強いて言えば、な」「あいつ?」「ああ。あいつは男だ。けど、別れを前提とした、男、女の愛、恋なんてもんは鼻持ちならねえもんだって、ガキの頃から割り切ってたこの俺に、愛する、恋する人間の気持ちを、ただ出逢っただだけで教えてくれた奴だ。それが誰かっつうと」賢が答えを切り、悟実が寝返りを打ち、彼のほうを向いた。
「夢の話はこの辺で置いといて、現実的な目標はあるよ。それはこの俺が、躰に寿命が来るまで、この命を続かせることさ。とにかく、くたばるわけには行かねえ。その先も、俺の指揮で、何十、何百って命が飛ぶだろうよ。だけど、どれだけの人間を殺しても、嬲りものにしても、例え契りを交わした相手でも、場合によっちゃ手を掛けなくちゃならねえ。それでてめえの命を、確実に繋いでいかなくちゃならねえんだ。そのための手段は選ばねえよ。急ぐ時だ、今は」賢は述べて立ち、ブリーフを着けた。
「そのためには」言葉を切って、カーキのパンツを上げた賢を、悟実は聞き手に徹した態度で、褥の上から見上げていた。
「私どもには、娘が一人、いました」
湯気を立てる珈琲には、なかなか手が付かなかった。雄大は、そのワンセンテンスから、悲しく、忌まわしい内容が語られることを察した。
「あの大震災も、そのすぐあとの核戦争も、幸いにして親子三人で生き延びて、商売をする人に護衛が付く町があるっていう情報を人づてに聞いて、神奈川からここまで移動団で来ました。それが六年前です。傾き、焼けを免れた店を使って、部分的に復旧した畜産業、農業、運送業を頼りに、この店を始めました。これで何とか、ここで生活を営むことが出来ると信じていました。だけど先に話した護衛というものが、黒手だったんです」
店主が瞬きを繰り返し、妻は顔をさらに深く俯けた。
「辻にたむろするチンピラの類いや、言い掛りを付けてただ食いするような、悪質な客から店を守ってもらうために、銅貨の保護料を払っていました。だけど、そこの頂点にいる男が来て、今日から銅貨はいらない、その代わり、娘をよこせと言いました。そいつや、高い地位にいる幹部の身の回りの世話をする係だという話でした。それをやれば、十年分の保護料を支払ったことになると、あいつ、明座は言いました。娘は、行きます、と答えました。それはひたすらに、私達、親を扶けるためだったはずです。私達は娘を奴らに差し出しました。十九歳の娘を」
店主が声を詰まらせた。俯く妻の頬には涙が光り始めていた。
「娘は、あいつらに手籠めにされました。初めに明座に犯されて、そのあとで、あいつの子分達に輪姦されて、それから奴らが経営する売春宿で客を取らされて、梅毒で死にました。遺体は、こちらに返されませんでした。そればかりか、明座は、娘があいつと、その子分どもに、十数人がかりで辱められてる動画を、わざわざ見せに来たんです。やめてくれ、と言ったら、頭に銃を突きつけられて、一人の娘が輪姦されてずたずたにされる様子を、最後まで見なくてはいけませんでした。動画の中で、奴らは、泣き叫ぶ娘の肛門まで犯していました」
店主は涙の声で述べた。妻は号泣を始めた。
「こんな仕打ちを受けながら、私達の店は、明座が落としていく銅貨で保ってます。これがどれだけ屈辱で、悔しくて、悲しいことか。だけど、私はしがない商売人です。具体的意味での力もなければ、武力も、組織力もない、気の弱い、人のいい飯屋の親爺です。あのデストラクションは、生き延びた人間をことごとく、あの政権のスローガンに倣うようにして、我が身第一の鬼に変えました。その鬼のために、娘は死にました。私達には、日々、心の中で、娘を弔い続けることしか出来ません。だから」店主は嗚咽を懸命に堪え、切り出した。
「あなた様は、まだ人間らしいお顔をしております。黒手の奴らは、どの顔を見ても、それが失われています。それはあいつらとて、第一に自分の身を守っていかなくてはいけない現実に直面しながら生きてるためです。私達は、あの男を殺すことを、人の相を失くした人間に委ねたくはないんです。人間らしい心を残す方に、それを託したいんです」
雄大は、冷めかけた珈琲を、三口にかけて飲み干した。
「先日、お話に挟んだあなた様のお腕を買います。どうか、明座を殺して下さい。それに見合ったお礼を、必ず差し上げます」
雄大はテーブルに銅貨を置いた。
「お釣り、いらない」雄大は言い、ツァーリ・ボンバ銅貨をもう一枚置き、立ち上がり、踵を店の扉へ向けた。
出ていく雄大の背中を、夫妻の咽ぶ声が打った。
模擬弾を使用した射撃訓練が行われている。三人の兵徒が放つ模擬弾は、木製の人型に向かい、撃ち込まれていた。
砂山は、目と手のジェスチャーで、貸せ、と兵徒に促し、その手から、グロック17を受け取った。
人型の胸部に貼られたターゲットボードの、円の中心部に、砂山の放つ弾が、面白いようにばしばしと吸い込まれていく。マガジンの装弾を撃ち尽くす十七発が、円の中心をほぼ逃さなかった。
トリガーを引くごとに怒りを込めた。その念籠めは、実行が前提のものだった。自分はすでに、それをともに為すことが可能な共同作業者の身柄を手に入れている。砂山はグロックを兵徒の手に返し、地下二階の射撃訓練場を出た。
明座。砂山は組織長の名を、敬称抜きで呟いた。
旧習北の歓楽街、通称深海通りは、生気のない顔と躰恰好をした比較的若年から、中壮年の男達が、死人のようにそぞろ歩き、行き交っていた。旧商店街には、様々な趣きを持つ、塗炭とモルタル造りの店が並ぶ。「生ビールとうら若き乙女のサービス」というビルボードを掲げた店もある。
雄大は、傾いた団地の棟群を前に臨む「ピュア・カチューシャ」という号名の店前で足を止めた。「ピュア・ガールズの店」という垂れ幕を潜り、店に入ると、蝶ネクタイにベストの黒服が、いらっしゃいませ、と声掛けし、制服ドレスを着た、顔付きが普通の人のものと違う女達の昏い目線が雄大を出迎えた。その女達のふくらはぎ部分には、蜘蛛が彫り込まれている。前代のコンビニエンスストア程度の坪数を持つ、七色のイルミネーション・ライトに暗く照らされる店内中央には、円台が置かれ、そこにネームカードを首から提げた女達が載せられている。
雄大は、銅貨は払っても、女は抱くまいと決めていた。自分の心が欲望のために汚れる行為は、あの店で悟実と一つになった、あの時で終わりにしたかった。
「急だけど、二日後で、そちらのトップは納得するかな」雑音の混じる通話口に、砂山は声を送った。
両サイドが荒れ果てた墓地となっている、緩いカーブの車道沿いだった。
「問題ねえと思う。場所は緩衝地帯、饅頭埋めた公園跡でセットアップするか」通話口向こうの賢が答えた。
