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第1話・休前日〈画像解説付属〉
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アウトドアブームに乗っかって買った車は二年落ちのワンボックスで、俺としては結構頑張りすぎてしまったと今更ながら少々後悔しているが顔には出さない。だが頭金をありったけ払った直後の給料日翌日から正直言って「ガッカリ感」に苛まれた。
それが今後三十二ヶ月間も続く。
おまけにそもそもこの車を手に入れた最大のきっかけとも云える彼氏、いや、今では元カレとなってしまった男にサラリと軽くサヨウナラされてローンが俺だけにのしかかったのだ。
車を自慢しすぎて飽きられたのか、そのワンボックスに常に積んである釣り道具を自慢しすぎて飽きられたのか、休みが滅多に合わない仕事だからこそ俺は誰にも邪魔されない清々しい大海原を前にあいつと釣りでもしながら語り合いたかった……が、それに飽きられたのか。
今なら「全てが原因」と分かるがもう遅い。
とにかく「つまらない男」判定された俺はちょっと、いや、かなり無理しちゃったローンと共に取り残され、昼飯までもが節約対象となった。これに関してはとっくに親父は死んで生き残っている俺の母親が気遣ってくれたことなので、無下にも出来ずに会社に持って行ってキチンと食う。
だが今どき二十五歳でやたらと育ちすぎ、会社の検診が朝だと身長190センチに達してしまう男が腹を満たすためには当然ながら弁当箱も大きい。
その、おそらく「小学生か学齢前の運動会での家族用」としか思えぬ星をモチーフにしたキャラクターがパステルピンクとブルーでプリントされた弁当箱の中身が毎回キャラ弁なのには、会社に於ける自分のキャラクター自体を変えた方が良いのだろうかと、たっぷり十日は悩んだ。
しかし結局は、
「面白いお母様でいいじゃないですか」
「毎日、覗かせて貰えるのが愉しみなんですよ」
などという周囲の事務のお姉さん方のリップサーヴィスをまともに受け取ったフリで今に至っている。
俺の名は白瀬大和。大学卒業後、この小さくても堅実な仕事を積み重ねてきた広告代理店の下請け会社に入社してあちこちの部署を経験的に転々とさせられた挙げ句、どうやら上は俺を事務職向きと判断して据えたらしい。イヴェント等でミスでもあったら二晩徹夜していても飛んで行く営業でなくて良かったとホッとしている。
もう少し会社近くに実家があれば良かったのだが、例のローンを背負った自家用車通勤でどんなに道路が空いていても三十分オーバーの距離で夜討ち朝駆けはキツい。
だからといって会社近くに独りで部屋を借りる気にもならなかった。若くして俺を産んだために母は実際に若く、心配といえば心配なのだ。
喩えドでかい息子が「やめてくれ!」と再三主張してもキャラ弁を作り続け、趣味の熱帯魚飼育仲間たちと茶ばかり飲んでいる母でも、やはり女性の独り身に見えてしまうと昨今は物騒な事件も多くて、気が気じゃない。
けれどマザコンの如く思われるのは心外である。
ひとことで言えば母はお花畑の住人なのだ。暢気で、のほほんとしていて、大概の事に対してすぐには動じず、暫く経ってから脳ミソに染み込んで、
「あら、まあ、そうなの。どうしましょう?」だ。
俺が悩みに悩んで、
「女性がダメかも知れない。男の方が好きだ」
と、高校生にして一大カミングアウトをした時だって、母が驚きを露わにしたのは翌日の朝だった。ただ母はお花畑の住人でありながら「腐女子・貴腐人」と呼ばれる類の人種でもあったので午後には早くも、
「息子がもう一人増えたら炊飯器、買い直さなくちゃ」
などと呟いていたが。
