裏稼業探偵

アルキメ

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case4 ターゲット・サイティング

4 白刃の標的

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「……全然わからん」

 体育館に設置されたパイプ椅子の観客席で目を擦りつつ、冬吾は呟く。自分としてはそれなりに集中して観ていたつもりなのだが、犯人の正体とやらがまったくわからない。こういう頭の使い方はどうも苦手だ。パズルなんかでも今までスッと解けたためしがない。

 問題編を終えて舞台はひとまず閉じられ、他のサークルや部活の発表を二つ三つほど挟んでから解決編の上演となる。その間に推理をまとめておく必要があるのだが……。

「どうだった、禊屋?」

 意見を参考にしようと思い、訊いてみた。左隣りに座っていた禊屋はこちらを向いてなにやら興奮した様子で言う。

「いやーすごいねー! 想像してたのよりずっと本格的だったー!」

 期待した答えとは違ったが、たしかにその通りだった。学生演劇と侮っていたが、これほどとは。大学の演劇部ともなるとどこでもこれくらいのレベルがあるものなんだろうか?

「こういうの観ることって、普段ないからさー。すごい楽しー!」

 禊屋は休日を満喫する女学生のようなことを言う。これほど楽しんでくれている様子を見れば、夕莉も喜ぶのではないか。

「犯人、わかったか?」
「おおっと、それをあたしに訊く? んふふ」禊屋は得意げな顔で言う。「もちろん、わかったよ?」
「む……さすがだなぁ。こっちはさっぱりだよ」

 冬吾を狙う殺し屋のこともある。禊屋は冬吾の代わりに上演中も周囲に気を配ってくれていたので、舞台ばかりに集中していたわけではないはずだ。それでもあっさりと問題を解いてしまうあたり、さすがである。禊屋の推理能力の高さを冬吾は改めて実感した。
 
「キミは犯人、誰だと思うの? 勘でもいいから言ってみてよ? ねぇねぇ」

 禊屋はからかうような口調で言う。なんだか試されているみたいで面白くないが、一応答えてやることにした。

「犯人は……森坂かな。黄色のローブ着てた人」
「ほうほう? なんでー?」
「なんていうか……役割的に」
「役割?」
「他の登場人物と比較して森坂は、事件の手がかりになりそうな情報を殆ど話してなかっただろ? 物語上の必要性がちょっと薄いっていうかさ。ただ容疑者を増やすための数合わせってことも考えられるけど、俺が作者だったなら、もうちょっと全員均等にヒントを割り振ると思う。でもそいつが犯人なら、わざわざ自分を不利にさせるようなことを言うはずがないからな。よって、逆説的に森坂が一番アヤシイ。アヤシイと言えば、明らかになにか隠し事をしていた様子の茂地も疑わしくはあるけど、ああいうのがストレートに犯人であるパターンはまずないだろうからな」
「うわぁ……そういう読み方してると夕莉さんに嫌われると思うけどなー?」
「うっ……」

 言われるまでもなく、これが極めて無粋な推理法であることくらい承知している。ドラマなんかで、有名な俳優がキャスティングされているからこいつが犯人に違いないとか、そういうのと同レベルだ。でもわかんないんだからしょうがないじゃん。

 まぁ、禊屋のように上手に解けるとは思えないが、考えるだけ考えてみよう。

「……冒頭のシーンでさ、行方不明だった女子大生が遺体で見つかったっていうニュースの音声が流れただろ? 自殺と判断されたってやつ。アレがきっと殺人の動機だと思うんだ。実際にどう関わってくるのかは、わかんないんだけどさ」

 禊屋はうんうんと頷いて、

「あたしもそう思うよ。きっとその死んだ女子大生は犯人にとって親しい人だったんだよ。動機はその復讐ってとこかな?」
「親しい人ね……」

 家族か、友人か、恋人か……おそらくそのあたりなのだろうが、細かく特定できる情報はなかったように思う。禊屋もそのあたりははっきりわかっていないようだし、動機から犯人を探るのには無理がありそうだ。

 やはり、殺人そのものの謎を解かないと犯人はわからないようになっているのだろう。

「……ちなみに、お前は誰が犯人だと思ってるんだ?」
「教えてあげなーい」
「ど、どーして?」
「だって、いきなり答えだけ教えてもらっても面白くないでしょ?」

 自分の推理が間違っているかもしれない、などとは微塵も思っていないことが察せられるコメントだ。ここまでくると、もはや嫌みにも感じない。

「それにね。キミが自分で考えて解いてくれたほうが、きっと喜ぶと思うんだ」
「……? 喜ぶって、誰が?」
「夕莉さん」

 ……そういうもんなのか? むしろあの人、ミステリ素人の俺なんかに解かれたら悔しがるんじゃなかろうか。

「んーでも、キミにはやっぱりちょっと難しいかもねー。どうしてもって言うなら、ヒントあげよっか?」
「む……」

 そう言われると、なんだか悔しい。こうなったら意地でもヒントなんか使ってたまるか。

「いい。自分で考えるよ。まだ時間はあるんだし……」

 冬吾は両腕を組んで集中の体勢に入った。

 まず、何から考えるべきか?

 こういうときは……そう、最初に情報を整理しておこう。頭の中がとっちらかったままでは筋道立った推理などできない。

 事件が発覚したのは、夜の九時五十分頃。紫のローブを着る片倉が自分の部屋に戻ろうとして、物置の扉が中途半端に開いていることに気がつく。扉から覗き込んだところ、尾賀幸司の遺体を発見した。ちなみに、最初見たときには物置の中は暗くて、誰が倒れているかまではわからなかったそうだ。以上のことは片倉本人の証言である。

 尾賀は背中を銃で二発撃たれて死んでいた。このことから他殺であることはまず間違いない。火野が調べた死亡推定時刻は九時前後とのことだったが、その時間にしっかりとしたアリバイのある人物はいないようだ。遺体には水で濡れた跡、そして、どこか別の場所から移動されてきたらしい痕跡が残されていた。血液の流れ出した跡が床に残っていないため、出血が止まった後で遺体は物置に運ばれたと推察されたのだ。

 遺体についてもう一つ奇妙な点があった。被害者の尾賀幸司はいつも白いローブを着用していたのだが、物置で発見された遺体からはローブがなくなっていたのである。物置の中はもちろん、被害者が最後に目撃されている瞑想室の中にもローブは残っていなかった。このローブがどこに消えたのかという問題は、おそらく事件の根幹に関わってくるはずだ。

 被害者の行動についても確認が必要だろう。尾賀は夕食の後で、瞑想室へ入っている。その姿は給仕の貴志間朱音によって確認されていた。朱音は誰かが尾賀の瞑想を邪魔しないように、部屋の前で見張りを兼ねて待機していたのだが、尾賀から予め、茂地だけは通すように言いつけられていた。茂地が瞑想室へ入ったのが八時半頃、それから間もなく二人の口論が起こったことを朱音が証言している。また、その際に夕莉も、部屋から追い出され飛び出していく茂地の後ろ姿を目撃していた。

 その後、九時半頃。朱音は尾賀に言いつけられてあった通りに台所へコーヒーを用意しに行く。離れていたのは五分ほどだったが、コーヒーを持って戻ってくると、瞑想室に尾賀の姿はなかった。そのまま尾賀が戻ってくるのを部屋の前で待っていたが、結局そのまま、遺体を発見した片倉に物置へ呼び出されたとのこと。これも朱音本人による証言。

 問題編の終わり際に明らかになった事実についても確認しておこう。まず、茂地の部屋の窓ガラスが割られていたこと。破片が片付けられていたので、部屋の内側と外側、どちらから割られたのかは判別つかないが、いずれにしろ事件と無関係ということはないだろう。

 そして茂地の部屋近くで発見された拳銃とハンカチ。拳銃は殺害の凶器と見てまず間違いないだろうが、ハンカチの方には何の意味があるのだろうか? ハンカチの刺繍には「K・O」とあり、そのイニシャルが指すとおり尾賀の持ち物であることが朱音の証言により判明している。しかし、朱音が見たときにはハンカチは食堂に置いてあったという。それがどうしてあんな場所で発見されたのだろうか?

「あれ……?」

 ……情報を整理しているうちに、一つ気がついたことがあった。ある人の証言と、また別の人の証言が食い違っているのだ。どちらかが間違っているのか? あるいは、嘘をついている? いや、もしかしたら……。

「あ、夕莉さん来たよ」

 禊屋の言葉に思考を一時中断した。向こうからやってくる夕莉と目が合うと、相手は手を軽く振ってから近づいてくる。冬吾はパイプ椅子から立ち上がって声をかけた。

「お疲れさまでした、先輩」
「ほんとに疲れたよ。慣れないことはするものじゃないね」
「でもすごく良い舞台でしたよ。素人判断ですけど、これなら明日の本番もまったく問題ないと思います」

 禊屋も立ち上がって言う。

「あたしもそう思います! 次の解決編も頑張ってくださいね、夕莉さん」
「ん……二人ともありがとう。そう言ってくれると嬉しいよ」

 夕莉は安堵したように微笑む。

「ところで、これはシナリオ担当としてぜひとも訊いておきたいことなんだけれど……どうだったかな? 二人は、犯人の目星はついたかい?」
「あたし、わかりましたよ。けっこー自信あります!」
「それは面白い。よければ、訊かせてくれるかな?」

 禊屋は夕莉に自分の推理を耳打ちして伝える。夕莉は時折頷いたりしながら、面白そうにそれを聞いていた。

「――簡潔にまとめると、こういうことだと思ったんですけど……どーですか?」

 夕莉は感心したように大きく頷いてから、

「この後に解決編が上演されることになっているから、詳しく言及はしないでおくけど……大したものだ、とだけ」
「やったー!」

 つまり、禊屋の解答はほぼ正解だったということだろう。夕莉は小さく笑ってから、

「いや、私もこれで安心した。いざ自分でシナリオなんてものを書いてみると、謎解きの難易度が適正なのかどうかわからなくて、正直不安だったんだ。自分は常に答えを意識しながら書いているわけだからね。なかなかどうして、客観的に見るということが難しい。ミステリに関心のある人だけが見に来るわけではないし、私としても、あまり難解になりすぎないよう気を配ったつもりだったんだが……一応、その目論見は成功したと思ってよさそうだね」

