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case4 ターゲット・サイティング
2 リハーサルと暗殺者
しおりを挟む「――鶴の恩返し、という昔話を知っているかい」
江里澤夕莉(えりさわゆうり)は、手に持って開いていたノートへと目を落としながら言う。
またこの人は、唐突に何を言い出すのだろう。そんなことを思いつつも、向かいに座る、長身に短髪の男――戌井冬吾(いぬいとうご)は答えた。
「……そりゃあ、もちろん知ってますけど。日本人なら知らない人なんて殆どいないでしょ?」
答えてからグラスの水を一口飲む。大学の学生食堂、その中のテーブルの一つに、二人は向かい合って座っていた。ノートのページをめくってから、夕莉は続ける。
「そう。日本人ならまず誰もが知っている物語だ。今に伝わる代表的な動物報恩譚だからね」
耳慣れない言葉が出てきた。
「どうぶつ……なんですって?」
「動物報恩譚。昔話の話型の一つさ。読んで字の如く、動物が人間からの恩義に報いる物語の類型だ。他にもあるだろう、浦島太郎とか、ぶんぶく茶釜とか、狐女房とかさ。ああいうやつだよ」
「あー……」
夕莉は大学では哲学を専攻しているが、文学の方面にも明るい。そのことを、彼女と長い付き合いになる冬吾はよく知っていた。
江里澤夕莉という、やや風変わりな先輩との出会いは、もう六年も前になる。冬吾が中学一年の頃、隣の家に引っ越してきたのが江里澤家だった。引っ越しは親の仕事の都合だったという。夕莉は冬吾より二つ歳上で、今は二十一歳。頭のいい人なので、もっとレベルが上の大学を狙うこともできたと思うのだが、結局家から近い大学に進学したのは、本人いわく「また引っ越しをするのは面倒くさいから」とのこと。もっとも、その選択のお陰で冬吾は夕莉に受験勉強を手助けしてもらえたのだが。昔から冬吾やその妹のことを色々と気にかけてくれている夕莉は、冬吾にとって最も信頼できる人間の一人だった。
夕莉の風貌を一言で称するならば、自由な詩人か音楽家というところだろう。肩につくかつかないかという長さのさらりと流した黒髪と、前髪の分け目から露出する色白で広めの額、涼しげな目元の持ち主で、落ち着きのある知的な女性という感じだ。また、全体の雰囲気がナチュラルに女っぽいのもあって、その気にさえなればなびく男の二、三人も出てきそうなものだが、今のところ彼女にそちらの興味は皆無なようで、今日もいつものように灰色のフリースにジーンズという地味な恰好をしている。
「――で、その動物報恩譚がどうしたんです?」
冬吾はなんとなく周囲に視線を泳がせながら尋ねた。今日は一応休日ということになっているからか、昼時でもそれほど食堂は混んでいない。
夕莉はまた手元のノートのページをめくって、答えた。
「それがジャンルとして定着するくらい、動物が人に恩返しをする昔話は沢山の数存在するということだよ。ところが、人が人に恩返しをする話となると、これが殆ど見られない」
「そうなんですか? ……まぁ、言われてみればたしかに、すぐには思いつきませんね。でも昔話やおとぎ話って大体そういうもんでしょ。人が人に恩返しをするってだけじゃ、なんというか……普通すぎて、面白みに欠けますよ」
「うん」夕莉は頷いて、「君の意見は至極もっともだ。本来なら人より知性で遙かに劣り、文化と呼ぶべきものすら持たないはずの生き物たちが、人からの恩義に対して律儀にも報いようとするという、現実からの飛躍。そこに物語としての魅力があるんだろう。一方で、人が人へ恩返しをする、こちらはせいぜい礼儀の問題でしかない。子ども向けのおとぎ話とするにはいささか普通すぎる。具体性を欠く表現だが、言ってしまえばロマンがない」
「はぁ……」
……相変わらずというかなんというか……この人の話は、前置きが長い。俺にこんな話をして、結局何が言いたいんだろう……?
ここで下手にツッコむときっと機嫌を損ねるので――見かけより子どもっぽい人なのだ――、なるべくやんわりと伝えることを心がけて言う。
「ええっと……それで、そのお話がどこに着陸するのか俺にはまだ読めないんですけど……」
「ふふ、まぁそう慌てないことだ。当機は既に着陸態勢に入っているよ」
夕莉は不敵な笑みを浮かべて言う。つまり、話の本題はこれからということだ。夕莉は、テーブル上の空食器を乗せたトレイを指さす。冬吾と夕莉は昼食を済ませたばかりだった。
「冬吾。君は今しがた、昼食を私に奢らせたね。カレーライスにデザートのプリンまでつけて、だ」
「奢らせたって……昼飯奢ってやるから学校来いって電話かけてきたの、先輩じゃないですか……」
電話で何の用件なのか質問してみたが、のらりくらりとかわされてしまった。しかしまぁ、今日は予定もなく暇だったので、素直に夕莉の誘いに乗ったのだ。
「ともかく。いっぱしの知性と教養を身につけた人間であるはずの君ならば当然、私から受けた恩を返そうとするはずだ。鶴の恩返しで言う鶴だね。いや、君は“戌”井だから、花咲か爺さんのほうが例えとして適切だったかな?」
何のことだか一瞬わからなかったが、“いぬ”繋がりだと遅れて理解する。ここほれワンワン、あれも動物報恩譚だ。……たしか、その犬は物語の途中で死んでしまうのではなかったか? 縁起でもない。
冬吾は呆れたように小さくため息をついた。
「……今ので大体わかりました。そのお返しとして、俺に何か頼みたいことがあると。そんなとこでしょ?」
「君は物わかりが早くて好きだよ」
この人の回りくどい論調に上手く対応するには、少しばかり慣れが必要だ。
「呼び出された時点で、何か用事があるんだろうとは思いましたけど……それならそうと、最初に言ってくれればよかったのに。何の用事だか知りませんけどね、こんなことしなくても、俺、先輩の頼みなら断りませんよ」
冬吾の言葉に対して、夕莉は上機嫌そうに笑ってみせる。
「おや、嬉しいことを言ってくれるね。冬吾がそこまで私のことを慕ってくれているとは思わなかった」
「まぁ……色々とお世話になってますからね。……言っときますけど、俺には小判の埋まってる場所を探り当てるなんて芸当はできませんよ?」
「ははっ! もちろん、君にそんなことを期待しているわけじゃないよ。大変でも危険でもない仕事だから、安心しておくれ」
「それで、どんな用事なんです?」
「ふふふ……実は既に、それについてのヒントは君の前に提示されていたのだよ」
夕莉はふふん、と得意げになって言う。
「ヒント? 何のことですか?」
冬吾が尋ねると、夕莉は先ほどから手元にあったノートを、開いたまま両手でゆっくりと持ち上げて、冬吾にそれを見せつけるようにする。ごくごく普通の大学ノートだった。
「あの……」
これは、答えるべきなのだろうか……?
「わからないかな? まぁ、君にはちょ……と、難しかったかもしれないね?」
夕莉は落胆するように言いながら、ノートの上端からちらちらとこちらを見る。また白々しい……。
やれやれ……仕方ない。
「あー……ごほん。見くびらないでください。もちろん、わかりましたとも。そのノートがヒントなんだ」
わざと芝居がかった口調で言ってやる。
「そのとおり」
やや弾んだ声が返ってきた。ノートを持ち上げたまま、その横から夕莉がひょいと顔を覗かせる。
「よく気がついたね、さすがだね、冬吾」
「そりゃそんな風にこれ見よがしにされたら、誰だって気づきますよ。褒められたって嬉しくないです」
この人はわざとなんだか天然なんだか、よくわからないボケをする。
ヒントと言うからには、ノートに何らかの手がかりがあるのだろう。見ると、表紙の部分に黒いインクで『舞台用脚本』と達筆な字で書かれている。おそらく、夕莉の字だ。見覚えがある。
「何かの脚本ですか? 舞台用ってありますけど」
尋ねると、夕莉は肩をすくませ、呆れたように言う。
「何かの、って……君ね。明日からの二日間、何があるか知らないのかい?」
「明日から? そりゃもちろん、知ってますけど……あ、舞台って、そういうことですか!?」
やっと合点がいった。
「ああ」夕莉は頷いてノートを閉じると、それを掲げるようにして言う。「こいつは、明日の学園祭でやる演劇のシナリオさ。体育館の舞台を使ってやるやつだね。ちなみに、作者は私だ」
「はっ!? 先輩が書いたんですか?」
驚いて言うと、夕莉はクスリと笑う。
「そうだけど、私が作者では何か問題があるのかな」
「ああいや、問題なんてないですけど……え? じゃあ、先輩の考えた話が舞台になるってことですよね? うわ、すごいじゃないですか!」
冬吾が素直な感想を述べると、夕莉は、「悪い気はしないね」とでも言うように小さく微笑んだ。
我が大学の年に一度の学園祭が、明日からの二日間に渡って開催される。今日は、そのための準備日ということになっていた。準備に関わる生徒たちにとっては忙しい一日なのだろうが、それ以外の者たち――何のサークル活動も行っていなければ、学園祭自体にさしたる興味も持っていない冬吾のような者にとっては、ただの休日でしかない。冬吾はそこを夕莉に呼び出されたのだった。
冬吾は質問をしてみる。
「先輩が書いた脚本っていうと、やっぱりミステリですか?」
「ああ」夕莉は頷く。「私ごときがせいぜい書けるとしたら、それくらいだからね」
夕莉は大学の推理小説研究会に所属している。彼女は昔から暇さえあれば本ばかり読んでいるような人間で、その大半がミステリだった。なんでも夕莉の父親に推理作家の親しい友人がいるとかで、その影響らしい。冬吾は彼女のすすめで本を借してもらったこともあった。
推理小説愛好家は、ことの顛末を話す。
「演劇部との共同企画というやつでね。我が推理小説研究会から、今度の学園祭で披露する舞台の脚本を選出することになったんだ。そこで、私を含めて何人かで、候補となる作品を提出した。演劇部と推理研合同の審査によって、どの脚本を採用するかが話し合われて……」
「それで、最終的に先輩が選ばれたわけですか」
「今までずっと読むほう専門でこういうのを書くのは初めてだったから、ちょっとした試み程度のつもりだったんだけれど。正直選ばれるだなんて思わなかったから、驚いたよ」
ん……初めて書いた? でもたしか……まぁいいか。
「きっと才能があったってことですよ。おめでとうございます」
「やめておくれよ、調子に乗ってしまうだろう? 今回このシナリオが選ばれたのは……そう、運がよかっただけさ」
夕莉はノートの表紙の上で、愛でるように手を動かす。
「……でも、ありがとう。君からそう言ってもらえるのは嬉しい」
そう言う夕莉の表情は、言葉とは裏腹にどこか浮かないようでもある。夕莉のことだ、このことを自慢するために自分を呼んだわけでもないだろう。やがて、夕莉はぽつりと呟くように言った。
「……実は、一つ問題があってね」
「問題?」
「一昨日のことだ。演劇部の女性部員の一人が、雨で濡れた歩道橋の階段で、足を滑らせてしまったらしい。幸い大事には至らなかったが、足首を捻って全治二週間だそうだ。だが間の悪いことに、彼女は明日の舞台に役者の一人として立つ予定だったんだよ」
「怪我で舞台に立てなくなってしまったと?」
「うん。演劇部も小さな部だから、部員の余剰戦力なんていないわけだ。だから代役が立てられない。怪我をした彼女の役を削るというのも一時は考えたけれど、そうなるとシナリオを大幅に変更せざるを得ない。改稿したシナリオに合わせて練習する時間も必要だ。もっと前の段階だったならばともかく、一昨日ではそんな時間はもうなかった」
