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case4 ターゲット・サイティング
5 答え合わせ
しおりを挟む六年前、親の仕事の都合で今の家に引っ越してきた。隣りに住んでいたのは、子どもが二人いる父子家庭。その父親は紳士的なおじ様で――今はもう、亡くなってしまったけど――、家の前で会ったりすると、私にもよく話しかけてきてくれるいい人だった。子どもの兄妹とも、すんなりと打ち解け合った覚えがある。初対面の相手と話すのがなんとも苦手な私にしては、珍しいことだった。
兄妹の兄である戌井冬吾は、私より二つ年下の男の子だ。真面目で優しい性格の持ち主だが、ときたま致命的に鈍いところがある。だから、もう彼は覚えていないだろうが……昔、こんなことがあった。
「――ほら、これ。君にあげるよ」
今から五年前――私が高校一年、冬吾は中学二年の頃。立ち寄った戌井家の玄関で、私は彼に一冊の使い古したノートを渡したのだった。
「えっと、これは……なんですか?」
まだあどけない感じの残る少年は、渡されたものと私を交互に不思議そうに見た。
「私が中二の頃に使っていた数学のノート。君、数学が苦手だって言ってただろう? 自分で言うのもなんだが、それはなかなかよく要点をまとめてある。少しは役に立つかと思ってね。良ければ使ってくれ」
「うわっ……いいんですか、もらっても?」
「私にはもう必要ないからね」
冬吾はぺらぺらとノートのページをめくってから、感動したように言った。
「ありがとうございます! すごく助かりますよ、これ。先輩の字、綺麗で見やすいし」
「そうか、ならよかった。じゃあ私は買い物に行く前に寄っただけだから。それじゃ」
しかし――出かけた先の本屋でミステリの新刊を買ってから、重大なミスを犯してしまっていたことに気がついた私は、大急ぎで戻ってきたのだった。
「――冬吾。さっきあげたノートのことなんだけど……その、やっぱり返してくれないかな?」
「えっ!? なんで!?」
冬吾は驚いたように言う。まぁ、当然の反応だ。
「あ、いや。その、ちょっとでいいんだ。またすぐ返すから、さ。ほら……ね?」
「あー……もしかして、後ろのほうに書いてあった小説のこと? ……ですか?」
「うっ……ぐっ……」
まったくこの子は、どうしてこういう時にだけ妙な鋭さを発揮するのだろう。
「あれは……その、落書きと一緒なんだ。人に見せるために書いたものじゃない。だから……」
「そ、そうだったんですか……でも俺、もう読んじゃったんですけど……」
「なっ!?」
「ページめくってたら見つけちゃって、ついそのまま……すみません」
「……そ、そうか。いや、君が謝ることはない。私が気がつかないで渡したのが悪かったんだ……」
中学二年生の頃に初めて書いた、小説……と呼ぶのも憚られるような代物。空いたページになんとなく空想した話を思いついた順に書き連ねただけで、文法も構成もめちゃくちゃだった。一応、私の好きなミステリの体裁をとろうとしていたのだが、案の定、続きが思い浮かばなくなって途中で書くのをやめてしまった。それ以来、そんなものを書いていたと思い出すことさえしなかったのに。それがまさか、こんな形で人の目に触れてしまうとは。それもよりによって……。
……困った。なんと言えばいいのだろう。忘れてほしいが、そう言って彼に気を遣わせるのもなんだか悪い気がする。
「でも、面白かったですよ」
「……へ?」
「あれって、続きはないんですか? いいところで終わってて、続きが気になるんですけど」
まさかの反応だった。続きを読みたいって……本気で言っているのか? 私は少しばかり混乱しながら、こう答えるので精一杯だった。
「いや…………続きは、ないんだ。……まだ」
待ち合わせていた学生食堂に少し遅れてやって来た夕莉は、冬吾の向かい側の席に座るなり、申し訳なさそうに言った。
