Even[イーヴン]~楽園10~

志賀雅基

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第37話

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 二百メートル幅の芝生を突っ切り、大騒ぎをしている二本の滑走路を渡ったシドは、エプロンを駆け抜けて四棟目の格納庫へと走り込む。
 もう一機残された試作機の前に立った。

 ハイファが顔色を変える。

「シド、どうするの。貴方まさか?」
「上がれる機はこいつしかない。尤も電磁虫がバラ撒かれたらアビオニクスを切って完全手動でも操れるこいつしか飛べねぇからな」
「誰かパイロットを――」
「そんなヒマはねぇよ」

 事実、パイロットたちは混乱しきって誰一人として捕まえられそうになかった。

 試作機にラダーはなく翼の後部からシドがよじ登る。キャノピを開けてシートに滑り込んだ。シートの肩から下がったハーネスを装着する。

「無茶だよ、シド! 貴方そんなものの操縦なんてできないクセに!」
「シミュレーションなら飽きるほどやったさ、ゲーセンでな」

 差し込まれていたキィを回してレシプロエンジンを始動。最初は数度ガタついたが、あとは滑らかに星型七気筒エンジンが回り出す。プロペラが回転を始めた。

「ゲームセンターって……貴方もおかしい、目茶苦茶だよ! 降りてきて!」
「誰がダグラスを止められる!」

 足の間に生えだした操縦桿を握る。左脇にあるスロットルレバーを僅か前へ。
 プロペラの回転数が上がると機が進み始める。同時にシドは右ラダーペダルをそっと踏んだ。右折する。今度は左ラダーペダルを踏んでそっと離す。機体は格納庫から出た。

「嫌だ、シド! お願いだから降りてきてよっ!」
「あいつを叩き落としたらすぐ戻る!」
「嘘でしょう、そんなことができる訳……シド、シドっ!!」
「誰も死なせねぇ、犠牲者はティム=カーライルだけで充分だ!」

 エンジン音が高く大声でなくては会話が成立しない。そこにオープン発信のままだったハイファのリモータから声が流れ出た。

《シドが飛ぶのか? こいつは面白い、受けて立ってやる。約束の勝負だ!》

 シドもリモータをオープン発信にセット。

「そこで待っていやがれ、逃げるんじゃねぇぞ!」
《こんな面白いことから誰が逃げるか、早く上がってこい!》

「シド、挑発に乗らないで! ダメ、降りてよっ!」
「ちゃんと帰ってくるから待ってろ!」

 既に試作機は滑走路の端に到着していた。路面に正対するとシドはキャノピを閉める。閉める間際に泣き出しそうな若草色の瞳を、黒く澄んだ眼が射た。

 すうっと息を吸うとシドは翼後端のフラップを指示計通りに下げる。スロットルレバーを最大出力に押し込んだ。G制御装置も積んでいない機体が蹴飛ばされたように走り出す。

 五十、百、百五十メートルと疾走し操縦桿をゆっくりと引いた。二百メートル付近で機首がふわりと浮く。ギアが地を蹴った。

 上手くいった離陸に安心してはいられない。フラップを戻すと空気抵抗の大きい前部ギアの格納スイッチを探して押した。小さな後部ギアは作り付けで引っ込まない。

 分からないなりにもメーターのチェック、計器を一通り注視する。時速三百五十キロ、対地高度四百メートルで更に上昇中。燃料は満タンに近く、油温もレッドゾーンではない。モーターカノンの二十ミリ機銃も三百発フルロードだ。

 と、高度六百メートル付近で上方に黒い点のようなものが見えた。それがはっきり機影だと分かる前にシド、右のラダーペダルを蹴って操縦桿を右に倒している。
 右カーブを描きながら機体がロールを打つ。

 先程までいた空間を機銃弾が切り裂くのを見、冷や汗を手に滲ませながら喚いた。

「くそう、この卑怯者!」
《はっは、挨拶代わりだ。ここからが本番だぞ、シド!》

 それは互いに承知、高度を取って位置エネルギーを稼いだ方が圧倒的に有利なのに、ダグラスは敢えてこの高度まで降下しアタックしてきたのだ。

 操縦桿をいっぱいに引いてシドは高空を目指す。強烈なGに逆らって見通しの良いキャノピから見渡したが、今はダグラス機が何処にいるかは分からない。あちらも上昇中だろう。

 三分と掛からず三千メートルを越える。暫くもしないうちに寒さがじんわりと染みてきた。蒼穹に輝く恒星アルナスはあんなに暖かそうなのに指先がかじかんでくる。

 高度五千メートル。ここからは自分との戦い、猛烈な寒さと息苦しさがシドを襲う。酸素マスクは装備されていない。空冷されている筈のエンジンの油温が上がっている、スロットルを最大出力に入れっ放しだから当然だ。

 だが微調節する余裕もスキルもシドにはない。元より短期決戦のつもりである。

 ひとひら浮いていた雲を突き抜け、操縦桿を更に引く。放たれた弾丸の中に閉じ込められたようなG。十時方向に黒点、ダグラス機だ。荒い息を何度もついて耐える。ダグラスの苦しげな息づかいもリモータから洩れてくる。