 ……禊屋を一般人の基準とするのはいささか、いやかなり問題があるような気がするが、色々と説明が面倒くさくなりそうなのでここは黙っておく。

「冬吾のほうはどう?」

 夕莉は今度はこちらを標的にしてきた。冬吾は苦笑いで答える。

「も……もう少し考えればわかりそうなんですけど」
「ははっ、そうか。まぁ、まだ時間はある。せいぜい頑張っておくれ」

 そこで、夕莉はふと何かを思いだしたように「あっ」と声をあげた。

「しまったな……」
「どうかしたんですか?」

 冬吾が尋ねると、夕莉は少し恥ずかしそうにしながら答えた。

「いや、控え室に化粧ポーチを置き忘れてきたのを思い出した。ちょっと取りに行ってくる」

 そう言ったところで、遠くの方から夕莉を呼び止める声がした。

「江里澤さーん! 先に次の打ち合わせしときたいんだけど、いいかなー?」

 夕莉を呼んでいるのはたしか、舞台で主役を張っていた火野という男だ。周りには既に他の役者たちも集まっている様子である。次の解決編上演にあたって、打ち合わせをしておく必要があるのだろう。

「あ、ああ! わかった、すぐに行く!」

 夕莉は火野たちへ向けてそう答えた後、やれやれ、と肩をすくめた。

「他のサークルが控え室を使うだろうから、なるべく早めに回収しておきたかったんだけど……仕方ないか」
「なんなら、俺が取ってきましょうか」
「そうしてくれるならありがたいけど……いいのかい?」
「それくらい全然」
「そうか。ならお願いするよ。これくらいの、青いデニム地のやつだ。たぶん机の上にあると思う」

 夕莉は手で十五センチくらいの大きさを示す。

「了解です」
「じゃあ頼んだよ。後でジュースでもおごるから」

 夕莉と一旦別れた冬吾は、控え室へ向かうことにする。控え室は観客席のある体育館アリーナを出た先のロビー側にあった。並べられたパイプ椅子の間を通り抜けて、会場設営や舞台準備のために慌ただしそうに行き交っている人々を横目にロビーへと移動する。禊屋はというと、冬吾から三歩ほど離れた距離を保ちつつ後ろから付いてきていた。

「……わざわざついてこなくても。席で待ってていいんだぞ?」

 振り返って冬吾が言うと、禊屋は不満げに口を尖らせる。

「むー……キミ、あたしがなんのためにここにいるか、わかってる?」
「そ……そりゃもちろんわかってますケド……」

 禊屋は冬吾を狙う殺し屋を警戒するためにここにいてくれている。それは言われるまでもなく理解しているが……。 

「でも、体育館の中なら人目があるから、もし殺し屋がいたとしてもこちらに手は出せないんだろ? 控え室に先輩の忘れ物とってくるだけなんだし、そんなに神経質になる必要もないんじゃないか?」
「もしものことがあるかもしれないじゃん! 人目があるからって、相手が大人しくしていてくれるとも限らないんだし。完全に安全ってわけじゃないんだよ?」
「……そ、そうか。そうだよな」

 たしかに、ちょっと気を抜きすぎていたかもしれない。敵についての情報が不完全な今、油断はそのまま死に繋がりかねない。そんなつもりはなかったのだが、禊屋がいるからと、無意識のうちに彼女に甘えていたのだろうか……。

「ごめん。禊屋の言うとおりだ。お前がせっかく心配してくれてるのに、俺がこんなんじゃダメだよな。気をつけるよ」
「心配っていうか……まぁ、そうなんだけどさ。うん、わかってくれればいいの……」

 禊屋は横髪を弄りつつ、冬吾から視線を外しながら言う。

「今のところ尾行されてる様子はないし、演劇の最中も周りを見てたけど、特に怪しいと感じる人はいなかった。あたしの杞憂なのかもしれない。でも、やっぱりまだ安心はできないからさ。お互い油断せずいこ?」

 冬吾は頷く。とりあえず、夕莉の忘れ物をとったらさっさと席に戻るとしよう。

 ロビーへ出た冬吾と禊屋は、そのまま控え室に入る。入ってすぐのところには長椅子と机が並べられており、壁際には学祭用と思しき道具や飾りが詰め込まれたダンボール箱がいくつか置いてあった。中には仮装パーティにでも使うような派手な色のマントやお面の入った箱なんかもある。

 部屋はほぼ真ん中で分断されるように棚が並んでいた。部屋の入り口は左寄りにあるので、入ってすぐでは右側奥は見えないようになっているのだが、手前側には棚一個分の隙間があり、そこから奥へ回り込むことができるようになっている。棚の後ろ側――つまり控え室の右半分には、背の高いロッカーがいくつも並べられていた。一応そちらのほうも見てみたが、今は誰もいないようだ。

「あったあった。これだな」

 入り口から見て奥の机に青色デニム地のポーチが置いてあった。他にそれらしいものは見当たらないから、これで間違いないだろう。

「ここって、更衣室としても使ってるのかな?」

 禊屋がロッカーのほうへ目をやりながら言う。

「ああ、そうみたいだな」

 体育館を出て少し先のところにあるプレハブ小屋が男女別の更衣室になっているのだが、アリーナや舞台からは少し離れた位置で微妙に不便なため、この控え室は更衣室として利用されることも多いようだ。自分は普段体育館を使う機会がないから記憶の隅に追いやっていたが、たしかそう聞いたことがある。ロッカーが沢山置いてあるのもそのためだろう。

「ふーん……ま、それはいいんだけど」
「どうかしたか?」

 尋ねると、禊屋は冬吾のすぐ前まで歩み寄ってくる。彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて、

「ね、ちょっと訊いてもいーい?」
「……? なに?」
「あのね、夕莉さんって…………」
 
 禊屋は不自然なところで言葉を切ってしまう。

「先輩が、どうした?」
「あー……うん。やっぱいいや。きゃんせるでー」
「は?」

 わけわからん……。

「お前さぁ、さっきから何か変じゃないか?」

 わりといつも変だけど……。今日は“変さ”のベクトルがなんだか違うような気がする。

「……そお? いつも通りだと思うけどな」

 そう答える声もどこか覇気がないような。だが本人がいつも通りと主張するなら、これ以上突っ込んでも鬱陶しがられるだけかもしれない。

「――ん?」

 突然、禊屋が声を上げて部屋の入り口へ駆け寄っていった。扉をほんの僅かに開いて、部屋の外を確かめるように覗き込む。

「……なにしてるんだ?」
「大変! さっき舞台に出てたダンスの人たち、戻ってきちゃう!」 

 ダンス……? ああ、そういえば、夕莉たちの次に舞台に上がっていたのはそうだった。そっちは興味がないので殆ど見てなかったのだが、たしか女子ダンスサークルだったはずだ。言われてみれば、話し声のようなものが外からここまで聞こえてくる。禊屋はそれにいち早く気がついたのだろう。

「戻ってくるって、ここに? べつに、そんなに慌てることない――」

 冬吾の言葉を遮るように禊屋が言う。

「戻ってくるのが女の子ばっかりってことは、今ここは女子更衣室も同然ってことでしょ? ロッカーの中には女の子たちの着替えとかも入ってるんだよ? そんなところからひょこひょこ出てきてキミ、なんて言い訳するつもり?」
「うっ……それはマズいな」

 ポーチを取りに来ただけという説明では納得してもらえない可能性もある。下手すりゃ着替えの服を盗みに入った不審者として扱われかねない。たとえ冤罪であろうとも、そんな疑いをかけられた時点で手痛いダメージを受けることになるだろう……主に社会的な意味で。最悪しぬ。

 脳内を一瞬のうちに嫌な想像が駆け巡り、冬吾は慌てて言う。

「そ、それならはやく出ないと――」
「今出たら鉢合わせすると思うけど……」

 この部屋に窓はない、要するに出入り口は扉の一カ所のみ。今出たら鉢合わせ、ということはもう間もなくその女子学生たちが入ってくるわけで……あれ? ヤバくないかこれ?

「ちょ……まって……助けてくれ禊屋!!」
「なんか命狙われてるって聞いたときよりも追いつめられてない……?」

 禊屋が呆れた顔をする。知ったことか。姿の見えない殺し屋なんかより、目の前に迫った見える危機だろ!

「んもー、しょーがないね。じゃ、こっちきて」

 禊屋に手を引かれて、冬吾は控え室内のロッカーのある側に連れ込まれる。

 こんなところにいるのを見つかったら、それこそ言い訳不可能じゃないか――と言おうとする口を、禊屋の人差し指で塞がれた。そして、禊屋は並んでいるロッカーの中で一番奥の方にあるものの扉を開ける。

「ラッキー、使われてないみたい! ここ入って! ほら急いだ急いだー!」

 小声で急かされながら、無理やり押し込まれる。冬吾が驚いたのは、その狭いロッカーの中に禊屋も入ってきたことだった。たしかに他のロッカーが空いているかどうかを確かめる余裕もないのだが。二人、扉に対して並行に並ぶようにロッカーに入った。

 ロッカーの扉を閉じるのとほぼ同時に、部屋入り口から十人ばかりの女子学生たちが入ってくる。すぐに控え室の中は賑やかになった。頭の高さにある空気穴から僅かに確保できる視界と、聞こえてくる音から察するに、冬吾と禊屋が入っているロッカーを気にしている者はいないようだ。

 ――ひとまず危機は回避できた。だがしかし。冬吾は自分が既に、次の危機に片足突っ込んでいることに気がつく。

 禊屋の顔が近い。ロッカーの高さの関係で冬吾はやや膝を曲げているのだが、そのせいで頭の位置は禊屋よりほんの少し高い程度で、しかも真正面から向かい合うような形になっていた。

「あたしのお陰で助かったでしょ? お礼、言ってくれてもいいよ?」

 禊屋は外に聞こえないよう囁くように言う。

「……その前にちょっと訊きたいことがあるんだけど」

 冬吾は同じように小声で禊屋へ言った。

「なに?」
「いや……落ち着いて考えてみたらさ。男の俺が一人で控え室に入っていたならともかく……女のお前が一緒なんだから、そもそも着替えを盗みに入ったとかそんな誤解はされないんじゃないのか?」

 もしされたとしても、禊屋が一緒に事情を説明してくれたら問題にさえならなかったと思う。

「そうだね」
「そ……んん? 今そうだねって言った?」

 冬吾は思わず二度見してしまう。禊屋は「してやったり」というような顔で笑っていた。天使のような悪魔の笑顔とはこのことか。

 こいつめ……最初から気づいていたのにわざとあんなこと言ったのか。お陰で慌ててしまって、冷静に考える余裕もなかった。その結果が今のこの状況だ。

「お、おのれ。何が目的だ」
「べつに目的とかないけどさー。ま、面白そうなことになりそうだったから、かな? んふふ」

 愉快犯だ。尚更たちが悪い。

 こうなっては今更出ていくこともできないし、先ほど入ってきた彼女らが着替えを終えて出ていくのをこのまま待つしかなさそうだ。

 幸い大きめのロッカーだからよかったものの、二人も入っていればさすがに窮屈だし、息苦しい。少しでも身をよじったりすれば禊屋の身体のどこかに接触するのは避けられない上、そうでなくとも彼女からはなんだか仄かに甘いような匂いがしてきて、頭がくらくらしそうになってくる。あまり長い時間は、色々な意味で耐えられそうにない。

