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第6話
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郊外の大型コミュニティセンターでコミケがあったのは知っていたが、その上がり時刻が十五時という早さだとは知らず、恭介は電車を使ったことを後悔していた。
三日前から梅雨に突入して蒸し暑く、電車に乗ったときにはエアコンの利いた空気を吸ってホッとしたのだが、次の駅でコミケ帰りの若い客がどやどやと乗ってきて、酷い喧噪となったのだ。
あっという間にラッシュ時もかくやという満員状態になってしまい、おまけに恭介に気付いた女性陣が声も潜めず「きゃあきゃあ」と騒ぎ立て始めたのである。
普段は他人の反応などまるで意に介さない恭介だが、満員電車で目前の人間たちから全力で視線を向けられ騒がれると、さすがに居心地も悪くなる。シートに腰掛けて腕組みしたまま、次で降りるかどうか悩んだ。
取り敢えずは黄色い声から逃れようと、移動すべく人の隙間を目で探した。そこで卑怯な犯罪を目にする。細身で紺のジャケットを羽織った人物が伸びた手にジーンズの尻を撫でられて躰を捩らせていた。痴漢の袖はグレイのスーツでサラリーマンか、それを装っているのか。
迷わず恭介は立って人をかき分け、グレイのスーツの手首を掴むなり捻り上げる。
「何のことか分かっているな? 迷惑防止条例違反の現行犯で逮捕する」
サラリーマン風の男は怯えた目で恭介を見返したが、その姿が灰色の作業服に作業ジャンパーなのを見取ると急に態度を変えて薄笑いを浮かべた。掴まれた手を振り解いて顎を反らす。
「逮捕だと? 警官でもないクセにふざけるな、俺は何にもしてない」
「一般人でも現行犯相手なら逮捕可能だ。私人逮捕という言葉を知らないのか?」
「適当なことを言うな、俺は何もしていないと言ってるだろうが!」
長身の恭介を見上げて男は周囲にアピールするように大声で喚いた。何事かと周囲が静まり返った中、恭介は被害者である人物にコメントを求めるべく目を向ける。
二十歳くらいだろうか。色白で細面の顔は綺麗に整っていた。長いまつげに縁取られた瞳は透明感のある茶色、細く柔らかそうな髪も色素が薄い。体型も薄く背もさほど高くはないが、その顔をじっと見て恭介は自分の勘違いに気付く。
それは女性ではなく男だったのだ。
だが男であろうと痴漢の被害者には間違いない。口を引き結んだ白い顔に訊く。
「次で降りて届け出るか?」
「……」
「次で降りよう」
まもなく電車はホームに滑り込んだ。恭介は抵抗するサラリーマン風の男を右手で、被害者の若い男を視線で捕まえたまま、強引に駅に降り立つ。そのままぐいぐいと引っ張って鉄道警察隊の連絡所まで連行した。
しかし椅子に座らされた被害者の若い男は、何を訊かれても首を縦か横に振るだけでひとことも声を発しない。お蔭で名前や住所も分からなかった。
だからといって被害者の男は怯えている風でもない。ただじっと黙って全てが過ぎ去ってゆくのを待っているように恭介には見えた。
ともあれ加害者のサラリーマンは痴漢の常習者だったらしく捜査員たちには喜ばれた。それでも被害者が喋らないため、決め手となる証言を得られずに痴漢リーマンは説諭だけで釈放となる。恭介としては非常に不本意な結果だったが仕方ない。
鉄警隊の連絡所を出ると改めて若い男を見下ろした。
今どきの大学生といった感じだが、旅行中なのか大きめのショルダーバッグを担いでいる。しかしこの高城市は旅行してまで見るべきものはない。遠方からコミケにやってきたとは思わなかった。そんな所に行くには少々物騒なものを腹に忍ばせているのを見抜いていたからだ。
若い男はまだ喋らず、だが行くあてもないのか恭介の傍から動かない。