「うちの組裁は、そっちの組織を呑み込んでやるって息巻いてるぜ」「そりゃそうだな。どちらも同じだよ、てめえに有利な条件で講和に持ってこうとしてるのは」「明後日は、是非とも上手くやろう。ところで、あとの身の振り方は、砂山さんは考えてんのかい?」賢が問い、砂山は小さく笑った。
「親父を弔ったあとは、どこかで茶人でもやるさ」
雄大は、円台左端に座る、春菜、というネームカードを下げた、自分よりも数歳若いと見える色白の女子を手で指し、指名します、と、黒服に声を掛けた。
「お目が高いですね。この子は、腰遣いとオーラルが抜群です。性格も、この中では一番従順で、お客様の申しつける欲求には、どんなことにも応じますよ」黒服が愛想なくぼそぼそと言い、雄大は春菜の顔を見つめた。切り加減の雑な、肩口に届かない髪をし、顔立ちは可愛いが、顔を俯け、瞼を伏せたきりだ。皆、一様に表情に明るみがないが、この娘は、一際に暗い。可愛い顔に暗い居ずまい。それが客のサディズムを引き出すのだろうと思われる。
「料金は、前払いでお願いしております。お部屋は二階になります」黒服が言い、雄大は提示されたボンバ二枚の銅貨を、差し出されたカルトンに載せた。
「行こう」雄大は春菜の手を繋ぎ、促して、円台から下ろした。
三日間の戦役に参加し、オフの身となった鹵は、何ということもなく、湊一帯をハーレーで流していた。前代に海運港であった波止場で海を眺め、かつて本町と呼ばれた通りを、南から北まで突き切った。旧民鉄駅のコンコースには、生き屍同然となったドーザー達がたむろし、赤いホステスドレスを乱れさせた、女のミイラ化した死体も転がっていた。
北の汚物窟へ行けば、面白い見物がある。篠総業兵徒との雑談のかてら、仕入れた話。
予感を強く覚えていた鹵は、兵徒から教えられた、前代に、新、という名前の付いていた区域へハーレーを走らせた。青龍刀とマシンピストルの武装はわすれてはいない。道すがら、住処がなく、公社の支援からもあぶれた襤褸者達が、旧アベニューに固まっている姿を見た。具体的な力、組織の力。それは伊佐岡らに両親を嬲り殺しにされた時には、すでに始まっていた世界。
傾き、折れ曲がった、電線をすでに有していない鉄塔が倒れ乱れる、元は農地であった地域に、その窟はあった。
その1キロ前に差しかかった時に、鹵の鼻を糞の臭いが突き始めた。その強度は、垂れ流しの糞がフロアに擦られた、女の屍のある旧コンコース、死窟の数倍だった。
元は畑であったらしい痩せた土の中に、1・6ヘクタールほどの広さを持つ池が掘られ、そこには糞が汲まれていた。ゲル状をした軟便の溢れ返る池の中に、一台の車が沈められ、ルーフを覗かせている。痩せ土の上には、人糞が一面に転がり、その空間狭しと、数千匹もの肥えた金蠅が羽音を立てて飛び交う。
池の周りには、子供の年齢域にある者も混じる、伸び放題のぼさついた髪をし、襤褸になりかけた衣服を着た若者達が、立って鹵を見ていた。食糧、被服、医薬品の供給支援を行う復興公社も厭悪するため、新しい衣服などが行き渡らないのだろう。
この界隈域に棲む者達は、片言にもならない言葉と、叫び、唸りで意思の疎通を図っているのだと聞いている。幼い頃、あるいは生まれる前に起こったデストラクションにより、ここに流れ着いてホルドを形成した自然児であり、原人。
その稚い原人達に、鎖で首を繋がれ、割れた竹で尻を叩かれながら、引き回されている男がいた。男はパンツ一枚の姿で、引き回されながら、顔、背中に唾を吐きかけられていた。
あい、おうおう。あい、おうおう。鎖を持つ若者が発している言葉は、はい、どうどう、らしい。
知能も平均値まで発育していない、子供も混じる者達から、馬、犬の扱いで玩具にされている、忘れまいと心に刻みつけた昆虫顔をしたその男が、中年域の齢となった伊佐岡であることに気づいた鹵の心には、特に大きな感慨は起こらなかった。生じた気持ちは、冷水のような蔑意のみだった。
「おい、お前ら」鹵は原人達に日本語で呼びかけた。原人達が一人づつ、鹵の顔を振り返り見た。
「恵んでやっから、そいつの身柄、俺に渡してくれっかな」鹵が言って、棒状であったり、なると状であったり、様々なひられ姿をした、表面に白い蛆が蠢く糞が散らばる土の上にばら撒いた銅貨を、原人達が争って奪い合った。
銅貨を手にした原人達は、喃語のような声を交わし、それを見せ合った。その時、四つ這いから立位になった伊佐岡が、ひい、と声を発して寄ってきて、鹵の腕に縋った。
「助けて」伊佐岡は言い、掴んだ鹵の腕を揺さぶった。
「安全なシェルターが出来たとか言う、たちの悪いネタ屋に騙されてここに来たら、こんなことに。あれは俺の車だ」伊佐岡は、糞池に沈む車を指差した。
「くたばれよ。俺はあの日、フラナガンズでお前とその手勢に、目の前で寄ってたかって、親父とお袋を嬲り殺しにされた中学生だよ」鹵が言うと、伊佐岡の顔が見る見るうちに改まった。
「助けて下さい」「糞の池に飛び込め。お前が泳いでる間に考える」鹵はマシンピストルを腰のホルスターから引き抜き、伊佐岡の顔に突き当てた。
伊佐岡はのろのろと糞池まで歩き、踏み入った。糞池に腰まで浸かった伊佐岡の背中に、鹵は銃口を向け、泳げ、と命じた。伊佐岡は平泳ぎを始めた。辺り一面に飛び交う金蠅の群れが、一層大きな羽音を立てた。
「しに、来たんじゃないんだ。お話が、出来る、だけで、いいんだ」
窓が封じられ、ピンクの照明に照らされる、モルタル壁の部屋だった。封じられた窓の前に、枕が二つ並ぶベッドが置かれている。
春菜は、雄大と向かい合い、正座をしながら、顔を俯けている。
「私のお話、聞いてくれる?」二分ほど流れた黙ののち、下を向いたままの春菜が切り出した。
伊佐岡は、重い糞を躰にまとわりつかせ、懸命に糞池を周泳した。体力が尽き、沈んだ車を掴むたび、マシンピストルのトリガーが引かれ、跳ねる糞を、糞塗れの顔に浴びた。
「俺がやめろっつうまで泳げ」鹵が言い、伊佐岡は必死の形相で、泳ぎをクロールに変えた。
だいぶ時間が過ぎ、伊佐岡は顔を糞泥に埋め、痙攣を始めた。痙攣しながら、躰向きを空のほうへ返し、仰向けに浮いた。すでに相当量の糞を飲んでいる。
鹵は伊佐岡の顔に向け、マシンピストルを連射した。伊佐岡の頭蓋が割れ、骨皮片と脳片、飛び出した眼球が糞池に飛び散った。
終わった。デストラクション以降、百の台に達する鬼子の命を消し去り、今日まで最も憎悪してきた男の命を、今、葬った。
このあとに残されていることは、まず、篠、明座の手打ち式が終わったのち、悟実と二人になること。
銅貨を手にした原始児達は、手を叩いて喝采した。
