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CBの日曜日
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天井に向けてぴーんと立った結んだ髪は、花瓶の生花を思わせる形状をしている。
「ねえ、本当に来るの? ポポアの屋上に、一輝君‥」「来るよ。永山さんが言ってたもん。だから私、可愛いゴム付けてきたんだ」久子の問いに答えた直子は、渋くしかめた顔をして、立てた人差し指を拡げた鼻腔に突っ込んだ。彼女はカラーポンポン付きのヘアゴムで、サイドの髪を結わえている。
直子の服装は、黒字に花柄が染め抜かれた長袖シャツ、ゴム仕込みですぐに脱着出来るタイプのズボン、久子はシャツの襟を出したトレーナーに、つんつるてんの生地の、安いデニムの膝上スカートを履いた姿だった。直子は年代上、久子は、被服は親が選ぶ年齢層のセンスで、実年齢からは大幅に浮いている。
「いなかったら責任とってよ。それじゃ何のためにポニーテールしたのか分かんないから」久子がポニーテールと称する、天に向かって立てた、暴君殿様のチョンマゲ仕様の髪を撫でながら詰るような言葉を投げると、直子は、うん、と低く答えて、鼻から指を抜き、爪先に付いた鼻の内容物を眺め、おもむろに口に運んだ。
それを心許なさげな顔で見ているのは、痩せっぽちの体に大きな目鼻ばかりが目立つ、チェックのシャツを着た若者だった。彼は大きな目をせわしなく瞬かせ、自分には介入の余地がないやり取りの経過を見守っている。
「ねえ、CB、あとで三上君と、腕組んだツーショット、撮らせて」直子が高等専修学校時代の久子の渾名を呼んで言い、チェックシャツの若者を見た。
「もう駄目だよ。こないだ手、繋いだ写真撮ったばっかじゃん。裕ちゃんは私が取ってるんだよ」久子は直子の要請に、切れかけた答えを返した。裕ちゃんという若者は、それに言葉を挟むことはなかった。
キッチンと居間、他一つの部屋がある、階数の高い集合住宅の一室だった。その居間にはテレビ、鑑賞用の茶器が並ぶ棚が置かれ、久子の祖母の遺影が飾られた仏壇がある。達磨の描かれたカレンダーは、平成3年4月の頁が開かれている。
晴空の西陽が、窓から差し込んでいた。
「じゃあ、私、お化粧するから。来なかったら、責任取ってね」久子はトーンを落とした声で言い、自室として使っている渡り廊下側の部屋に引っ込んだ。
居間には沈黙が流れた。
戻ってきた久子は、部屋から持ってきたマスカラ、ファンデーション、ミラー、口紅を座卓の上に、がちゃがちゃと乱雑に並べた。
「私にも貸してよ…」「駄目だよ、これ、お姉ちゃんのなんだから」「いいじゃん。あとで百円のハンバーガー奢ってあげるから」「絶対? 嘘ついたら、私にも考えがあるよ」「絶対奢るよ」
今にも泣きそうな瞬きを繰り返す、久子の恋人である裕二の前で、二人の女はべたべたと、顔にファンデーションを塗ったくり始めた。塗るというより、ぶっかけるという風だった。濃度を調整するための力加減はない。ルージュの塗り方は、まるで殴り書きさながらだった。
スーパー、レンタルビデオ店、生花店が並ぶ、棟の裏から私鉄駅へ続く通りでは、日曜の残り少ない時間を憂う若者達、買い物の主婦達、自転車の老男性が、不審と驚きの視線で振り返った。
通りの真中をずらずらと練り歩く、パンダのような目周り、死人のような白塗り、唇が肥大したような口許をし、片や老け、片や女児のようなセンスの服を着た二人の女の後ろを、気弱な表情をした、骨皮の体をした若者がとぼとぼと追っている。日常の中では見ることのない、異様なパレードだが、女達の態度は、そんな衆目の目など露も気にしないという風に堂々としていた。