「えっ……じゃあ、どうしたんです、結局?」
その問いかけに、夕莉は何でもないことのように答えた。
「私が代役を務めることになった」
「……マジですか」
「マジもマジ、大マジさ」
この人が舞台に立って演技をするというのか……ちょっと想像できない。どうコメントしたものかと思案していると、相手に先手を取られた。
「君の言いたいことはわかるよ。私には向いてないんじゃないか、舞台に立つ姿なんて想像できない、そんなとこだろう?」
「い、いや、そういうわけでは……」
「向いてないなんて、私にだってわかっているさ。でも、やむを得ないじゃないか」夕莉はやや不機嫌そうに言う。「今更外部の者を引っ張ってくるわけにもいかないし、そもそも残り僅かな日数で代役として調整可能な者なんて私くらいしかいなかったんだ。私ならシナリオの内容は全部頭に入っているし、監修として演劇部の練習を近くで見ていたから、どういう風に動けばいいのかも大体はわかる」
「はぁ……なるほど……」
「言っておくけど、私から提案したんじゃないよ? 演劇部側から強い要請を受けて、それに応えたというだけだ。私としても、そのまま舞台がお流れになってしまうのは不本意だったから、仕方ないかと思っただけで……そこのところ、誤解しないでもらいたいのだけれど」
「ええ、ええ、わかってますって、もちろん」
ヒートアップしてしまわないうちに夕莉を抑える。夕莉は手元のペットボトル入りのグレープジュースを呷ってから、「ふぅ」と息をついた。
「――前置きが長くなった。君へのお願いというのはね、今日行われるリハーサルを観劇してくれないか、ということなんだ」
「リハーサル?」
「明日からの学園祭、体育館で行う演目については、今日のうちにリハーサルをやるんだよ。私たちの演劇は、音響や照明も含めてほぼ本番通りに行うことになっている。順番からいって、出番まではあと二時間くらいかな。私は演者だから打ち合わせのために少し早めに行かなきゃならないけど」
夕莉は腕時計を見て言う。冬吾は訝(いぶか)るように夕莉へ尋ねた。
「そのリハーサルを、俺は見ていればいいんですか? ……それだけ?」
「それだけだよ。会場はもう出来上がっているから、席に座って見ていてくれればいい。欲張って言うなら、終わった後で感想でも教えてもらえると嬉しいね。私にだけ伝えてくれればいいから」
「それくらいならお安いご用ですけど、どうしてそんなことを?」
見ていかないか、というお誘い程度のものならばともかく、見るようにお願いされるというのは、なんだか変な感じがする。それも本番ではなく、リハーサルときた。
夕莉は眉をひそめ、どこか居心地の悪そうな顔になった。
「……やはり、言わないとダメかな」
「……?」
何か言いたくない事情でもあるのだろうか。夕莉は逡巡するように目を泳がせたが、やがて観念したように言う。
「……わかった。この期に及んで隠しておくのも変だから正直に言うけど、これは、君が相手だから話しているのだということをよく理解しておいてほしい」
「はぁ。つまり、他の者には話すな、と」
「そういうこと」
そこで夕莉は声を落として、周囲の者に聞かれないように話し出す。
「…………実を言うとね、冬吾。私は……極度のあがり症なんだよ」
「は?」
冬吾は思わず素の声を出してしまう。まばたきを何度か繰り返してから、
「あー……誰が、ですって?」
「だから、私が」
「……嘘でしょ?」
「ホントだってば」
「ええー……」
信じられない。
「信じられない、とか思っていそうな顔をするじゃないか」
「いや、思いますって! 先輩が緊張してる場面なんて俺、今まで見たことないですよ」
夕莉はいつも自分のペースで物事を進める。緊張などという言葉とはまるで無縁そうな人なのだ。
「うん……実はそれも、君を呼んだことと関係があるんだけど」
「え?」
「ともかく、私があがり症だというのは事実なんだ。まさしく私にとっての不治の難病さ。君が相手だからこうしてぺらぺらと話せているが、普段の私の口数は、この十分の一にも満たない。周囲の人間からは無口なやつとでも思われているのかもしれないが、緊張が顔に出るタイプじゃないだけで、正直、何を言えばいいのかわからなくなっているだけなんだ」
「うわっ、かなりショッキングですよその告白……」
今まで冬吾が夕莉に抱いていたイメージとは違いすぎる。六年に及ぶ付き合いの中で、こんなか弱い一面を持った人だとは思いもしなかった。あれはいつだったか、シマウマの鳴き声が「ワン」であると知ったときと同じくらいの衝撃かもしれない。
夕莉は沈んだような面持ちで続ける。
「この性分のせいで、苦労も多いんだ。大学生という身分のうちに、一度はアルバイトというものを経験してみたいと思って……それで色々と手を出してみたんだけど、どうしても面接で落とされてしまう……質問にまともに答えられないからだ。その失敗の数、今までに二十三回」
「そ、そんなに」
それだけやっても折れないメンタルの頑強さは、いっそ見習いたい。
「でも、そんなんじゃ舞台なんて到底無理なのでは……?」
冬吾が率直な疑問をぶつけると、夕莉は額に手を当てながらぎこちない苦笑いを浮かべ、ぎこちない口調で答えた。
「……練習だけなら、まだ……なんとか大丈夫なんだ。動きとセリフは決まっているし、その場にいるのは、それなりに見知った間柄の連中ばかりだから……。だけど、実際に舞台に立って、不特定多数の人に見られるとなると……その……かなり、まずい」
「全然ダメじゃないですか!? なんでそんなポンコツなのに代役なんて引き受けちゃったんですか!?」
「なっ……!? ポン……コツ……」
夕莉はショックを受けたような顔をしたのち、がっくりと項垂れる。
「ポンコツ……私が……ポンコツ……私はポンコツ……」
ま、まずい。クリティカルヒットしてしまったみたいだ……。これでプライドは高い人だから、想像以上にダメージが大きかったらしい。
「……す、すみません。あの……先輩、大丈夫ですか?」
「……だから」
「はい?」
そこで夕莉は顔を上げ、泣き出してしまいそうな声でまくし立てた。
「だから言ったじゃないか! 私が引き受けなかったら舞台そのものが流れてしまうところだったんだよ!? じゃあなんだい? 候補の中から私の脚本を選んでくれて、更にはそのために毎日夜遅くまで一生懸命練習してくれた演劇部の皆の努力を無駄にさせてよかったとでも? ……私には、そんなことできない! できるはずがない!」
「わ……わかりました! わかりましたから! 俺が悪かったです、先輩は間違ってません!」
必死になってなだめる。たしかに、夕莉の気持ちを考えれば無理して引き受けてしまったことも理解できる。それに、彼女が人からの頼みを断るのが苦手な不器用な人間だというのは、冬吾も知っていたことだ。
夕莉を落ち着かせてから、冬吾はまた尋ねる。
「――それで、その問題と、今日のリハーサルを俺が見ることと……いったい何の関係があるんです?」
夕莉はふっと笑って、
「……なんだ、ここまで言ってまだわからないのかい?」
「……わかりません、けど」
「では説明してあげよう。知ってのとおり、私は君の前でなら普通に話せるんだ」
むしろ、饒舌な方だろう。
「その場合、君が直接の話し相手である必要はない。君だって、私が他の人と普通に話している場面を見たことはあるだろう?」
たしかに、夕莉が学校の友人や近所の人と話している場に居合わせたことくらいある。いつだって彼女は、あがり症であることなど微塵も感じさせない振る舞いだったように記憶しているが……。
「それも、俺がそばにいたから平気だった……って言うんですか?」
「そう。つまり重要なのは、私が認識できる範囲内に君がいるということなんだよ」
「う、うーん……?」
わかるような、わからないような……。
「どうしてそうなるのか、私なりに分析してみたんだけれどね」夕莉はなぜか得意げに解説を始める。「一言で言ってしまうとそれは、見栄なんだと思う」
「見栄……? 先輩が俺に見栄を張っていると?」
夕莉はテーブルの上で頬杖をつき、冬吾のことをからかうような悪戯っぽい目で見つめる。
「君が私のことをどう思っているかは知らないけど、私のほうは、これでも君のことを弟のように思っているんだよ?」
「はぁ……それはどうも、ありがとうございます」
頭を下げるふりをして、夕莉から視線を逸らした。こう面と向かって言われると、なんだか照れ臭い。
「姉としては、弟の前では良い恰好をしていたいと考えるのは当然だろう? それが心理的な足かせとなって、あがり症がもっと悪化するような気もするんだけれど、幸いなことに私の場合は違ったようだ。むしろ、プラスの方向に働いてくれている。自分でもよくはわからないんだが……でもとにかく、君の前では立派な姉でいたいという意識が、私を鬱陶しい呪縛から解き放ってくれるらしい」
別に自分の前で見栄なんて張ってくれなくてもいいのだが。というか、こういうときって「君がいてくれると安心できるから」とか、そういう風に言うもんじゃないか、普通? こんなときまで妙にひねくれた言い回しをする人だ。
さて、いまいち実感の湧かない話だが……。
「……そういうもんですかね?」
「そういうものさ」
こうもあっさりはっきりと言い切られると、納得せざるを得ないか。
「事情はわかりましたけど……ほんとに大丈夫なんですか? 俺、見てるだけで他に何もしなくていいんですかね?」
冬吾の質問に、夕莉は鷹揚に頷く。
「心配しなくていい。君さえいれば私は完璧だ」
あがり症のくせに、なんでこんなに自信満々なんだろうこの人……。
「まぁ、今日のところはそれでいいとして……明日はどうするつもりなんです? 明日が本番なんですよね?」
「それも大丈夫。今日さえ乗り切ってしまえば、君がいなくても明日はなんとかしてみせる。一度舞台に立ってしまえば、慣れるだろうし……」
「……それ、本気で言ってます?」
「…………」
夕莉は黙ったまま、気まずそうに目線を泳がせる。やれやれ、と、冬吾は呆れながらも言った。
「えーと、冷静になって考えてみてください? たった一度舞台に立っただけで、慣れるわけないでしょ?」
「む……」
「それに、リハーサルなら学園祭の準備に関わってる人たちがちらほらいる程度でしょうけど、明日の本番は今日とは比べものにならない数の観客が入るんですよ? 俺はそういう経験無いのでわかりませんけど……多分、そんなに甘くはないと思います」
夕莉は大きくため息をついた。
「……やっぱり、君もそう思うか」
「そうですよ」
言葉で強がってはみせたものの、夕莉も内心は理解していたのだろう。
「……ちなみに、俺がいたら大丈夫そうですか?」
なんだか変な会話だ。夕莉はどこかぎこちない動きで髪を掻き上げながら、
「ん……おそらくは」
「じゃあ明日も見に来ますよ」
「……い、いいのかい?」
「……? いいですよ。ダメだと思ってたんですか? どうして?」
夕莉は言い辛そうにしながらも答える。
「いや、ほら……君はこういうイベントごとに、あまり来たがらないじゃないか。灯里(あかり)ちゃんのことがあるから。だから、無理に誘うのはよくないかと……今日だって、君に相談するかどうかは迷ったんだ」