「ほらほら、せっかくなんだし、覗いてみたら?」

 人の気も知らない禊屋は、ロッカーの空気穴の先を目線で示す。

「女の子のあられもない姿をじっくり観察できる、千載一遇のチャンスだよ?」
「そ、そんな不埒なことできるかバカ」

 とはいえ、空気穴が顔のすぐ横にあるため嫌でもちらちらと視界に入ってしまう。

「ふーん……」禊屋はにやにやと笑って、「じゃ……代わりにあたしの顔でも見とく?」

 禊屋は僅かに上目遣いになって冬吾を見つめる。互いの顔の距離は二十センチもあるかどうかという程度で、相手の息づかいまで感じられた。そのまま数秒、互いに無言になってしまう。

「う……」

 冬吾は緊張でますます息が苦しくなった。

 これはまずい。なんと表現したらいいのかはわからないが、とにかくまずい気がする。いつものように禊屋は自分をからかっているだけなのだ、それはわかりきっている。要は試されているのだ。ここで彼女の誘惑に乗ってしまえば、前にあったようにいきなり梯子を外され、そのうえ馬鹿にされるのは目に見えている。そう、すべて理性ではわかっているのだが……。

 ……なにか言おう。なにか喋ってこの状況を変化させないと、なんかこう、踏み越えてはいけないラインをベリーロールくらいの勢いで飛び越えてしまいそうな……。

 ――と思っていたのに、冬吾はまたしても先手を取られる。禊屋は冬吾の胸にそっと手を当ててきたのだ。心臓の鼓動を確かめるように禊屋が言う。

「……ドキドキしてる? ……あは、また速くなった?」

 ……よくわかった。このまま消耗戦にもつれ込んだら禊屋相手に勝てる(耐えられる)見込みはほぼない。だったら、もう勝負に乗らないようにすればいいのだ。

「……あれ? どしたの? あ、ちょっと?」

 禊屋の問いを無視して、冬吾はなるべく音を立てないようにロッカー内で身体ごと後ろを向いた。これでもう禊屋に惑わされることもない。

「ねぇ……なんで後ろ向いちゃうの?」

 禊屋は少しがっかりしたような声で言う。罠だ、計略だ、トラップだ。時間切れまでこのまま逃げ切ると決めたのだ。何を言われてももう禊屋のほうを振り向きはしない。

「あー、無視するんだ。傷つくなぁー、そういうことされると。あたし泣いちゃうかも。くすんくすん」

 ふん、馬鹿め。泣き真似程度で揺さぶれると思ったか。まだまだ甘いな禊屋。

「……ふぅん。そーかそーか、キミがそういう態度を取るなら……」禊屋はまた戦法を切り替えるつもりらしい。「……あたしもイタズラしちゃお」

 不穏すぎる発言。何をするのかと思っていたら、突然、後ろから「フーッ」と左耳に生暖かい息を吹きかけられた。

「いっ……!?」

 あ、危ない! 思わず叫び声をあげるところだった。

「どう? ゾクッとしたでしょ?」  
「お、おま――ぐえーっ」

 背後から首へ腕を回され、引き寄せられる。そのまま禊屋に背中から抱かれるような体勢になってしまった。

「んっふふ、つっかまーえた」禊屋は楽しそうに笑いつつ囁く。「これでキミはあたしのモノになりましたとさ。はい、おしまい」

 背中に感じる柔らかい感触にどぎまぎしながらも、冬吾はなんとか言い返した。

「……か、勝手に人をモノ扱いするんじゃない」
「うーん? まだ反抗する気ぃー?」
「いやそうじゃなくて……」
「じゃあ、もっといじめてあげる」 
「人の話を……うっ!?」

 冬吾が言い切らないうちに、左耳が暖かな感触に包まれる。一瞬、何をされているのかわからなかった。息を吹きかけられるのとは明らかに違った、柔らかいものと固いものが同時に触れる感覚……耳を甘噛みされていたのだ。

「びっくりした? でも意外とイイでしょ? お耳……」

 吐息混じりに禊屋の声が耳元で囁く。

「耳も性感帯の一部だから、気持ち良くなるのはフツーのことなんだよ。けど、声出しちゃうと外の人たちにバレちゃうから、我慢してね?」
「じ、じゃあ始めからするなよ……」
「んふふ、だってキミの反応がかわいいから、もうちょっと続けたくなっちゃった。そもそも、あたしはこの大学とは全然関係ない人だから、バレてもすぐ逃げればヘーキだし。キミの場合はそうじゃないだろうけど?」
「なっ……!?」

 なんてことだ。それでは始めからこちらにだけ不利なルールだったということじゃないか。アンフェアにもほどがある。審判、審判を呼べ。

 狭いロッカーの中では振り払うこともできない。無理に抵抗しようとして音を立てたら外にバレる。まったくもって八方ふさがりだった。

「せっかくなんだしさぁーあ? この状況を楽しんじゃおうよ?」

 禊屋は人を堕落させようとする悪魔のようなことを言う。

「何だって、スリルがあったほうが燃え上がるって言うし……ね?」
「……っ!」
 
 禊屋はまた、唇で冬吾の左耳輪郭部を咥えた。温かく柔らかい唇が、耳へキスをするように愛撫していく。

「んっ……」

 甘ったるい吐息が禊屋から漏れた。今度は耳を歯で挟まれ、甘く噛んで刺激される。同時に、内側の溝部分を舌でくすぐるようになぞられた。唾液の絡む淫靡な水音。耳を抜けて脳の中まで犯されていくような感覚。

「お耳舐めてるだけなのに、なんだかすっごくエッチなことしてるみたい……じゃない?」

 耳元で聞こえる禊屋の声。どう答えていいかわからないし、そもそも答える余裕もなかった。身体中が熱くて、息が苦しい。

「息、荒くなってきたね。コーフンしちゃった? んふふ。人がいるすぐ近くでこんな風になっちゃうなんて……仕方の無いヘンタイさんだね、キミは。こんなこと、バレたらどうなっちゃうのかな?」
「う、うるさい……」
「でも、安心して? キミがヘンタイだからって、あたしはキミのこと嫌いになったりしないよ?」
「安心、できるか……バカ」

 ツッコむことさえ満足にできなかった。

「息、苦しい? ここ、狭いもんね。このロッカー……今、あたしとキミの匂いで一杯になってるよ、きっと」

 禊屋は背後から首元へ回した手で、冬吾をより一層強く抱きしめる。

「あたしも、こんなに近くでキミの匂い嗅いでたら……ちょっと、ヘンな気分になっちゃったかも」

 いつになく熱っぽい声で言ってから、禊屋は冬吾の首筋へキスをした。冬吾の耳に届くように、わざとキスの音を立てるようにしながら、少しずつ位置をずらし繰り返していく。しばらく続けてから、禊屋は息継ぎをした。

「んっ、はぁ……えへへ。ちょっと……てきちゃった」
「……っ!??」

 声がこもっていてよく聞こえなかったが、今なにか、とんでもないこと言わなかったか?

「い、今なんて……?」
「んー? なんにも言ってないよ?」

 禊屋は完全に、動揺する冬吾の反応を見て楽しんでいる。

「キミが頭の中で、あたしを使っていやらしいこと考えてるから、ヘンなことが聞こえちゃうんじゃない? うんうん、きっとそーに違いない!」
「そ、そんなこと……」
「……でもいいよ。あたしでいやらしいこと考えるの、キミは特別に許してあげる」
「っ!?…………」
「あ、今まさに考えたでしょ?」 
「か、考えてない!」

 そんなことを言われたら、男なら言葉を失うに決まってる。禊屋は更に耳元で囁く。

「キミの頭の中で、あたし……どんなカッコで、どんなこと、させられちゃってるのかなぁ……?」
「う…………」

 これは……とても、まずい。ダメだとわかっているのに、どうしてもそういう方向に思考が誘導されてしまう。落ち着け、落ち着くんだ……。

「んふふっ。ま、いじめるのはこのへんで許してあげよーかな?」

 どうやらトドメを刺すのだけは勘弁されたようだった。安心したようで、でもほんの僅かにがっかりしたような、複雑な気分になる。

「あっ……思ってたより、筋肉あるんだ?」

 禊屋は冬吾の胸や腹に手を這わせながら言う。

 昔から身長はあったし、肉体労働系のバイトを長く続けていたのもあって身体だけは頑丈だった。それに……。

「最近、鍛えてるから……」

 ナイツでの仕事は常に死と隣り合わせだということは、このひと月ちょっとで嫌と言うほど思い知った。どれだけ実力と経験があっても、死ぬときは死ぬ世界なのだということも。そうだとしても、少しでも自分が強くなっておけば死ぬ確率はそれだけ下げられるはずだ。そのために、毎日鍛えている。時間があるときには、支社の射撃訓練場へ出向いて織江から指南を受けることもあった。最初は重く感じていた銃も今では何とか、十分くらいなら同じ体勢で構えていられる。

「……そうなんだ。……うん、偉いね」

 ……思わぬところで褒められてしまった。しかし、禊屋の声がどことなく暗い気がしたのが気になる――と、思ったのだが、次の瞬間にはまた元の調子に戻っていた。

「……ねぇ? もっと触ってほしい?」

 禊屋は指を立てて、冬吾をくすぐるように胸のあたりを撫で回す。

「我慢しないで言っていいよ。もっと続き……したいよね?」

 禊屋の指は胸から段々と下がってきて、へその下辺りを引っ掻くように動いた。

「つ……続きって、どういう……」

 緊張と興奮で汗だらだらになりながら投げかけた冬吾の質問は、禊屋の携帯に入った着信によって遮られる。冬吾は心臓が飛び出てしまいそうな思いがした。バイブ設定にしてあったようだが、携帯の振動音は意外と大きい。誰かが気づいて、ロッカーを開けてしまうかもしれない!