けれどいかにも訳ありの男とこれ以上関わるのはごめんだった。若い男を置いて恭介は改札を背に歩き出す。この近くにバスの車庫があるのを知っていて、そこが始発のバスならコミケ客も乗っていないだろうと踏んだのだ。
暫く歩き駅構内から出る前に足を止める。若い男があとからついてきているのは分かっていた。
「そんな物を持って歩く輩とは付き合いを深めたくない。帰れ」
若い男が息を呑む。見破られたとは思っても見なかったのだろう。ハッとしたようにジャケットの腹辺りを若い男は両手で押さえた。挙動からして、どうやら持ち慣れたものではないらしい。
冷たく言い放った恭介は再び歩き出そうとしたが、そこで男が初めて声を発した。
「助けて貰った。恩は返すよ」
「助けたつもりはない、単に俺の自己満足だ。分かったら帰れ」
「嫌だ。仁義は通す。任侠道には背けない」
「仁義に任侠ときたか。そんななりでお前は何処かの組にでも所属しているのか?」
「組には……梅谷組なんて聞いたこともないだろうけど、僕はその若中だよ」
今度は恭介が黙る番だった。まさか本当に組関係者とは思わなかったのだ。梅谷組は県内最大手の指定暴力団・滝本組の三次団体である。滝本組に傘下として吸収されるまでは単独で組を構えた、いわゆる一本独鈷の老舗の博徒系ヤクザとして鳴らしており、代々世襲制を取ってきた。
だが現組長は元々ヤクザ稼業を嫌った公務員上がりで結婚もしていない。故に次代で世襲制も崩れるか、現組長が解散届を当局に提出するかのどちらかだというのが大方の見方である。
「ふうん、珍しいね。梅谷組をあんたは知ってるんだ。僕は石動薫。あんたは?」
「恭介、時宮恭介だ」
「そう。それでどうして電気屋さんが梅谷組なんて知ってるのかな?」
頭ひとつ分近く小柄な薫は恭介の胸の辺りを見つめていた。羽織った灰色の作業ジャンパーの胸にはオレンジ色の糸で『佐藤電気店』なる刺繍がなされている。腰のベルトにはペンチやドライバーなどの工具類も下げていて、時期的にエアコンの修理に行った帰りといった格好だった。
「組の名前はネットで見た。俺は実録系週刊誌マニアなんだ。じゃあな」
「嘘つかないで。三次団体なんかネットに上がってない筈……ちょ、待ってよ!」
引き留めようとする薫を無視して歩き、小雨が降りしきる中、停留所に立つとすぐにバスがやってくる。乗り込むと薫もステップを上がってきた。
追いついて肩で息をする薫の紺の上着が捲れ上がり、裾から腹のベルトのやや左に差した物騒なブツが見え隠れしている。
思った通り、それはどう見てもセミ・オートマチック拳銃、それもグロック17なるプラスチック多用の立派な真正モノだった。恭介は眉間にシワを寄せてジャケットを引き下げてやる。
本物なら当然のこと、エアガンでも公共の場で見せびらかせば犯罪だ。
切れ長の目で怒りを表現すると薫は素直に頷いてシートに腰を下ろし、隣をつついて見せる。だが恭介は車内がガラ空きなのをいいことに、わざと離れた席に座った。自分でも子供じみているとは思ったが、家出をしてきた大学生のような風情のチンピラと関わるなど面倒でしかない。そんなことはかつての仕事で腹一杯だった。
それに恭介自身にも他人を易々と近づけたくない事情がある。
ゆっくりと走ったバスは高城市駅前で大量の客を乗せて窓を曇らせる。湿度が急激に高くなり、恭介は少々息苦しさを感じつつ子供連れの若奥様に席を譲って立った。すると僅かに薫との距離が近くなり、白い顔を紅潮させているのが目に映る。
途端に薫が激しく咳込み始め、止まらないそれに周囲の視線が集中した。
五分ほど経っても発作的な咳は止まらない。薫に「薬は?」と訊いたが薫は首を横に振って咳き込むばかりだ。溜息をついて恭介は『次、降ります』のボタンを押すと人を割り、薫に近寄ると細い手首を握って立ち上がらせる。苦しげに咳き込む身を支えるように移動してバスを降りた。
目前にあったコンビニ前のベンチに薫を座らせる。