妹の灯里は、病気のためにあまり遠出ができない身体だ。ちょっとした外出や学校に通う程度ならばなんとかなっているが、学園祭のような騒々しいイベントとなると身が持たないから、連れてくることはできない。だから、冬吾もこの手の催しには興味が湧かない。実際、今日になるまで、学園祭で演劇の出し物が行われるということすら知らなかった。妹が楽しむことができないものを自分だけが享受するというのは、なんだか気が引けるのだ。
たしかに、それはその通りなのだが……。
「――あー、もう! なんで俺に遠慮なんかするんですか! そんなこと、先輩が気を遣う必要ないですよ」
「そ、そうだろうか?」
冬吾は力強く頷く。
「そーですよ! それに、明日は先輩の晴れの舞台でしょ? 俺だって見たいに決まってるじゃないですか。もっと前に教えておいてほしかったくらいです」
「……そうか。……ふふ」夕莉は安心したように笑って言う。「それほど見たいのなら、明日も来るといい」
冬吾は頷く。やはりこっちのほうが先輩らしい。夕莉は気を取り直したように言う。
「それにしても、君というやつは、そこにいるだけで私のスペックを引き上げてくれる……。例えて言うなら……そう、君は私の外付け拡張ユニットというところだね」
「……ちーっとも、ありがたくない肩書きですね」
もっと他に言い様ってもんがあるだろう。この人に期待するだけ無駄かもしれないが。
「可能なら一日中でもそばに置いておきたい。首輪でもつけてね」
「それじゃペットかなにかでしょ!?」
「ふふっ、検討してみないかい? なんなら……お世話だってしてあげるよ。アレやコレも、君が望むようにね」
夕莉は妖しげに笑う。冬吾はどきりとして、
「あ……アレやコレ、とは……?」
「それを訊くのかい? まったく、無粋だね君は」
「うっ、スミマセン……」
「そうだな、例えば料理や洗濯のことだけれど?」
「…………料理に、洗濯、ですか」
「……そのガッカリしたような反応はなんだい。もしや、なにかヘンなことでも考えていたんじゃあるまいね?」
「めっ、滅相もない!」
冬吾はぶんぶんと首を横に振る。夕莉は頬杖をつきながらほくそ笑んだ。
「それで? 君はどうする?」
「はぁ……遠慮しときます……」
「それは残念」
夕莉は肩をすくめて笑う。
この人は、俺をからかっているときが一番楽しそうに見える。そういうところが、どこかの誰かによく似ていた。もっとも、“からかわれ相手”としてはこちらのほうが先達なんだけど。
「さて……打ち合わせまで、まだ少し時間はあるか」夕莉は腕時計を見ながら、「もう少ししてから体育館に向かうことにしよう。それまで待っていてくれるかな」
「わかりました」
夕莉は置いていた脚本ノートを手に取って開く。
「……台詞の確認ですか?」
「既に頭に入れてはいるけど、一応ね」
邪魔をしては悪いかと思ってしばらく黙っていると、ズボンのポケットに入れておいた携帯が震え出した。取りだして確認すると、メールが届いている。
「げっ……!」
差出人の名前を見て思わず声を上げる。
「どうした?」
夕莉が顔を上げて尋ねてくる。
「な、なんでもないです。気にしないでください」
苦笑いで誤魔化しつつ、メールを開く。件名は無題で、ただ一文だけが記されていた。
『人の多い場所でじっとしてること!』
……? 意味がわからない。今いるのは昼時の学生食堂だから、一応、人が多い場所ではあるが……。てっきり“組織”からの呼び出しでもかかったのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
『なんで?』
それだけ書いて、メールの返事を出しておく。
携帯をしまうと、夕莉のほうからまた声をかけてきた。
「ところで、明日は何の用事もなかったのかい?」
「大丈夫です、何にもないですよ」
「明日は……日曜か。たしか君、バイトのある日だって言ってなかったっけ?」
「ああ……前のバイト、辞めたんです。今は、向こうから連絡が来たときだけ働くような感じで……」
「そうだったんだ。……バイトを変えたのは、何か事情があって?」
「え? いや、事情ってほどのものでは……その、なんとなく、です」
「…………?」
夕莉はそこでふとノートから目線を上げて、冬吾を見つめる。何を考えているのかよくわからない、冷静な瞳。数秒ほどそうしてから夕莉は、
「……ああ、そう」
と、またノートへ視線を戻す。
……やっぱり、怪しまれたか? 咄嗟に訊かれて、上手く誤魔化せなかった。隠し事をするというのは、どうも苦手だ……。それも、親しい相手なら尚更のこと。
そう思っていると、夕莉はノートを見ながら言った。
「……君は昔から、何もかも一人で抱え込もうとする癖がある。まぁ、その責任感の強さが君の良いところでもあるんだけれど。だから今更、私に相談しろだなんて言わないよ。どうするかは、君の判断に任せよう。でも、胸に留めておいてほしい。さっきのお返しのようになるけど、君だって私に遠慮する必要なんかないんだよ。君は、私にとって――」
「弟みたいなもの、ですからね。……ありがとうございます。俺は、大丈夫ですから」
「ん」
夕莉は小さく頷いて、また台詞の確認に取り組み始めた。
夕莉の気遣いはありがたく思う……が、相談など、出来るはずがなかった。そんなことをすれば、夕莉を危険に巻き込んでしまうかもしれない。それは、絶対に避けなければならない事態だ。同じ理由で、最も身近な存在である妹にもそのことは打ち明けていない。もっとも、素直に告白したところで信じてもらえるとも思わないが……。
――だから、これは戌井冬吾にとって一生守り通すべき秘密なのだ。自分が、犯罪組織の一員であるということは。
「――ふと、気になったんだけれど」
それまでノートとにらめっこしていた夕莉は顔を上げて、思いついたように言う。
「冬吾。君、休みの日ってなにをしているんだい?」
「……休みの日、ですか?」
「そう。余暇の過ごし方にこそ人の本質が見えるものだよ。人畜無害そうな君の本性、私が見極めてあげようじゃないか」
冗談めかして言いながら、夕莉は胸の前で腕を組む。その動作に、思わずどきりとした。普段からカジュアルめのゆったりとした服装が多いため、こうして強調されないとなかなか気がつかないのだが……彼女は意外と恵まれたプロポーションの持ち主なのだ。それを知ってはいても、不意のことでいとも簡単に動揺させられてしまう。これが男のさがというものなのだろうか……。
「……? どうかした?」
「い、いや、なんでも!」
首を振りながら、慌てて誤魔化す。何を考えていたか探られないうちに、話を戻した。
「――というか、前にも訊かれませんでしたっけ? それ」
「そうだったかな? そうだとしても、だいぶ前のことだろう。最近はどうなのかと思ってね」
「まぁ……昔からそんなに変わってませんよ。妹と話したり……」
「灯里ちゃんとどんな話をするんだい?」
「色々……というか、普通のことばかりですよ。学校で何があったとか、晩飯何がいいかとか……」
夕莉は「ふふっ」と笑う。
「仲睦まじくていいことじゃないか。他には?」
「妹と外に出かけることはありますね。遠出できないんで、近所の店に寄る程度ですけど」
「……他には?」
「妹の勉強見てやったりとか……あ、そうそう、耳かきしてやることもありますよ!」
「妹のことばかりじゃないか。君、灯里ちゃんのこと好きすぎだろう……」
夕莉は若干引いたように言った。
「い、いいじゃないですかべつに!」
たしかに、好きすぎというのは否定できないが……。いやいや、兄が妹のことを好きで何が悪いのか。
夕莉はため息をついて、
「いや、まぁ、わかるよ? 君にとってはたった一人の家族なわけだし。でも、それにしたって妹バカが過ぎるというか……ああ、そうだった。思い出したよ。たしか前に訊いたときも、私は君に同じようなことを言った覚えがある。妹さんと仲良しなのはいいことだが、君も何か趣味ぐらい持つべきだ」
「趣味ですか……」
「何かないのかい? 好きなものとか」
困った。これといって候補が思いつかない。そういえば、前にそう言われたときにも適当に誤魔化した気がする。
冬吾は顎を触りながらしばらく考えて、ようやくひねり出す。
「……強いて言うなら、銃……とか?」
「銃?」
夕莉は意外そうな顔をする。
「最近、勉強し始めたんですよ。と言っても、まだ全くの素人ですけど。趣味と言えなくもない……かなぁ、なんて」
「へぇ……それはまた、意外だね。君がそういうものに興味を持つとは。アクション映画とか、好きだったっけ? その手の趣味はそういうところから入る人が多いイメージがあるけど」
「え、ええまぁ……そんなとこですかね」
銃そのものはべつに好きでもなんでもないし、むしろおっかないとさえ思っている……が、知識を入れておくに越したことはないだろうと思ってのことだ。これから先、命を預けることになる仕事道具なのだから。もちろん、そんな事情は夕莉に説明できないが。
話しながら、もう一つ最近始めた習慣のことを思い出したが、また今のようにツッコまれるとボロを出しそうなので、夕莉には黙っておくことにした。
「――うん。君と私はまぁまぁ長い付き合いになるけど……こうして色々話してみると、新たな発見はあるものだね」
夕莉は満足そうに言う。
「たしかに、先輩があがり症だってのは驚きましたよ。かなり衝撃的。でも、俺のことなんて知っても先輩は面白くないでしょ?」
「面白いよ。それに君、自分のことはあまり話そうとしないからさ。こうして定期的に私が訊いてやらないと、自分で自分のことを忘れてしまうだろう?」
「はは、そうかもしれませんね」
笑いつつ、冬吾は思う。
平和だ。
ここ一ヶ月ほどで、もう一生分くらいの危険な目に遭った気がする。それが今は、あんなことやそんなことがまるで嘘だったかのように平和だ。しかしこれが普通なのだろう、と思う。本来、戌井冬吾は平凡でしがないただの大学一年生に過ぎないのであって、殺人の濡れ衣を着せられ犯罪組織に捕らえられたり、奇天烈な恰好をした殺し屋と戦ったりといった経験とは、全くもって無縁のはずなのだ。
これから先も、また似たような目に遭うのだろうか……。これでは、いくら命があっても足りない。今までだって、運が良かったから助かったという場面がいったい幾つあったか。これからのことを考えると、正直、憂鬱だ。でも、悩んでいてもしょうがないというのも、またその通りなのであって……。
そんなことを考えつつ、冬吾はグラスの水を飲んだ。
次の仕事がいつになるのかはわからない。だが、まぁ、今日と明日くらいは平和な日常をゆっくりと享受しても罰は当たらない。そうじゃないか?
「あっ、いたいた! おーい!」
食堂の端の方で誰かが声を上げる。待ち合わせか何かしていたんだろう。
「あれ、気づいてない? おーい、ノラー?」
「……?」
ノラ……変わったあだ名だな。まるで野良犬みたいだ。そんなあだ名がつけられるなんて、いったいどんな……ん? ノラ?
冬吾はその声のする方向を見て――そして、見つける。食堂の入り口近くで、こちらを見ながら手を振る赤髪の少女の姿を。
「――ぶッ!?」
冬吾は口に含んでいた水を噴き出してしまう。
「うわっ!?」危うく水のかかるところだった夕莉が驚いてのけぞる。「ど、どうした!? 大丈夫か!?」
冬吾は、夕莉が差し出してくれたテーブル備え付けの紙ナプキンを受け取りながら、席から立ち上がる。
どうして、どうしてあいつがここにいるんだ――?