「――はぁーあ、ザンネン。ま、今日はここまでってことで。我慢してね?」

 禊屋はそう言うと、ロッカーの扉を開けてしまった。それはもう冬吾が止める余裕もないほど、恐ろしいほどの気軽さで。

「うわあっ!?……って、あ、あれ……?」

 控え室には誰の姿もなかった。

「なに? もうとっくに皆出ていっちゃってたの、気づかなかったの?」
「まったく気づかなかった……」

 いつからだ……。禊屋も気づいていたなら教えておいてほしかった。必死に声を押し殺してたの、バカみたいじゃないか。いや、それも込みであえて黙っていたのか? ……あり得る。

 禊屋は軽快な動きでロッカーから出る。

「まぁ、キミとずっとここに隠れてるのも面白そうではあるけどね。殺し屋もさすがにこんな場所まで探しに来ないだろうし、安全だよ?」

 それは殺し屋とは別の意味で全く安全じゃない。

「いいから、電話出ろよ」
「はいはい、っと。おっ? アリスからだ。殺し屋のことで新しい情報でもあったかな?」

 禊屋は「はーい」と着信に応じた。その間に冬吾はロッカーから出る。窮屈なところに身体を押し込んでいたために、腰やら肩やらあちこちが痛んだ。

 背伸びをしながら、冬吾はふと考える。さっき電話がかかってこなかったら、いったいどうなっていたんだろう? ……なんて、考えるまでもないか。いつものからかいの、そのちょっとした延長みたいなものだったんだろう。……うん。きっとそのはずだ。

「……うん。うん、わかった」

 何を話しているのだろうか。禊屋の表情は先ほどまでと打って変わって、なにやら深刻そうだ。

「――ありがとう。じゃあ、後でそのデータだけ送ってくれる? うん、よろしく」

 禊屋は電話を切る。

「アリスからだったんだろ? なんだって?」
「…………」

 禊屋は眉間に人差し指を当て、何か考え込んでいる。少しして、やっと口を開いた。

「……お昼頃に、支社にハッキングがあったの」
「ハッキング……って、コンピューターの? よくはわからないけど」
「うん。まぁ、そういう攻撃を受けること自体は珍しくもないんだ。ああいう組織だからね、敵も多いわけ。セキュリティは厳重だから、管理してるデータに被害が出ることは稀なんだけど……」
「今回はなにか被害が出たのか?」
「ううん。アリスの説明だと、システムに侵入される前に対処できたって」
「じゃあ、問題ないんじゃないか」

 禊屋は首を横に振った。

「アリスが気づいてくれたんだけど……そのハッキングがあったのと同じ頃に、あるデータに妙なアクセスログが残ってたんだって。夕桜支社とは違う、他の支部からのアクセスが。近隣の支部の一つに、鷹津(たかつ)支部っていうのがあってね。そこからだったみたい」

 鷹津といえば、夕桜からはそう遠くない町だ。車があれば一時間ほどで着く。

「別の支部から? そういうことってよくあるのか?」
「あんまりないよ。基本的に、各支部の活動はスタンドアローンでね。特別な理由……例えば支部同士での共同の作戦でもなければ管理データの共有なんて普通はしない。でも、ナイツのメンバーでさえあるなら、他支部の情報を閲覧すること自体は可能なの。ほら、キミもナイツに入るときにIDとパスワード発行したでしょ?」
「ん……ああ、そういえば」

 全然使ったことなかったから、すっかり忘れてた。

「まぁもっとも、キミみたいな平メンバーの権限じゃあかなり制限がかけられるから、殆どのデータが閲覧不可なんだけどね。幹部クラス以上になれば、他支部のデータでもそれなりに自由にアクセスできるようになるんだ。そのデータの一つが、そこに在籍するメンバーの連絡先とGPSによる位置情報。たぶん、緊急に他支部との連携が必要な時に連絡が取れるようにってことじゃないかな。――で、問題は二つ。一つは、アクセスしてきたIDをアリスが調べてくれてわかったことなんだけど、そのIDで登録されている鷹津支部の幹部って、一週間前に死亡してるらしいの」
「一週間前に……死んでる?」
「交通事故でね。まぁそれが本当に事故なのかどうかは判別つかないけど、大事なのは、その死んだ幹部のIDを別人が使っているということ。死んだのはたった一週間前だから、まだIDが停止されていないのを利用したんだろうね」

 死んだ幹部に成り代わって、その権限を使って夕桜支社のデータを盗み見た者がいるということか。

「そして問題の二つ目」禊屋が二本目の指を立てる。「そのニセ幹部がアクセスしてきた形跡のあるデータが、キミのものだってこと」
「俺の……?」

 なんだろう……嫌な予感がする。

「話は戻るけど、ハッキングはきっと、目立つ外部からのアクセスを隠すためのカモフラージュ……囮だったんじゃないかな。ハッカーの真の狙いは、キミのデータだったのかも」
「そんな、俺のデータなんて何のために…………あ」

 ……思い当たる。戌井冬吾の位置情報を何より必要としている存在に。

「気づいた? そのデータにアクセスした人間が、殺し屋のキバ……あるいはその仲間だったとしたら、この行動には筋が通る。そうじゃない? その正体はまだ確定できないけど、死んだ幹部のIDを利用するにはパスワードが必要だし、そういう情報を得られたことを考えると、怪しいのはやっぱり鷹津支部内の誰か……だろうね」

 敵はナイツの内部にいたのか……? 完全に盲点だった。

「ま、待ってくれ。じゃあ、キバはもう俺の居場所を知ってるってことか?」
「アクセスのあった時間的に、キミはもう大学にいたはずだからね。でも、アクセスはその一回だけだから、キバは“その時間”のキミの居場所しか知らないはずなんだ。同じ大学内でも今の居場所とは微妙に位置がずれるの。だからまだ見つかってないのかも」
「……どうして一回だけなんだ? 幹部のIDさえあれば、いつでも位置情報を確認できるんだろ?」
「そうなんだけど、他支部のIDで長時間や複数のアクセスログが残ってしまうと、後でチェックされたときにかなり目立つんだよね。ハッキングを囮にするような相手なら、そこでもリスクは最小限に抑えたいと思ったはず。そのどうしても記録を残さざるを得なかった一回に、アリスが気づいてくれてよかったよ」

 なるほど。キバは大まかな位置だけ調べておいて、後は自分で探すつもりだったのだろうか?

「でも、それなら灯里にかかってきたっていうあの電話はなんだったんだ?」

 例の、タナカイチロウからの電話だ。

「……あの時間なら、キバはもうキミの位置情報を入手していたはずだよね」
「そうだよな。俺の居場所を知りたがるやつが他にいるとは思えないんだけど……」

 禊屋はまた少し考えてから、何かに気がついたようにハッとする。

「そうか……それもハッキングと同じで誘導だったんだ。キバは、あたしたちを油断させるためにあんな電話を灯里ちゃんにかけたんだよ。まだキミの居場所を知らないふりをしてね。わざと怪しさを強調して電話をかけることで、灯里ちゃんに警戒させた。灯里ちゃんは機転を利かせてキミの居場所についての偽情報を教えたんだけど、それすらも相手の計算のうちだったんじゃないかな。キバの一番の目的は、灯里ちゃんを経由してキミに怪しい男からの電話があったと知らせることだった。まだキミの居場所を探している最中だと思わせて、あたしたちの気が緩むのを狙ったんだよ」

 ……たしかに、禊屋の考えは一見筋が通っているように思える。しかし、おかしなところもあるのではないか?

「油断って言うけど、それっておかしくないか?」
「どこが?」
「ええっと……説明するにはちょっとややこしいんだけどさ。それはつまり、『殺し屋に狙われていることを俺たちが予め知っている』ってのを前提にした計略だよな。でも俺たちがそのことを知ったのは、あの妙な警告メールが届いたからだ。キバはそのことは知らないはずじゃなかったのか?」
「途中で気がついたんだよ。たぶん……あたしの姿を見たから」
「お前を見たから? ……というと、どういう?」

 禊屋はちゃんと説明してくれるが、正直ついていくので精一杯だ。

「夕桜の近隣支部に関係のある人物なら、あたしのことを知ってたとしてもおかしくない。だからキミの隣りにあたしがいるのを見つけて、暗殺計画が既にバレていることに感づいた……ってとこかな。そこまでは可能性としてあたしも考えてはいたけど、まさかこんなトラップまで仕掛けてくるなんて……」

 禊屋は片手で苛ついたように髪をかきむしる。

「あーっもう、ホントごめん! キミにあんな偉そうに言ってたくせに、油断して見落としてたのはあたしのほうだ……。あたしがもっと早くに気づいていれば、他にやりようがあったのかもしれないのに……」

 そう言って、彼女は片手で顔を覆い申し訳なさそうにうつむく。

「い、いや、お前が謝る必要なんてないよ」

 そんなことまで予測しろだなんて無理がある話だし、彼女の落ち度だなんてまったく思わない。そもそも禊屋が来てくれていなければ、自分はとっくにキバに殺されていたかもしれないのだ。彼女には感謝の気持ちしかない。

「――でも、それならさ。なんで相手は俺たちを見つけてすぐ殺さなかったんだ?」
「相手が仕掛けてこなかったのは、あたしたちが今までずっと人目のある場所にいたから。キバってやつはかなり用心深いみたいだから、人前で殺しをするリスクを冒したがらなかったんだと思う」

 用心深くはあるものの、搦め手を使って攻めてくる大胆さもあるようだ。甘く見ていたわけではないが、想像以上に厄介な相手だったことは認めざるを得ない。

 その時、禊屋の携帯にまた着信が入る。電話ではなくメールのようだった。

「さっすがアリス。仕事が速い!」
「今度はなんだ?」

 冬吾が尋ねると、禊屋は不敵な笑みを浮かべた。

「アリスに頼んで、鷹津支部に在籍している全メンバー、四十二人分の名簿データを送ってもらったの」
「名簿のデータって、そんな簡単に手に入るもんなのか?」
「手に入らないから、アリスに頼んだんだよ」
「ああ、なるほど……」

 つまり、“イタズラ”したわけだ。

「本当なら、薔薇乃ちゃんに許可取らなきゃマズいんだけど、緊急事態だから後回し。ここから、キミのデータにアクセスしてきたやつを捜し出してみる」
「そんなこと、できるのか……?」
「そいつがキバの単なる協力者とかなら、見つけようがないけど……もしも、それがキバ本人なら。あたしはそいつをどこかで見ているかもしれない。名簿の顔写真を見ればわかるはず」

 ……そうか。禊屋の推理通りなら、キバは既に俺たちの姿を見ている。ということは裏を返せば、俺たちもキバの姿を見ている可能性があるということだ。普通なら意識していない有象無象の人間の顔など覚えているはずはないが……禊屋の場合は違う。彼女のずば抜けた記憶力ならば、ただ一度すれ違っただけの相手の顔でも、写真のように克明に思い出すことができるだろう。

 禊屋は携帯の画面を指でスライドさせながら、次々とメンバーの顔写真を映し出していく。一人の写真につき、見ている時間は一秒もかかっていないだろう。そして二十人分ほどの写真を確認した頃――

「――見つけた」

 黒色短髪の、若い男の顔写真が表示されたところで停止する。名簿に記載されている名前は、『藤谷桐人(ふじたにきりひと)』。眼光鋭く、危険な雰囲気のする男だ。

「そいつが……キバなのか?」
「うん。この学校で見た。……キミにぶつかってきた、あの男」
「……は? ぶつかって……って、ええっ!? あいつかよ!?」

 灯里からの電話を切った直後に、背後からぶつかってきたあの男のことだ。

「いや、でも、あの男はたしか……茶髪じゃなかったか?」

 写真の男の髪は黒色だ。

「この写真を撮った後で染めたんでしょ。変装とかじゃなくて、ただ単に本人の嗜好だと思うけど。顎のほくろの位置、特徴的な先の尖った耳、右眉の上に残っている小さな切り傷の跡……これだけ一致してるなら、こいつで間違いないよ」

