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第18話
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リンゴをバターとグラニュー糖で炒め始めると、部屋中に甘酸っぱい匂いが充満して、小田切だけではなく嗅覚の異常に鋭い京哉までが毛布を被ったまま起きてきた。
「何だかすっごく美味しそうな匂いですね」
「それより京哉くんは起きていてもいいのかい?」
「大丈夫です、随分熱も下がりました。ご心配をおかけしてすみません」
「どれ、熱は――」
「京哉に馴れ馴れしく触るな!」
リンゴの芯がブンッと飛んできて小田切の頭にクリーンヒットする。小田切は拾って投げ返したが、背を向けているにも関わらず霧島は見事に避けた。
攻防を繰り広げながらもシナモンを入れたリンゴのフィリングが出来上がり、霧島はパイ型に冷凍パイシートを敷く。フィリングを隙間なく詰めて細長く切ったパイシートを網状に被せると溶いた卵黄を塗った。
温めておいたオーブンに入れると三人でじっと覗き込む。
「何分くらいで焼き上がるんですか?」
「二百度で十分、百八十度で十五分だそうだ」
まだ暫くは食べられないと知り、京哉は二人掛けソファでニュースを眺め始めた。霧島が健全にインスタントコーヒーをカップ三つに淹れてくると、京哉の隣に陣取っていた小田切を蹴り落して自分が座る。転がった小田切は独り掛けソファに収まった。
腰を落ち着けてコーヒーを飲み始めるのを待っていたように京哉が小田切に訊く。
「ところで小田切さんはご自分から現場を希望したんですか?」
「すんなりこられた訳じゃないけれどね。いきなりどうしたんだい、京哉くん」
「いえ。色々あったのは聞きましたが、何だか忍さんと似てるなあって思って」
「似ているというのは心外だが、綺麗にプレスした制服を着てデスクワークしてるより動き回れる方が性に合っているとは思ってるよ。それに国家公務員総合職試験をトップで突破した霧島さんと、ビリで通過した俺がデスクを並べるのも面白いだろ?」
「何とも答えづらいですけど、そうなのかも知れませんね。ご家族は?」
「俺に家族はいない。事故でね、小学四年生で施設に入った」
「それは……すみません」
「謝らなくていいさ。単なる事実で隠してもいないからな」
ニュース音声をBGMに喋るのは京哉と小田切だけ、霧島は黙って二人の会話を聞いていた。だが内心は相変わらず苛ついている。五年間の暗殺者生活を維持するために京哉は極力他人との関係構築を避けていたという。それは今でも変わらず、他人に対し必要以上の興味を示すことが殆どなかった。
ところが小田切には何故か興味津々のようで心穏やかではいられない。
やがてオーブンが電子音を鳴らす。男三人で覗きに行くとパイが焼き上がっていた。天板からパイをプレートに移す。ぱりっと焼けたきつね色が綺麗だった。
「すごいすごい、本当にアップルパイしてる!」
「俺も手伝ったんだぜ、大したもんだろ」
「あれで手伝った気になるな。利息分の労働刑はまだ終わっていないぞ」
ともあれ少し冷めてから切った方が良さそうで、三人はインスタントコーヒーを淹れ直すとリビングに戻った。京哉はリクエストを本当に霧島が作ってくれた嬉しさで白い頬を僅かに紅潮させている。
一方ニュースでは飽かず《銃を持った人質犯を県警SATが射殺逮捕》なる報道を繰り返し、京哉はまた僅かに熱が上がったらしい。
けれど本人が霧島に対して目で「大丈夫だ」と訴えていたので、ここは騒がず京哉自身の好きにさせておく。
ストレスを掛けない方がいいに違いなく、なるべく抑圧しない方向で対処するつもりだった。幸い小田切も京哉の熱には気付かないようだ。