「す、すみません! ちょっと失礼します!」
「あっ、おい――!」
口元を紙ナプキンで拭いながら、冬吾は慌てて少女の元へ向かった。
彼女はTシャツの上にいつものカーキ色のモッズコート、ショートパンツという服装で、冬に差し掛かろうというこの時期には、大胆に露出させた両脚が寒そうだった。
少女は無邪気な笑顔で冬吾を迎える。
「あ、ノラ! やっほー!」
「お前、なんでここに――」
言いかけて、やめた。周囲から視線を感じる。ここでは人目についてしまう。よりによって、こいつの赤い髪と綺麗な顔立ちは異様に目立つ。
冬吾は少女の手首を引っ掴んだ。
「おろ?」
「こっちこい!」
不思議そうにしている少女を引っ張るようにして、食堂の外へと連れて行く。人気のない食堂の裏手へと回りこもうとすると、少女に引き留められた。
「あっ、そっちはダメだよ」
「えっ……なんで?」
少女は自分の手首から冬吾の手を外すと、挑発するように冬吾へ笑いかける。
「んふふ、そんなさみしー場所に女の子を連れ込んでぇ……何をする気なのカナー?」
「話をするだけだよ! 変な言い方すんなよな!」
「とにかく、そっちはだーめ。話するなら、ここでいいでしょ?」
「でも、人に聞かれたらまずいし……」
ここは食堂の前だから、人の往来がある。
「大丈夫だって、小声で話せば。誰もあたしたちの話に聞き耳立てたりしないよ」
なんで裏手に回るのがダメなのかはよくわからないが、そこまで言うなら仕方ない。冬吾は話を切り出した。
「色々と疑問はあるけど……とりあえずこれだけ。なんでお前がここにいるんだよ……禊屋(みそぎや)? 何しに来たんだ?」
赤髪の少女――禊屋は、あっけらかんとして答える。
「いやー、キミが元気にやってるかどうか確かめに来た、みたいな?」
「はぁ……?」
そんなことのためにわざわざ……。相変わらず、突拍子のないことをするやつだ――とは思うものの、正直なところ最近は、もう慣れた。
今よりひと月と少し前。冬吾は数奇な巡り合わせから、犯罪組織ナイツに所属することとなった。ナイツは全国各地に支部を置き、日本を陰より支配する巨大組織である。この夕桜市には、その支部の一つである夕桜支社がある。
禊屋は、その夕桜支社専属の探偵――すなわち、『顧問探偵』だった。組織内、あるいは組織間で発生する金や暴力だけではどうにもならないような問題に際して、その明晰な頭脳をもって対処すること……それが、顧問探偵の仕事である。ナイツでの冬吾の役割は、禊屋の助手、そして護衛――いわば、相棒というところだ。
ノラという呼び名は、禊屋考案のコードネームである。禊屋という名前も同じくコードネームであり、本名は志野美夜子というらしい。もっとも、なにやら照れ臭いのと『禊屋呼び』だけで不便しないので、未だに本名のほうで呼んだことはないのだが。
「見てのとおり、俺は元気だよ。すこぶる健康体。わかったら、さっさと帰ってくれ」
冬吾が言うと、禊屋は不満そうに頬を膨らませる。
「あー! せっかくあたしが会いに来てあげたのに、そんな迷惑そうな言い方するー? あたしがここにいちゃいけないわけー?」
「いけないし、迷惑だよ! お前、ここがどこかわかってんのか?」
「キミの通ってる大学でしょ? わかってるよそんなの。禊屋ちゃんを馬鹿にしないでくれる?」
禊屋は顎を上げてむっとした表情で言う。
「ったく……」冬吾は呆れてため息をついた。「……あのなぁ。学校ってことは、俺の知り合いだっているんだぞ。お前と一緒にいるところなんて見られたら……」
「それ、何か問題あるの?」
「あるだろ、そりゃあ。お前のことどう説明すりゃいいんだよ? それに……余計な誤解を受けかねないじゃんか」
禊屋はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、
「ふーん、へー……余計な誤解って? キミとあたしが恋人同士とか、そーゆーこと? 噂でもされたらハズカシーって?」
「ち、ちげーよ、そんなんじゃ」
「じゃ、どういう?」
「む……それは……えっと……」
「くふふっ! んもぉ、ノラってば! かーわいいんだから!」
禊屋から腕のあたりをバシーン、と叩かれる。
「痛いって! ……と、とにかく!」冬吾は断固とした態度で言う。「今日は俺、やることがあるから! 悪いけど、お前の相手してる暇はないんだからな!」
「…………そう、なんだ」
禊屋は一転して、どこか寂しそうな雰囲気を醸し出す。ややうつむいて、上目遣いに冬吾を見て言う。
「でも……あたしだって、ただキミの様子を見に来たってだけじゃないんだよ?」
「……どういう意味――って、おい!?」
禊屋は突然、しなだれかかるように冬吾へ抱きついた。
「うわっ、ちょっ……なんだよいきなり!?」
冬吾は混乱した。咄嗟のことに身体が硬直してしまって動けない。周囲を行き交う人々から向けられる好奇の視線が痛い。
「こっ……ここじゃまずいって! 目立つって! おい禊屋!?」
慌てふためきつつ言い聞かせるが、禊屋はまったく離れようとしない。禊屋はなおも冬吾の胸にすがりつくようにしながら、切なげに言う。
「だって、そうでしょ? 様子を見るだなんて、たったそれだけのために、わざわざ会いに来たりなんてしないよ……。でも……やっぱり迷惑だった? キミはあたしのこと、嫌い?」
身体を密着され、しかも、息のかかりそうなほどすぐ近くで顔を見上げるようにして尋ねられ、冬吾はどぎまぎしながらも答える。
「き、嫌いじゃ……ない、けど」
「……ほんとに? じゃあ、あたしも一緒にいていい? 迷惑はかけないから……ね?」
頭がくらくらしてきたのをなんとか堪えて、頷いた。
「わ……わかったよ……」
「……あっそ! ありがとね!」
禊屋の声が急に元気になって、パッと冬吾から離れる。
「あっ? ……え?」
「くくっ……くひひ……」
腹を抱えながら笑いを堪える禊屋を見て、冬吾はようやく事態を呑み込む。前にもこんなことがあったような……。
「お前な……」
「あはははっ! キミってほんと、チョロすぎ! もー、お腹痛いよ!」
笑いすぎて息も絶え絶えになっている禊屋。そんなにか。そんなに笑うほどか?
「……聞いて損した。用がないなら、もう戻るからな!」
冬吾が怒って踵を返そうとすると、禊屋が慌てて呼び止める。
「ああん、ちょっと待って! ごめーん、そんな怒んないでよぉ」
「いーやーだ! 戻るったら戻る!」
「そんな、子どもじゃないんだから……って、待って待って! 用があるってのはホントなの! 実のところ、かなり緊急事態! ほんとーだって!」
冬吾は足を止める。そこまで言うのなら、と振り返って、
「……次またふざけたら、今度こそ戻るぞ」
「ん! おっけーおっけー。じゃ、これからはマジメな話!」
禊屋は今一度周囲を見回して、誰にも話を盗み聞きされていないことを確認する。そして、一段声を落として話し出す。
「あたしがここに来たのは、お仕事の関係なの」
「お仕事って……ナイツの? だったら、事前に連絡が入るはずじゃ……」
「ううん。ナイツから仕事の発注があったわけじゃなくてね……」
「どういうことだよ? ナイツからの命令以外でお前が動くことって、あるのか?」
禊屋は手をぶんぶんと振って否定する。
「あー違う違う、そうじゃなくて……ええっと、ずばり言ってしまうとね……狙われてるんだよ! 命を!」
「狙われてる、だって……?」
全身に緊張が走る。
「そ、それ……大変じゃないか! 狙われてるって、誰からだ? また、伏王会(ふくおうかい)の連中か?」
「えーと、またっていうか、その……」
伏王会は、ナイツと同種の犯罪組織であり、その勢力も匹敵するほどのものがある。いわば、同業他社とでも呼ぶべき関係か。ナイツと伏王会は、協定によって不可侵の関係を築いているが、それは建前上のものにすぎず、末端での小競り合いは日常茶飯事となっていた。そして禊屋も以前、その伏王会に命を狙われたことがある。
「くそっ、あいつらやっぱりお前のことをまだ狙って……」
「ちーがーうーのっ! 話、ちゃんと最後まで聞いて!」
「あ、あぁ……?」
禊屋の有無を言わせぬ気迫に、冬吾は呆気にとられる。
「だからっ、狙われてるのはあたしじゃないんだって!」
禊屋は、人差し指を冬吾の目の前へと突きつける。彼女の次の言葉は、冬吾にとってまったく予想外のものだった。
「ターゲットは……キミなんだよ」
「…………え?」
冬吾にとっての安息の一時――平穏な日常が、スリル溢れる非日常に早変わりした瞬間だった。
「……ちょ、ちょっと待ってくれよ。……俺? 狙われてるのって、俺なのか!?」
狼狽する冬吾からの質問に、禊屋は頷く。
「どうも、そうみたい」
「そうみたいって……なんで!? なんのために!?」
禊屋が命を狙われるというのであれば、まだわかる。彼女は――普段の言動からは想像もつかないことだが――類い稀なほど優れた頭脳の持ち主だ。どんな嘘や策略も、禊屋は見抜いてしまう。そんな人物がナイツのお抱えとあっては、敵対する組織からすればさぞかし厄介なことだろう。
しかし、これといって何の取り柄もなく、組織にとって重要な人物というわけでもない自分を殺して、相手にいったい何の得があるというのか……?
「キミのほうに狙われる心当たりとか、ない?」
禊屋が言う。
「うーん……まったくないとはいえないけどさ。その……人を撃ったことだってあるわけだし。その報復とか、かな……?」
いずれもそうするしかなかった状況、それに、相手も裏社会に生きる人間だったとはいえ――自分が人殺しであるというのは、否定しようのない事実だ。彼らに近しかった者が自分に恨みを抱いているというのは、充分考えられることである。
「じゃ、それ以外には? どっかの偉い人を強請ってるとか、お金持ちの家からなにか盗んだりとか、ヤクザの情婦といい仲になってたりとか……うぶなキミのことだし、最後のはないか」
「全部ないよ!」
いったいなんだと思ってるんだ、俺のこと。禊屋は笑って言う。
「あはっ、じょーだんじょーだん! わかってるってー、キミがそういう人じゃないってことくらい」
ほんとかよ……。禊屋がこんな調子なので、こちらにもいまいち緊張感というものが伝わってこない。
「理由があるとすれば、ナイツに入ってからのことだと思うけど……。っていうか、やっぱり信じられないぞ! 狙われてるのって、本当に俺なのか? 大体、どっからの情報だよ、それ?」
「ま、そう言うと思ったんだよね。だからさ、ほら、これ」
禊屋はコートのポケットから携帯を取りだし操作しながら、
「今から一時間くらい前に支社宛てにメールが届いたの。それを見ればわかってくれると思う……んだけど」
「……だけど?」
「んーまぁ、なんて言うの? ちょっと、内容とは別の部分でキミには刺激が強いかもしれないんだよね。驚くかも」
「はぁ……? よくわかんないけど、自分が命を狙われてるなんて報告よりも驚くものなんてないだろ? とりあえず、見せてくれ」
「わかった。……これだよ」
禊屋が携帯の画面をこちらに見せる。
メールには、極めて簡素な文章が連ねられていた。
『警告
先ほど、戌井冬吾のもとへ殺し屋が差し向けられた
殺し屋の名はキバ
相手は今日中に始末をつけるつもりでいる
警戒せよ』
メール本文はその四行だけで終わっていた。一見して、冬吾の身を案じているかのようにも見える。続く末尾には、メールの差出人らしき名前が書いてあるだけだ。
「え……?」
見間違いかと思って、まばたきを繰り返すが、そうではない。冬吾にとって、目を疑いたくなる名前がそこにあった。
「なんだよ、これ……っ!」
そこに記されていた名前は、『戌井千裕』。四年前に死んだ冬吾の父親の名だった。
「戌井千裕(いぬいちひろ)……なんで親父の名前が……」
「あたしも驚いたよ」禊屋が言う。「キミのお父さんは既に亡くなっているはず。ここにその名前があるのは、ただの偶然とは考えられない。だとすればこれは……」
「決まってる。誰かが親父の名前を騙ってこのメールを出したんだ。それ以外に考えられないだろ。親父は間違いなく四年前に死んだ。……俺は、遺体だってこの目で確認してる」
腹部を刃物で数カ所刺されていた遺体は、人通りの殆どない路地裏で発見されたという。刑事だった父を殺した犯人は、今だに見つかっていない。
「だから、死んだように思わせて実は生きていたなんて、フィクションのお約束みたいなことは……絶対にあり得ないんだよ」
「……うん」
禊屋は静かに頷く。冬吾は苛立つように髪を手で掻き回して、
「でも、何のつもりでこんなこと……ふざけやがって……」
不快だった。尊敬する父の名を勝手に使われて、その死を踏みにじられたような気がしたのだ。そんなことをした意図が読めないというのも、また拍車をかける。
「送信者にどんな意図があったのかはわからないけど……」禊屋は言う。「相手はキミのことをよく知っている……のかもしれないね」