「やぁ、すまなかったね……こんな妙なことになってしまって」
「いえ……その……先輩に怪我がなくて何よりでした」
冬吾はぎこちなく言葉を返す。
「あ……それ、頼まれてた化粧ポーチです。渡すのが遅れてすみません」
テーブルに置いておいた夕莉のポーチを指して言う。
「ああ、いいんだ。ありがとう。ん……禊屋さんは?」
「なんか、ちょっと外に出てるって言ってました」
禊屋とは先ほどまで打ち合わせをしていた。どう話を合わせておくか、という打ち合わせ。
禊屋は、演劇の後半の部が始まるまでの間、体育館の周りを軽く散歩するつもりで歩いていた。そこで偶然、ジュースを買いに来ていた夕莉を見つけるが、夕莉は今まさに暴漢に襲われようとしているところだった。そこへサングラスとマントを着けた変な男が助けに入ったところで、禊屋は夕莉を呼んで一緒に逃げ出した……と。以上が禊屋が夕莉に対して説明したことである。
……まぁ、突貫工事の変装だったから仕方ないとはいえ、変な男呼ばわりはひどいのではないかと思う。だってあのサングラスとマント選んだの、禊屋だし。
その後、禊屋と夕莉は警備員を呼んできて元の場所に戻るが、その時にはもう暴漢も、助けに入った男の姿もなかった。だから表向き、その暴漢と変な男の二人は揃って行方不明ということになる。そしてこれから先、姿を現すことは二度と無い。
言うまでもなく、夕莉たちが戻ってきたときには冬吾は既に身を隠していたのだが、あの場にナイツの死体処理班がギリギリで駆けつけてくれていなければ、危なかったところだ。さすがプロ……というべきなのか、彼らはあっという間にそこで起こった出来事の痕跡を消し去っていった。禊屋が呼んでくれたようなのだが、彼女は処理班を予め近くで待機させていて、連絡を受けたらすぐ動くように手配しておいてくれたらしい。
とはいえ、何もかもを無かったことにできるわけでもなく……。夕莉の話を聞いた警備員から警察へ連絡が行き、つい先ほどまで、夕莉は警察から事情聴取を受けていたのだった。これからしばらく学内で不審者についての噂で持ちきりになるかと思うと、今から非常に気が重い。
「あれ……?」夕莉がテーブルに身を乗り出すようにして冬吾の顔を覗き込む。「君、目をどうした? 充血してるじゃないか」
「えっ? あ、ああ……これは、その、外を歩いてたら、風が吹いたときに砂が入っちゃって。もう全然平気なんで、心配しないでください」
「そうか……それならいいけど。というか、顔もところどころ腫れてるような気が……まるで殴られたみたいな……」
「き、気のせいですよ。ちょっとむくんでるだけじゃないですかね、たぶん」
目のほうは充血になっている以外は、今のところ問題ない。とはいえ一応、目医者の診断を受けに行ったほうがいいだろうか。
「それより、警察の人……何か言ってました? その、先輩を襲おうとした暴漢のこと」
不安……というわけでもないのだが、一応探りを入れてみる。夕莉はかぶりを振った。
「付近一帯で警戒を強めるとのことだったが……まぁ、捕まえるのは難しそうだね。私自身も驚いてしまって、人相なんかもあまりよく覚えてないんだ」
「……あの。やっぱり……怖かったですか?」
「おや、なんだろうね? 心配してくれているのかい?」
夕莉は小さく笑い、首を傾げるようにして冬吾を見る。
「そりゃ……心配しますよ。当然じゃないですか」
今回夕莉が襲われたのは、冬吾の巻き添えになったせいだ。無事に助け出すことが出来たから良かったものの、胸の内にある罪悪感の全てを払拭できたわけではない。あのとき一歩間違えれば、夕莉は死んでいた……自分のせいで。もう二度と、あんな思いをしたくはない。
「……まぁ、そうだね。怖かったかと訊かれたら……怖かったよ」
夕莉はそのときのことを思い出すようにしながら話した。