そんな母が命名したという俺の大和という名は勇壮な戦艦大和ではない。
母の趣味の熱帯魚水槽で余計な藻をツマツマと食ってくれる、大きな個体でもせいぜい5センチ程度のヤマトヌマエビからきている。「可愛いから」というだけで息子の名前を天日干しにする前のサクラエビみたいな、いや、もっとショボくて目立たない生物から取るとは何事だよ!? と、知らされた時には憤慨したものだ。
更にはこの前、熱帯魚水槽の裏を掃除させられたら件のヤマトヌマエビが十匹ばかりも乾燥エビになって御臨終していた。おそらくエアレーション――水に空気を溶かし込むためのボコボコ――のチューブを伝って脱走したはいいが、戻れなくなったのだろう。
そいつを発見した時の俺の複雑な気持ちを考えてみて欲しい。
しかし実際には「大和」で良かったのかも知れない。「ヌマエビ」の方だったら悲惨だ。学生時代のテストの時に『沼蝦』だろうが『沼海老』だろうが画数が多くて発狂していたであろう。
ともかくそんな母だから放置して気付いた時には、お花畑に壺だの絵画だの布団セットだのが山積みになっていた、では困る。これ以上のローンを母と息子の二人で背負わないよう見張っていなければならないのであった。
まあ車は必要でもあったし買ってしまった以上は仕方ないので、ローンの残った車と一緒に明日と明後日の連休を過ごさなければならない。母は何処ぞのお宅のディスカスが産卵しただの、古代魚のポリプテルスとブラックゴーストを見せて貰いに行くのだと張り切っていた。
そこまで茫洋と考えて母から海水魚用の60センチ水槽の掃除を頼まれていたのを思い出す。それにはまず海水が要る。熱帯魚店に売っている『人工海水の素』なる塩の粉末を水で溶いてもいいが、ここはやはりキリリと締まった天然海水で、我が家を賑やかしてくれている奴らの鱗をピカピカに輝かせ、泳がせてやるべきだろう。
こうなると明日は釣りしかない。
水汲み用のポリタンク18リットルのが三個も車に積みっ放しになっていた。水槽掃除といっても全ての水を取り替えはしない。掃除一回当たりポリタンク一個で間に合う。60センチ水槽に水は50リットル強だが、汚れた水のみ吸い出して減った分を足すだけだからだ。
全ての水替えは魚体にも良くない。いきなり水質が変わると魚だって驚くのだ。同じく水温も急に変化させると魚がショック死することもある。じつにデリケートながら手が掛かるだけに彼らとの付き合いは面白い。
とにかく水は明日の帰り際にゴミのない穴場で汲んでやるのがいいだろう。
俺のする釣りはお手軽で、海沿いの釣具店で出来合いの仕掛けとエサを買い、それを投げ竿の幹糸に結んで思い切り「どりゃああ~っ!」と遠投する投げ釣りだ。なかなかにスカッとする。当然場所も限られて浜から投げるか堤防釣りだ。掛かる魚も五目釣りといえば格好がつくが殆ど雑魚釣りである。
しかしこの日ばかりは自分で握った塩昆布のデカい握り飯をアルミ箔に包んで持って行き、竿の先につけた鈴が鳴るまでシンプルな米の味を噛み締めるのは素直に気分が良かった。
丁度そのときチャイムが鳴って課業終了となったが、妄想界に出張していた俺はまだ書類が二枚残っていた。慌てて取り掛かると隣のデスクのベテラン女性が一枚を引き受けてくれつつ言った。
「大和君、早く終わらせないと、あの素敵な彼氏を待たせてるんじゃないの?」
「あー、言いづらいんですが破局したというか……」
「んまあっ! あんなに折り目正しくて高級スーツをビシッと着こなした色男なんて他にいないのに、勿体ないわねえ。顔だけなら大和君も張り合えるでしょうけれど、あれだけの好条件となると……ねえねえ、何があったのか話してみなさいよ」
「――ええと、彼は俺に内緒でホストクラブのヘルプもやってて。それで口論に」
「案外、大和君って真面目よねえ。じゃあ、こっちの書類は手伝うのやーめた」