冬吾はナイツの構成員としては『ノラ』の名前で通している。裏稼業においては、本名はできるだけ隠しておいたほうがいいという判断からだ。しかし、このメールが支社宛に送られてきたということは、メールの送り主は『戌井冬吾=ノラ』という事実を知っていることになる。
「俺のことをわざわざ調べたってことか? それにしたって何のために……?」
「さぁ?」
禊屋は肩をすくませた。このメールだけでは得られる情報量が少なすぎるか……。
「これを送ってきた相手が何者なのか、調べることってできないのか?」
冬吾は禊屋へ携帯を返しつつ言う。
「送信者はいくつもの偽装サーバーを経由してそれを送ってきたみたい。アリスが調べてくれてるけど、発信元を見つけるのは難しいだろうって」
一流のハッキング技術を持つアリスでも不可能となると、相手もプロなのだろうか? その手のことには無知なので、どうとは言えないが……。
「とにかくさ、メールの送信者のことは今は置いておこうよ」
禊屋は両手を横へスライドさせるように動かすジェスチャーをする。
「今大事なのは、キミが殺し屋に狙われているという差し迫った状況にあるってこと。そうでしょ? このメールによると、相手は今日中にキミを殺すつもりでいるみたいだし」
「そうだけどさ……そのメール、ほんとに信じていいんだか。わざわざ危険を知らせてくれるなら、自分が何者なのかくらい教えてほしかったぞ。それに肝心の、殺し屋を雇ったのが誰なのかもわからないじゃないか」
「キミの気持ちはわかるけど、警戒はしておくべきだよ。信じなかった結果殺されて、やっぱり本当でしたーじゃあ、シャレにもならないって。ね?」
「それは、まぁ……ごもっとも」
禊屋に冷静に諭されるとは、なんだか不覚をとってしまった気分だ。
「いやー、でも間に合ってよかったよー」禊屋は破顔して言う。「あたしが来るより先に殺されちゃってたら、もーどーしようかと」
一応、彼女なりに身を案じてくれていたのだろうか。
「あっ……もしかして、さっきのメールって、俺の安全のためだったりする?」
先ほど禊屋から送られてきていた『人の多い場所でじっとしてること!』というやつだ。
「そうそう! キミの居場所を確認したら学校(ここ)にいるってわかったからさ」
ナイツに所属する人間は、持たされている携帯のGPSで常に位置を把握されている。同じ支部配給の端末で確認すれば、冬吾の居場所を知ることは容易い。
「あたしたちみたいな裏社会の人間にとって、一般人のいる場所で騒ぎを起こすことはタブー中のタブー。相手の殺し屋――キバも、人が大勢いる場所では身動きとれないだろうと思ってね」
たしかに、プロの殺し屋といえどもこの真っ昼間、公衆の面前で殺人を行うのは難しいだろう。と、すると、先ほど禊屋が人気のない場所で話すのを拒んだのも、殺し屋の存在を警戒していたわけか。
「それならそうと、もっと詳しく書いてくれないとわかんないぞ。結局、返信きてないし……」
「ごめんごめん、急いでたからさ」禊屋は顔の前で片手で手刀の形を作って謝る。「まぁ、現に今こうして無事なんだからいいじゃん? それに、メールで長々と説明するよりこうして直接会って話したほうが手っ取り早いでしょ」
たしかにそうだ。それに、急いでいたというのは本当なんだろう。メールが届いてから禊屋がここに来るまで、十五分ほどしかかかっていない。夕桜支社からここまで、相当飛ばしてきたのだろう。そう考えると、禊屋は見かけ以上に心配してくれているのかもしれない。
「それで……来てくれたのはありがたいんだけどさ。……お前一人なのか?」
「そうだよ? あ、ここまでは支社の人に車で送ってもらったんだけど、もう帰らせちゃった。いつまでかかるかわかんないし」
「あ、そう……」
まぁ、わかりきっていたことだ。狙われているのが禊屋ならばともかく、俺ごときのためにナイツがわざわざ護衛を派遣するとも思えない。そもそも、あのメールからして真偽が定かではないのだから仕方ないだろう。
「できれば織江(おりえ)ちゃんにも来てもらいたかったんだけど、今ちょうど薔薇乃(ばらの)ちゃんと別のお仕事に行ってて無理だったんだよねー」
静谷織江(しずやおりえ)は、夕桜支社の雑用及び運転係である。もっとも、それは本来の任務がない時の仮の姿であり、その実態は元殺し屋のエージェント……らしい、禊屋から聞くところによると。夕桜支社のボス、岸上薔薇乃(きしがみばらの)の命令を受けて秘密業務を行うのだ。薔薇乃と一緒ということは、今回はそのボディガードを務めているのだろう。殺し屋としても凄腕だったという彼女がここに来てくれていれば、百人力だったのだが……。
「まーまー、だいじょーぶだって! 武器だって、ちゃんと持ってきてるし!」
禊屋が励ますように言う。いったいどのあたりが大丈夫なのかは甚だ疑問だが、殺し屋に狙われた状況で丸腰だなんて考えたくもないことなので、感謝しておく。一応、お守り代わりにしている父親の形見である鞘入りナイフが腰ポケットの中に入っているが、とても実戦で使えるような代物ではないのだ。
禊屋は周囲の人々からは見えないように注意しつつ、コートの内側ポケットから二丁の自動拳銃を取り出した。前の仕事でも使ったベレッタM92FSと、グロック17だった。
「あれ……? なんだ、これ?」
ベレッタの銃口には、見慣れない筒状の部品が取り付けられている。
「あ、それ? サイレンサーっていうんだよ」
「サイレンサー……って?」
名前だけはなんとなく聞いたことがあるような。
「サプレッサーとも言うんだけどね。簡潔に説明すると、発砲音を小さくするための装置だよ」
そういえば、スパイ映画とかでよく見るような気がする。こういうやつ。
「小さくするって……どれくらい?」
「そう劇的な効果があるものじゃないんだよね。本来の音を十とすると、それを六か七くらいには抑えてくれる……って感じかな? それでもないよりはかなりマシだし、街中や学校の敷地内で使うような場面になっても、目立たずに済む……かもしれないよ」
なるほど。こういう状況では助かる。
「その代わり、装置の分だけ銃が大きくなって取り回しが難しくなるから注意してね。そのへんを考慮して、グロックのほうにはあえて付けなかったんだけど」
たしかに、ベレッタは普通の状態より十センチほど銃口から先の長さが増している。取り出す際、服に引っかかったりしないように気をつける必要がありそうだ。
「あと、重量のバランスなんかが微妙に変わってるから、それだけ動作不良を起こしやすいの。無茶な扱い方はしないこと!」
「わかった、気をつけるよ」
「あ、そうそう。ガンホルスターまでは用意できなかったから、いつも通りズボンにでも挟んでおいてね。隠し持つならそっちのほうがいいだろうし。でも、必要になるまでは安全装置(セーフティ)かけといたほうがいいよ。ズボンの前に挟んでた銃を取り出そうとして、うっかり股間撃っちゃうこともあるらしいから」
「想像するだけで恐ろしいな、それ……」
ベレッタにしっかりセーフティがかかっているのを確認する。グロックのほうはマニュアルセーフティが搭載されていない代わりに、トリガーの前面に飛び出しているレバーにしっかりと指をかけないと、トリガーが引けない仕組みになっている。これなら、銃を引き抜こうとしてうっかり発砲してしまうミスはないだろう。
……でも一応、いや念のために、銃を挟むのは背中側にしておこう。咄嗟に抜くなら腹側のほうが良いのだろうが、それだと銃が股関節の動きを邪魔して走ったり座ったりするのが難しいからだ。禊屋の話を聞いて恐れをなしたから……というのも、なくはないが。
「で……やっぱり、俺が戦わなきゃダメかな?」
ベレッタとグロックをそれぞれ上着のジャケットで隠れるようにズボンの後ろ側に挟み込みつつ、冬吾は尋ねた。
「そりゃあそーでしょ。あたしはただのか弱い女の子だから、銃なんて使えないしねー」
「ですよね……」
わかってたけど。さすがに気が滅入ってくる。
すると、禊屋が付け加えるように言う。
「まぁ一応、支社に護衛のヒットマンを要請しておいたけど……」
「ほ、ほんとか!?」
「急なことだったから、手配には時間かかるよ。少なくとも……半日くらいは」
「……それまで生き延びられるといいんだけど」
「もー、ノラってば。そんな弱気じゃ、サクッと殺されちゃって終わりだよー? ただでさえ簡単に勝てる相手じゃなさそうなのに……」
禊屋はさらりと不穏なことを言う。
「……待ってくれ。まさか、相手の殺し屋って……強いの?」
「こっちでデータを調べてみたんだけどね。警告のメールに書いてあったキバって、Bランクのヒットマンだよ」
「び、Bって……」
殺し屋には階級が存在する。夕桜支社長である薔薇乃から以前聞かされた話によると、とある組織による独自の調査と、独自の基準によってS、A、B、C、Dの五段階に分類される……らしい。わかりやすく言えば、殺し屋としての腕前の指標。当然、Sに近いほど強い、ということになる。Bは五段階で言えば真ん中の階級になるが、これは殺し屋の中でもかなり腕利きの部類に属する。
「――ってことは、この前の黒衣天狗と同じ? 同じBランク?」
「そうなるね」
うぅ……聞かなきゃよかった。却って絶望的な気分になってきたぞ。
「でも、ほら。黒衣天狗の時は勝てたんだし! そんなに心配しなくてもいいんじゃないかな?」
禊屋が励ましてくれるように言う。しかし、そう単純な思考ではいられない。
黒衣天狗に勝てたのは運がよかっただけだ。幾つかの要因がこちらに有利に働いたからよかったが、単純な実力勝負だったら万に一つも勝ち目はなかっただろう。キバという殺し屋があれと同じくらい強いのだとしたら、今度はどうなるか……。
「…………」
そこまで考えて、冬吾は思い直す。
……いや、違うな。そうじゃない。
禊屋の言うとおりだ。そんな弱気でどうする。嘆いて事態が好転するわけでもないだろう。いざという時、一瞬でも迷いを生じさせたら、死ぬのは自分なんだ。そんなことは、このひと月で嫌と言うほど学習したはずだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。俺が死んだら、灯里はひとりぼっちになってしまう。だからなんとしてでも、生き延びないとダメなんだ。それだけは、絶対に忘れちゃならないことだ。
「お? なんだか、決心ついた顔?」
禊屋は意外そうに言う。
「ふーん……へこんじゃってたら、優しく抱きしめて慰めてあげようかなーなんて思ってたんだけど……その必要はないみたいだね」
「……あ、ああ」
……ちょっと勿体ないことしたかな。
「ところで、キミ。さっきやらなきゃいけないことがあるって言ってたよね? なんだったの?」
禊屋に言われて、思い出した。
「そうだった……実は――」
夕莉から演劇のリハーサルを観るように頼まれていたことを禊屋に話す。
「――こんな状況で、なに言ってるんだって思うかもしれないけど……先輩にとっても窮地みたいでさ。俺からしたらすごく世話になってる人だし……できれば、なんとかしてやりたい」
「なんとかしてあげればいいじゃん」
禊屋はさらっと答える。
「キミはリハーサルを観ているだけでいいんでしょ? 体育館の中には人もそこそこいるだろうし、むしろ殺し屋から身を隠すには向いてるかも。もし居場所がバレたとしても、相手もそんな場所で騒ぎを起こすような真似はしないと思うよ。なんなら、その間にあたしが殺し屋についての情報を集めておけるし」
「そ、そうか……」
言われてみれば、たしかにそうかもしれない。禊屋は付け加えるように言った。
「それに、キミにとっては表の生活が何より大事なわけでしょ? だったら命も約束も、両方守らなきゃ。もちろん、一般人にキミの正体がバレるようなことがあってもダメだよ?」
「難しそうだな……」
「ま、大丈夫だって! あたしもできる限りフォローしたげるからさ」
「わかった……助かるよ」
冬吾はほっとする。どうやら約束は守ることが出来そうだ。今日のリハーサルで失敗すれば、夕莉は本格的に自信を失って、明日の本番も上手くいかなくなってしまうかもしれない。ただ座って観ていればいいとはいえ、責任は重大なのだ。
しかし、万一襲われた場合のことも考えておかねばならない。まずは、相手の殺し屋についての情報が欲しいところだ。
「――で、聞いておきたいんだけど。そのキバって殺し屋は、どういうやつなんだ?」
「こっちに来る途中でざっと調べてみたけど、使用武器は主にナイフ、状況によっては銃を使うこともあるみたい。でも遠距離狙撃による殺しは今までのデータになかったから、そっちは専門外なんだと思う。だから、遠くのビルから一方的に狙われる――なんてことはなさそうだね」