 黒点が止まった。ダグラス機、水平飛行へ。シドは更に三秒ほど歯を食いしばって耐えたのち水平飛行に入る。左のラダーペダルを踏み、機首をダグラス機方向に振り向けた。

 降下し始めたダグラス機の上方に位置し操縦桿を僅かに前に倒す。自機も降下させながら数百メートル先のダグラス機に、自機のキャノピに描かれた十字を合わせて照準。
 操縦桿についた機銃のトリガを押した。

 約二秒を二連射。
 遠すぎて当たらない。

 毎分六百発を撃ち出すモーターカノンだ、押しっ放しだと三十秒で二十ミリ弾は尽きてしまう。しかし慎重に狙いすぎ、今度は高度を同じくしたダグラスが機銃を放った。

 瞬時に左へ操縦桿を倒しロールを打って逃れる。

 どちらが空だか地面だか分からなくなりながら、正対し合ったダグラス機とすれ違いざま互いに掃射。二機ともに翼端に数個の穴を開ける。

 数百メートルの距離をとり、シドは姿勢指示計で自機の姿勢を正した。

 再び上昇。二十秒近くを我慢して水平飛行に移る。遥か下方、九時方向にダグラス機を視認。パワーダイヴ、自由落下速度を越えた推力による降下。

 上方から二連射を浴びせた。ダグラス機に命中する。が、僅かな黒煙をたなびかせながらもダグラスは飛び続けた。
 重大な損傷を与えられないままシド、ダグラス機の脇をすり抜けて下方へ。ダグラスも追ってパワーダイヴ。

 デッドシックス、尻に食いつかれたシドは思い切って機を水平にする。ガクンと鋭いGが掛かりハーネスがシドの躰に食い込んだ。構わず瞬時に操縦桿を右斜め下に引く。

 バレルロール、錐もみ状態で螺旋を描きながら高度を変えずに位置だけをずらす。ずらした宙をダグラスが放った機銃弾が突き抜けた。

 続けてシドは操縦桿を鋭く引き、高空に180度ループを描く。半円の頂上で逆さになった機を180度ロール。インメルマンターン。機体が軋む。
 強引にシド機はダグラスの上空後方に位置。操縦桿を倒す。自由落下超え、推力による降下。パワーダイヴ。

「ダグラス、終わりだ」
《――Make my day》

 シドはトリガスイッチを押した。モーターカノンが唸りを上げる。

 二連射、命中。

 二十ミリ機銃に右の翼を完全に砕かれ、機体を引き裂かれたダグラス機は炎と黒煙を上げながら墜ちていった。

 ゆったりと旋回しながらシドが下方を見ると飛行場の隅、芝生の上でダグラス機が墜落炎上しているのが視認できた。
 高度計を見ると三百メートル、攻防の間に随分高度を失っていたことに気付く。今更ながら、どっと冷や汗が吹き出した。

《……シド、シドっ!》
「ん、ハイファ。今、帰る」
《てっきり、貴方が墜ちたのかと……》
「大丈夫だ」

 メーターの油温がレッドゾーンに近いのを見てスロットルレバーをゆっくりと半分にまで戻す。操縦桿を引きながら荒れ地の上空に出た。空は何処までも高く青い。

「ハイファ、お前も乗せてやりたいぜ」
《いいから早く帰ってきて。お願いだから》
「分かった分かった、RTBする」

 リターン・トゥ・ベース、帰投に備え燃料計を見る。まだまだ残っている燃料を、レバーを引いて放出した。着陸失敗時に炎上を逃れるためだ。エンプティすれすれでレバーを戻す。

 クリティカル・イレブン・ミニッツという。離陸三分と着陸八分の計十一分が航空機にとって最も危険な刻という訳だ。その八分間が始まる。

 飛行場上空に舞い戻ってシドは改めて唾を飲み込んだ。炎上した戦闘機の残骸は滑走路を見事に四分割している。有効に使えるのはたった三百メートルだ。それも上手く滑走路の端に降りられたらの話である。

 離陸よりも着陸に距離が要るのは当たり前で、この機だって三百メートルは必要だろうと思われた。

「ハイファ、全員退避させろ!」
《何で……あっ、ランディング! 他の飛行場に――》
「すまん、燃料捨てちまった」
《そんな、シドっ!》
「時間がねぇっ、降りるぞ!」

 徐々にスロットルレバーを絞り高度を下げる。遠目に白く浮いて見える滑走路に正対。フラップをいっぱいに下ろした。更に操縦桿を引いて機首上げし空気抵抗で速度を落とす。次のギアダウンで失速寸前にまでスピードが落ちた。

 それでも時速二百キロ近くは出ている。

 目の前に滑走路が迫り来る。小さな後輪から降りてはならない。引いた操縦桿を僅かに戻して機首下げ、前部ギアがコンクリートの地面に接地するガクッという衝撃を感じると同時に、地上ではブレーキとなるラダーペダルを思い切り踏み込んでいた。

 激しい衝撃が後部から伝わってくる。後輪が折れたらしい。後端を引きずった機体が左右にガタガタとぶれた。ぶれながらも超速で機は滑走路を滑ってゆく。

 左側の格納庫前からハイファが走ってくるのが妙にくっきりと目に映った。前方に爆発した戦闘機が立ち塞がる。試作機に気付いた人々が慌てて散った。まだ機体は滑っている。

 あと数十メートルのところでシドは操縦桿を僅か左に、次には鋭く右に倒した。ギアの軸が回転する。後部を引きずり火花を散らせた試作機はスピンターン、尾翼から戦闘機の残骸に突っ込んでいった。
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