銃口を下ろした鹵は、革袋の中にある銅貨を全てばら撒いた。原始児達は、思いがけぬサービスに歓喜し、まるで前代のだいぶ古い時代の建て前のように、我先、我先、と銅貨を拾った。
頭部、顔部を破壊された伊佐岡の死体は、風に揺られて糞の池面を漂っていた。
「俺がこれを使うことは、もうねえから」鹵は言ってハーレーに跨り、ギアを蹴り、スロットルを搾った。
「この躰、見て」ドレスを脱ぎ払い、全裸になった躰を、春菜はまず前面から見せた。乳房、腹部には煙草の火を押しつけられた痕が散っていた。
躰を返し、背面を見せた。背中、尻には、蚯蚓腫れのような疵、ベルト、あるいは鞭のようなもので打たれた痕が残っている。尻には、高温のハンダのようなものを押しつけられたような火傷もあった。
「このお店は、お客さんに反抗出来ない子だけが働いてるんだ。お客さんが銅貨払って、お部屋にいる間は、お前達はお客さんの物だって教えられてるの。お客さんは、みんな、黒手、怖がってる。逆らえないから、みんな、自分よりも弱い相手、虐めて、鬱憤晴らしてる」春菜は述べ、雄大の前に正座で座り直した。
「私のお家は、線路の近くで畑をやってたんだ。それでつくった野菜売って、銅貨、稼いでた。ご飯は、お米の代わりにお芋、食べてた。そうやって暮らしてる時に、明座商会の人達が来たの」
雄大は息を詰めた。これから語られる話は、今の想像以上だろうと思えた。
「俺達に断りなく商売やってること、赦してやる。だけど、条件がある。それは今からショーを見せて、俺達を悦ばせることだって、一人の人が言ったの。それは最初に、お父さんとお兄ちゃんが、男同士のあれをやることだったの」
雄大の躰が、おこりのように震え始めた。
「お父さんとお兄ちゃんは、機関銃で狙われて、裸になって、べろ入れるキスさせられて、それから、お兄ちゃんが、お父さんのおちんちん、舐めさせられたんだ。それが終わると、二人でシックスナインさせられたの。お兄ちゃんは、嫌だ、嫌だって泣いてて、お父さんは、逆らうな、逆らうなって、ずっと言ってた。お父さんも涙流してた。私とお母さんは、機関銃当てられて、それ、見せられた。明座の奴ら、それ見て笑ってた。そのあとで、お父さんのおちんちんが切られて、お兄ちゃんは、耳と鼻、切られたの。それで、お父さんとお兄ちゃん、死んだんだ。そのあとで、お母さんと私、二人一緒に姦られたんだ」
春菜の声が震えを帯び、雄大の呼吸が詰まった。
「それから、お母さんは大きな刀で、首、落とされて殺された。婆あはうちの売り物にはいらねえからって言われて。私は本部っていう所連れてかれて、この足の蜘蛛、入れられて、それからずっと、ここでお客さん取らされてるの」
雄大は、震える両手を、春菜の躰に向かって差し伸べた。触れた彼女の躰は、しんと冷えていた。
「こうして、あげる」雄大の腕が、疵を刻んだ春菜の躰を抱きしめた。彼女の躰は、雄大の腕と胸の中で、糸が切れた操演人形のように力を失せさせた。
「時間まで、こうしていよう」「キスして」雄大の目を見た春菜がせがんできた。
「どこでもいいから、キスして」
雄大は春菜の頬を両掌に包み、彼女の頬に接吻をした。春菜が雄大の胸に崩れ、嗚咽を圧した呼吸を立て始めた。雄大は、波打つ彼女の背中をさすった。
「僕も、明座商会の、サブ」雄大が言うと、春菜が濡れた顔を彼の胸から上げた。
「サブになったのは、あいつ、殺すため。僕も、あいつに、お父さん、殺されたんだ」
春菜の濡れた眼に、不思議なものを見たような光が瞬いている。
「あの糞野郎、屑野郎、僕が、殺す。その、日取り、もう、決まってる」雄大が言葉に鬼の気迫を籠めた時、声の圧しを解いた春菜の熱の瀧が、雄大の胸に落ち始めた。雄大の両眼からも、粒の大きな涙が流れ出し、頬から顎下まで伝い、熱のつぶてとなって落ち注がれていた。
人を象った藁が、三体、自分を囲んで並んでいる。砂山は、居合刀で、中央の藁の首を刎ねた。落ちる首を視界の隅に捉えながら、左端の藁を、返しの逆手で、逆ノの字に、脇腹から肩口までを薙ぎ上げ、差し込み足で右へ移動、右端の藁を袈裟懸けに斬った。藁人が斜めに切断され、断たれた半身が足許に落ちた。砂山は刀身の光を見つめながら、父の思い出を脳裏に瞬かせた。
砂山の父親は、世間一般で言うところの暴力団の組員であったが、傍から見て苛々するまでのお人好しの性格故、五十歳を過ぎても出世の見込みがない、的屋系指定団体の平組員で、一人息子の砂山は、その父が四十代半ばと遅くに出来た子供だった。
母親の顔は知らない。聞いた話では、酒を出す店で男の相手をする仕事をしていたようだが、今の砂山は、子供を普通に養育出来ない人であったために、父が乳児の砂山を引き取り、男手で育てていくイクメンの道を選んだのだと思う。
父親は、条例で鎬を奪われても、詐欺や薬物など人の道を踏み外したものには決して手を出さず、キッチンカーの屋台を生活手段としていた。売り物は、お好み焼き、たこ焼き、焼きそば、アメリカンドッグ、フランクフルト、ソフトクリームだった。二間のアパートに父子二人で住みながら、慎ましい暮らしを送っていた。砂山は、通信制高校で学びながらコンビニエンスストアでアルバイトをし、生活を扶けていた。
ある夜、二人の住む号室に、私服の刑事が一人と、制服の巡査二人が来た。刑事は父に、三年前の恐喝で逮捕状が請求されている、と告げた。砂山には、現場を見ていない以上、その事実は分からない。だが、父がそういう罪を犯すような人間性をしていないことははっきりと分かっていた。
その時、うち一人の制服巡査の外見的特徴は、しっかりと記憶に焼きついた。2メーター近くの身長、力士、あるいはレスラー並の横幅、下顎前突症のピラニア顔、下顎に並ぶ千枚通しの歯、変形した拳。
ここで聴取を行うという旨のことを私服警官は言って、いきなり父の腕を取り、玄関から部屋に押し入ろうとした時、父がそれを振りほどいた。
公妨だ。私服が言い、暴行が始まった。巨体を持つピラニア顔の巡査が、父のシャツの裾を掴み、足払いを掛けた。
倒れた父の腹を、その男は蹴り込み、躰を海老曲げして呻く父に馬乗りになり、襟締めを掛けた。
非力な稚い砂山は、やめて! と叫び、その男の背中に縋りついた。それを刑事ともう一人の制服警官が引き離し、砂山は二人掛かりで躰を組み伏せられた。
ピラニアによる襟締めは五分ほど続き、父は青くチアノーゼを起こした顔をくたりと傾け、声を発さなくなり、四肢を痙攣させ始めた。その時の臭いで、父が脱糞したことが分かった。
臭え。こいつ、糞漏らしてやがる。父が躰の動きを止めたところで襟締めを解いたピラニア顔が、嗤いながら吐き捨てた。
躰の拘束を解かれた砂山は、父に縋って、お父さん、を連呼して、泣き叫んだ。それをピラニア顔が、嘲りの口真似をし、三人の警察官はどっと笑った。