 ……わかっていたことではあるが。それを踏まえてなお、禊屋の記憶力は圧巻と言うほかなかった。あの男との、あのたった数秒の邂逅で、そんなにも事細かく記憶してしまったというのか。ぶつかってきた時点では、あの男に怪しい気配などなかったはずだ。特別にマークしていたわけでもないのに、これほどの観察力とは。

「……でも、キバはどうしてぶつかってきたりしたんだ?」

 冬吾はどこにも怪我さえしていない。ぶつかるふりをして腹にナイフでも突き刺されていたらひとたまりもなかったところだが……まぁ、人目を気にしていたのならそんなことはしないか。禊屋はそれに対する答えも用意していたようだった。

「連続してデータにアクセスすることをしなかったキバが入手できた位置情報は、ごく一時的なものでしかなかったというのは説明したよね。おそらく、キミの位置を大まかに割り出せればそれで充分だと考えたんだと思う。そして、大学内でキミと、その近くにいるあたしの姿を見つけた。人目があるからその場で殺しを実行することは控えたけど、チャンスを窺うためにその後ずっと、あたしたちを監視・尾行したいと考えたはず」

 なるほど当然だ。せっかく標的を見つけたのに、殺す機会を得る前に見失っては殺し屋としても馬鹿らしいだろう。

「でも、それはできなかった。暗殺計画が既にバレているのに、尾行するのはリスクが高いと考えた。実際、あたしは常に注意していたつもりだけど、キミにぶつかってきたあの時以外、この男のことは見ていない。おそらく、もっと距離をとって様子を窺っていたはず。あたしたちから見えないくらい、遠くからね」
「でもそれじゃあ、相手のほうからも俺たちのことが見えないだろ?」
「ちょっと、後ろ向いてくれる?」

 禊屋は突然そんなことを言い出す。「どうして?」と訊く前に肩を掴まれひっくり返された。

「キバには、“姿を見せずにあたしたちを監視できる目があった”。いや、“その目をキミに取り付けた”。――そう、キミにぶつかってきた、あの瞬間に」

 禊屋は冬吾が着ているジャケットの襟首、その裏側へ手を入れる。「プツッ」という音がして、何かが外れた。

「やっぱりあった。ほーら、これ!」

 禊屋は手の上に置いたそれを冬吾へ見せた。小さな機械だった。ぱっと見、黒いボタンかなにかのように見える。真ん中には両面テープのような粘着部があり、そこが襟首の裏にくっついていたのだろう。

「……もしかして、発信機?」
「いぐざくとりー、正解っ! 携帯かなんかで常時位置を確認できるタイプのものだろうね」

 たしかにキバがぶつかってきたあの時、背中へ手を回された気がする。ちょっと触られた程度だと思ったが、あの一瞬で仕込まれたのか……。

 この発信機で位置を確認しておけば、こちらに姿を晒す必要もなく監視し続けられる。もしも、こちらからも確認できる位置でキバが監視していたのならば、同じ人間がずっとつきまとっていることに禊屋はすぐに気づいただろう。キバが禊屋の記憶能力を知っていたかどうかは定かではないが、咄嗟のアドリブにしては上手い方法を考えたものだ。……いや、まるっきりアドリブというわけでもないのか? 予め発信機を用意していたことから、ターゲットを隠れて尾行しつつチャンスを窺うというのは、もともと数ある計画のうちの一つだったと考えるべきか。

「それなら、この控え室からもさっさと出たほうがいいんじゃないか? そう頻繁に人の出入りがあるようでもないし。位置がバレてるなら今すぐ奴が襲ってきてもおかしくない」

 冬吾が言うと、禊屋は思案するそぶりを見せた。

「うん……それはそうなんだけど」
「どうかしたか?」
「せっかく敵の仕掛けた策を見抜いてやったわけだからさ。それを利用して、今度はこちらから打って出る番かなってね。相手もそろそろ焦れてくる頃だろうし。あたしたちが応援呼ぶ可能性も考慮したら、向こうはあまり仕事を長引かせたくはないはず。焦って変なことし出さないうちに、ケリをつけたほうがいいと思うんだ」

 まぁ、実際には応援が来るとしたらだいぶ先になるらしいが、キバにとっては知る由もないことだ。

「言いたいことはわかったけど、具体的にはどうするつもりなんだ?」
「そうだね、まずは――」

 そのとき、今度は冬吾の携帯が振動して禊屋の言葉を遮った。

「あ、ごめん」

 ズボンのポケットから携帯を取りだし、相手を確認する。表示された画面を見て冬吾は顔をしかめた。

「あれ、非通知だ……?」
「出て」
「え? あ、ああ……」

 禊屋に急かされて電話に出る。

「はい、もしもし――」
『よぉ。戌井冬吾だな?』
「……誰だ?」
『ハッ! とぼけてんじゃねぇぞ。……お前らがとっくにご存知の、殺し屋様に決まってんだろ』
「っ……!?」

 キバ……!? なんで電話――あっ、そうか。位置情報を調べられたときに連絡先も知られているんだった。でも、どうして――?

『俺が気づいてないとでも思ったのかよ? お前の隣りにいたのは禊屋って女だ。二人お揃いで、俺にビビって警戒してたんだろ? 情報がどこで漏れたのかは気になるが……まぁ、俺にとってはどうでもいいことだ』

 ……やはり、禊屋のことはバレていたようだ。

『お前一人を殺すことくらいわけもないが……そうしていつまでも穴蔵の中に引っ込んでいられるとクソうぜぇ。お前、体育館の裏口出たところ、わかるな? 木が生えてるだけの人気のない寂しい場所だ。そこに来い、一人でな』
「……そう言われて、行くと思うのか?」

 キバは電話の向こうで嘲笑する。

『バカだなぁ、お前は。俺が何の考えもなしにこんな電話をかけてくると思ってるのか?』
「……?」

 キバの言葉の裏に、底の知れない悪意が込められているのを感じた。背筋に怖気が走る。とてつもなく――嫌な予感がした。

 キバは、喉奥で笑いを堪えるようにしながら続けた。

『今、俺の目の前に誰がいると思う?――お前が食堂で仲良さそうに喋っていた女だよ』
「っ…………」

 冬吾は動揺のあまり言葉を失った。――夕莉のことだ。おそらく、禊屋が来る前から見られていたのだ――夕莉と一緒にいるところも。

『安心しろ。俺はまだ何もしてねぇよ。あとをついて歩いてるだけだ。距離は……三メートルちょいってとこかな。その気になれば一秒で殺せる距離だ。ナイフを背中から突き刺してもいいし、首をかっきってもいい。だがどちらにせよ、すぐには死なせない。少しずつ血を流させて、苦しみ喘ぐ声を聞きながら――』
「黙れ」相手の言葉を無理やり遮った。「……行けばいいんだろ、一人で。……わかった。だから、その人に触れるな……絶対に」

 キバがまた笑う。

『ああいいとも。俺は優しい人間だから、三分だけ待ってやるよ。一秒でも過ぎたら女を殺すぞ。急げよ』

 電話が切られた。

「…………っ!」

 目眩がして、傍らのロッカーに手をついた。頭がぐらぐらする。身体が熱い。喉が渇いていた。

 ……考えられる限り、最悪の事態。……それだけは、避けなければならないと思っていたのに。巻き込んでしまった。なんで、なんでこんなことに――

「――――?」

 禊屋が思い詰めたような表情で、何か言っている。「ノラ、大丈夫?」……これが大丈夫に見えるのか?

「ああ……」

 答えながら冬吾は考える。止めどなく溢れてくる絶望感と怒りのせいで頭がどうにかなりそうだったが、幸い、思考するための回路は活きていた――むしろ、いつもより活発なくらいだ。

 今の電話はまず間違いなく、罠である。キバは冬吾を人気のない場所までおびき出して、抹殺するつもりなのだ。

 キバは夕莉を人質としたわけだが……そもそもアレは真実だったのか? 電話越しに夕莉の声を聞いたわけではない。あの場に本当に夕莉がいたとは限らない。キバが食堂で夕莉のことを目撃していて、それを利用してハッタリをかけただけなのかもしれない。しかし……それをどうやって確かめる? 夕莉に電話で訊いてみるか? いや、それはダメだ。キバの脅しが真実だった場合――余計なことをすれば夕莉に危害が加えられる恐れがある。そして、確かめるための時間もない。つまり、真偽を確かめることは現状では不可能。今はキバの脅迫が嘘やハッタリではなく、真実であるという前提で動くべきだ。

 キバは夕莉の後をつけて歩いている最中だと言っていた。そして、冬吾へ体育館の裏口側へ来るように言った。ということは、二人とも現在その近くにいると考えられる。おそらく、夕莉は飲み物を買いに出ているのだ。体育館から一番近い自動販売機は、裏口から外の通りへ出たところにあるものだ。実際に夕莉はさきほど、ポーチを取りに行く礼として「後でジュースでもおごろう」と言っていた。体育館の外で機会を窺っていたキバが、裏口側から出てきた夕莉を偶然見つけてそれを利用する計略を思いついた。そして電話をかけてきた……こんなところだろうか。

 最大の問題は、キバにどうやって勝つかということだ。人質を取られたからといって、むざむざと殺されるというのはあり得ない選択肢だ。冬吾が死ねば、約束など関係なくキバは近くにいる夕莉を手にかけるかもしれない……口封じのためだ。今までの言動から考えて、それくらいは平気でする男だろう。だから、自分の命と夕莉を守るために、冬吾はキバに――Bランクの腕を持つ殺し屋を相手に、真っ向から勝つ必要がある。

 しかしながら……正直に言って、勝ちの目は殆ど見えなかった。当初の想定とは真逆で、今は向こうがこちらを迎え撃つ形になっている。禊屋のことに気がついていた以上、こちらが武器を持っていることもキバは想定済みだろう。こちらにとって最大のアドバンテージは失われたわけだ。加えて、夕莉という人質がいるのは明らかに不利な要素だった。下手にキバへ手を出せば、彼女に危険が及んでしまう。敵は実力でも経験でも自分より勝る相手、そして、ハンデまで抱えている状況……絶望的としか言いようがない。どうすればいい……どうすれば、奴に勝てる……?