よかった。そんなことをされたらこちらには手の出しようがない、勝負にすらならなくなってしまう。
「顔は? どんな顔をしてるか、わからないのか?」
「んー……残念だけど、無理だね。キバの見た目に関するデータは見つからなかったんだ。基本的に顔出しはしないで、依頼人とも電話やメールで連絡を取り合うタイプの殺し屋だね。一応、若い男なのはたしかみたいだけど」
「……それじゃ、敵は俺の顔を知ってるのに、こっちは誰が敵なのかもわからないってことか? 若い男なんて、街や大学の中ならいくらでも紛れ込むことができるぞ……」
学校の入り口には守衛所があるにはあるが、出入りに関して厳密に管理されているわけではないから、学校関係者でなくとも簡単に入りこむことができる。
……これはなんというか、かなり厳しそうだ。もしかしたら、既に殺し屋は近くに潜んでいて、こちらの様子を窺っているのかもしれない。そう思うと、周囲の人々が途端に怪しく見えてきてしまう。
禊屋は思案するように小首を傾げて言う。
「こっちにアドバンテージがあるとすれば……キバの性格かな」
「性格?」
「うん。殺しのスタイルと言ってもいいけど……。あのね、キバはサディストのド変態らしいの。とにかく、ターゲットをいたぶって殺すのが特徴。身動き取れないようにしてから拷問のように手足の指の一本ずつ、目や耳の一つずつを潰していったり、身体を三十個に分割してからそれをターゲットの家族に送りつけたり……残虐な殺しばかりしてるとゆーハナシだよ。そこから付けられた異名が、“吸血鬼”」
「そ、それのどこがアドバンテージなんだよ……?」
ハンディキャップの間違いじゃないのか? キバという殺し屋がかなりヤバそうだということは充分に伝わったが……。
「わかんない? キバはターゲットをいたぶって楽しむために、簡単には殺さない。不意打ちからの一撃でいきなり勝負を決めるなんてことは、まずないと思っていい。つまり、殺しに“遊び”を入れるってこと。それを油断や慢心と呼ばずに、なんと呼ぶわけ?」
「あ、ああ……! なるほど」
「キバの見た目がわからない以上、こっちは相手が動くのを待つ形になると思うの。予測不能な相手から先手を取られる……本来ならこれは、かなり不利な条件だけど……でも、相手もいきなり殺すつもりで攻撃してくることはないはず。それがわかっているなら、こっちも気持ちの準備くらいはできるでしょ? 相手が出てきたところを上手く迎え撃つ、これがベストだね」
「ベストだねって……簡単に言ってくれるよなぁ」
そもそも、最初の攻撃で死ぬことはないとしても、深い傷を負って反撃する力を奪われたら結局は同じである。目を潰されるのも耳を削がれるのも、まっぴら御免だ。それに本気でなかったとしても、相手が腕の立つ殺し屋であることには違いない。その油断も込みでようやくトントン……いや、それでもまだ相手のほうが上くらいに思っていたほうがよさそうだ。
「あたしたちに有利な条件はもう一つあるよ。あたしたちがキミの暗殺計画があると知っていることを、相手はまだ知らないってこと」
「あ……そうか。あのメールのことは向こうも知らないだろうからな。相手はこちらが武装の準備までしているとは思ってないわけだ」
それははっきりとこちらに有利な条件と言える。だったら、禊屋の言うように相手の隙をつくことも、あるいは可能かもしれない。
「……でもさ。お前がここにいるとわかれば、相手も怪しむんじゃないのか? それで上手く油断してくれるかどうか……」
冬吾の顔が相手に割れているのだとしたら、それより長く裏の社会で活動している禊屋の顔も知られている可能性は充分にある。
「あー、うん。それはあたしも考えたよ? でも、わざわざ変装するような時間もなかったしさーあ?」
そりゃそうだろうけど。
「……ま、大丈夫だって」
禊屋はずいと冬吾の傍に身を寄せると、その右腕を取って自分の左腕と組ませる。
「プライベートな付き合いだと思わせればいいんだよ! こうすれば、デート中のカップルにしか見えないでしょ?」
「いっ……」冬吾は禊屋の大胆な行動にぎょっとする。「いやいや! その設定はおかしいだろ!? 本番当日ならともかく、なんで学園祭の準備日に学校でデートなんかするんだよ!?」
「そんなのどうにだって説明つくって! それとも、別行動にする? キミ一人だったら、心細くて死んじゃうくせに」
「死ぬか!」
人をうさぎか何かみたいに言いやがって。……心細いのは、まぁ、認めるが。それに何より、いざという時に優れた判断能力を持つ禊屋がそばにいてくれるのは、正直言ってかなり心強い。だが、一緒にいれば彼女が危険な目に遭うかもしれないわけで……。
冬吾は悩んだ末に、決断を下す。
「わかったよ……じゃ、それでいこう……」
禊屋も、多少の危険は承知の上なのだろう。断ったら不機嫌になりそうだし、ここは素直に提案を受け入れておいた。禊屋は補足するように言う。
「――っていうかさ。相手があたしに気づいてくれたら、それはそれでいいんじゃない? 計画がバレてるかもしれないってなったら、向こうも暗殺を中止してくれるかもしれないしね。相手にとっても、警戒されてる今日を狙うより日を改めたほうがやりやすいだろうし」
「それ、俺にとっては何の解決にもなってないんだけど……」
計画が延期になったら、いずれまた狙われるということだ。そんな状態で安心できるはずがない。
「んー、それなんだよねぇ。こっちで対策立てておくにも、相手の正体や目的がわからないとね。だからなるべくなら相手を誘い出して、どうしてキミが狙われているのかを訊き出せたほうがいいんだけど……まぁ、それで無理して死んじゃったら意味ないし、そこは臨機応変に……ってことで」
要するに「行き当たりばったりでなんとかしろ」と。無茶言うなよな。
「色々言いたいことはあるけど、とりあえずはわかった……でもカップルって設定はやっぱナシ。友達とかでいいだろ」
「はいはい、わかったわかった!」
組んだ腕は解かれたものの、その代わりにバッシバッシと背中を叩かれる。
「イタいってば――」
抗議しようとしたところで、ズボンのポケットの中で携帯が震えだした。取りだして確認する。
「ん、電話?」
禊屋が横から覗き込む。
「灯里からだ……なんだろう」
冬吾は急に夕莉に呼び出されたので、今日灯里は一人で家にいるのだ。通話に応じるなり、灯里の声がする。
『あっ、お兄ちゃん?』
「おお、どうした?」
普段からハキハキと喋るほうではないが、灯里の声はどこか不安げだった。ふと横を見ると、すぐ傍で禊屋が電話の内容に聞き耳を立てている。
『あのね……実はついさっき、家の電話のほうに連絡があって……』
携帯電話ではない、固定電話のほうという意味だろう。
『えっと……お兄ちゃん、タナカイチロウっていう知り合いの人、いる?』
「タナカ……イチロウ?」
なんというか、逆に珍しい名前だよな……。
「いや、そんな知り合いはいなかったと思うけど……」
『やっぱり……』
灯里はなにやら一人で納得している。
「タナカさんとやらがどうかしたのか?」
『さっきの電話、そのタナカさんからだったの。お兄ちゃんの友達だって言ってたよ』
「え……?」
そんな友人がいた記憶はない。
「……その人、なんて言ってたんだ?」
『お兄ちゃんが今どこにいるのか教えてほしいって……』
ハッとして、禊屋と目を見合わせる。禊屋はゆっくり頷いた。
そうか……どうして気がつかなかったんだ。既に殺し屋が近くに紛れ込んでいるかもしれないだなんて、そんなことよりも先に考えるべきことがあったんじゃないか。
つまり、殺し屋はどうやって戌井冬吾の居場所を知るつもりなのか、ということだ。冬吾が大学へ通っているということは調べればすぐにわかることだ。当然、殺し屋もそれは知っていただろう。だが、今日は土曜日だから、特別な用事でもなければ学校へ行くことはない。普段ならば家でじっとしているか、近所のスーパーにでも買い物に行って終わりだ。今日は結局、夕莉から呼び出されて学校へ行ったのだが、それも本来の予定にはなかったことだった。
警告メールの内容によると、殺し屋が冬吾のもとへ差し向けられたのはつい先ほどのようだ。それを信じるならば、家を出たときからずっと尾行されていたということはないだろう。となれば、冬吾が今どこにいるかということは、殺し屋にもわからないはずではないか。
すると、家にかかってきたというこの妙な電話についても推測が立つ。その電話をかけてきた相手は、殺し屋のキバに違いない。兄の友人であると偽って、灯里から冬吾の居場所を訊きだそうとしたのだ。そこでもしも冬吾が電話に出ていれば、それはそれでターゲットが在宅であることを確認できる。そこまで見越していたのだろう。
灯里が続けて言う。
『あっ、でも、安心して? お兄ちゃんが今学校にいるってこと、私言ってないから』
「えっ……? あ、え、そうなのっ!?」
驚いて語尾が変な調子に上がってしまう。
「でも、なんで……?」
『だってそのタナカさんって人、なんだか変だったもん。お兄ちゃんの居場所を知りたいなら、家の電話じゃなくて直接携帯にかければ済む話でしょ? そこを問いただしたら、手違いで携帯の連絡先を消してしまったって答えたんだけど……そんなの、怪しいよね? それに、声。優しい喋り方だったけど、なんていうか……嘘、ついてるみたいだった。そんな気がしたっていうだけなんだけどね』
灯里は、人の嘘に人一倍敏感だった。いや、嘘というよりは、“話をする相手の感情の動き全般”に敏感であると言ったほうがいいだろうか。身体こそ病弱であるものの、そういったものを知覚する能力に関しては、人並み外れたものを持っているのだ。
『だから私、そこは納得したふりをしておいて、タナカさんには嘘の場所を教えておいたから。もしも私の誤解だったら、お兄ちゃんのほうから連絡し直してもらえばいいかなと思って、こうして確認したんだけど……』
「それで……俺が今どこにいるって言ったんだ?」
『えっと、朱ヶ崎(あけがさき)のアーケード街。私がそう伝えたら、相手はすぐに電話を切っちゃったんだけど』
朱ヶ崎は夕桜市の南区に位置する歓楽街で、北区に位置する学校とは真逆の方向だった。それはもう、見事なまでに逆。でかした!――と叫びたい気持ちだったが、なんとか堪える。
「と、とにかく、良い対処だったと思う。さすが灯里だ。タナカってやつのことはよくわからないけど、なにかの悪戯だったのかもな」
『悪戯……そうなのかな。ストーカーとかじゃなければいいんだけど……帰りは気をつけてね』
ストーカーか。良い線いっているが、実際はその百倍たちの悪いものだ。
『ところで、夕莉さんの用事ってなんだったの? もしかして、デートのお誘いでも受けた?』
「なんでそうなるんだよ……。先輩が俺をそんな用件で呼ぶわけないだろ」
『そう? 夕莉さんってお兄ちゃんのことお気に入りみたいだし、案外、あり得るかもって思ったんだけどなぁ』
「ないない、あり得ないよ」
仮に本当にお気に入りだとしても、それは意味合いが違うだろう。
『まぁ、お兄ちゃんにはもう素敵な彼女さんがいるからねー』
「あのな……この前も説明しただろ。禊屋とはそんな関係じゃないんだって」
『あははっ! お兄ちゃんってば、私、素敵な彼女さんって言っただけだよ? それが禊屋さんのことだなんて一言も言ってないのに』
「ぐっ……!」
クスクスと隣で禊屋が笑う。おのれ、灯里のやつめ……兄を罠に掛けるとは小癪な。
「――それで、ほんとはどんな用事だったの?』
灯里には夕莉から学校に呼び出されたということしか言ってなかった。用件を伝えられたのがついさっきなので、それも当然なのだが。
「まぁ、ちょっとした手伝いをね」
今は長々と説明している時間もないので、適当に流しておく。詳しくは帰ってからでも話せばいいだろう。
『そうなの? あ、そうそう! 夕莉さんにまたお料理教えてくださいって言っておいてくれるかな?』
「ん……ああ、いいけど」
灯里は最近、夕莉から料理を習っている。冬吾も料理はそれなりにできるほうだが、夕莉のほうが格段に腕は上だ。冬吾としては怪我でもされるのが心配でならないのだが、本人がやる気である以上止めるわけにもいかなかった。それに、夕莉がついていてくれるなら少なくとも練習中は安心できる。夕莉曰く、灯里は物覚えがいいので教えるのは楽らしい。
『あ、あとね。このあいだ夕莉さんからチョコレート貰ってたんだ。お兄ちゃんからお礼言っておいてくれる? おいしかったって』
「わかった……って、お前一人で食べたのかよ。ずるいぞ」
『だって、ビター味のほろ苦いやつだよ? お兄ちゃん苦いの嫌いでしょ、子ども舌だから』
……子ども舌で悪かったな。
「――まぁいいや。念のために戸締まりは確認しておけよ? それと、今日は知らない誰かが訪ねてきても出なくていいからな」
『うん、わかった……。ねぇ、お兄ちゃん?』
「なんだ?」