外も湿気は高かったが気温は随分と下がっていて、人いきれによる息苦しさがなくなったからか、薫の発作も徐々に終息していった。
三日前から梅雨に突入して蒸し暑く、電車に乗ったときにはエアコンの利いた空気を吸ってホッとしたのだが、次の駅でコミケ帰りの若い客がどやどやと乗ってきて、酷い喧噪となったのだ。
あっという間にラッシュ時もかくやという満員状態になってしまい、おまけに恭介に気付いた女性陣が声も潜めず「きゃあきゃあ」と騒ぎ立て始めたのである。
普段は他人の反応などまるで意に介さない恭介だが、満員電車で目前の人間たちから全力で視線を向けられ騒がれると、さすがに居心地も悪くなる。シートに腰掛けて腕組みしたまま、次で降りるかどうか悩んだ。
取り敢えずは黄色い声から逃れようと、移動すべく人の隙間を目で探した。そこで卑怯な犯罪を目にする。細身で紺のジャケットを羽織った人物が伸びた手にジーンズの尻を撫でられて躰を捩らせていた。痴漢の袖はグレイのスーツでサラリーマンか、それを装っているのか。
迷わず恭介は立って人をかき分け、グレイのスーツの手首を掴むなり捻り上げる。
「何のことか分かっているな? 迷惑防止条例違反の現行犯で逮捕する」
サラリーマン風の男は怯えた目で恭介を見返したが、その姿が灰色の作業服に作業ジャンパーなのを見取ると急に態度を変えて薄笑いを浮かべた。掴まれた手を振り解いて顎を反らす。
「逮捕だと? 警官でもないクセにふざけるな、俺は何にもしてない」
「一般人でも現行犯相手なら逮捕可能だ。私人逮捕という言葉を知らないのか?」
「適当なことを言うな、俺は何もしていないと言ってるだろうが!」
長身の恭介を見上げて男は周囲にアピールするように大声で喚いた。何事かと周囲が静まり返った中、恭介は被害者である人物にコメントを求めるべく目を向ける。
二十歳くらいだろうか。色白で細面の顔は綺麗に整っていた。長いまつげに縁取られた瞳は透明感のある茶色、細く柔らかそうな髪も色素が薄い。体型も薄く背もさほど高くはないが、その顔をじっと見て恭介は自分の勘違いに気付く。
それは女性ではなく男だったのだ。
だが男であろうと痴漢の被害者には間違いない。口を引き結んだ白い顔に訊く。
「次で降りて届け出るか?」
「……」
「次で降りよう」
まもなく電車はホームに滑り込んだ。恭介は抵抗するサラリーマン風の男を右手で、被害者の若い男を視線で捕まえたまま、強引に駅に降り立つ。そのままぐいぐいと引っ張って鉄道警察隊の連絡所まで連行した。
しかし椅子に座らされた被害者の若い男は、何を訊かれても首を縦か横に振るだけでひとことも声を発しない。お蔭で名前や住所も分からなかった。
だからといって被害者の男は怯えている風でもない。ただじっと黙って全てが過ぎ去ってゆくのを待っているように恭介には見えた。
ともあれ加害者のサラリーマンは痴漢の常習者だったらしく捜査員たちには喜ばれた。それでも被害者が喋らないため、決め手となる証言を得られずに痴漢リーマンは説諭だけで釈放となる。恭介としては非常に不本意な結果だったが仕方ない。
鉄警隊の連絡所を出ると改めて若い男を見下ろした。
今どきの大学生といった感じだが、旅行中なのか大きめのショルダーバッグを担いでいる。しかしこの高城市は旅行してまで見るべきものはない。遠方からコミケにやってきたとは思わなかった。そんな所に行くには少々物騒なものを腹に忍ばせているのを見抜いていたからだ。
若い男はまだ喋らず、だが行くあてもないのか恭介の傍から動かない。
けれどいかにも訳ありの男とこれ以上関わるのはごめんだった。若い男を置いて恭介は改札を背に歩き出す。この近くにバスの車庫があるのを知っていて、そこが始発のバスならコミケ客も乗っていないだろうと踏んだのだ。
暫く歩き駅構内から出る前に足を止める。若い男があとからついてきているのは分かっていた。