「禊屋……何かないか。先輩を助けることができて、そして、俺が奴に勝てる方法」

 冬吾は禊屋へ尋ねた。頭の柔軟さ、発想力では禊屋のほうがずっと上だ。彼女が何も思い浮かばなければ、もうそれまで……行き当たりばったりでなんとかするしかない。

「あ……えっと、その……」

 禊屋はなぜか答えづらそうにしている。

「……ないならないで構わない。俺一人でなんとかしてみる」

 禊屋は目を伏せつつ言う。

「一応、ある……けど。上手くいく可能性は低いし、失敗したらキミは多分……というか、間違いなく殺されるから……その……」

 ……? 何を言っているんだ? その策を使おうが使わまいが、負ければどうせ死ぬんだ。少しでも勝てる可能性が上がるのなら、それに賭けない選択肢はない。そんなことくらい、禊屋ならわかるはずなのに。時間がないのに、こんなやり取りをしている場合じゃないということも。

「そんなのは全然問題じゃない。早く教えてくれ。時間がないんだ」
「わ、わかった……」禊屋は気を取り直したように言って頷く。「すぐ準備するから手伝って。あとは、移動しながら説明する」

 禊屋は控え室の反対側へ回り、壁際に並べて置かれていたダンボール箱の中から一つを手前へ引き出した。

「……“それ”を使うのか?」

 禊屋はいつもの調子で、得意げに笑ってみせた。

「念のために、ね?」




 最初の見通しとは違って、思いのほか面倒な仕事になったが……ツキは来ていると見える。

 殺し屋キバは、人質の女学生――江里澤夕莉の後をつけながらほくそ笑んだ。羽織ったパーカーの下に隠した右手には、折りたたみ式のタクティカルナイフを忍ばせてある。

 ――こうも上手い具合に、人気の無い場所に出てきてくれるとは。ただの女学生だ、まさか自分のすぐ後ろに殺し屋がいるなどとは想像もしていないだろう。あとはこの女を人質におびき寄せた、あのガキを殺すだけだ。

 それにしても、特異な依頼があったものだ。今回の依頼人――“あの方”が、なぜ、戌井冬吾のような男を殺したがるのだろうか? 

 先週の幹部殺しについては、あいつが秘密裏にあの方の権益に手を伸ばそうとしていたからだ。そこで、鷹津支部に置かれた“監視役”である俺が始末を任された。IDとパスワードを盗んだのは、幹部権限で得られるデータを後々に他所へ売り飛ばすつもりだったからなのだが、戌井冬吾のデータを引き出すという、思わぬ形で役に立った。

 戌井冬吾の暗殺依頼についても、最も手近にいた駒が俺だったというだけのことなのだろうが……今度は殺す必要性が見えない。戌井冬吾……メンバーとしての名前は、ノラ。黒衣天狗を倒したというのが本当かどうかは定かでない……が、見たところ平凡な学生のようにしか見えない。ナイツのメンバーであることは間違いないが、それもひと月とちょっと前に組織入りしたばかりの新人。見かけの印象と実力が必ずしも一致しているとは限らない、それは理解しているが……奴の実力が本物か偽物のどちらにせよ、あの方がわざわざ命令を下して殺そうとするほどの男とは思えなかった。

 ……この辺でやめておくか。あまり深く知ろうとすれば、次の標的は俺になるだろう。深追いはするものではない。この世界では、知らないでいることも生きるために必要だ。

 キバは怪しまれない程度の距離を保ちつつ、夕莉の後ろをつけていく。やがて、左右を木立に囲まれた狭い通りへ入った。通りの中ほどに、飲料の自動販売機が二つ、並んでいる。夕莉がその前で立ち止まり、財布を取りだし始めた。キバはそこでやっと夕莉の意図を察する。

 なるほど、どこへ向かっているのかと思っていたが、そういうことか。あまり遠くへ行こうとするなら引き留めるつもりだったが、ここなら問題あるまい。

 キバは、左手首の腕時計を確認する。戌井冬吾へ猶予した時間は三分。残りは、ちょうど一分だった。前方、後方ともに見渡し、自分と人質の女学生以外、周囲に人影がないことを確かめる。殺しには問題ない。次にキバは、冬吾の襟首へ仕込んでおいた発信機の位置を携帯で確認した。

 ……こちらも、問題ない。戌井冬吾は順調にこちらへ向かってきている。このルートは今自分らが通ってきたものと同じだ。ならばあと三十秒もすれば、十メートルほど後ろの、案内看板が立った角を曲がってきて姿を現すだろう。さぁ、ほら、急げ急げ。間に合わなくなるぞ。

 ――まぁ、絶対に間に合わないんだけどな。

 キバは携帯の画面を見つつ、歪な笑みを浮かべる。そう、約束を守るつもりなどないのだ。キバの狙いは始めから、冬吾の目の前で夕莉を殺害することにあった。

 昔から、人の命を奪う瞬間がたまらなく好きだった。かけがえのないものを無慈悲に奪い去っていくことが最高の快感だった。キバはそのために殺し屋になったようなものだ。しかしいつしか、ただ単に相手を殺すだけでは満足できないようになっていた。そして、もっと興奮するためには、殺し方にもこだわる必要があると気づく。相手をギリギリまで追いつめて、肉体的にも精神的にもいたぶって、絶望の底に陥れてから……殺す。とりあえずの指針としてはそんなところだが、どんなやり方が一番楽しく興奮できるのかは、今でも模索中だった。

 舞台を整えるためには苦労する。気をつけていても途中で失敗することはある。だから、準備は入念に、一切の油断はなく、最高のシチュエーションを創り出すためだけに注力する。キバが吸血鬼と呼ばれるに至った所以である、嗜虐症――キバの用心深さは、この偏った性癖のために培われたといっても過言ではなかった。

 電話でのあの反応からして、この女と戌井はただの友人関係ではないのだろう。ああ……想像するだけで、ぞくぞくする。あの角から戌井が姿を現した、その瞬間にこの女の首筋をナイフでかっ切ってやる。首から鮮やかな色をした血の噴き出る瞬間を、女が金魚のように口をぱくぱくさせて死ぬ瞬間を見せてやる。そのとき戌井は、どんな顔をするのだろう? 色々と手間をかけさせてくれた分、良いリアクションを期待したいものだ。

 夕莉は、自販機から購入した缶ジュースを取りだしていたところだった。キバがその様子を近くで窺っていると、顔を上げた夕莉と目が合う。

「あの……どうぞ?」

 夕莉は手を自販機のほうへ向けて言う。どうやら、自販機の順番待ちをしていると思われたらしい。キバは携帯に表示された位置情報を確認し、タイミングを計った。

「ああ、いえ。おかまいなく……飲み物を買いに来たんじゃないんです」 

 にこやかに言葉を口にしながら、夕莉との距離を詰める。そして、不意を突くように夕莉の肩を左手で掴んだ。

「えっ……!?」

 夕莉が驚いて手に持っていた缶ジュースを地面へ落とす。構わず、キバは右手に隠し持っていたナイフを振り上げた。

「用事があるのは――お前のほうなんでね」

 キバは自分から見て左側、案内看板の立つ方向へ視線を送る。

 さぁ、来いっ!!

 ――絶好のタイミングで案内看板の陰から、人影が飛び出してくる。カーキ色のモッズコートに、赤い髪の――女。

「――な、なにっ!?」

 そこに現れたのは、戌井冬吾ではなかった。現れたのは彼の相棒である、禊屋のみ。

 事態が飲み込めず、混乱したキバは一瞬動きを硬直させてしまった。そして――その一瞬の隙が、後方への対応の遅れを生んだ。背後の木立の間から、驚くべきスピードで飛び出してきた“それ”は、勢いそのままに――振り返りかけたキバの左頬を拳で殴りつけた。

 拳の勢いを殺すため、キバは咄嗟に後方へ跳んだが――それでもダウンは免れなかった。まともに食らっていれば脳しんとうを起こしていたかもしれない。地面へ倒れ込んだところで、間髪入れずに相手が馬乗りになってくる。右手に持ったナイフで反撃を試みたが、すぐに手首を取られ、地面へと強い力で押さえつけられる。素手の左手も同じようにされた。

「チッ……クソがァ……!」

 キバは相手の姿を見て、ようやく理解する。罠に嵌められていたのは、自分であったと。キバは笑い、そして――余裕の表情を取り戻して、相手へ言う。

「ハッ……なんだ、その恰好は? 仮装パーティーかよ?」

 戌井冬吾は、サングラスにマント着用という奇怪な恰好をしていた。





「夕莉さんこっち! 急いで!」

 禊屋が声を張り上げる。

「あっ……ああ……」

 夕莉は目の前で起きた突然の出来事に戸惑っているようだったが、ひとまず禊屋の声に従って走って行く。一瞬、こちらの様子を気にしたようだったが……バレては、いないか? こうなったらもう、バレてないことを祈るしかない。

 サングラスとマントは、控え室にあったものを拝借した。無断ではあったが、後で返しておけば問題ないだろう。サングラスは目元を隠すためで、マントは服装と体型を隠すため。要するに、夕莉の目に戌井冬吾であると認識できないようにさせたかったのだ。正体を隠さなかった場合、後で夕莉に事情を訊かれると色々と面倒なことになりそうだったからというのもあるが、一番の理由は、“夕莉にすぐに逃げてもらうため”だった。万が一にも、夕莉が冬吾を助けようとして、彼女自身に危険が及ぶことはあってはならない。禊屋に頼んで、夕莉をいち早く避難させたのもそのためだ。

 禊屋の考案した作戦は、発信機の存在に気がついてさえいれば単純なものだった。すなわち、禊屋が発信機を持ちながら移動し、冬吾は禊屋とは別のルートで移動することで、キバに冬吾の居場所を勘違いさせるというものだ。夕莉が自販機のある場所で立ち止まることはわかっていたから、そのポイントで挟み撃ちにすれば、禊屋のほうへ注意を向けているキバの背後を取れると読んだ。実際には禊屋の反対側まで回り込むのが間に合わなくて、横の木立の中から飛び出す形になってしまったが、キバが夕莉のほうを向いていたお陰で結果的には上手くいった。

 冬吾はキバの胴体の上に乗り、両手でなんとかキバの両手を封じ込めていた。マウントポジションを取っている以上、体重を乗せられるだけ、力はこちらの方が強い……はずだ。

 冬吾はキバを見下ろし睨みつける。この男……明らかに夕莉を殺すつもりだった。あとほんの数秒遅れていれば夕莉は……!

「……答えろ。なんで俺を狙う?」

 冬吾は怒りを押し殺し、あくまで冷静に眼下の相手に問いただした。

「こっちが訊きたいねぇ。お前、いったい何をしたんだ?」
「……どういうことだ」
「なんだ? 本当に心当たりがないのか? それともとぼけているだけか?」
「誰だ? お前に、俺を殺すよう依頼してきたのは誰なんだ!?」
「さぁな。俺を殺すことができたら教えてやるよ。あの世でな」
「この……ぐっ――!?」

 冬吾は突然前のめりに体勢を崩された。キバが膝で冬吾の腰を前へ押したのだ。それと同時に、両手の拘束が緩む。キバの両手首を掴むため、前傾姿勢で腰を浮かしていたのがマズかった。

 やばい――マウントを崩されたら負ける!