視線が集中する中、集合住宅棟の角を曲がり、交差点の前に来た。歩行者用信号は赤だった。
「一輝君、何時に来るの?」「十一時だって、永山さんが言ってた」「じゃあ、もう来ちゃうじゃん。急ごうよ」言った久子が、赤信号の横断歩道に足を踏み出した。車線からは、ライトバンと自家用車が、それぞれ反対方向から迫っている。
横断歩道前で、車がタイヤを軋ませ、一斉に停まった。ライトバンからクラクションが鳴り響いた。配達原付に乗る ヘルメットを被った男が、危ねえな、馬鹿野郎! と罵声を上げた。その罵声に、首をすくめる怯えの反応を見せたのは裕二だけで、久子と直子は何事もなかったように、振り向きもしなかった。
一階に食品売場、二階に洋品小物店、三階にCD、レコード、カセットショップを擁するポポア勝田に入った男一点の三人は、ぎょっとした視線を四方から受けながら、エスカレーターに乗った。店内BGMは、どこのスタジオ楽団が演奏しているかも分からない、陳腐で退屈なものだった。アイドルのミニコンサートや、他、芸能人のトークショーが開催されている気配はまるでない。
「すいません。アイドルの近藤一輝君が屋上に来るって聞いたんですけど」久子が訊ねたのは、三階の音楽ショップだった。
「屋上ですか?」七三分けの髪にYシャツネクタイ、スラックス、黒縁眼鏡という姿をした店長風の中年男は、眉間に皺を寄せた。
「当店の屋上というものはございません。屋上は、上の高層アパートの屋上になりますので」山崎という名札を胸に着けた店長は、鷹揚な中年声で短く説明したが、異様な顔を提げて突然現れ、誰が聞いても分かりきっているはずのことを真面目に訊いてくる女を訝しむ色を、眼鏡奥の目に湛えている。
「でも、聞いたんですよ。近藤君が来てコンサートやるって。それ教えてくれた人、アイドルの住所と電話番号、全部知ってる人なの。その人が言うことだから、間違いないんですよ。すいません、店員さんだったら知ってるはずですよね」久子の言葉に詰りが混じった。
「だから、それはさっき説明したでしょう!」詰る語彙を持つ久子の言葉に、山崎は声を荒らげた。
「あなたは何歳ですか? 集合住宅の屋上で、コンサートなんてもんが開催されるわけがないじゃないですか。私があなたに説明出来ることは、これだけですよ!」「私、近藤君が来るっていうから、せっかくポニーテールして、お化粧してきたんですよ。それが水の泡になってもいいって言うんですか?」
久子の遣う語彙は、辞典でもかじったような一端のそれだが、物事の筋、現実の把握は完全に無視されている。
「水の泡とか、そんなことはあなたの事情でしょう! 帰って下さいよ!」「やだよ、帰りませんよ! 私にも意地っていうものがあるんですから!」久子はまた、無駄に一端な語彙表現の言葉を持つ声を張り上げた。
「帰って! 他のお客様の迷惑になるから!」山崎は手を払った。
なす術なく回れ右をした久子、直子、裕二の後ろには、迷惑なものを見る顔をした客が数組、購入希望のCDやカセットを持って並んでいた。三人がエスカレーターに向けて立ち去った時、申し訳ございません、と詫び、列先頭の老いた女を接客する山崎の声が聞こえ始めた。
ポポア勝田を出た久子は肩をいからせて大手を振り、目的非ずの住宅街方面へその姿を進め、ねえ、と声掛けする直子が追いすがり、その後ろから裕二がとぼとぼとついていく絵が展開されている。
「責任取ってよ! 直ちゃんが言うから、私、ポニーテールとお化粧したんだよ!」「そんなこと、無理だよ!」「じゃあ、永山さんに電話して、てめえ、ふざけんじゃねえよって言ってよ!」「そんなこと、出来ないよ」直子がなだめるように言った刹那、久子が走り出した。県立高校の方向だった。直子がそれを追い、裕二が遅れて追った。数組の通行人が、滅茶苦茶な狂態を見る目で、呆気に取られた視線を投げやった。