「あんな風に命の危機を感じる場面なんて、たぶん、初めてのことだった。驚いて、怖くて、身体が動かなくなって、声も出せなくて……逃げなきゃならないと思ってはいたんだが……ああまでどうしようもなくなってしまうとは。あのとき、私を助けてくれた人がいなければ、私はあっけなく殺されていたのかもしれない。そのことが、なんだか自分が弱い人間であることを思い知らされたようで……正直、それが一番ショックだったかな」
「そんなの……誰だって、そうなります。先輩が弱いわけじゃない。……むしろ、俺は先輩のこと尊敬してるんですよ」
夕莉はゆっくりかぶりを振った。
「……私は、君が思っているほど立派な人間じゃないよ。ここにいるのは……そう。ただ小賢しいだけの……臆病な女に過ぎないのさ」
どこか含みを持たせたような言い方、それに悲しげな表情だった。それから夕莉はふと気づいたように顔を上げて、僅かに表情を緩めた。
「ああ……すまないね。君に気を遣わせてしまって。君が思っているほどへこんじゃいないから、安心してよ」
「…………」
冬吾は返す言葉がなかった。夕莉は、こちらを心配させまいと強がっているのではないだろうか。夕莉は自分を襲った暴漢がどうなったかを知らない。だから、また襲われることがあるかもしれないと恐怖に怯えていたとしてもおかしくはない。
それに、夕莉が謝る必要などどこにもなかった。むしろ謝るのはこっちのほうだ。いっそ、すべてを打ち明けてしまいたい。今回のことも、今までのこともすべて。しかし、そんな一時の感情を優先させただけの選択が何を生み出す? そんなことをすれば、ただ夕莉を悲しませて、しかもまた今回のように危険に巻き込むリスクを高めるだけではないか。
「おいおい、どうしたんだ? ははっ、私より君のほうが暗い顔をしてるじゃないか」
夕莉は冬吾へ茶化すように言う。
「……すみません」
胸の張り裂けそうな気持ちを堪えながら、冬吾はそう答えるのが精一杯だった。
「……ねぇ冬吾。せっかくだから、もっと楽しい話をしようか」
夕莉は優しげに笑って言った。
「……?」
「もう聞いているだろう? 今日のリハーサル、残りの分は中止だって」
不審者の騒ぎのせいで、体育館でのリハーサルは中止になっていた。幸い、明日の学園祭本番だけは問題なく開催されるようだが。
「舞台の後半の部……解決編の上演は明日に持ち越されてしまったわけだ」
「あ……そういえばそうですね。……大丈夫ですか、明日?」
「ん……それは問題ない。さっきのことを引きずるつもりはないし、今日実際に演じてみた感触も、そう悪くはなかったと思う。まぁ、君がいてくれたお陰というのが大きいよ」
「俺、なんにもしてないですよ」
「いいんだよ、なにもしなくて。最初にそう言ったろう?」たしかに、そうだった。「――それで、明日まで解決編が先延ばしになってしまったわけだし……問題編を観た上での君の解答も、ぜひ聞かせてほしいと思ってね」
夕莉はあの舞台――『白き賢者の死』の真相について推理してみろと、冬吾に言っているのだ。作者直々の読者への挑戦だった。
「……それが、楽しい話になるんですかね?」
「少なくとも、私にとっては最上級にエキサイティングな話題と言えるだろうね」
「そうですか……」
……よし。そこまで言うなら、やってやろうじゃないか。
「わかりました。先輩の挑戦、受けて立ちますよ」
「あははっ。そうこなくては!」
夕莉は上機嫌になって笑う。
「実は、さっき思い出しながら考えていたんですけど……俺、わかっちゃいましたよ」
冬吾は腕を組み自信に満ちた表情で言ってみせる。上演後すぐに解答を出した禊屋には大きく遅れてしまったが、彼女のものと比べても遜色ない答えを出せたのではないかと思う。夕莉は面白がるように、
「ほーう? いいのかな、そんなことを言って。間違えていたら恥では済まないよ?」
「む……当たってるから、問題ありません」
……たぶん。