『なにか、私に隠してない?』
ぎくりとする。こいつはなんでこう、気を抜いた頃に突如として攻撃を仕掛けてくるのか。
「なっ……隠すって、なにを? 何にも隠してなんかない、ぞ」
しばらくの沈黙。額に冷や汗が滲む。
『……そっか。ヘンなこと訊いてごめんね』
「あ、ああ。じゃ、何かあったらまた電話しろよ」
そう言って電話を切る。
「はぁ……つ、疲れた……」
冬吾は肩を落としつつ、大きくため息をついた。
「にゃははー。灯里ちゃん、ラスボスって感じだねー」
電話の内容を横で聞いていた禊屋は、呑気に笑っている。
「他人事だからって気楽なこと言いやがって……」
たしかに、灯里を上手く誤魔化そうとするほうが、殺し屋を相手取るよりもよっぽど疲れるが。
それにしても灯里のやつめ、最近なんだか禊屋に似てきているような気がする。それというのもこの前、俺と灯里と禊屋の三人で会う場を設けてからだ。灯里と禊屋はそれまで電話でしか話したことがない間柄だったのだが、実際会ってみるとあっという間に打ち解けてしまった。それ自体はいいとして、あまり禊屋から悪い影響を受けないでほしいもんだ。いや、そんな言い方をしておいてなんだが、もちろん、禊屋のことは良いやつだと思っている。思っているけど、それとこれとは、また話が別なわけで……。もっともそんなことを灯里に言ったら、「余計なお世話」と怒られて三日ほど口をきいてくれなくなるかもしれないから、言わないんだけど。
――などと考え事をしていたせいか、後方からの物音に気づくのが遅れてしまう。
「あっ……」禊屋が声を上げる。「ちょっと、後ろっ!」
「え?――うわっ……とっ!?」
後ろから誰かにぶつかられて冬吾は体勢を崩し、地面に手をついた。
「す、すみません! 大丈夫ですか!?」
パーカーを羽織った茶髪の男は謝りながら、冬吾の背中へ手を回して引き起こす。
「ホントすみません。明日の準備で急いでいたもんだから……怪我、してませんか?」
見たところ、男は学生らしかった。こちらへ走ってきていたところでぶつかったのだろう。相手もぎりぎりで気づいてブレーキをかけたからか、たいして痛みはなかった。男の手には、学園祭の日程や大まかな内容などが書かれた配布用のチラシが握られている。
「気にしないでください」
冬吾が愛想笑いで言うと、男は「どうも」ともう一度頭を下げてから、また走って去って行った。
「もー、すぐ油断しちゃって。今のが殺し屋だったら、キミ死んでるよー?」
禊屋が呆れたように言う。
「それに、銃なんて持ってるんだから気をつけないと。そんなもの、一般人に見られたら大騒ぎになっちゃうよ? ちゃーんとそのへん、わかってますぅ?」
「う……肝に銘じておきます……」
言い方がなんだかむかつくが、内容は至極真っ当な忠告すぎて言い返すこともできない。ジャケットの内側で、もう一度しっかりとベレッタとグロックをズボンの間に差し込んでおく。今みたいにぶつかられた衝撃で抜け落ちてしまったら、そして誰かにそれを見られでもしたら……もはやギャグにもならないぞ、そんなの。
「――そ、それよりも、今の電話! 灯里の機転のお陰で助かった、これで多少は時間が稼げたんじゃないのか?」
今頃キバはまるで見当違いの場所――アーケード街のほうを探し回っていることだろう。少なくとも、夕莉の舞台を安心して見ていられるくらいの余裕はありそうだ。そうなると、殺し屋が次に狙うチャンスは限られてくる。考えられるとすれば、帰宅のタイミングだろうか。家の近くで待ち伏せていれば、確実にターゲットを見つけることができる――と、相手は考えるかもしれない。
そのあたりのことを相談してみようかと思ったのだが、禊屋は眉をひそめて何かを考え込んでいた。
「うーん……」
「なんか引っかかることでもあるのか? まぁ、たしかに家にかかってきた電話が殺し屋からのものと決まったわけじゃないけどさ。でも、こんなときに俺の居場所を知りたがる奴なんて……」
「あたしも、電話の主は殺し屋……キバだと思う。このタイミングで、そんな怪しい電話がかかってくるあたりね。そうなるとタナカイチロウっていうのは、もちろん偽名ってことになるんだけど……そこがちょーっと、気になるっていうか」
「気になるって?」
「タナカイチロウだなんて、なんてゆーかさー……もう、二秒くらいで考えた、いかにも偽名って感じの名前じゃん? 今どきそんな胡散臭い名前、使おうとするかなぁ?」
「お前全国の田中一郎氏に怒られるぞマジで」
言わんとすることは理解できるが、もう少し穏便な言い方というものを勉強してほしい。
要するに禊屋は、タナカイチロウという名前は偽名として利用するには却って目立つと言いたいわけだ。その不自然さが、彼女の敏感なセンサーには引っかかるらしい。
「じゃあ、キバはあえてタナカイチロウって偽名を使ったってことか? それにいったい何の意味があるんだよ?」
「それは……わかんないけどさぁ。うーん……」
禊屋は悩むように髪をかき乱す。冬吾も考えてみたが、ピンとくるものはなかった。
「考えすぎだと思うけどな。たかが偽名にいちいち意味なんてないって」
「そうかもしれない、けど…………」
「まだ、なんか引っかかってる?」
禊屋は頷く。
「うん……キミの家へ電話をかけたってこと自体がね。キバはなんでそんなことしたんだと思う?」
「そりゃあ、もちろん俺の居場所を知るためだろ? メールの文面からいって、殺しの指令はついさっき出されたみたいだった。その時点で殺し屋へある程度の情報は渡っていたんだろうけど、幸い、俺の現在の居場所についてはまだ知られていなかったんだと思う。そこで、俺が在宅かどうかを確認する意味もあって殺し屋は俺の家へ電話をかけた……と、こんな感じじゃないか?」
「そうだとしても、キミの友達を名乗るっていうのはちょっとリスキーすぎるよ。少しでもヘンな受け答えをすれば怪しまれるに決まってるんだから。実際に灯里ちゃんからは疑われて、あっさり偽の情報を掴まされてるしね。そのあっさり具合がなーんか、不気味っていうか……」
「う……」
言われてみれば、その通りのような気がしてきた。殺し屋側からすれば、他にやりようはいくらでもあったはずだ。家へ電話するにしても、灯里に対してはもっと無難な対応をしておくべきだった。
そもそも電話で冬吾の居場所を訊きだそうとしたというのが、妙と言えば妙だ。細かい場所を訊き出せたとしても、冬吾がその場に留まっていなければ意味がないのだから。普通は冬吾へ連絡をとるために携帯の電話番号を教えてもらうとか、伝言を頼んで折り返し連絡させる……というところではないだろうか? そうして直接コンタクトをとれば、冬吾をどこか人目につかない場所へ誘い出すくらいのことはできたかもしれない――もちろん件の警告メールのことがなければ、の話だが。
そういうやり方をしてこなかったのは、ただ単に、相手がそこまで頭が回らなかったというだけなのだろうか? それならばいい。ただの考えすぎということになるが……。
「あたしの考えすぎだといいんだけどね……」
禊屋もそんなことを言う。これ以上は考えても時間の無駄になりそうだ。
「とりあえず……油断はしないようにしておくか」
「そだね。あたしも注意しとく」
色々気になるところはあるが、今は時間の余裕があるうちに夕莉の問題を片付けておきたい。
「じゃ、そろそろ戻らないと……」
長いこと話し込んでしまった、あまり長引くと夕莉に不審に思われるかもしれない。
「あ、そうだ」禊屋が思いついたように人差し指を立てる。「キミのほうから、その先輩さんにあたしのこと紹介してくれる? ほら、一緒に行動するならそのほうがいいでしょ?」
「……ま、そういう成り行きだから仕方ないか。でも、変なこと口走るんじゃないぞ?」
「わかってるってー」
禊屋はニコニコしながら言う。ほんとにわかっていればいいんだけど……。
「――あ、戻ってきたか。……冬吾。少し見ないうちに、四つくらい老け込んだようだけど」
食堂の中へ戻っていくなり、元の席で待っていた夕莉から言われた。疲れた顔をしていたからだろう。
「まぁ、ちょっと色々ありまして」
「そちらの方は?」
夕莉は禊屋のほうを見上げて、冬吾へ尋ねる。
「あー……その、バイトの同僚で……」
冬吾がそう言いかけたところで、禊屋は一歩前に出て頭をぺこりと下げた。
「初めましてー、禊屋朝子(みそぎやあさこ)です。戌井君とはバイト先で知り合ってお友達に。――だよね?」
「ああ、そうそう」
頷きながら適当に合わせた。
「今日はこの学校に通ってる別の友人に頼まれて、学祭の準備をお手伝いしていたんです。そこでたまたま戌井君を見つけて……」
「へぇ、それはまた、奇遇なこともあるものだ。私は江里澤夕莉。一応、彼の先輩ということになる。――まぁ、どうぞ」
夕莉は向かい側の椅子にかけるよう手で促す。「ありがとうございます」と禊屋が座るので、冬吾もそれにならって隣へ座る。
「いやーほんと、驚きましたー! まさか、戌井君も同じ学校だったなんて。ねー?」
「お、おう……」
どうやら禊屋は学校で偶然出会ったという設定でいくつもりらしい。まぁ演技はなかなか上手いのかもしれないが、禊屋の敬語は妙に空々しくて、気を抜いたら笑ってしまいそうでいけない。
禊屋朝子、というのは当然ながら彼女の偽名だ。彼女はごくごく限られた人間にしか本名を教えない。こうして表社会で活動する際には、禊屋という二文字のコードネームだけでは不自然に思われることもあるから、それに朝子というかりそめの名を補って用いるのだという。……それにしても、本名が美夜子だから朝子、というのはいかがなものか?
「それにしても、今日は冬吾に驚かされるばかりだね。君にこんな可愛らしいガールフレンドがいたとは。それこそ、女性の知り合いなんて私くらいのものだと思っていたよ」
夕莉は禊屋から冬吾へ視線を移して、意地の悪い笑みを浮かべながら小声で尋ねる。
「……恋人?」
「違いますから!」
はっきり否定する。まったくどうして俺の周りの人間は、揃いもそろって同じようなことを言うんだ。
「そんなにはっきり否定しなくてもいいのにー。つれないねー」
禊屋が面白がるように言う。テーブルに置いていたペットボトル入りのグレープジュースの蓋を開けながら、夕莉も笑った。
「ははっ、そうだよ。そう恥ずかしがる必要はないだろう」
もうほっといてくれ。
「べつに、恥ずかしいわけじゃ――あ」
自分も水を飲もうとして置いていた自分のグラスへ手を伸ばしたところ、既に空っぽだった。
「飲むかい?」と、夕莉は飲んでいたジュースから口を離して、冬吾へ差しだそうとする。「少ししか残ってないけど」
「いっ……いいです、いりません」
冬吾は慌てて遠慮する。
「そう」
何事もなかったかのように夕莉はジュースを飲み干してしまう。
……自覚なしにこういうことするんだよな、この人は。
ふと隣の禊屋のほうを見ると、ぽかんと口を半開きにして、なにやら驚いたような顔で夕莉のほうを見ていた。
「……どした?」
横から声をかけると、禊屋はハッとして、
「はぇっ!? あ、その……な、なにが?」
「なにがって……なんか、ポカーンとしてたみたいだから」
「そ、そう? 気のせいだよ、あはは……」
露骨なまでに狼狽えていたように見えたが……。
禊屋は誤魔化すように、夕莉のほうへ話題を振った。
「そういえば、夕莉さんは学園祭の演劇に出演されるんですよね。さっき戌井君から聞きました。シナリオも担当してるとか! すごいですね!」
「ああ……いや、べつに、すごくはないさ」夕莉は手をひらひら振って否定してから、付け加えるようにこう続けた。「まぁ……そうだね。私の力なんて微々たるものだけど……皆の協力もあって、良いものに仕上がっているとは思うよ」
演劇部の努力に報いるためにも、夕莉はなんとしても明日の舞台を成功させたいのだろう。
そこで禊屋が急にため息をついて、
「明日が本番なんですよね。あーあー、あたしも見たかったな。明日はどうしても外せない用事があって、学園祭には行けそうにないんです……」
がっくりと項垂れる禊屋を見て、夕莉は困ったように眉をひそめて、何事か思案する。
「うぅん……どうしたものかな……」
夕莉はちらりと冬吾のほうへ視線を向ける。
……? なんでこっちを見るんだろう?
「……まぁ、いいか」
ぎりぎり聞き取れるような声でそう言ってから、夕莉は禊屋へ話しかけた。
「この後リハーサルがあるんだけど、禊屋さん、君も見ていくかい? 都合がよければ、だけど」
「えーっ!? いいんですかー? それなら、ぜひ! ちょうど友人のとこでのお手伝いも終わって、暇だったんです!」
今の話題振りはこの展開に繋げるためだったのか。たしかに、ああいう風に言われたら夕莉のように返さざるを得ない。上手いもんだ。夕莉は少しだけ躊躇したようだったが、やはり自分の演技に不安があるのだろうか?