どうせ二十分もかからない仕事なので構わないが、一緒に仕事を終われば会社の入居したビル一階ホール辺りでイケメンを拝めると計算していたオバチャンは現金だった。
それが今後三十二ヶ月間も続く。
おまけにそもそもこの車を手に入れた最大のきっかけとも云える彼氏、いや、今では元カレとなってしまった男にサラリと軽くサヨウナラされてローンが俺だけにのしかかったのだ。
車を自慢しすぎて飽きられたのか、そのワンボックスに常に積んである釣り道具を自慢しすぎて飽きられたのか、休みが滅多に合わない仕事だからこそ俺は誰にも邪魔されない清々しい大海原を前にあいつと釣りでもしながら語り合いたかった……が、それに飽きられたのか。
今なら「全てが原因」と分かるがもう遅い。
とにかく「つまらない男」判定された俺はちょっと、いや、かなり無理しちゃったローンと共に取り残され、昼飯までもが節約対象となった。これに関してはとっくに親父は死んで生き残っている俺の母親が気遣ってくれたことなので、無下にも出来ずに会社に持って行ってキチンと食う。
だが今どき二十五歳でやたらと育ちすぎ、会社の検診が朝だと身長190センチに達してしまう男が腹を満たすためには当然ながら弁当箱も大きい。
その、おそらく「小学生か学齢前の運動会での家族用」としか思えぬ星をモチーフにしたキャラクターがパステルピンクとブルーでプリントされた弁当箱の中身が毎回キャラ弁なのには、会社に於ける自分のキャラクター自体を変えた方が良いのだろうかと、たっぷり十日は悩んだ。
しかし結局は、
「面白いお母様でいいじゃないですか」
「毎日、覗かせて貰えるのが愉しみなんですよ」
などという周囲の事務のお姉さん方のリップサーヴィスをまともに受け取ったフリで今に至っている。
俺の名は白瀬大和。大学卒業後、この小さくても堅実な仕事を積み重ねてきた広告代理店の下請け会社に入社してあちこちの部署を経験的に転々とさせられた挙げ句、どうやら上は俺を事務職向きと判断して据えたらしい。イヴェント等でミスでもあったら二晩徹夜していても飛んで行く営業でなくて良かったとホッとしている。
もう少し会社近くに実家があれば良かったのだが、例のローンを背負った自家用車通勤でどんなに道路が空いていても三十分オーバーの距離で夜討ち朝駆けはキツい。
だからといって会社近くに独りで部屋を借りる気にもならなかった。若くして俺を産んだために母は実際に若く、心配といえば心配なのだ。
喩えドでかい息子が「やめてくれ!」と再三主張してもキャラ弁を作り続け、趣味の熱帯魚飼育仲間たちと茶ばかり飲んでいる母でも、やはり女性の独り身に見えてしまうと昨今は物騒な事件も多くて、気が気じゃない。
けれどマザコンの如く思われるのは心外である。
ひとことで言えば母はお花畑の住人なのだ。暢気で、のほほんとしていて、大概の事に対してすぐには動じず、暫く経ってから脳ミソに染み込んで、
「あら、まあ、そうなの。どうしましょう?」だ。
俺が悩みに悩んで、
「女性がダメかも知れない。男の方が好きだ」
と、高校生にして一大カミングアウトをした時だって、母が驚きを露わにしたのは翌日の朝だった。ただ母はお花畑の住人でありながら「腐女子・貴腐人」と呼ばれる類の人種でもあったので午後には早くも、
「息子がもう一人増えたら炊飯器、買い直さなくちゃ」
などと呟いていたが。
そんな母が命名したという俺の大和という名は勇壮な戦艦大和ではない。
母の趣味の熱帯魚水槽で余計な藻をツマツマと食ってくれる、大きな個体でもせいぜい5センチ程度のヤマトヌマエビからきている。「可愛いから」というだけで息子の名前を天日干しにする前のサクラエビみたいな、いや、もっとショボくて目立たない生物から取るとは何事だよ!? と、知らされた時には憤慨したものだ。
