やんごとなき依頼人~Barter.20~

志賀雅基

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第1話

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 またもや釣り針が海底の岩に引っ掛かったのかと思い、京哉きょうやはぞんざいにリールを巻き始めた。だがその岩が時折走るように逆らい引っ張ってくるのを感じて、根掛かりではなく本当に魚が掛かったのだと知る。

 初めての大物の予感に隣で同じく釣り糸を垂れている霧島きりしまを振り返った。すると霧島から低い声を投げてくる。

「どうした、今度こそ食えそうな獲物が掛かったのか?」
「みたいです。わあっ、暴れる……どうしよう!」
「竿は立てておけ、寝かせると糸を切られるぞ」

 そんな風にアドバイスしてくれるが霧島は手を貸してくれようとはしない。それで魚釣り三回目の初心者である京哉は四苦八苦する。
 しかし三回目の意地だ。今までの雑魚とは明らかに手応えの違う獲物を逃すまいと、京哉はリールを巻きながら海面を真剣な面持ちで睨みつける。真冬の潮風は切るような冷たさなのに額に汗が浮かぶ。

 息まで詰めてリールを巻き続けるとやがて魚影が見えてきた。それを目にした霧島が初めて動く。タモを持ち出して待機の構えだ。京哉は釣り竿を更に立てながらリールを巻いて暴れる魚を引き寄せる。そのまま半ば持ち上げたところで霧島が魚をすくい上げた。

 タモで甲板に引き上げられた獲物を確認して京哉は狂喜する。

「やった、真鯛ですよ、それも大きい!」
「ゆうに五十センチ以上あるな。これは今枝いまえだたちも喜ぶぞ」

 頬を紅潮させた京哉は鯛一匹を抱え、霧島に携帯画像に収めて貰った。京哉が小柄なだけに真鯛は余計に大きく見え、なかなか面白い画になる。そして霧島が真鯛を活け締めした。クーラーボックスに入れ、百九十近い長身の霧島は灰色の目で京哉を見下ろす。

 二人は薬指にペアリングを嵌めた左手同士をこぶしにしてぶつけ、微笑み合った。

「今回は私の負けかも知れんな」
「でもしのぶさんはバリエーションがすごいです、イサキにヒラメにカレイに鯛も」
「こういう場合は大きさで勝敗を決めるものだ」

「なら、何か賭けておけば良かったかも」
「来週の食事当番くらいなら今から賭けても構わんが」

「僕がそんなに甘いと思っているんですか。賭けるなら来週一週間ずっと仕事中のオンライン麻雀と空戦ゲームに献立レシピ検索及び居眠りのオール禁止を賭けます」

 捲し立てられて霧島は端正な顔をしかめ口をへの字にする。

「せっかく事件の報も入らない沖まで来て仕事の話など無粋もいいところだぞ」
「だって今週も貴方が書くべき書類をどれだけ僕が代書したと思ってるんですか」
「機捜隊長の私と副隊長をフォローするのが秘書たるお前の仕事だろう?」

「だから僕は真面目にやってるじゃないですか。そうでなければ貴方と小田切おだぎり副隊長は、書類の不備でとっくに捜一の剛田ごうだ警視にぶん殴られるか絞め殺されてますよ」

「ああ、分かった。鳴海なるみ巡査部長と霧島警視はここまで、本当に仕事の話は止めだ」
「じゃあ魚釣りは一休みしてお昼ご飯にしませんか?」

 二人は一旦釣り道具を片付けて船室に入る。客室キャビンは空調が利いて暖かく、京哉は潮まみれの上に曇ってしまったメタルフレームの伊達眼鏡を外した。
 二人してこれも潮を被った防寒着の上下を脱ぐ。ややすっきりしたところで今週の食事当番の霧島は厨房に立った。

 ここは全長二十メートルほどもあるクルーザー・エキドナ号である。
 エキドナ号は巨大総合商社・霧島カンパニーの所有船だ。霧島忍は実父の霧島カンパニー会長を本気で逮捕しようと思っているほど毛嫌いしている。

 だがその御曹司という立場に課せられる迷惑料だと割り切って、土日祝日の三連休を四歳年下の恋人であり同居人であり、部下で相棒バディでもある京哉と共にこのクルーザーで過ごしていた。ちゃんと一級小型船舶操縦士の免許は持っている。

 真冬の海はレジャーに適しているとは言いがたい。なのに何故二人して沖まで出ているのかといえば二人は警察官で県警機動捜査隊・通称機捜に所属し、更に県警本部長を通してたびたび『上』から極秘の特別任務を課せられてきた身だからである。

 『上』と言っても初めの頃は県警内での案件だったが、何故かスケールアップしてしまい国外案件は当たり前、国連安保理事会が絡み、日本政府を通して事務総長から謝辞まで貰う事態に陥っている。勿論、当人たちは平和にサツカンしていたい。

 そういった理由で久々の連休を大事件の知らせだの、自分の命でビリヤードさせられる特別任務だのに邪魔されないよう電波が届かない場所まで逃げてきたのだった。

 ソファに腰掛けた京哉は、ずっと強風で我慢していた煙草タイムだ。

 煙草を吸いつつ眼鏡に付着した潮をセーターの下に着たチェックのシャツの裾で拭う。伊達なので生活に必要ではないが、かつてスナイパーだった頃に自分を目立たせないためのアイテムとして導入し掛け始めて以来五年以上の時が過ぎ、もうフレームのない視界は落ち着かなくなってしまったのだ。

 スナイパーといっても正規の警察官としての職務ではなく暗殺である。

 女手ひとつで育ててくれた母を高二の冬に犯罪被害者として亡くし、京哉は大学進学を諦めて警察学校を受験し入校した。
 そこで抜きんでた射撃の腕に目を付けられ、配属直前に呼び出され告げられたのだ。会ったこともなく既に亡くなっていた父が生前に強盗殺人の大罪を犯していたと。無論、真っ赤な嘘だったが京哉は嵌められた。

 それから五年もの間、政府与党の重鎮と警察庁サッチョウ上層部の一部に霧島カンパニーが組織した暗殺肯定派の実行役として、本業の警察官をする傍ら、政敵や産業スパイの暗殺に従事させられていたのである。

 だが霧島と出会って心を決め『知りすぎた男』として消されることを知りつつスナイパー引退宣言をした。しかしやはり抹殺命令が下り京哉は殺されそうになった。そこに機捜の部下を率いた霧島が間一髪で飛び込んできてくれて生き存えたのである。

 そのあと警察の総力を以て京哉がスナイパーだった事実は隠蔽された。お蔭でこうしていられるが、京哉は自分が撃ち砕いてきた人々を忘れない。忘れられなかった。

 おまけに県警本部長からは直々に非常勤ながらSATサット狙撃班員として任命され、それを端緒にどんどん機捜の職務から外れた厄介事が増え始めた挙げ句の特別任務だ。
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