禊屋はわくわくしたような表情で夕莉へ尋ねる。
「ところで……どういうお話か、簡単に聞かせてもらってもいいですか?」
「ああ。では簡単なあらすじを説明しておこう」
夕莉は前髪を手で払ってから続ける。
「冬吾には既に話したけど、ジャンルはミステリ、その中でも犯人当てというやつだね。とある占い師が、自分の所有する館へ数人の客を招いた。その中で殺人が起こるという話だ。館は山奥にあり、天候の崩れによって警察が到着するまでには時間がかかる。外界から隔離された空間で始まる犯人探し……とまぁ、こんな感じかな。我ながら、いかにも懐古じみた古臭い設定だとは思うんだけど……こういうのは、あまり奇をてらわないほうが良いかと思ってね」
「犯人当てってことは……観客の人にも、犯人が誰かわかるようになってるんですね?」
「一応、そうなるよう手配したつもりだよ」
それならば、禊屋にとっては得意分野かもしれない。なにしろ彼女は仕事の一環として、リアルで起こった殺人の謎解きをすることもあるのだから。いやそれとも……リアルの殺人と、フィクションの殺人では、また勝手が違うものなんだろうか?
夕莉の説明によると、演劇は二部構成になっているらしい。まず殺人が起こり、その調査を進めていく問題編が上演され、それが終わるとまた別のサークルによる出し物をいくつか挟んでから、続きの解決編の上演が行われる……という流れになっているそうだ。問題編と解決編の間の時間は、誰が犯人なのかを考えるシンキングタイムというところだろう。
夕莉は腕時計を見て、
「さて――そろそろ良い時間だね。事前の打ち合わせもあるから私は体育館に行くけど……」
「俺たちも一緒に行きますよ」
他の演目のリハーサルも行われているだろうから、上演を待つ間退屈はしないはずだ。
食堂を出て、三人で体育館へ向かう。その道すがら、禊屋が冬吾のジャケットの袖を手で引っ張って言った。
「ね、ね、ね。ちょっと訊いていい?」
「なんだよ?」
歩きながら、禊屋は先頭を行く夕莉のほうをちらりと目で見る。夕莉には聞こえないように小声で、
「先輩って言ってたけど……それだけじゃないよね? どういう関係? もしかして、幼馴染み……とか?」
「お隣さんだよ。ちょっと変わってるけど……いい人だよ。俺も昔から色々世話になってる」
「ああ、お隣さんね……」
「先輩の家族が引っ越してきたのが六年前、俺が中一の頃だったから、幼馴染みというのはちょっと違うな。まぁ、古馴染みってとこか?」
「ふぅん……そうなんだ……」
禊屋は気の抜けたような相づちを打つ。
「先輩がどうかしたのか?」
「うん? んー、そうだねぇ…………」
禊屋はしばらく黙ったまま、冬吾の顔をじっと見つめる。その顔が彼女にしては珍しく無表情で何を考えているのかわからないので、冬吾からしてみればなにやら居心地が悪い。
しかし、それにしても……黙っていると文句のつけようがない美人だ。思わず見とれてしまいそうになる。禊屋はやがて、クスッと笑って言った。穴の空いた風船のように思考が外に漏れていたのではないかとドキリとしたが、そうではないらしい。
「……なんでもなーい。んふふっ」
禊屋はいつもの小悪魔的な笑顔になると、いくらか足を速めて冬吾を追い越していった。
「……? それならいいんだけどさ」
……禊屋のやつ、さっきからなんだか様子がおかしいような。気のせいか……?
気を取り直して歩くことにする。ここのあたりは出店が並ぶ予定になっているらしい。右も左も、準備中の屋台が幾つも見える。殆どが食べ物の屋台らしく、材料が足りないだの、調理器具の使い方がわからないだの、方々でガヤガヤと騒々しい。まぁ、こんな風に準備にてんやわんやするのも学祭の楽しみの一つ……だったりするのだろうか? 今まであまり関心がなかったせいで、そのあたりの機微はよくわからない。
立ち並ぶ準備中の屋台、その中の一つに、冬吾は不意に目を留める。鯛焼き屋の看板が出ていた。鯛焼きといえば、一つそれで思い出すことがある。
「おーい。ボサッとしてると、置いていくよー?」
先を行っていた夕莉が冬吾へ向かって呼びかけた。
「あ……まずいまずい」
よそ見しながら歩いていたら二人より遅れてしまったようだ。冬吾は小走りで駆け寄っていった。
今から四年前の秋。当時冬吾が中学三年生だった頃に冬吾の父・千裕は不審の死を遂げた。母は妹の灯里を産んで間もない頃に病死しており、また、頼れるような親戚もいなかったために、冬吾と灯里は二人きりで暮らしていかざるを得なかった。
父の実家はそれなりに裕福だったというから、祖父から継いでいた遺産を、生真面目な性格である父は浪費することもなかったのだろう。不幸中の幸いと言うべきか、その遺産のおかげで、冬吾たちが生活する上での心配は当面の間はなかった。
しかし、更なる不幸が重なる。父の死に連続するように、灯里が重い病を発症したのだ。元々身体が弱かったというのもあるが、父を突然に失ったことによる過度のストレスが一番の原因だったようだ。灯里はそれから一年ほどを病院の中で過ごしたが、冬吾にとってもそれは辛く苦しい日々だった。
しかし、そんな中でも救いはあったのだと冬吾は思う。その頃に江里澤夕莉と交わしたやりとりも、そのうちの一つだった。
「――隣に座ってもいいかな?」
突然声をかけられて、冬吾は驚いた。こんな寂れた公園に立ち入る人間なんて、自分以外には誰もいないと思っていたのだ。ベンチに座ったまま見上げると、見知った顔があった。江里澤夕莉、冬吾の家の隣に住む二つ歳上の女子高生。制服姿に鞄を持っているところを見ると、冬吾と同じく帰宅途中だったのだろう。ちょうどこの公園は、二人の帰り道の途中にあった。
「……どうぞ」
冬吾が言うと、夕莉は空いていた冬吾の左隣に座った。
「食べるかい?」
夕莉は紙袋を冬吾へ差し出す。やたらと大きな鯛焼きが二つ入っていた。
「さっきそこのスーパーの前に屋台が出てるのを見つけたんだ。珍しくて二つも買ってしまったんだけれど、私一人では多すぎたかなと思っていたところでね」
こんな大きなサイズを二つも買えば当然そうなるだろう。計画性のある夕莉がそんなミスをするとは思えないが……。
「いりません……腹、減ってないんで」
「そうか」
夕莉は袋から自分の分だけ取りだして食べ始める。なんとなく横目で見ていると、彼女は鯛焼きの頭の部分を後に残すタイプだと知る。互いにしばらく無言の時間があった後、夕莉が唐突に言った。
「最近、毎日ここにいるね」
「……知ってたんですか」
「帰り道だからね。君はここでなにを? 考え事でもしていたのかな」
「……家に帰りたくないだけです」
帰っても誰かがいるわけでもないし、何かをする気にもならなかった。病院にいる灯里は面会謝絶中で、今でも容態が安定しているとは言い難い。いつまた病状が悪化してもおかしくはない状況で、冬吾には、灯里の回復を祈る程度のことしかできない。かといって、家でじっとしていればそれだけで色々なことを考えたり、思い出したりして、押し潰されそうになる。無理をして学校へ行っているのも、ほんの僅かにでもその鬱屈を忘れることができたらと期待してのことだった。あまり効果はなかったが……。
「うちにくるかい?」
夕莉は挨拶でもするかのような気軽さで言う。
「あ、いや……そういうつもりで言ったんじゃ」
「気にすることはないさ。私一人で大したもてなしもできないが、うちで夕飯を食べていくといい」
夕莉の両親は共に社会学系の研究者で、現地調査のために家を空けていることが多かった。
「……ありがとうございます。でも、遠慮しときます」
正直言って、今は他人からの気遣いすら鬱陶しい。夕莉はしばらくこちらの様子を窺うように間を置いてから、言う。
「……君、ひどい顔をしているよ」
鏡をじっくり見ることもなかったからわからないが、きっと、そうなんだろう。灯里が倒れてからまともに寝られた記憶がない。
「灯里ちゃんのことが心配なのはわかるけど、君も神経を使いすぎだ」
「ほっといてください」
「いや、そうはいかないな」夕莉ははっきりと言う。「今にもぶっ倒れるか、さもなくば、ふらっと路上に出て車にでもハネられて死にそうな君を、ほうっておけるわけないだろう?」
「……これくらいで死んだりしませんよ」
夕莉は小さく笑って、
「それならいいけどね。……でも、君は本当にわかっているのかな?」
「……なにを、ですか?」
「灯里ちゃんにとって、もう頼れる人間は君しかいないんだよ。それをちゃんとわかっているのかと聞きたいんだ」
夕莉はいつになく真剣な口調だった。
「……彼女はまだ幼いし、身体も弱い。特に今は、肉体的にも精神的にも不安定な状態だ。もしも君を失うようなことがあれば、きっと彼女は耐えることができないだろう。だから……知っておくべきなんだ、既に君の人生は、君一人のものではないということを。君は、なにがあっても倒れてはダメだし、君が彼女の前に立って、いつだって守ってやらなきゃならない。その覚悟が、君にあるのかい?」
「……それは……」
夕莉の言葉は、冬吾の胸に重く、鋭く突き刺さった。
もちろん自分でも考えていたことではある。しかしそれはどこか現実感のない、自分とは関係のない出来事のような気がしていたのも事実で……正直なところ、これから先に待ち受ける現実と向き合うのが怖かったのだろう。父の死、そして妹の病臥と、身の回りで連続して起こった大きな変化に、冬吾自身、既に限界に近い状態だった。
「そんなこと、わかってる……」
冬吾はうつむきながら、絞り出すような声で答える。
「灯里は、この世で一番大切な……たった一人の妹なんだ……! だから、俺だって守ってやりたいよ! でも……」
「……でも?」
冬吾は言葉に詰まる。それを一度口にしてしまえば、自分の中で、何か決定的なものが崩れ去ってしまいそうだった。
「……不安、なんだよね」
夕莉は、冬吾の心を見透かしたように言う。言い当てられて驚いた冬吾は、うつむいた状態から夕莉のほうをゆっくりと見上げた。夕莉は淡々とした口調ながら、優しさを感じさせる声で、冬吾へ語りかける。
「私には、君の代わりはできない。でも、その苦しみや辛さを理解してやることはできる……と思う。だから、君一人で何もかも背負おうとする必要はないんだ。それだけは、知っておいてほしい」
「…………」
「私でよければ、話を聞こう、手も貸そう。……いいかい? 誰かに頼られる人間が、また誰かを頼ってはいけないという道理はないんだよ」
そこで、夕莉は一度言葉を切る。そして、
「……わかった?」
念を押すように言って、微笑んだ。
「……いいんですか? ……頼っても」
冬吾が言うと、夕莉は小さく笑う。
「まったく……君というやつは、私を誰だと思っているのかな? ……こんなのでも、君より二つもお姉さんなんだ。いいに決まってるだろう?」
じわりと胸に暖かいものが広がっていく。その時はただひたすらに、夕莉の言葉が嬉しかった。泣いてしまいそうだった。思春期とかいう、厄介なやつのせいなのだろうか……この期に及んで、人に泣き顔を見られるというのはなんだか恥ずかしくて、必死に涙を堪えた。多分、そこで素直に泣いていたとしても、夕莉は自分のことをみっともないなどとは思わなかっただろうが……。
感謝していた。それなのに、彼女にどう気持ちを伝えればいいのかがわからない。伝えるべき言葉は沢山あるはずなのに、ただ頷くことしかできなかった。何か言わなければと思っていると、傍らに置かれていた紙袋が目についた。
「それ……やっぱり、ください」
「ん? ……ああ、これか? ほら」
夕莉は紙袋から残っていたもう一つの大きな鯛焼きを取りだして、冬吾へ手渡す。冬吾がそれを口にすると、夕莉が言った。
「もう、冷めてしまっただろ?」
冬吾は小さな声で答える。
「……そんなこと、ないです」
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書籍化にともない本編を引き下げいたしました
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