更にはこの前、熱帯魚水槽の裏を掃除させられたら件のヤマトヌマエビが十匹ばかりも乾燥エビになって御臨終していた。おそらくエアレーション――水に空気を溶かし込むためのボコボコ――のチューブを伝って脱走したはいいが、戻れなくなったのだろう。
そいつを発見した時の俺の複雑な気持ちを考えてみて欲しい。
しかし実際には「大和」で良かったのかも知れない。「ヌマエビ」の方だったら悲惨だ。学生時代のテストの時に『沼蝦』だろうが『沼海老』だろうが画数が多くて発狂していたであろう。
ともかくそんな母だから放置して気付いた時には、お花畑に壺だの絵画だの布団セットだのが山積みになっていた、では困る。これ以上のローンを母と息子の二人で背負わないよう見張っていなければならないのであった。
まあ車は必要でもあったし買ってしまった以上は仕方ないので、ローンの残った車と一緒に明日と明後日の連休を過ごさなければならない。母は何処ぞのお宅のディスカスが産卵しただの、古代魚のポリプテルスとブラックゴーストを見せて貰いに行くのだと張り切っていた。
そこまで茫洋と考えて母から海水魚用の60センチ水槽の掃除を頼まれていたのを思い出す。それにはまず海水が要る。熱帯魚店に売っている『人工海水の素』なる塩の粉末を水で溶いてもいいが、ここはやはりキリリと締まった天然海水で、我が家を賑やかしてくれている奴らの鱗をピカピカに輝かせ、泳がせてやるべきだろう。
こうなると明日は釣りしかない。
水汲み用のポリタンク18リットルのが三個も車に積みっ放しになっていた。水槽掃除といっても全ての水を取り替えはしない。掃除一回当たりポリタンク一個で間に合う。60センチ水槽に水は50リットル強だが、汚れた水のみ吸い出して減った分を足すだけだからだ。
全ての水替えは魚体にも良くない。いきなり水質が変わると魚だって驚くのだ。同じく水温も急に変化させると魚がショック死することもある。じつにデリケートながら手が掛かるだけに彼らとの付き合いは面白い。
とにかく水は明日の帰り際にゴミのない穴場で汲んでやるのがいいだろう。
俺のする釣りはお手軽で、海沿いの釣具店で出来合いの仕掛けとエサを買い、それを投げ竿の幹糸に結んで思い切り「どりゃああ~っ!」と遠投する投げ釣りだ。なかなかにスカッとする。当然場所も限られて浜から投げるか堤防釣りだ。掛かる魚も五目釣りといえば格好がつくが殆ど雑魚釣りである。
しかしこの日ばかりは自分で握った塩昆布のデカい握り飯をアルミ箔に包んで持って行き、竿の先につけた鈴が鳴るまでシンプルな米の味を噛み締めるのは素直に気分が良かった。
丁度そのときチャイムが鳴って課業終了となったが、妄想界に出張していた俺はまだ書類が二枚残っていた。慌てて取り掛かると隣のデスクのベテラン女性が一枚を引き受けてくれつつ言った。
「大和君、早く終わらせないと、あの素敵な彼氏を待たせてるんじゃないの?」
「あー、言いづらいんですが破局したというか……」
「んまあっ! あんなに折り目正しくて高級スーツをビシッと着こなした色男なんて他にいないのに、勿体ないわねえ。顔だけなら大和君も張り合えるでしょうけれど、あれだけの好条件となると……ねえねえ、何があったのか話してみなさいよ」
「――ええと、彼は俺に内緒でホストクラブのヘルプもやってて。それで口論に」
「案外、大和君って真面目よねえ。じゃあ、こっちの書類は手伝うのやーめた」
どうせ二十分もかからない仕事なので構わないが、一緒に仕事を終われば会社の入居したビル一階ホール辺りでイケメンを拝めると計算していたオバチャンは現金だった。
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