その頃、警察官の怠慢、不祥事も、世間を騒がせていた。なり手不足から、資質に乏しい人間が大量採用され、士気も真摯さもない人間が現場に配置されていたのだ。
砂山は、ただ泣くことしか出来なかった。まだ稚く、殴り合いの経験すらない、無力な子供の身だった。
三人は、動かなくなった父を検めるように見下ろし、やりすぎたか、という旨の会話を交わし、無線で救急車を要請した。
救急車が来た時、父はまだ息があるようだった。三人の警察官は、意識が戻り次第、柔道場で取り調べだ、と残し、不逞な歩き方で去った。ピラニア顔の巡査が、涙の顔で立ち尽くす砂山を振り返り見て、せせら笑いの顔を向けた。
父は、救急車の中で死亡が確認された。
父を直葬にし、共同墓地に埋葬した砂山は、ピラニア顔、その他二人の警察官を刑事告訴することに決めた。検察庁に書面で被害を訴え、捜査が始まった。だが、三人の警察官は不起訴処分となった。彼らが行ったことは職務上の正当行為であり、きちんと救急車を呼ぶ後処理も怠らなかったことが証明されたのだ、ということだった。また、その時、砂山が弁護士を付けなかったことも敗因だった。
それから砂山は、通信制高校を退学し、居合道を古武術を習い始めた。十把一絡げの外国人排除、障害基礎年金、生活保護費の減額政策が始まり、「障害者は甘い汁を吸って生きている」「発達障害などただの甘え」という言わんの政策方針を指示する若者達がSNSで繋がり、暴力グループを結成し、社会的不利を抱える人々への迫害が全国に拡大した頃だった。
その二年後、日本、世界をデストラクションが襲い、無政府の焦土が全土に拡がった。
砂山は、唯の一人で、懸命に命を繋いだ。食料品を賭ける試合のリングに上がり、男に躰を販ぐ男娼もした。至る所で凶徒達が殺し合い、縄張を拡げていく中で。
あの夜、父の命を奪った巡査と同じ特徴を持つ男が、房総の私鉄沿い区域で黒手組織の一家を構えているという話を、情報屋の男から手に入れた。それは数えて五年前のことだった。
それで東京圏の一県から、房総へ渡り、その姿を確認した砂山は、明座商会の準兵徒となった。明座は、砂山の顔を見た時、一瞬だけ見覚えの顔を見る顔をしたが、よくあるそら似として処理したようだった。
それから、私的な恨みもない者達を。幾十、百と手に掛け、非道なことにも加担することで明座の信用を獲得、四年という異例の早さで、兵徒達を束ねる立場にのし上がった。
その中で、それから警察官を退官した明座が、株主配当金を貪って、高級マンションに住み、高級外車を乗り回し、部屋に毎晩女を呼び寄せる無職の暮らしを送っていたこと、デストラクション後は凶賊団を率いて、各地のシェルターやコロニーを荒らし回っては残虐の限りを尽くし、そのグループを母体に明座商会を立ち上げたことも知った。
居合刀を片手に、半身を斬り落とされた藁人を睨んでいたところで、フォンが着信音を鳴らした。
「おう、次代組裁」「次代じゃねえさ。全くもって真新しい組織の総裁だ」通話口向こうの賢は、弾んだ声で答えた。
「日取りとショバを、うちの組裁は納得したよ」「こちらもだ」「明後日は、是非とも首尾良く、派手な花火を打ち上げようぜ」「ああ、俺が茶人への道を歩み出す、新しいスタートの日だ」砂山が言うと、賢が小さく笑った。
「般人になるってことでいいんだよな」「黒土はもうやり尽くした。全ては、親父を弔うためだった。それだけのためにこれまでがあった」「こんな世界でも、人生いろいろだな」
賢は、荒野に一片残るビル片に背中を預けていた。
「俺は関東一円のシーザーになるぜ。これだけが、俺がてめえの命を、これからもてめえで繋いでく手だからな。俺には他はねえ。他は、一切ねえんだ」
遠くに廃ビル街、遙かに富士山の山体が薄い姿を浮き上がらせる荒地に、一陣の風がごう、と吹き抜けた。
「一切、な」風により、低くビブラートする賢の声が、通話口に悲しく消えた。
もう一組は、一方が、後ろ回し蹴り加減のキックを繰り出し、もう一方が、その脚を関節方向へ曲げ、そのまま躰ご相手を押し、前方へ倒し、後頭部に左右の拳をぶち込む。
離れた場所では、並ぶ人型の藁にナイフを刺突する訓練を行っている者らもいる。
あの三日間の戦から生存した、ここにいる兵徒達は、双方組織の第二長同士がウインクを交わしていることを知る由もない。
カーキ戦闘服の上にハーフコートを掛けた姿の賢は、ブリキで建てられた練習場で行われている部下達の自主戦闘訓練をしばらく眺めると、涼しい表情で、コートのポケットに両手を差し入れ、肩向きを返した。
これから、悟実を抱きに行くためだった。
「ボンバ銅貨が八だ。今日はオフにしてやるから、自由に使え」
兵徒達が住み込む大長屋の離れに、雄大の住むスイートが与えられている。塗炭造りの四畳一間だが、一人で棲むことが出来るだけ、良い。
そこへやってきた砂山が、言って銅貨を差し出した。
「もらって、いいの?」「馬鹿なことを訊くもんじゃない。やるから出してるんだ。あの三日間、充分以上に正規の片鱗を見せて、戦力として役に立ってくれた報酬だ。これは俺のポケットから出てるもんだ。受け取れ」
雄大は、おずおずと手を伸ばし、八枚の銅貨を受け取った。
「あり、がとう」「習北に、深海通りって花街が開けてる。俺達、明座商会の経済的基盤の一つだ。そこでいっちょ、女でも抱いてこい。一戦交える前に、永山の親爺のステーキ屋で腹ごしらえすんのもいいだろう」「はい」雄大は、ぎりっと銅貨を握りしめ、目を瞬かせながら、敷居を見つめるように俯いた。
「何だ、その不安げな面は。お前、やり方知らねえとかじゃねえだろう?」砂山に問われた雄大は、えっ、という声を発して、顔を上げた。
「知ってるよ。これでも、一回、体験、してるもの」雄大が答えると、砂山はかはっと笑った。
「そうか。非童貞なら問題ねえな」
雄大はまた俯いた。
「自信持て。お前のその面は、粗末なちんぽこ持ちの面じゃねえ。見たことねえなりに言わせてもらったぜ」砂山は言い、肩向きを返した。
「お前は、もう黒土の徒なんだよ。奪われることに甘んじてる人間じゃねえ。支配を敷く側の人間なんだ。だから、そんな面をするな。だからこそ、近いうちに手伝ってもらいたいことがあるんだ」
砂山は雄大にスーツの背を見せ、二、三、歩進んだのち、彼の顔を肩から見た。
「黒土は、場合によっちゃ、てめえらの上部にも容赦はねえんだ。前代の任侠と違ってな」
意味を含んだことを残し、去りゆく砂山の背中をしばし見た雄大は、また俯いた。
銅貨を握る掌には汗が沁みだし、力が籠った。
賢は、悟実の脚を肩に担ぎ、腰を縦に揺すり立てながら、命というもののことを考えていた。