「そんな物を持って歩く輩とは付き合いを深めたくない。帰れ」
若い男が息を呑む。見破られたとは思っても見なかったのだろう。ハッとしたようにジャケットの腹辺りを若い男は両手で押さえた。挙動からして、どうやら持ち慣れたものではないらしい。
冷たく言い放った恭介は再び歩き出そうとしたが、そこで男が初めて声を発した。
「助けて貰った。恩は返すよ」
「助けたつもりはない、単に俺の自己満足だ。分かったら帰れ」
「嫌だ。仁義は通す。任侠道には背けない」
「仁義に任侠ときたか。そんななりでお前は何処かの組にでも所属しているのか?」
「組には……梅谷組なんて聞いたこともないだろうけど、僕はその若中だよ」
今度は恭介が黙る番だった。まさか本当に組関係者とは思わなかったのだ。梅谷組は県内最大手の指定暴力団・滝本組の三次団体である。滝本組に傘下として吸収されるまでは単独で組を構えた、いわゆる一本独鈷の老舗の博徒系ヤクザとして鳴らしており、代々世襲制を取ってきた。
だが現組長は元々ヤクザ稼業を嫌った公務員上がりで結婚もしていない。故に次代で世襲制も崩れるか、現組長が解散届を当局に提出するかのどちらかだというのが大方の見方である。
「ふうん、珍しいね。梅谷組をあんたは知ってるんだ。僕は石動薫。あんたは?」
「恭介、時宮恭介だ」
「そう。それでどうして電気屋さんが梅谷組なんて知ってるのかな?」
頭ひとつ分近く小柄な薫は恭介の胸の辺りを見つめていた。羽織った灰色の作業ジャンパーの胸にはオレンジ色の糸で『佐藤電気店』なる刺繍がなされている。腰のベルトにはペンチやドライバーなどの工具類も下げていて、時期的にエアコンの修理に行った帰りといった格好だった。
「組の名前はネットで見た。俺は実録系週刊誌マニアなんだ。じゃあな」
「嘘つかないで。三次団体なんかネットに上がってない筈……ちょ、待ってよ!」
引き留めようとする薫を無視して歩き、小雨が降りしきる中、停留所に立つとすぐにバスがやってくる。乗り込むと薫もステップを上がってきた。
追いついて肩で息をする薫の紺の上着が捲れ上がり、裾から腹のベルトのやや左に差した物騒なブツが見え隠れしている。
思った通り、それはどう見てもセミ・オートマチック拳銃、それもグロック17なるプラスチック多用の立派な真正モノだった。恭介は眉間にシワを寄せてジャケットを引き下げてやる。
本物なら当然のこと、エアガンでも公共の場で見せびらかせば犯罪だ。
切れ長の目で怒りを表現すると薫は素直に頷いてシートに腰を下ろし、隣をつついて見せる。だが恭介は車内がガラ空きなのをいいことに、わざと離れた席に座った。自分でも子供じみているとは思ったが、家出をしてきた大学生のような風情のチンピラと関わるなど面倒でしかない。そんなことはかつての仕事で腹一杯だった。
それに恭介自身にも他人を易々と近づけたくない事情がある。
ゆっくりと走ったバスは高城市駅前で大量の客を乗せて窓を曇らせる。湿度が急激に高くなり、恭介は少々息苦しさを感じつつ子供連れの若奥様に席を譲って立った。すると僅かに薫との距離が近くなり、白い顔を紅潮させているのが目に映る。
途端に薫が激しく咳込み始め、止まらないそれに周囲の視線が集中した。
五分ほど経っても発作的な咳は止まらない。薫に「薬は?」と訊いたが薫は首を横に振って咳き込むばかりだ。溜息をついて恭介は『次、降ります』のボタンを押すと人を割り、薫に近寄ると細い手首を握って立ち上がらせる。苦しげに咳き込む身を支えるように移動してバスを降りた。
目前にあったコンビニ前のベンチに薫を座らせる。
外も湿気は高かったが気温は随分と下がっていて、人いきれによる息苦しさがなくなったからか、薫の発作も徐々に終息していった。
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