「ふふ、では教えてもらおうじゃないか。白の賢者こと尾賀幸司を殺害した犯人について、君はどう推理したんだい?」
冬吾は咳払いをしてから、話し始めた。
「まず、俺が最初に気になったのは、ある二人の証言の食い違いでした」
「ふむ……その二人とは?」
「探偵役の火野、そして、給仕係の朱音です。遺体は物置で発見されたわけですが、尾賀はそれまでずっと瞑想室にいたことになっていて、いったいいつ瞑想室を出たのか……という疑問が話題に出た場面がありましたね。それについて、朱音が証言していました。朱音は九時半、尾賀に頼まれていたコーヒーを入れるため、瞑想室の前を離れて台所へ向かった。その間は五分程度ですが、朱音はそれまでずっと瞑想室の前にいたので、被害者の尾賀が瞑想室を出ていったとすればその間のことだろう……という話でした。実際、その後コーヒーを持って戻ってきた朱音が部屋を覗いたとき、既に尾賀の姿はなかった。――けど、これはおかしいんです。遺体発見後の物置の場面で、火野が尾賀の遺体を調べていました。そこで彼は、尾賀は死亡してから一時間程度は経っていると言っていたはずです。物置で遺体を発見したのが九時五十分だったから、死亡推定時刻は九時前後ということになる。そうなると、朱音がコーヒーを淹れに台所へ行った九時半という時間には、既に尾賀は死んでいたことになってしまう。ね、そうじゃないですか?」
「……なるほど」
夕莉は小さく頷いた。この反応から今走っている道が正しいのかどうかの判別はできなかったが、とにかくこのまま走り続けることにする。
「証言が矛盾している以上、どちらかが間違っていることになります。そこで、俺は朱音の証言のほうに疑いを持ちました。彼女が嘘をついたと思ったわけではありません。彼女は実際に部屋を出ていく尾賀を見ていないので、推測から、コーヒーを淹れている間に部屋を出たのだろうと証言しただけです。その推測が間違っているとしたら? 九時半よりもっと早くに尾賀が部屋を出ていくチャンスがあったのならば、何の問題もありません」
「尾賀にそんなチャンスがあったと?」
「ありました。八時半頃に、茂地が瞑想室に入ったという話がありましたよね。茂地と尾賀はそこで何か口論を起こし、その後、茂地が瞑想室を飛び出していった……たしか、そういう流れでした。ここで飛び出していったのは、本当に茂地だったんでしょうか? 茂地のローブは緑色でした。顔を見られないようにする必要はありますが、そのローブを着れば茂地になりすますことができたはずだ。つまり、“瞑想室から飛び出していったのは、緑のローブを着ただけの、尾賀だった”のではないか……と」
夕莉は笑った。
「おかしな話だね。どうして尾賀が茂地のローブを着ることになったんだい? 二人は口争いの最中で、仲良く衣装交換というわけにはいかなかったはずだけど」
「口論まで含めて、二人で打ち合わせしていたんです。『部屋から飛び出していったのは茂地である』と誤認させることが、茂地と尾賀の狙いだった。わざわざローブを交換したのもそのためだ。外にいる朱音に口論を聞かせ、その後、緑のローブを着た尾賀が飛び出していく。これで朱音は、部屋の中にいるのが尾賀で、飛び出していったのが茂地であると誤解する。もちろん、万が一誰かに顔を見られてはいけないから、念のためフードを被っていたわけです。その上で勢いよく部屋から飛び出していけば、顔をしっかりと見られることはまずありません」
フードのことは、劇中で夕莉が証言していたことだ。目の前にいる夕莉はというと、まだ満足した様子ではない。
「それはそれで、また別の疑問が出てくるね。どうして尾賀と茂地は結託してそんな真似をしたんだい?」
もちろん、それについての答えも用意してある。
「おそらく……“片倉を殺すため”です」
「……なぜ?」