デストラクション前、偏右政党が与党となるまで、特段、自分の安全を自分で守る必要には駆られぬ生活を送っていた。それがあの是政新党が政権を取ってから、変わった。
破滅が来る予感の中、家族、仲間が全て死に絶えて己一人の身となっても、生き残らねば、という誓いを立てていた。
だから、街中で民族の同胞が和人のグループに絡まれ、時に暴行を受けている様子を目にしても、見て見ぬふりをして通り過ぎた。そんなものは、賢にとっては他人事だったのだ。
その予感に従うようにしてダブルデストラクションが日本一面を焦土に変え、家族もクラスメイトも、皆、死に、齢稚くして一人の身の上となった。
やがて、酷薄な世界で自分が生き残るため、黒土に身を投じた。今あるこの生を、さらにそれに適ったものとして昇華させる。その内容は、カルテルの代貸同士で、隠密に打ち合わせている。
悟実は、賢の頸に腕を巻きつけ、伏せた顔の瞼を閉じながら躰を揺すられ、食いしばった歯の間から、仔犬の甘え鳴きに似た小さな声を断続的に発していた。
射精した賢は、悟実の躰を抱いたまま、褥に横たわり、小刻みな吐息を漏らす彼女の耳朶を、軽く、弱く噛んだ。耳を食まれた悟実が、呼吸の中に、あん、という声を混ぜた。
雄大は、北本町のバラック街に軒を構える、狭い坪数の「steak House ナガヤマ」で、先日に砂山と同席した席に着き、半分、生のやつ、とオーダーした。有線放送のBGMは、フォスターの「ネリー・ブライ」だった。
他に客がいないため、ものの数分の待ち時間で、ミディアムレアのランチセットが席に届けられた。
先日、砂山に連れられて来店した際、店主が自分に縋る目をしていたことは覚えているが、今日の夫妻は、一人の客である雄大に、何かを打ち明けあぐねている葛藤が限界に達している顔をしている。
雄大は、フォークで肉を留め、ナイフでそれを切り、ライスとともに口に運んだ。その間、葛藤の視線を、食事をする自分の肩と背中に痛く感じた。
「サービスの珈琲はいかがでしょうか。そのついでに、私達のお話、聞いていっていただけますでしょうか」残った肉の一切れを口に入れた雄大に、テーブル脇に来た店主が覚悟を決めた顔で言い、細君の手でソーサーに載ったカップが置かれ、サーバーから珈琲が注がれた。
「あり、がとう」「あなたが全開ここに来た時、これはあなたに話さずにはいられないと思ったものですから」店主は言い、深く瞼を伏せた。
「は? 夢?」二人、裸の躰を横たえる褥上で、賢は悟実に愛想なく問い返した。
「性別越えて、あいつと一つに溶け合うことかな。強いて言えば、な」「あいつ?」「ああ。あいつは男だ。けど、別れを前提とした、男、女の愛、恋なんてもんは鼻持ちならねえもんだって、ガキの頃から割り切ってたこの俺に、愛する、恋する人間の気持ちを、ただ出逢っただだけで教えてくれた奴だ。それが誰かっつうと」賢が答えを切り、悟実が寝返りを打ち、彼のほうを向いた。
「夢の話はこの辺で置いといて、現実的な目標はあるよ。それはこの俺が、躰に寿命が来るまで、この命を続かせることさ。とにかく、くたばるわけには行かねえ。その先も、俺の指揮で、何十、何百って命が飛ぶだろうよ。だけど、どれだけの人間を殺しても、嬲りものにしても、例え契りを交わした相手でも、場合によっちゃ手を掛けなくちゃならねえ。それでてめえの命を、確実に繋いでいかなくちゃならねえんだ。そのための手段は選ばねえよ。急ぐ時だ、今は」賢は述べて立ち、ブリーフを着けた。
「そのためには」言葉を切って、カーキのパンツを上げた賢を、悟実は聞き手に徹した態度で、褥の上から見上げていた。
「私どもには、娘が一人、いました」
湯気を立てる珈琲には、なかなか手が付かなかった。雄大は、そのワンセンテンスから、悲しく、忌まわしい内容が語られることを察した。
「あの大震災も、そのすぐあとの核戦争も、幸いにして親子三人で生き延びて、商売をする人に護衛が付く町があるっていう情報を人づてに聞いて、神奈川からここまで移動団で来ました。それが六年前です。傾き、焼けを免れた店を使って、部分的に復旧した畜産業、農業、運送業を頼りに、この店を始めました。これで何とか、ここで生活を営むことが出来ると信じていました。だけど先に話した護衛というものが、黒手だったんです」
店主が瞬きを繰り返し、妻は顔をさらに深く俯けた。
「辻にたむろするチンピラの類いや、言い掛りを付けてただ食いするような、悪質な客から店を守ってもらうために、銅貨の保護料を払っていました。だけど、そこの頂点にいる男が来て、今日から銅貨はいらない、その代わり、娘をよこせと言いました。そいつや、高い地位にいる幹部の身の回りの世話をする係だという話でした。それをやれば、十年分の保護料を支払ったことになると、あいつ、明座は言いました。娘は、行きます、と答えました。それはひたすらに、私達、親を扶けるためだったはずです。私達は娘を奴らに差し出しました。十九歳の娘を」
店主が声を詰まらせた。俯く妻の頬には涙が光り始めていた。
「娘は、あいつらに手籠めにされました。初めに明座に犯されて、そのあとで、あいつの子分達に輪姦されて、それから奴らが経営する売春宿で客を取らされて、梅毒で死にました。遺体は、こちらに返されませんでした。そればかりか、明座は、娘があいつと、その子分どもに、十数人がかりで辱められてる動画を、わざわざ見せに来たんです。やめてくれ、と言ったら、頭に銃を突きつけられて、一人の娘が輪姦されてずたずたにされる様子を、最後まで見なくてはいけませんでした。動画の中で、奴らは、泣き叫ぶ娘の肛門まで犯していました」
店主は涙の声で述べた。妻は号泣を始めた。
「こんな仕打ちを受けながら、私達の店は、明座が落としていく銅貨で保ってます。これがどれだけ屈辱で、悔しくて、悲しいことか。だけど、私はしがない商売人です。具体的意味での力もなければ、武力も、組織力もない、気の弱い、人のいい飯屋の親爺です。あのデストラクションは、生き延びた人間をことごとく、あの政権のスローガンに倣うようにして、我が身第一の鬼に変えました。その鬼のために、娘は死にました。私達には、日々、心の中で、娘を弔い続けることしか出来ません。だから」店主は嗚咽を懸命に堪え、切り出した。
「あなた様は、まだ人間らしいお顔をしております。黒手の奴らは、どの顔を見ても、それが失われています。それはあいつらとて、第一に自分の身を守っていかなくてはいけない現実に直面しながら生きてるためです。私達は、あの男を殺すことを、人の相を失くした人間に委ねたくはないんです。人間らしい心を残す方に、それを託したいんです」