 冬吾は瞬時に、両手とも押さえつけておくのは不可能だと判断する。左手にだけ力を入れ直し――ナイフを持つ手を自由にさせるわけにはいかない――、同時に右手をキバの左手首から外し、拳を作ってキバの鼻先に叩き込んだ。

「がっ……!?」

 キバが呻き声を上げる。鼻柱の折れる感触があった。少しの間は激痛に目も開けられないはずだ。動きを数秒止められればそれで充分――あとは一気にケリをつける!

 冬吾はズボンと腰の間に挟んでおいたベレッタを右手で引き抜き――無論セーフティは外してある――、キバの顔面へ銃口を向け構える……はずだった。

「おっと! ……危ねぇなァ、おい?」

 キバは鼻血を流しながらも、攻撃的な笑いを浮かべる。ベレッタの銃口――その先に取り付けてあったサイレンサー部を、キバは自由になったばかりの左手で掴んでいた。

 しまった――冬吾は失策を認識した。犯したミスは大別して二つ。一つは、キバの鼻へ与えたダメージが想定より軽かったということ。二つ目は、サイレンサーの分だけ伸びた銃身を考慮に入れるのを忘れていたことだ。

「くっ、そ……ぐっ!」

 サイレンサーを握るキバの力は強く、身体の外側へ銃の向きを逸らされて照準を合わせることができない。……いや、致命傷とならなくとも、せめて、身体の一部にでも当てられれば――!

 冬吾はキバの顔から狙いを外し、銃口の向きを無理やり変えて、相手の左肩を狙いトリガーを引く。しかし、キバに銃を掴まれているせいで思うように調整が利かなかった。撃ち出された弾丸は肩から外れて、そのまま地面に突き刺さる。サイレンサーのお陰で発砲音はそれほどでもなかったが、当たらなければ意味が無い。

 弾が外れただけなら、まだいい。問題は、その後だった。

「あっ――!?」

 冬吾は、銃が弾詰まりを起こしていることに気づく。排莢不良――おそらく、銃を押さえられた状態で無理に撃ったことが原因だろう。チャンスを逸したどころか、逆にピンチを招いてしまった。

 どうする――スライドを引いて弾詰まりを解消するには、両手を使う必要がある。ナイフを持つ手を自由にさせるのは危険すぎる、ベレッタは捨てよう。銃ならもう一丁ある。グロックにはサイレンサーを付けていないが、この際発砲音は仕方がない。問題は、グロックは左手で抜くようにズボンに挟んでいたため、右手では抜きづらいということだ。位置は左手側に寄っているし、向きも合わせてあるから右手で抜こうとするとグリップが逆の位置になる。しかし――やるしかない。

 冬吾は右手のベレッタから手を放した。すかさずキバが銃の先端を掴んだまま冬吾の右側頭部へ向けて振ってきたが、冬吾はそれを右手でガードし――そのままもう一度、キバの鼻先へ拳を入れた。キバが痛みに身をよじり、力が緩んだのを感じる。今のうちに、今度こそ――冬吾は腰のグロックへ手を伸ばそうとした。

「あっ、ぐっ……!?」

 瞬間、激痛が走り冬吾は目を見開く。キバの左手が、貫手の形を作って右脇腹に突き刺さっていた。

 そんな……回復が早すぎる!

「がはっ……」

 肺から息が押し出される。肋骨をすり抜け直接肺を貫かれたかのような、呼吸ができないほどの激痛だった。痛みに耐えかね不意に頭を下げたところを、今度はキバに、右耳を掴まれる。

 千切られる――! 

 咄嗟に冬吾は、耳を引っ張られる方向に身を任せてしまう。耳を千切られるという危機から逃れるために起こした、本能的反応だったが――冬吾はそれを後悔した。キバによって身体をひっくり返され、あっという間にマウントポジションを奪われてしまったのだ。その際に、サングラスが外れ地面に落としてしまったが――そんなことはどうでもいい。

 状況は最悪だった。

「ザンネンだったなぁ?」キバが冬吾を見下ろして笑う。「お前は、たとえ耳を千切られてもマウントを崩すべきじゃなかったんだよ、マヌケが。今度はこっちの番だ……気絶すんなよ、つまんねぇから」

 キバは冬吾の顔面に向かって振り下ろすように左の拳を叩きつけた。冬吾は手で防御する間もないうちに、そのまま二発、三発と続けて拳を浴びてしまう。結局、パンチの雨が止んだのはそれから更に三発ほど殴られてからだった。

 キバは一時手を止めて、狂気めいた笑いを浮かべる。

「ひゅーっ! イイねぇ、この一方的な暴力! やっぱり、この手で直に相手をぶん殴るのが一番楽しいなァ!」

 口の中が切れて血の味がした。集中的に打たれた右頬の感覚がもう殆どない。辛うじて鼻は折れていないようだが、二発ほど痛いのをもらった。おそらく、これでもまだ相手は本気で殴ってはいない。右手のナイフを使わず左手で殴るだけだったのも、楽しむためにあえていたぶっているのだろう。

 攻撃が止んだ間に、冬吾は自分の置かれた状況を確認する。最大の問題は、考えるまでもなく、キバにマウントを奪われているということだった。仰向けで胴体の上に乗られているため、これでは腰に挟んでおいたグロックを引き抜くことができない。ベレッタのほうは、キバによって既に手の届かない場所へ放られていた。他に武器らしいものと言えば、腰ポケットに入れてある父の形見のナイフくらいだが、それもグロックと同じ理由で取り出せなかった。要するに、反撃するための武器が……ない。

 そして――痛い。貫手を食らった脇腹もそうだが、地面と背中の間に何かが挟まっていた。倒れた際に下敷きにしたらしい。落としたサングラス……は横の方に転がっているのが見えるから違う。感触からして丸みのある形状のようだが……。

「お前が取るべきだった行動を教えてやろうか?」

 キバは勝ち誇ったように言う。

「最初の不意打ちのときに、俺を銃で撃ち殺せばそれで終わりだったはずだ。だがお前はそうしなかった。たぶん、あの女が原因だ。裏の世界とは無関係な一般人に、人が死ぬ瞬間を見せたくなかったんだろ? 違うか?」

 違わない。夕莉に人殺しの瞬間を見せたくなかった。だから、夕莉がこの場を無事に離れるまでは、銃は使わないつもりでいたのだ。もちろん、キバから依頼人の情報を引き出すという目的もあったが。

「甘ぇーんだよ。テメェごときが、俺相手に手を抜いて勝てるわけがねぇだろ? ああ?」

 たしかに、その通りかもしれない。甘かったのかもしれない。しかし――まだ負けてはいない。

 どうやってこの強敵に勝つか……それを見出せなければ、ここで死ぬしかないのだ。だから、死ぬ気で頭を回転させろ――卑怯な手でもなんでもいい、この場の状況、相手の言動、癖……全てを利用してでも勝たなければ……!

 ……それになにより、許せなかった。生きることへの執着だけではない。無関係の者を巻き込み、無意味に殺そうとした男への怒りの感情こそが――最も激しく、勝利を熱望していた。

 だから、なんとしてでも――勝つ。夕莉を傷つけようとしたこの男だけは、今ここで――叩き潰すッ!!

「さて……楽しみたいのは山々だが、そろそろ仕上げねぇと人が来ちまうかもしれねぇからな。思いのほか手こずらせてくれたが、これで終わりだ。せいぜいイイ顔で死んでくれよ?」

 キバは右手に持っていたナイフを逆手に持ちかえ、冬吾の胸へ目がけて振り下ろした。

「くっ……!」

 冬吾はすんでのところで両手を動かし、振り下ろされたキバの右手首を押さえ込む。鋭く尖ったナイフの切っ先は、あと十センチも下がれば胸に突き刺さる距離だ。

「ははっ! なんだ、ガッツあるねぇ!」キバは嬉しそうに笑う。「でも無駄だって、無駄無駄ァ! さぁて、あと何秒もつかな?」

 キバはナイフを構える右手に、左手まで添えて一層強く力を込めた。冬吾も両手に力を込めて抵抗するが、相手のほうが体重を乗せて力を加えられる分、圧倒的に不利だった。

 ――まずい。このままじゃ力負けする。何か、何か逆転する方法を――そんなものあるのか? この状況で?

 そのとき、背中の下に挟んでいた何かが、小さくパキッという音を立てた。

 ……あっ。これ、もしかして、缶ジュースじゃないか? 今のは圧力がかかって缶のへこんだ音だ。そう、そうだ。さっき少しだけ見えた、夕莉が買っていた缶ジュース! あれはたしか、いつも夕莉が買う銘柄の……。キバに襲われかけたときに落としたものが、こんなところまで転がってきていたのか……。

 ――使えるか? おそらく、キバはこのことに気づいていない。奇襲としてなら充分に効果を発揮するかもしれない……が、難しい。片手でナイフを押さえていられるのは、せいぜい二秒が限界だ。その間にやってしまう必要がある。上手くいかない可能性のほうが高い。しかし、それでも――やるしかない。他に手はないのだから。

「――悪いが、俺の勝ちだ」

 突然に、冬吾はキバへ向かって宣言する。

「……気でも狂ったか?」
「違う。べらべらと喋ってばかりの間抜けなお前と違って、俺は確信に基づいて勝利を宣言している。それがわからないのか?」
「……ふざけやがって。お前がこの状況から勝つ方法なんて、万に一つもあるわけねぇだろうが……?」

 冬吾はキバを鼻で笑った。

「バカが、まだわからないのか。視野狭窄。自分の勝ちに目が眩んだな。……なら、せいぜい後悔しろ。お前の敗因は――ひとりで戦ったことだ」

 そう言って冬吾は、自分の右手側――禊屋と夕莉が走り去って行った方向へと視線を泳がせた。

「っ――!?」

 キバは冬吾に釣られるように同じ方向を見た――いや、実際、釣られたのだ。冬吾の言葉と視線の動きは完全なるハッタリ、禊屋が救援のために戻ってきたと思わせるためのブラフだ。先ほどまでの会話の中で、キバはプライドの高い男だということはわかっていた。そのプライドを刺激するようなことを口にすれば、会話に食いついてくると読んだ。そして、その読みは当たる――ブラフの狙いは、キバの視線を冬吾の右手側へ逸らせることにあった。

 冬吾はキバのナイフを押さえ込んでいた左手を外し、背中に下敷きにしていた缶ジュースを取る。そして、飲み口をキバの顔のほうへ向けてから、片手のまま器用に指を使ってプルタブを開いた。

 冬吾は知っている。夕莉が自販機で買うジュースは、決まってぶどう味の――炭酸の入ったものだった。

「なっ……ぐぁっ!?」

 勢いよく噴出する炭酸液がキバの顔面を襲う。咄嗟の反応では、利き手のほうが先に動く。目元を拭おうとして、キバはナイフを逆手に持ったままの右手を、顔の高さまで上げた。冬吾はその瞬間を見逃さない。缶ジュースをすぐに放ると、右手でキバの右手首を掴み、左手でキバの指がナイフを握ったままになるよう固定して、相手の左肩めがけそのまま――押し込んだ。

「がっ……あああああああっ!?」

 自らの左肩にナイフを“突き刺させられて”、キバは絶叫した。冬吾はそのまま容赦なく、傷口を抉るように手を動かす。キバの左手が冬吾の両手を引き剥がそうと懸命にもがいたが、冬吾としても必死の攻撃である、そう簡単には手を外さないよう力を込める。力むうちに、先ほど殴られたときにできた口内の傷口から血が溢れるように出てきたが、それを飲み込みながら堪えた。

「ク……クソがぁぁぁッ! ……テメーごとき雑魚が、この俺にッ……生意気なんだよ!!」

 キバは冬吾の手を引き剥がすのを諦め、一瞬、左手を自分の腹のあたりまで動かしかけたが――途中で軌道を変更した。左手を、冬吾への攻撃に用いたのだ。爪を立てるように指を開いたまま、顔面へ――目潰しである。

「――っ!?」

 冬吾は咄嗟に両目を閉じて頭を逸らしたが――かわしきれなかった。ギリギリ目玉を抉られることはなかったものの、引っ掻かれて、両目ともに激痛が走る。

 痛みで力が緩み、ナイフを押さえつけていた手も引き剥がされてしまった。

 しまった――! 目はマズい……視界を確保できないのは致命的だ。一番の脅威であるナイフも解放してしまった。どうする……!?