「片倉は、尾賀のことを自分が昔取材していた詐欺師ではないかと疑っていました。そしておそらく、その疑いは真実に的中していた。きっと尾賀の占いというのも、詐欺師としての技術を上手く利用して評判を得ていたんじゃないですかね。片倉本人は、それを確かめたかっただけで特に公表するつもりはないと言っていましたが、尾賀からしてみれば信じられたものじゃない。バレてしまえば、今まで築いてきた占い師としての自分の地位は台無しだ。そこで尾賀は、自分の素性に感づいている片倉を危険視して、消してしまおうと考えた。尾賀には、夕食後は瞑想室の中に籠もるという習慣があったので、それをアリバイ確保に利用しようとしたんです。朱音に『尾賀はずっと瞑想室の中にいた』と誤認させることでね。茂地はそれに協力させられたというわけです。その場合茂地にアリバイはなくなってしまいますが、客観的に見れば茂地と片倉は占いの客として偶然居合わせただけの他人同士。捜査が始まっても疑われるリスクは尾賀に比べて低いでしょう」
「尾賀の動機については理解できるけど、茂地はどうして彼に協力する必要があるんだい?」
まだまだ、弾は撃ち尽くしていない。
「尾賀と茂地はそもそも、占い師としての仕事でも協力し合っていたんじゃないでしょうか。尾賀の館で占いが行われるとき、茂地は毎回のように客として参加していたようですから。これは想像ですけど、例えば、茂地が客の中に紛れ込んで他の客から情報を集めておき、後で尾賀にそれを伝えることで占いの精度を上げようとした……とか、そんなところかな。やってることはインチキそのものですけどね。たぶん、茂地は尾賀が詐欺師だった時代の仲間かなにかだったんじゃないかと思います。それで互いに持ちつ持たれつの関係だった。まぁ、殺人に協力しろと正直に言ったら茂地もさすがに抵抗を示すでしょうから、そこは適当に誤魔化したのかもしれませんが」
伏線というほどではないが、片倉は取材していた詐欺師について説明する際に、『詐欺師時代に組んでいた仲間とは縁を切っていたようだ』と言っていた。茂地がその仲間の一人で、今でも関係を持ち続けていたとしてもおかしくはないはずだ。
「ふむ……そこまではいいとしよう」夕莉は更に質問する。「しかし、実際に死んだのは片倉ではなく、尾賀だったんだよ? そのあたりをどう説明するんだい? 殺されそうになった片倉が、返り討ちにしたとでも?」
「いいえ。片倉は犯人じゃありません。尾賀は、茂地と入れ替わった後で一度、茂地の部屋に入ったんです。何かの準備をするためか、あるいは片倉が部屋に不在だったのでタイミングを改めようとしただけなのかはわかりませんが、とにかく一時的に身を隠した。自分の部屋ではなく茂地の部屋だったのは、出入りのタイミングで他人に見られても怪しまれないようにでしょう、尾賀は緑のローブを着ていますからね。茂地の部屋へ入って、そこで……尾賀は殺されたんです。犯人によって、窓の外から銃撃を受けてね。窓のガラスが割れていたのはそのせいだ」
「“本当の殺害現場は茂地の部屋だった”と?」
「そうです。遺体が移動させられたというのは早いうちからわかっていたことですからね。それに、遺体が中途半端に濡れていたのもそれで説明がつく。尾賀はうつ伏せに倒れて、部屋の中には、窓の割れた限られた範囲でしか雨は吹き込んでこなかった。だから遺体の濡れている場所と濡れていない場所が分かれていたんです」
「なるほど。その後、犯人は遺体を物置へ動かしたんだね?」
夕莉が先を読むように言う。冬吾は不敵に笑って、首を横に振った。
「俺を誘導するつもりですか? その手は食いませんよ。もちろん……遺体は犯人が動かしたのではありません」
夕莉も肩をすくめて笑った。
「ふふっ、さすがにこれには引っかからないか。いいだろう……続けて?」