直子が久子の袖を捕まえたのは、酒屋やスナックを主とする飲食店が立ち並ぶ通りだった。座り込んだ久子は、あんぐりと大口を開け、涙と鼻水、涎を盛大に流し、ああ、ああと泣き喚き始めた。泣き喚きながら、舗装路に大の字になり、両手、両足をばたばたと路面に叩きつけ始めた。異様な濃度に塗ったくったファンデーションは、涙と鼻水でどろどろと溶け始めていた。
泣き喚き続ける久子と、それを囲んで立ち、見下ろす男女に、何事かと問うような衆目が浴びせられた。
「久ちゃん…」裕二がしゃがみ、久子の手を取った。
久子は座位になり、泣き叫びを啜り泣きに変えた。「昨日、芦川さんと、揉めちゃったの。フランソワーズでお茶飲んじゃったのがいけなかったんだよ。他のお客さんの迷惑になるから帰って下さいって、店員さんに言われたの。それで私、芦川さん、待って下さいよって言って、追いかけたんだけど、歩いてっちゃったの」涙で化粧を溶かした久子が述べた。
「とりあえず、飯、食おうか。奢ってあげるよ」裕二が軽薄な声色で言い、久子の腕を取り、腰に手を回した。久子は啜り上げながら立位になった。
三人は、住宅街の奥に古めかしい外観の軒を構える中華料理店に入った。値段の書かれたメニュー表が貼られた壁は、黄色くくすんでいる。客は奥のテーブル席に、壮年の男が一人いて、ビールを飲んでいるだけだった。隅に置かれた小さな本棚には、漫画本の単行本が詰まっていた。
「いらっしゃい」カウンター後ろの調理場で煙草を吸っていた主人が愛想なく接客の声を投げ、それを受けた三人は、出入り口側のテーブル席に座った。夫人らしい初老の女が来て注文を取り、裕二はビールと餃子とチャーシュー麺、久子は味噌ラーメン、直子は、何でもいいと答えたが、久子に促され、醤油ラーメンを頼んだ。
店にはラジオの音声が流れている。流しているのは、事故による交通渋滞の情報だった。
言葉をつぐみ続ける三人の席に、ビールと餃子と、三人前のコップ、小皿が届けられた。
「さあ、飲もう、飲もう。乾杯しよう」笑顔を作った裕二が、久子と直子のコップにビールを注いだ。異常な化粧をした二人の女を見ても、店主、夫人の顔には驚きの色はなかった。おかしな客のあしらいには、すでに慣れきっているためと思われる。「まるで台湾の居酒屋みたいだな」裕二が言い、虚しい笑顔を浮かべた。久子、直子の表情は暗い。
「こういう汚え店が美味えんだ」裕二が声の憚りなく言った時、経営者夫妻は確かな反応を見せた。カウンターの中から顔を上げた主人、カウンター前で振り返った夫人の顔は、明らかにむかっとしたものだった。完。
「ねえ、本当に来るの? ポポアの屋上に、一輝君‥」「来るよ。永山さんが言ってたもん。だから私、可愛いゴム付けてきたんだ」久子の問いに答えた直子は、渋くしかめた顔をして、立てた人差し指を拡げた鼻腔に突っ込んだ。彼女はカラーポンポン付きのヘアゴムで、サイドの髪を結わえている。
直子の服装は、黒字に花柄が染め抜かれた長袖シャツ、ゴム仕込みですぐに脱着出来るタイプのズボン、久子はシャツの襟を出したトレーナーに、つんつるてんの生地の、安いデニムの膝上スカートを履いた姿だった。直子は年代上、久子は、被服は親が選ぶ年齢層のセンスで、実年齢からは大幅に浮いている。
「いなかったら責任とってよ。それじゃ何のためにポニーテールしたのか分かんないから」久子がポニーテールと称する、天に向かって立てた、暴君殿様のチョンマゲ仕様の髪を撫でながら詰るような言葉を投げると、直子は、うん、と低く答えて、鼻から指を抜き、爪先に付いた鼻の内容物を眺め、おもむろに口に運んだ。