雄大は、冷めかけた珈琲を、三口にかけて飲み干した。
「先日、お話に挟んだあなた様のお腕を買います。どうか、明座を殺して下さい。それに見合ったお礼を、必ず差し上げます」
雄大はテーブルに銅貨を置いた。
「お釣り、いらない」雄大は言い、ツァーリ・ボンバ銅貨をもう一枚置き、立ち上がり、踵を店の扉へ向けた。
出ていく雄大の背中を、夫妻の咽ぶ声が打った。
模擬弾を使用した射撃訓練が行われている。三人の兵徒が放つ模擬弾は、木製の人型に向かい、撃ち込まれていた。
砂山は、目と手のジェスチャーで、貸せ、と兵徒に促し、その手から、グロック17を受け取った。
人型の胸部に貼られたターゲットボードの、円の中心部に、砂山の放つ弾が、面白いようにばしばしと吸い込まれていく。マガジンの装弾を撃ち尽くす十七発が、円の中心をほぼ逃さなかった。
トリガーを引くごとに怒りを込めた。その念籠めは、実行が前提のものだった。自分はすでに、それをともに為すことが可能な共同作業者の身柄を手に入れている。砂山はグロックを兵徒の手に返し、地下二階の射撃訓練場を出た。
明座。砂山は組織長の名を、敬称抜きで呟いた。
旧習北の歓楽街、通称深海通りは、生気のない顔と躰恰好をした比較的若年から、中壮年の男達が、死人のようにそぞろ歩き、行き交っていた。旧商店街には、様々な趣きを持つ、塗炭とモルタル造りの店が並ぶ。「生ビールとうら若き乙女のサービス」というビルボードを掲げた店もある。
雄大は、傾いた団地の棟群を前に臨む「ピュア・カチューシャ」という号名の店前で足を止めた。「ピュア・ガールズの店」という垂れ幕を潜り、店に入ると、蝶ネクタイにベストの黒服が、いらっしゃいませ、と声掛けし、制服ドレスを着た、顔付きが普通の人のものと違う女達の昏い目線が雄大を出迎えた。その女達のふくらはぎ部分には、蜘蛛が彫り込まれている。前代のコンビニエンスストア程度の坪数を持つ、七色のイルミネーション・ライトに暗く照らされる店内中央には、円台が置かれ、そこにネームカードを首から提げた女達が載せられている。
雄大は、銅貨は払っても、女は抱くまいと決めていた。自分の心が欲望のために汚れる行為は、あの店で悟実と一つになった、あの時で終わりにしたかった。
「急だけど、二日後で、そちらのトップは納得するかな」雑音の混じる通話口に、砂山は声を送った。
両サイドが荒れ果てた墓地となっている、緩いカーブの車道沿いだった。
「問題ねえと思う。場所は緩衝地帯、饅頭埋めた公園跡でセットアップするか」通話口向こうの賢が答えた。
「うちの組裁は、そっちの組織を呑み込んでやるって息巻いてるぜ」「そりゃそうだな。どちらも同じだよ、てめえに有利な条件で講和に持ってこうとしてるのは」「明後日は、是非とも上手くやろう。ところで、あとの身の振り方は、砂山さんは考えてんのかい?」賢が問い、砂山は小さく笑った。
「親父を弔ったあとは、どこかで茶人でもやるさ」
雄大は、円台左端に座る、春菜、というネームカードを下げた、自分よりも数歳若いと見える色白の女子を手で指し、指名します、と、黒服に声を掛けた。
「お目が高いですね。この子は、腰遣いとオーラルが抜群です。性格も、この中では一番従順で、お客様の申しつける欲求には、どんなことにも応じますよ」黒服が愛想なくぼそぼそと言い、雄大は春菜の顔を見つめた。切り加減の雑な、肩口に届かない髪をし、顔立ちは可愛いが、顔を俯け、瞼を伏せたきりだ。皆、一様に表情に明るみがないが、この娘は、一際に暗い。可愛い顔に暗い居ずまい。それが客のサディズムを引き出すのだろうと思われる。
「料金は、前払いでお願いしております。お部屋は二階になります」黒服が言い、雄大は提示されたボンバ二枚の銅貨を、差し出されたカルトンに載せた。
「行こう」雄大は春菜の手を繋ぎ、促して、円台から下ろした。
三日間の戦役に参加し、オフの身となった鹵は、何ということもなく、湊一帯をハーレーで流していた。前代に海運港であった波止場で海を眺め、かつて本町と呼ばれた通りを、南から北まで突き切った。旧民鉄駅のコンコースには、生き屍同然となったドーザー達がたむろし、赤いホステスドレスを乱れさせた、女のミイラ化した死体も転がっていた。
北の汚物窟へ行けば、面白い見物がある。篠総業兵徒との雑談のかてら、仕入れた話。
予感を強く覚えていた鹵は、兵徒から教えられた、前代に、新、という名前の付いていた区域へハーレーを走らせた。青龍刀とマシンピストルの武装はわすれてはいない。道すがら、住処がなく、公社の支援からもあぶれた襤褸者達が、旧アベニューに固まっている姿を見た。具体的な力、組織の力。それは伊佐岡らに両親を嬲り殺しにされた時には、すでに始まっていた世界。
傾き、折れ曲がった、電線をすでに有していない鉄塔が倒れ乱れる、元は農地であった地域に、その窟はあった。
その1キロ前に差しかかった時に、鹵の鼻を糞の臭いが突き始めた。その強度は、垂れ流しの糞がフロアに擦られた、女の屍のある旧コンコース、死窟の数倍だった。
元は畑であったらしい痩せた土の中に、1・6ヘクタールほどの広さを持つ池が掘られ、そこには糞が汲まれていた。ゲル状をした軟便の溢れ返る池の中に、一台の車が沈められ、ルーフを覗かせている。痩せ土の上には、人糞が一面に転がり、その空間狭しと、数千匹もの肥えた金蠅が羽音を立てて飛び交う。
池の周りには、子供の年齢域にある者も混じる、伸び放題のぼさついた髪をし、襤褸になりかけた衣服を着た若者達が、立って鹵を見ていた。食糧、被服、医薬品の供給支援を行う復興公社も厭悪するため、新しい衣服などが行き渡らないのだろう。
この界隈域に棲む者達は、片言にもならない言葉と、叫び、唸りで意思の疎通を図っているのだと聞いている。幼い頃、あるいは生まれる前に起こったデストラクションにより、ここに流れ着いてホルドを形成した自然児であり、原人。
その稚い原人達に、鎖で首を繋がれ、割れた竹で尻を叩かれながら、引き回されている男がいた。男はパンツ一枚の姿で、引き回されながら、顔、背中に唾を吐きかけられていた。
あい、おうおう。あい、おうおう。鎖を持つ若者が発している言葉は、はい、どうどう、らしい。
知能も平均値まで発育していない、子供も混じる者達から、馬、犬の扱いで玩具にされている、忘れまいと心に刻みつけた昆虫顔をしたその男が、中年域の齢となった伊佐岡であることに気づいた鹵の心には、特に大きな感慨は起こらなかった。生じた気持ちは、冷水のような蔑意のみだった。
「おい、お前ら」鹵は原人達に日本語で呼びかけた。原人達が一人づつ、鹵の顔を振り返り見た。