「はい。“遺体を動かしたのは犯人ではなく、茂地”のはずです。尾賀と入れ替わっていた茂地は、元々、どこかでもう一度入れ替わる必要がありました。瞑想を終えた後で部屋から出てくる尾賀の姿を朱音に見せないと、トリックの効果が薄いですからね。その入れ替わるタイミングというのが、九時半……コーヒーを淹れに、朱音が瞑想室の前から離れる瞬間だったんです。尾賀は予め、朱音に九時半になったらコーヒーを用意するように言いつけておきました。計画通りなら、尾賀が片倉を殺害した後、諸々の隠蔽工作を施した後で瞑想室の近くに待機、朱音が部屋の前から離れたところで茂地が部屋を出て、尾賀が部屋に入る、その際にローブも元通りに交換……そんなところだったんじゃないかと思います。しかし実際には尾賀はそのとき死んでいたので、茂地は尾賀と交換した白いローブを持ったまま、自分の部屋に戻るしかなかった。どうして尾賀が姿を現さないのか不思議に思っていた茂地は、自分の部屋に戻って更に驚いたはずです。その尾賀が、死体で転がっていたんですからね。茂地はとにかく慌てました。殺人には関与していなくても、その状況と茂地のこれまでの怪しい行動を説明して、他の人に信じてもらえるとは思えなかった。だから、自分の部屋に死体が転がっていたという事実を隠してしまうため、死体を移動させてしまうことにしたんです。もちろん、尾賀が緑のローブを着たままでは自分が疑われてしまうので、それは脱がして白のローブと一緒にどこかに隠しておいた。緑のローブの背中には弾丸が撃ちこまれた跡や血の跡が残っているため、自分で着ることもできなかったんです」
茂地だけがローブを着ていなかったのは、そのためだ。
「尾賀の遺体は、茂地によって物置に移動されました。たしか、茂地の部屋と物置は近い位置だと誰かが言ってましたよね」
「物置内での調査時に、火野が言っていた。茂地に『何か物音を聞かなかったか?』と尋ねるシーンだ」
夕莉の補足を得て、冬吾は頷く。
「遺体を移動させたまではよかったものの、それで一安心してしまった茂地は気の緩みからか、物置の扉をきちんと閉めていくのを怠った。扉は中途半端に開いた形になり、それが後で片倉によって遺体が発見されるきっかけになります。それはそれとして、その後、茂地は自室の割れてしまったガラスを片付け、遺体のあった場所に残った血痕も拭き取った。これで一応は、遺体が自分の部屋にあった痕跡を抹消できたわけです。まぁ、詳しく調査すれば簡単にわかることだとは思いますけど」
「ふむ……尾賀と茂地は結託して片倉を殺そうとしていた。しかし尾賀は犯人によって殺害され、その遺体は茂地が物置へ移動させた……か。一応、今までの推理には筋が通っているね。しかし肝心の、犯人についての説明がまだされていないようだが?」
「もちろん、これから説明しますよ」
さぁ、ここからが佳境だ。
「問題編のラストで、火野が凶器の銃と、ハンカチを見つけましたよね。ハンカチは尾賀の所有物で、銃を包むようにしてあった。あれに一体何の意味があるのか? それを考えていけば犯人の正体に行き当たります。犯人が茂地を殺害した状況について、推測しながら再現してみましょう。犯人は予め用意しておいた拳銃を手に、館の外から回り込んで茂地の部屋の窓辺に辿り着いた。部屋の中には、緑のローブを着た尾賀がいた。犯人は尾賀の背中へ向かって二発発砲して殺害、発砲音は雨の音と壁の厚さで問題にならないと踏んでいたんでしょう。ここで一つ疑問が浮かび上がる。犯人は本当に、尾賀を殺害するつもりで撃ったんでしょうか? そもそも尾賀が片倉殺害を計画し、茂地とローブを入れ替えることになったことを、犯人が知っていたとは思えない。であるならば、茂地の部屋にいた、緑のローブを着た男を窓越しに見た場合……その男のことを茂地だと認識するのが普通じゃありませんか? 背中を撃たれていたということは、犯人は尾賀の顔を見ていない可能性だってある。つまり、“犯人は茂地を殺すつもりだったが、間違えて尾賀を殺してしまった”んです」
夕莉は手を上げて冬吾の説明を中断させた。