「はははっ! 目は痛いよなァ? どうした、命乞いしてみろよ! 許すつもりはねぇけどなァ!!」

 目は開けられないが、まぶた向こうに感じる影でキバがナイフを刺す構えに入ったことはわかった。今度は手首を押さえてガードすることはできそうもない。さっきサングラスを落とさなかったら、目潰しを食らうこともなかったかもしれないのに……今更後悔しても、意味は無いが。

 ……もう終わりなのか? 諦めるしかないのか? ここで死ぬのか? プロの殺し屋に殺し合いで勝とうなどと言うのが誤りだったのか?

 ――違う。まだ終わってなどいない。死ねるはずがない。そうだ、“まだ死んでもいないのに、諦められるか”。

 失われた視覚情報を、可能な限り脳内で再現する。思い出して、思考回路をフルで働かせて、考えろ――逆転の方法は、本当にないのか?

 まず、この体勢ではナイフの攻撃を避けることは不可能だ。かといって、目が封じられている状態では防御も困難……となると、ここは発想を変えるべきだろう。こうなったらいっそ、“こちらから攻撃を加えて、ナイフの攻撃を中止させるしかない”……!

 しかし、攻撃するにしても中途半端なものではキバはまるで意に介さないだろう。鼻をへし折っても次の瞬間には反撃してきた男だ、痛みには耐性があると見て間違いない。もっと決定的なダメージを与える必要がある。素手での攻撃では、金的、あるいは目でも狙わない限りは動じないか……。では、金的が通用するかといったら……おそらく難しいだろう。キバの履いていたズボンは伸縮性のあるタイプで、マウントポジションのように股を横へ広げた場合、ズボンの生地が伸びて股の前で空間ができてしまう。この状態ではズボンがファールカップ代わりになって金的を握り込みにはいけないし、打撃を加えられたとしてもダメージは薄い。よって金的は選択肢から除外する。もう一方の目への攻撃は、キバ自身が繰り出してきたばかりというのもあって警戒されている可能性が高い、これも除外。やはり、素手での攻撃では難しいか……となれば、“何らかの武器での攻撃”という手段を考えてみる必要がある。

 武器と言っても、マウントポジションを取られている以上、腰のグロックとナイフは取り出せない。ベレッタはキバに放り投げられて手が届かない位置にある上に、弾詰まりを起こしているため論外だ。どうにかしてキバの体勢を崩せれば、その瞬間に腰を上げグロックを引き抜くことができるかもしれないが……その「どうにかして」が皆目わからない上に、相手も警戒しているだろうから難しい。手元に使える武器がないのであれば――“キバの持つ武器を奪うしかない”。

 もっとも、キバが今しっかりと手に握りしめているであろうナイフを奪うのは現実的に考えて不可能だ。しかし、キバが身体のどこかに隠し持っている武器ならば、あるいは奪い取ることが可能かもしれない。プロの殺し屋ならば、ナイフ以外にも予備の武器くらい用意していてもおかしくないのではないか? 問題は、“キバがどこに武器を隠し持っているのか?”

 今までの奴の動作、発言から、それを推測できるヒントはなかったか? …………そうだ。一つ、気になることがあった。キバの左肩にナイフを突き刺した後、反撃に目潰しをしてきたときのことだ。目潰しの直前、キバは一瞬だけ左手を腹のあたりに動かそうとした。あれは何だ? 今までのキバの動きの中で、あれだけが妙に不自然に思えた。あれは……そう、迷いだ。キバは一瞬、目潰しと何かを秤に掛けて、目潰しのほうを選んだ。あの状況で選べる選択肢があったとすれば、それは何らかの攻撃手段に違いない。つまり……武器。腹の近くで武器を隠せそうな場所といったら……上着のパーカーのポケット? いや、おそらく違うだろう。武器である以上多少は重量があるはず、パーカーは羽織っているだけだから、重みのあるものを仕込んでいたとしたら動いたときの揺れ加減などでわかるはずだ。となると、もう一方……ズボンのほうか? こちらがマウントポジションになったときには、相手の両手首を掴んでいたから、腰を浮かしていた。だから今まで気がつかなかったが……“キバはズボンの腹側に武器を挟みこんでいるのではないか?”

 パーカー下に着ていたシャツで覆い隠してあれば、外見からでは武器を持っていることはわからない。しかし不可解なのは……あの土壇場で、武器での攻撃よりも素手での攻撃を選んだことだ。あの状況、キバは間違いなく本気で殺しにきていた。隠し持っていたものがどのような武器であれ、素手よりは確実に相手へダメージを与えられるはず。そこであえて素手での目潰しを選んだことに、理由があるのだろうか? それとも、武器を隠し持っているという読み自体が外れているのか? ……待て、目潰しを選んだことに理由がある――いや、そうではなく……武器による攻撃を選べなかった理由があったとしたら? キバは右利きだ。あの時、キバの右手は左肩に突き刺さったナイフを握ったまま、動かせない状態にあった。それが理由だったとしたらどうだ? 利き手でないと扱いづらい武器だったから、使うのを控えた…………そうか。やっとわかった。これで、禊屋の言葉とも繋がった。逆転の方法は、これしかない――!

 冬吾がその思考に費やしたのは、ほんの一瞬――結論に至った次の瞬間には、口の中に溜めておいた血液を相手の顔面のあたりへ向かって吐きかけた。

「チッ……無駄なことを!」

 目を瞑ったか、首を逸らしてかわしたか、腕を上げて防いだか、あるいは、そもそも顔には当たらなかったのか……こちらも引っ掻かれた目がまだ見えないから、相手がどういう反応をしたのかはわからない――が、どれでも構わない、ほんの少しでいいから注意を逸らせたかった。それとほぼ同時に、相手の顔の位置へ向かって右手で掌底を突き出す。空を切っただけで手応えはなかったが、当てるのが目的ではない――これも悪あがきに見せかけた、相手の視界を狭める目隠しと意識の陽動を兼ねたフェイントだった。そしてこちらが本命――左手をキバの右脇腹に向かって伸ばす。見えなくとも、そのくらいの位置感覚はある。間に合え間に合え間に合え――ナイフが振り下ろされる前に!

 左手で武器を使うのを躊躇した理由は、“それ”はもともと右手で使うことを想定していたからだ。右手で抜きやすいように腹の右側の位置でズボンに挟み込んでいたとしたら、肩を負傷している左側の手では抜きづらい。ましてや、“グリップの向きが右手で抜くことを想定したもの”であったのならば、尚更である。禊屋からキバについての情報を教えてもらったとき、最初に言われていたことだ。『使用武器は主にナイフ、状況によっては銃を使うこともある』と。キバがズボンに挟んで隠し持っているもう一つの武器、それは――“拳銃”だ。

 左手の指先が、相手のシャツの上から硬いものに触れたのがわかった。あった――間違いない! 指先の感覚だけを頼りに、シャツの上から銃のグリップと思しきものを探し当て、ズボンから引き抜きもしないまま手前側から無理やり握りこんだ。引き金に親指を置く奇妙な握り方だが、撃てさえすればそれでいい。そして――

「っ!?? やめっ――」

 引き金を引いた。発砲音と共に、キバの絶叫が響き渡る。ズボンの内側――股間の辺りから、赤黒い染みがたちまち広がっていく。

 耳をつんざかんばかりの叫び声を聞きながら冬吾は、禊屋の話を思い出していた。ズボンに挟んでいた銃を抜こうとして、誤って股間を撃ってしまうという話――まさか、こんな形で利用することになるとは思いもしなかった。もしも弾が貫通していたら自分の身体に当たってしまう危険もあったが、そんなことまで意識する余裕はなかった。引き金を引く際には銃口を真下ではなく、なるべく相手のほうへ向けて撃ったから、角度的には、貫通しても案外大丈夫だったのかもしれないが。

 キバの銃が撃てる状態にあるかどうかは、ある種の賭けではあったが……戦闘の中で銃を撃つ可能性がある以上、弾は既に薬室に装填済み、セーフティも予め外しているだろうと思っていた。冬吾はその点に限っては信用したのだ、キバという殺し屋を。用意周到なこの男が、戦闘の前にその程度のことを怠るはずがないと。

 目にまだ痛みはあるが、まぶたを薄く開けられる程度には回復してきた。ぼんやりとした視界の中で、冬吾は右手で対角線上にあるキバの右手――ナイフを持つ手の手首を掴む。これほどのダメージを負ってなお、武器を手放そうとしないその根性については敬意に値すると冬吾は思った。しかし、これでもう悪あがきにナイフを振り回すこともできない。左手で、発砲後すぐにキバのズボンから抜き出しておいた自動拳銃をそのまま相手の眉間へ向け、構える。あとは、最後の引き金を引くだけだった。

「……どうした? 命乞いはしないのか?」

 先ほどのキバの言葉を、そのまま返す。ただ淡々と――この憎むべき相手に屈辱と敗北感を味わわせる、それだけのために言葉を投げかけた。

 キバは息も絶え絶えに、冬吾を凄まじい形相で睨みつける。

「い……戌井ぃぃぃ……ッ!! ゆる、さん……きさま……き……さま……だけは、殺、す……コロス……ッ!!」

 キバが呪詛の言葉を吐くのを、冬吾は冷めた眼差しで見ていた。そして――

「……ああ。俺も、お前を許すつもりはない」
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