それを心許なさげな顔で見ているのは、痩せっぽちの体に大きな目鼻ばかりが目立つ、チェックのシャツを着た若者だった。彼は大きな目をせわしなく瞬かせ、自分には介入の余地がないやり取りの経過を見守っている。
「ねえ、CB、あとで三上君と、腕組んだツーショット、撮らせて」直子が高等専修学校時代の久子の渾名を呼んで言い、チェックシャツの若者を見た。
「もう駄目だよ。こないだ手、繋いだ写真撮ったばっかじゃん。裕ちゃんは私が取ってるんだよ」久子は直子の要請に、切れかけた答えを返した。裕ちゃんという若者は、それに言葉を挟むことはなかった。
キッチンと居間、他一つの部屋がある、階数の高い集合住宅の一室だった。その居間にはテレビ、鑑賞用の茶器が並ぶ棚が置かれ、久子の祖母の遺影が飾られた仏壇がある。達磨の描かれたカレンダーは、平成3年4月の頁が開かれている。
晴空の西陽が、窓から差し込んでいた。
「じゃあ、私、お化粧するから。来なかったら、責任取ってね」久子はトーンを落とした声で言い、自室として使っている渡り廊下側の部屋に引っ込んだ。
居間には沈黙が流れた。
戻ってきた久子は、部屋から持ってきたマスカラ、ファンデーション、ミラー、口紅を座卓の上に、がちゃがちゃと乱雑に並べた。
「私にも貸してよ…」「駄目だよ、これ、お姉ちゃんのなんだから」「いいじゃん。あとで百円のハンバーガー奢ってあげるから」「絶対? 嘘ついたら、私にも考えがあるよ」「絶対奢るよ」
今にも泣きそうな瞬きを繰り返す、久子の恋人である裕二の前で、二人の女はべたべたと、顔にファンデーションを塗ったくり始めた。塗るというより、ぶっかけるという風だった。濃度を調整するための力加減はない。ルージュの塗り方は、まるで殴り書きさながらだった。
スーパー、レンタルビデオ店、生花店が並ぶ、棟の裏から私鉄駅へ続く通りでは、日曜の残り少ない時間を憂う若者達、買い物の主婦達、自転車の老男性が、不審と驚きの視線で振り返った。
通りの真中をずらずらと練り歩く、パンダのような目周り、死人のような白塗り、唇が肥大したような口許をし、片や老け、片や女児のようなセンスの服を着た二人の女の後ろを、気弱な表情をした、骨皮の体をした若者がとぼとぼと追っている。日常の中では見ることのない、異様なパレードだが、女達の態度は、そんな衆目の目など露も気にしないという風に堂々としていた。
視線が集中する中、集合住宅棟の角を曲がり、交差点の前に来た。歩行者用信号は赤だった。
「一輝君、何時に来るの?」「十一時だって、永山さんが言ってた」「じゃあ、もう来ちゃうじゃん。急ごうよ」言った久子が、赤信号の横断歩道に足を踏み出した。車線からは、ライトバンと自家用車が、それぞれ反対方向から迫っている。
横断歩道前で、車がタイヤを軋ませ、一斉に停まった。ライトバンからクラクションが鳴り響いた。配達原付に乗る ヘルメットを被った男が、危ねえな、馬鹿野郎! と罵声を上げた。その罵声に、首をすくめる怯えの反応を見せたのは裕二だけで、久子と直子は何事もなかったように、振り向きもしなかった。
一階に食品売場、二階に洋品小物店、三階にCD、レコード、カセットショップを擁するポポア勝田に入った男一点の三人は、ぎょっとした視線を四方から受けながら、エスカレーターに乗った。店内BGMは、どこのスタジオ楽団が演奏しているかも分からない、陳腐で退屈なものだった。アイドルのミニコンサートや、他、芸能人のトークショーが開催されている気配はまるでない。
「すいません。アイドルの近藤一輝君が屋上に来るって聞いたんですけど」久子が訊ねたのは、三階の音楽ショップだった。