「少々、推測に依りすぎじゃないかな? それを裏付ける証拠がないと、推理としては弱いね」
「証拠はハンカチですよ。あれは本来、尾賀に茂地殺害の罪をなすりつけるために犯人が用意したニセの証拠品だったんです。犯人は、茂地と尾賀が口論していたのを知って、尾賀には茂地を殺す動機があると思い込んだ。先に説明したように、口論そのものが二人の自作自演ではあるんですが、犯人はそんなことを知る由もなかった。犯人は食堂に尾賀がハンカチを置き忘れていたことを思い出して、回収。発砲時に一緒に握っておくことで火薬の匂いを染みつけた。それを見つけやすい場所に凶器の銃と並べて置いておくことで、尾賀が犯人であると皆に印象づけようとしたんです。死んでいたのが茂地ではなく尾賀だったり、遺体が茂地の部屋ではなく物置で発見されたりで、事件の前提が犯人の想定していたものとは大きく違っていたので、その工作は結局意味を為しませんでしたけどね。しかし、それが気づいても犯人にはハンカチを回収しにいくタイミングがなかった」
遺体発見後は、途中で茂地が部屋に戻った以外、全員が一緒に行動していた。単独で行動しようとすれば怪しまれる状況、犯人にとっては、解散を待ってからハンカチを回収にいくしかなかったはずである。
「よって――その無意味な偽装工作があったということそのものが、犯人が大きな勘違いをしていたという証拠になります」
夕莉はただ無言で頷いた。あともう一息だ。
「ここまでで、犯人について重大なことが明らかになりました。犯人は物置で実際に尾賀の遺体を見るまで、自分が殺したのは茂地だと勘違いしていたことになります。そのことを匂わせる発言をしていた人が、一人だけいました。その人物は、片倉が死体を見つけたと談話室に駆け込んできた際、こう言っていました。『心臓の発作で倒れているだけではないのか』と。俺も最初にその言葉を聞いたとき、妙だなと思ったんです。病気で倒れているのかも、というだけならばともかく、『心臓の発作』と具体的な症状を挙げるのは少し変だ。尾賀が心臓病を抱えているだなんて説明はありませんでしたからね。まぁそれだけならよかったんですが、後になって、茂地は心臓が悪くて薬を服用しているという情報が出てきた。こうなったら、少し変だな、で済ますわけにはいきません。談話室に駆け込んできたあの時点で、片倉は物置に倒れていた人物の顔をよく見ておらず、被害者が誰なのかはわかっていなかったんです。それにも関わらず、その人物は『心臓の発作』と、明らかに被害者を茂地と結びつけた発言をしています。犯人しか知りえないことを――といっても、それは勘違いだったんですが――うっかり口に出してしまった。たしか、秘密の暴露……というやつでしたっけ?」
夕莉に尋ねると、彼女は笑って答えた。
「その通り……だが、それだけで犯人だと決めつけるのは少々乱暴じゃないかな? その人物が茂地と被害者を結びつけてしまったのは、予め茂地が心臓病であるという話を聞いていたことからの無意識的な偶然とも考えられる」
「うっ」
た、たしかに……。火野以外の全員が、夕食の際に茂地の心臓病については知っていた。夕莉の言うように言い訳されてしまえば、推理だけで犯人を追いつめることはできない。
「私なら、もう一押しほしいところだね」
そこまで言うからには、あともう一つくらい何かあるのだろう、犯人を決定づける根拠が。着眼点は悪くないはずだ。この事件で着目すべき点は、犯人の想定外のところで状況が変化していることだ。犯人にはどこかで認識のズレがあったはず、それがわかるような場面はなかったか……?
「…………あ、そうか!」
思い出した! あの場面、犯人は続けてボロを出していたんだ……!
冬吾は咳払いしてから、夕莉へ向かって不敵に笑ってみせた。
「……では、お望み通り、もう一押ししてみましょう」
撃てる弾はこれで最後、果たして夕莉は認めてくれるだろうか?