「恵んでやっから、そいつの身柄、俺に渡してくれっかな」鹵が言って、棒状であったり、なると状であったり、様々なひられ姿をした、表面に白い蛆が蠢く糞が散らばる土の上にばら撒いた銅貨を、原人達が争って奪い合った。
銅貨を手にした原人達は、喃語のような声を交わし、それを見せ合った。その時、四つ這いから立位になった伊佐岡が、ひい、と声を発して寄ってきて、鹵の腕に縋った。
「助けて」伊佐岡は言い、掴んだ鹵の腕を揺さぶった。
「安全なシェルターが出来たとか言う、たちの悪いネタ屋に騙されてここに来たら、こんなことに。あれは俺の車だ」伊佐岡は、糞池に沈む車を指差した。
「くたばれよ。俺はあの日、フラナガンズでお前とその手勢に、目の前で寄ってたかって、親父とお袋を嬲り殺しにされた中学生だよ」鹵が言うと、伊佐岡の顔が見る見るうちに改まった。
「助けて下さい」「糞の池に飛び込め。お前が泳いでる間に考える」鹵はマシンピストルを腰のホルスターから引き抜き、伊佐岡の顔に突き当てた。
伊佐岡はのろのろと糞池まで歩き、踏み入った。糞池に腰まで浸かった伊佐岡の背中に、鹵は銃口を向け、泳げ、と命じた。伊佐岡は平泳ぎを始めた。辺り一面に飛び交う金蠅の群れが、一層大きな羽音を立てた。
「しに、来たんじゃないんだ。お話が、出来る、だけで、いいんだ」
窓が封じられ、ピンクの照明に照らされる、モルタル壁の部屋だった。封じられた窓の前に、枕が二つ並ぶベッドが置かれている。
春菜は、雄大と向かい合い、正座をしながら、顔を俯けている。
「私のお話、聞いてくれる?」二分ほど流れた黙ののち、下を向いたままの春菜が切り出した。
伊佐岡は、重い糞を躰にまとわりつかせ、懸命に糞池を周泳した。体力が尽き、沈んだ車を掴むたび、マシンピストルのトリガーが引かれ、跳ねる糞を、糞塗れの顔に浴びた。
「俺がやめろっつうまで泳げ」鹵が言い、伊佐岡は必死の形相で、泳ぎをクロールに変えた。
だいぶ時間が過ぎ、伊佐岡は顔を糞泥に埋め、痙攣を始めた。痙攣しながら、躰向きを空のほうへ返し、仰向けに浮いた。すでに相当量の糞を飲んでいる。
鹵は伊佐岡の顔に向け、マシンピストルを連射した。伊佐岡の頭蓋が割れ、骨皮片と脳片、飛び出した眼球が糞池に飛び散った。
終わった。デストラクション以降、百の台に達する鬼子の命を消し去り、今日まで最も憎悪してきた男の命を、今、葬った。
このあとに残されていることは、まず、篠、明座の手打ち式が終わったのち、悟実と二人になること。
銅貨を手にした原始児達は、手を叩いて喝采した。
銃口を下ろした鹵は、革袋の中にある銅貨を全てばら撒いた。原始児達は、思いがけぬサービスに歓喜し、まるで前代のだいぶ古い時代の建て前のように、我先、我先、と銅貨を拾った。
頭部、顔部を破壊された伊佐岡の死体は、風に揺られて糞の池面を漂っていた。
「俺がこれを使うことは、もうねえから」鹵は言ってハーレーに跨り、ギアを蹴り、スロットルを搾った。
「この躰、見て」ドレスを脱ぎ払い、全裸になった躰を、春菜はまず前面から見せた。乳房、腹部には煙草の火を押しつけられた痕が散っていた。
躰を返し、背面を見せた。背中、尻には、蚯蚓腫れのような疵、ベルト、あるいは鞭のようなもので打たれた痕が残っている。尻には、高温のハンダのようなものを押しつけられたような火傷もあった。
「このお店は、お客さんに反抗出来ない子だけが働いてるんだ。お客さんが銅貨払って、お部屋にいる間は、お前達はお客さんの物だって教えられてるの。お客さんは、みんな、黒手、怖がってる。逆らえないから、みんな、自分よりも弱い相手、虐めて、鬱憤晴らしてる」春菜は述べ、雄大の前に正座で座り直した。
「私のお家は、線路の近くで畑をやってたんだ。それでつくった野菜売って、銅貨、稼いでた。ご飯は、お米の代わりにお芋、食べてた。そうやって暮らしてる時に、明座商会の人達が来たの」
雄大は息を詰めた。これから語られる話は、今の想像以上だろうと思えた。
「俺達に断りなく商売やってること、赦してやる。だけど、条件がある。それは今からショーを見せて、俺達を悦ばせることだって、一人の人が言ったの。それは最初に、お父さんとお兄ちゃんが、男同士のあれをやることだったの」
雄大の躰が、おこりのように震え始めた。
「お父さんとお兄ちゃんは、機関銃で狙われて、裸になって、べろ入れるキスさせられて、それから、お兄ちゃんが、お父さんのおちんちん、舐めさせられたんだ。それが終わると、二人でシックスナインさせられたの。お兄ちゃんは、嫌だ、嫌だって泣いてて、お父さんは、逆らうな、逆らうなって、ずっと言ってた。お父さんも涙流してた。私とお母さんは、機関銃当てられて、それ、見せられた。明座の奴ら、それ見て笑ってた。そのあとで、お父さんのおちんちんが切られて、お兄ちゃんは、耳と鼻、切られたの。それで、お父さんとお兄ちゃん、死んだんだ。そのあとで、お母さんと私、二人一緒に姦られたんだ」
春菜の声が震えを帯び、雄大の呼吸が詰まった。
「それから、お母さんは大きな刀で、首、落とされて殺された。婆あはうちの売り物にはいらねえからって言われて。私は本部っていう所連れてかれて、この足の蜘蛛、入れられて、それからずっと、ここでお客さん取らされてるの」
雄大は、震える両手を、春菜の躰に向かって差し伸べた。触れた彼女の躰は、しんと冷えていた。
「こうして、あげる」雄大の腕が、疵を刻んだ春菜の躰を抱きしめた。彼女の躰は、雄大の腕と胸の中で、糸が切れた操演人形のように力を失せさせた。
「時間まで、こうしていよう」「キスして」雄大の目を見た春菜がせがんできた。
「どこでもいいから、キスして」
雄大は春菜の頬を両掌に包み、彼女の頬に接吻をした。春菜が雄大の胸に崩れ、嗚咽を圧した呼吸を立て始めた。雄大は、波打つ彼女の背中をさすった。
「僕も、明座商会の、サブ」雄大が言うと、春菜が濡れた顔を彼の胸から上げた。
「サブになったのは、あいつ、殺すため。僕も、あいつに、お父さん、殺されたんだ」
春菜の濡れた眼に、不思議なものを見たような光が瞬いている。
「あの糞野郎、屑野郎、僕が、殺す。その、日取り、もう、決まってる」雄大が言葉に鬼の気迫を籠めた時、声の圧しを解いた春菜の熱の瀧が、雄大の胸に落ち始めた。雄大の両眼からも、粒の大きな涙が流れ出し、頬から顎下まで伝い、熱のつぶてとなって落ち注がれていた。
人を象った藁が、三体、自分を囲んで並んでいる。砂山は、居合刀で、中央の藁の首を刎ねた。落ちる首を視界の隅に捉えながら、左端の藁を、返しの逆手で、逆ノの字に、脇腹から肩口までを薙ぎ上げ、差し込み足で右へ移動、右端の藁を袈裟懸けに斬った。藁人が斜めに切断され、断たれた半身が足許に落ちた。砂山は刀身の光を見つめながら、父の思い出を脳裏に瞬かせた。