「屋上ですか?」七三分けの髪にYシャツネクタイ、スラックス、黒縁眼鏡という姿をした店長風の中年男は、眉間に皺を寄せた。
「当店の屋上というものはございません。屋上は、上の高層アパートの屋上になりますので」山崎という名札を胸に着けた店長は、鷹揚な中年声で短く説明したが、異様な顔を提げて突然現れ、誰が聞いても分かりきっているはずのことを真面目に訊いてくる女を訝しむ色を、眼鏡奥の目に湛えている。
「でも、聞いたんですよ。近藤君が来てコンサートやるって。それ教えてくれた人、アイドルの住所と電話番号、全部知ってる人なの。その人が言うことだから、間違いないんですよ。すいません、店員さんだったら知ってるはずですよね」久子の言葉に詰りが混じった。
「だから、それはさっき説明したでしょう!」詰る語彙を持つ久子の言葉に、山崎は声を荒らげた。
「あなたは何歳ですか? 集合住宅の屋上で、コンサートなんてもんが開催されるわけがないじゃないですか。私があなたに説明出来ることは、これだけですよ!」「私、近藤君が来るっていうから、せっかくポニーテールして、お化粧してきたんですよ。それが水の泡になってもいいって言うんですか?」
久子の遣う語彙は、辞典でもかじったような一端のそれだが、物事の筋、現実の把握は完全に無視されている。
「水の泡とか、そんなことはあなたの事情でしょう! 帰って下さいよ!」「やだよ、帰りませんよ! 私にも意地っていうものがあるんですから!」久子はまた、無駄に一端な語彙表現の言葉を持つ声を張り上げた。
「帰って! 他のお客様の迷惑になるから!」山崎は手を払った。
なす術なく回れ右をした久子、直子、裕二の後ろには、迷惑なものを見る顔をした客が数組、購入希望のCDやカセットを持って並んでいた。三人がエスカレーターに向けて立ち去った時、申し訳ございません、と詫び、列先頭の老いた女を接客する山崎の声が聞こえ始めた。
ポポア勝田を出た久子は肩をいからせて大手を振り、目的非ずの住宅街方面へその姿を進め、ねえ、と声掛けする直子が追いすがり、その後ろから裕二がとぼとぼとついていく絵が展開されている。
「責任取ってよ! 直ちゃんが言うから、私、ポニーテールとお化粧したんだよ!」「そんなこと、無理だよ!」「じゃあ、永山さんに電話して、てめえ、ふざけんじゃねえよって言ってよ!」「そんなこと、出来ないよ」直子がなだめるように言った刹那、久子が走り出した。県立高校の方向だった。直子がそれを追い、裕二が遅れて追った。数組の通行人が、滅茶苦茶な狂態を見る目で、呆気に取られた視線を投げやった。
直子が久子の袖を捕まえたのは、酒屋やスナックを主とする飲食店が立ち並ぶ通りだった。座り込んだ久子は、あんぐりと大口を開け、涙と鼻水、涎を盛大に流し、ああ、ああと泣き喚き始めた。泣き喚きながら、舗装路に大の字になり、両手、両足をばたばたと路面に叩きつけ始めた。異様な濃度に塗ったくったファンデーションは、涙と鼻水でどろどろと溶け始めていた。
泣き喚き続ける久子と、それを囲んで立ち、見下ろす男女に、何事かと問うような衆目が浴びせられた。
「久ちゃん…」裕二がしゃがみ、久子の手を取った。
久子は座位になり、泣き叫びを啜り泣きに変えた。「昨日、芦川さんと、揉めちゃったの。フランソワーズでお茶飲んじゃったのがいけなかったんだよ。他のお客さんの迷惑になるから帰って下さいって、店員さんに言われたの。それで私、芦川さん、待って下さいよって言って、追いかけたんだけど、歩いてっちゃったの」涙で化粧を溶かした久子が述べた。
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