それより三人して待ちきれなくなりアップルパイを切る。ケーキ用のナイフがないので霧島がパン切りナイフで八等分した。
それを期待の目で見つつ京哉がティーバッグのアールグレイを淹れる。
小皿に取り分けたパイにフォークを添え、リビングのロウテーブルに並べると大の男三人で手を合わせてティータイムだ。
「ん、これ美味しい! それにあったかいアップルパイなんて初めてですよ」
「生地から作ると大変なんだろうが、手軽に出来てこれはいいかも知れん」
「あー、これは旨いなあ。おかわりしてもいいかい?」
皆が二切れずつ腹に収めて二杯目の紅茶を啜っていると地方局が『SATの射殺逮捕』に飽きたのか、次は《薬物汚染される警察官》なるニュース特番を流し始めた。
要するにここ数ヶ月で覚醒剤に手を出した現職警察官が四名も逮捕されたという報道だったが、県下とはいえ所轄の問題であり本部所属の三人にとっては溜息ひとつで忘れる程度の話である。
「さてと。僕は晩御飯の仕込みに取り掛かりますね」
「では私も手伝おう」
「おっ、晩飯は何だい?」
「貴様に関係ないだろう。もう帰れ、とっとと失せろ」
「まあまあ、いいじゃないですか。炊き込みご飯と鶏の唐揚げは沢山作るんだし」
「だが秋刀魚は二匹しか買っていないからな。頭としっぽだけ与えるとするか」
「今どき猫だって食べませんよ。でも、まあいいか」
猫以下扱いでもめげない男はしっかり他人のウチで腹を満たし、更に炊き込みご飯のおにぎりの土産まで持って「また明日!」と朗らかに手を挙げて帰って行った。
見送った京哉は玄関のドアを閉めて溜息をつく。
「急に静かになると、ちょっと淋しい気も……んんぅ……んっ! 忍さん?」
ふいに霧島に唇を奪われて貪られ、抱き竦められて長身を見上げた。灰色の目はたっぷり不機嫌と不満を溜め込んでいる。首を傾げて見せると素直に文句を垂れた。
「私がいるのに淋しいなどと言うな」
「そんな子供みたいに拗ねなくても。だったら一緒にお風呂に入りませんか?」
「お前の体調さえ良ければ」
途端に霧島が目を和ませたのが可笑しかったが、京哉は必死で笑うのを堪えた。
「何だかすっごく美味しそうな匂いですね」
「それより京哉くんは起きていてもいいのかい?」
「大丈夫です、随分熱も下がりました。ご心配をおかけしてすみません」
「どれ、熱は――」
「京哉に馴れ馴れしく触るな!」
リンゴの芯がブンッと飛んできて小田切の頭にクリーンヒットする。小田切は拾って投げ返したが、背を向けているにも関わらず霧島は見事に避けた。
攻防を繰り広げながらもシナモンを入れたリンゴのフィリングが出来上がり、霧島はパイ型に冷凍パイシートを敷く。フィリングを隙間なく詰めて細長く切ったパイシートを網状に被せると溶いた卵黄を塗った。
温めておいたオーブンに入れると三人でじっと覗き込む。
「何分くらいで焼き上がるんですか?」
「二百度で十分、百八十度で十五分だそうだ」
まだ暫くは食べられないと知り、京哉は二人掛けソファでニュースを眺め始めた。霧島が健全にインスタントコーヒーをカップ三つに淹れてくると、京哉の隣に陣取っていた小田切を蹴り落して自分が座る。転がった小田切は独り掛けソファに収まった。
腰を落ち着けてコーヒーを飲み始めるのを待っていたように京哉が小田切に訊く。
「ところで小田切さんはご自分から現場を希望したんですか?」
「すんなりこられた訳じゃないけれどね。いきなりどうしたんだい、京哉くん」
「いえ。色々あったのは聞きましたが、何だか忍さんと似てるなあって思って」
「似ているというのは心外だが、綺麗にプレスした制服を着てデスクワークしてるより動き回れる方が性に合っているとは思ってるよ。それに国家公務員総合職試験をトップで突破した霧島さんと、ビリで通過した俺がデスクを並べるのも面白いだろ?」
「何とも答えづらいですけど、そうなのかも知れませんね。ご家族は?」