砂山の父親は、世間一般で言うところの暴力団の組員であったが、傍から見て苛々するまでのお人好しの性格故、五十歳を過ぎても出世の見込みがない、的屋系指定団体の平組員で、一人息子の砂山は、その父が四十代半ばと遅くに出来た子供だった。
母親の顔は知らない。聞いた話では、酒を出す店で男の相手をする仕事をしていたようだが、今の砂山は、子供を普通に養育出来ない人であったために、父が乳児の砂山を引き取り、男手で育てていくイクメンの道を選んだのだと思う。
父親は、条例で鎬を奪われても、詐欺や薬物など人の道を踏み外したものには決して手を出さず、キッチンカーの屋台を生活手段としていた。売り物は、お好み焼き、たこ焼き、焼きそば、アメリカンドッグ、フランクフルト、ソフトクリームだった。二間のアパートに父子二人で住みながら、慎ましい暮らしを送っていた。砂山は、通信制高校で学びながらコンビニエンスストアでアルバイトをし、生活を扶けていた。
ある夜、二人の住む号室に、私服の刑事が一人と、制服の巡査二人が来た。刑事は父に、三年前の恐喝で逮捕状が請求されている、と告げた。砂山には、現場を見ていない以上、その事実は分からない。だが、父がそういう罪を犯すような人間性をしていないことははっきりと分かっていた。
その時、うち一人の制服巡査の外見的特徴は、しっかりと記憶に焼きついた。2メーター近くの身長、力士、あるいはレスラー並の横幅、下顎前突症のピラニア顔、下顎に並ぶ千枚通しの歯、変形した拳。
ここで聴取を行うという旨のことを私服警官は言って、いきなり父の腕を取り、玄関から部屋に押し入ろうとした時、父がそれを振りほどいた。
公妨だ。私服が言い、暴行が始まった。巨体を持つピラニア顔の巡査が、父のシャツの裾を掴み、足払いを掛けた。
倒れた父の腹を、その男は蹴り込み、躰を海老曲げして呻く父に馬乗りになり、襟締めを掛けた。
非力な稚い砂山は、やめて! と叫び、その男の背中に縋りついた。それを刑事ともう一人の制服警官が引き離し、砂山は二人掛かりで躰を組み伏せられた。
ピラニアによる襟締めは五分ほど続き、父は青くチアノーゼを起こした顔をくたりと傾け、声を発さなくなり、四肢を痙攣させ始めた。その時の臭いで、父が脱糞したことが分かった。
臭え。こいつ、糞漏らしてやがる。父が躰の動きを止めたところで襟締めを解いたピラニア顔が、嗤いながら吐き捨てた。
躰の拘束を解かれた砂山は、父に縋って、お父さん、を連呼して、泣き叫んだ。それをピラニア顔が、嘲りの口真似をし、三人の警察官はどっと笑った。
その頃、警察官の怠慢、不祥事も、世間を騒がせていた。なり手不足から、資質に乏しい人間が大量採用され、士気も真摯さもない人間が現場に配置されていたのだ。
砂山は、ただ泣くことしか出来なかった。まだ稚く、殴り合いの経験すらない、無力な子供の身だった。
三人は、動かなくなった父を検めるように見下ろし、やりすぎたか、という旨の会話を交わし、無線で救急車を要請した。
救急車が来た時、父はまだ息があるようだった。三人の警察官は、意識が戻り次第、柔道場で取り調べだ、と残し、不逞な歩き方で去った。ピラニア顔の巡査が、涙の顔で立ち尽くす砂山を振り返り見て、せせら笑いの顔を向けた。
父は、救急車の中で死亡が確認された。
父を直葬にし、共同墓地に埋葬した砂山は、ピラニア顔、その他二人の警察官を刑事告訴することに決めた。検察庁に書面で被害を訴え、捜査が始まった。だが、三人の警察官は不起訴処分となった。彼らが行ったことは職務上の正当行為であり、きちんと救急車を呼ぶ後処理も怠らなかったことが証明されたのだ、ということだった。また、その時、砂山が弁護士を付けなかったことも敗因だった。
それから砂山は、通信制高校を退学し、居合道を古武術を習い始めた。十把一絡げの外国人排除、障害基礎年金、生活保護費の減額政策が始まり、「障害者は甘い汁を吸って生きている」「発達障害などただの甘え」という言わんの政策方針を指示する若者達がSNSで繋がり、暴力グループを結成し、社会的不利を抱える人々への迫害が全国に拡大した頃だった。
その二年後、日本、世界をデストラクションが襲い、無政府の焦土が全土に拡がった。
砂山は、唯の一人で、懸命に命を繋いだ。食料品を賭ける試合のリングに上がり、男に躰を販ぐ男娼もした。至る所で凶徒達が殺し合い、縄張を拡げていく中で。
あの夜、父の命を奪った巡査と同じ特徴を持つ男が、房総の私鉄沿い区域で黒手組織の一家を構えているという話を、情報屋の男から手に入れた。それは数えて五年前のことだった。
それで東京圏の一県から、房総へ渡り、その姿を確認した砂山は、明座商会の準兵徒となった。明座は、砂山の顔を見た時、一瞬だけ見覚えの顔を見る顔をしたが、よくあるそら似として処理したようだった。
それから、私的な恨みもない者達を。幾十、百と手に掛け、非道なことにも加担することで明座の信用を獲得、四年という異例の早さで、兵徒達を束ねる立場にのし上がった。
その中で、それから警察官を退官した明座が、株主配当金を貪って、高級マンションに住み、高級外車を乗り回し、部屋に毎晩女を呼び寄せる無職の暮らしを送っていたこと、デストラクション後は凶賊団を率いて、各地のシェルターやコロニーを荒らし回っては残虐の限りを尽くし、そのグループを母体に明座商会を立ち上げたことも知った。
居合刀を片手に、半身を斬り落とされた藁人を睨んでいたところで、フォンが着信音を鳴らした。
「おう、次代組裁」「次代じゃねえさ。全くもって真新しい組織の総裁だ」通話口向こうの賢は、弾んだ声で答えた。
「日取りとショバを、うちの組裁は納得したよ」「こちらもだ」「明後日は、是非とも首尾良く、派手な花火を打ち上げようぜ」「ああ、俺が茶人への道を歩み出す、新しいスタートの日だ」砂山が言うと、賢が小さく笑った。
「般人になるってことでいいんだよな」「黒土はもうやり尽くした。全ては、親父を弔うためだった。それだけのためにこれまでがあった」「こんな世界でも、人生いろいろだな」
賢は、荒野に一片残るビル片に背中を預けていた。
「俺は関東一円のシーザーになるぜ。これだけが、俺がてめえの命を、これからもてめえで繋いでく手だからな。俺には他はねえ。他は、一切ねえんだ」
遠くに廃ビル街、遙かに富士山の山体が薄い姿を浮き上がらせる荒地に、一陣の風がごう、と吹き抜けた。
「一切、な」風により、低くビブラートする賢の声が、通話口に悲しく消えた。
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