「俺に家族はいない。事故でね、小学四年生で施設に入った」
「それは……すみません」
「謝らなくていいさ。単なる事実で隠してもいないからな」
ニュース音声をBGMに喋るのは京哉と小田切だけ、霧島は黙って二人の会話を聞いていた。だが内心は相変わらず苛ついている。五年間の暗殺者生活を維持するために京哉は極力他人との関係構築を避けていたという。それは今でも変わらず、他人に対し必要以上の興味を示すことが殆どなかった。
ところが小田切には何故か興味津々のようで心穏やかではいられない。
やがてオーブンが電子音を鳴らす。男三人で覗きに行くとパイが焼き上がっていた。天板からパイをプレートに移す。ぱりっと焼けたきつね色が綺麗だった。
「すごいすごい、本当にアップルパイしてる!」
「俺も手伝ったんだぜ、大したもんだろ」
「あれで手伝った気になるな。利息分の労働刑はまだ終わっていないぞ」
ともあれ少し冷めてから切った方が良さそうで、三人はインスタントコーヒーを淹れ直すとリビングに戻った。京哉はリクエストを本当に霧島が作ってくれた嬉しさで白い頬を僅かに紅潮させている。
一方ニュースでは飽かず《銃を持った人質犯を県警SATが射殺逮捕》なる報道を繰り返し、京哉はまた僅かに熱が上がったらしい。
けれど本人が霧島に対して目で「大丈夫だ」と訴えていたので、ここは騒がず京哉自身の好きにさせておく。
ストレスを掛けない方がいいに違いなく、なるべく抑圧しない方向で対処するつもりだった。幸い小田切も京哉の熱には気付かないようだ。
それより三人して待ちきれなくなりアップルパイを切る。ケーキ用のナイフがないので霧島がパン切りナイフで八等分した。
それを期待の目で見つつ京哉がティーバッグのアールグレイを淹れる。
小皿に取り分けたパイにフォークを添え、リビングのロウテーブルに並べると大の男三人で手を合わせてティータイムだ。
「ん、これ美味しい! それにあったかいアップルパイなんて初めてですよ」
「生地から作ると大変なんだろうが、手軽に出来てこれはいいかも知れん」
「あー、これは旨いなあ。おかわりしてもいいかい?」
皆が二切れずつ腹に収めて二杯目の紅茶を啜っていると地方局が『SATの射殺逮捕』に飽きたのか、次は《薬物汚染される警察官》なるニュース特番を流し始めた。
要するにここ数ヶ月で覚醒剤に手を出した現職警察官が四名も逮捕されたという報道だったが、県下とはいえ所轄の問題であり本部所属の三人にとっては溜息ひとつで忘れる程度の話である。
「さてと。僕は晩御飯の仕込みに取り掛かりますね」
「では私も手伝おう」
「おっ、晩飯は何だい?」
「貴様に関係ないだろう。もう帰れ、とっとと失せろ」
「まあまあ、いいじゃないですか。炊き込みご飯と鶏の唐揚げは沢山作るんだし」
「だが秋刀魚は二匹しか買っていないからな。頭としっぽだけ与えるとするか」
「今どき猫だって食べませんよ。でも、まあいいか」
猫以下扱いでもめげない男はしっかり他人のウチで腹を満たし、更に炊き込みご飯のおにぎりの土産まで持って「また明日!」と朗らかに手を挙げて帰って行った。
見送った京哉は玄関のドアを閉めて溜息をつく。
「急に静かになると、ちょっと淋しい気も……んんぅ……んっ! 忍さん?」
ふいに霧島に唇を奪われて貪られ、抱き竦められて長身を見上げた。灰色の目はたっぷり不機嫌と不満を溜め込んでいる。首を傾げて見せると素直に文句を垂れた。
「私がいるのに淋しいなどと言うな」
「そんな子供みたいに拗ねなくても。だったら一緒にお風呂に入りませんか?」
「お前の体調さえ良ければ」
途端に霧島が目を和ませたのが可笑しかったが、京哉は必死で笑うのを堪えた。
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