「その人物は、『心臓の発作』と口を滑らした直後に、こうも言っています。『急に停電になったわけでもないのに』……まぁ、正確に記憶しているわけではないんですが、そういうようなことを言っていたはずです。その発言の通り、館で停電が起こったという事実はありません。そんな描写は全くありませんでしたからね。しかしこの台詞の問題点は、『部屋が暗かったから、倒れていた人物の生死を確かめられなかった』と片倉が言った後に発言されたものだということです。片倉の言うとおり、物置の中は電灯を点けないと、暗くて中の様子はよく見えませんでした」
それに加えて、遺体は物置の奥の方にうつぶせで転がされていた。しかも、足を入り口側に向けて。入り口近くから見ただけでは、それが誰なのかまではわからないだろう。
「遺体を見つけた片倉は驚いてしまって、落ち着いて壁際にある電灯のスイッチを探す余裕もなかった……ということだったんでしょうが、犯人はまったく別のことを考えていたんです。『停電』というフレーズを使ったことからも、それは察せられる。停電が起こって部屋が暗くなったというなら、その部屋は元から明かりが点いていたということになりますよね。しかし、実際の遺体発見現場である物置の明かりは消されていました。偽装工作に遺体を移動させた茂地は、きちんと電灯のスイッチを切っていたんです。そもそもあの時点で、片倉は遺体発見現場が物置であるとは言ってませんでした。……きっと犯人にとって、片倉の説明は意味不明だったに違いない。だって、“犯人にとっては、遺体は物置ではなく茂地の部屋に転がっているはずだった”んですから。だから犯人は、片倉が説明する前から、彼が遺体を見つけたのは茂地の部屋でのことだと思い込んでしまった。犯人は殺害を実行した後、茂地の部屋の明かりは点けっぱなしにしていたはずです。窓の外から撃った後、わざわざ部屋に入ってまで明かりを消す必要はありませんからね。だから、片倉が部屋の中を覗いたとき、停電でも起こっていない限りは『暗くて倒れていた人物の顔がよく見えなかった』というのはあり得ないことだったんです……犯人にとってはね。だから、『停電』なんていうまるで的外れなことを口にしてしまった。たしかに、『心臓の発作』だけなら偶然とも考えられます。しかし、『停電』も加わるとどうでしょう? ……偶然は二つは重なりません」
そこで冬吾は一度言葉を切り、次の言葉で解答を締めくくった。
「――犯人は、それらの発言者である森坂だ。……違いますか?」
夕莉は黙ったまま、まじまじと冬吾を見つめる。僅かに緊張感が走ったが、やがて彼女は穏やかに笑い、拍手をした。
「見事だよ、冬吾。文句のつけようもない、素晴らしい解答だ」
「よ、よかった……」
これで恥をかかずに済んだ。夕莉は頭に手をやりつつ言う。
「まさか君に、こうまで見事にやられてしまうとはね……」
「そのわりには、嬉しそうに見えますけど?」
「もちろん、嬉しいよ。私が丹精込めて仕掛けた数々のメッセージを、君は尽く読み解いてくれたのだからね。これは一種の、会話を越えたコミュニケーションじゃないか。ああ、これほど嬉しい気持ちになることは、そうそうあるものじゃないよ」
そこまで言われてしまうと、少し照れる。しかし夕莉が喜んでくれたのならよかった。
「犯人の森坂は、妹を亡くしているんだ。冒頭で流れた、ニュースの音声を覚えているかい?」
行方不明だった女子大生が遺体で見つかったというニュースのことだ。自殺だったという。
「ええ。となると、動機はその復讐ですか?」
「そう。妹は茂地が過去に行った詐欺によって被害を受け、苦しんだあげくに自殺を選ぶ羽目になった。それを知った森坂は、妹が死ぬ原因を作った詐欺師の情報を必死に集め、茂地の関与する占い詐欺に辿り着いた。そこで占いの客のふりをして潜り込み、茂地を殺そうとしたわけだ」
しかし、森坂が実際に殺してしまったのは尾賀だった。犯人が標的を間違えたのではないか……ということに気がつけたのは、キバに対して似たような作戦を使ったばかりだったからというのが大きい。あのときは襟首に仕込まれていた発信機を、舞台でのローブと同じような使い方をしたわけだ。案外、作戦を考案した禊屋も舞台のほうから着想を得ていたのかもしれない。
「それにしても……」
夕莉は、しみじみと思い返すように言う。
「初めてこういうものを書いてみて、大変ではあったが……それだけの見返りはあったのかもしれないな」
「あの……少し気になったんですけど」
「ん?」
冬吾は昼からずっと気になっていたことを尋ねてみる。
「先輩ってたしか、前にも小説書いてたことありましたよね? いや、舞台の台本とはまた別物だから、そのことを初めてって言ったんだろうとは思いますけど」
「っ……!」
夕莉はぱちくりとまばたきを繰り返すだけで、黙ったままだった。あれ? なにか変なこと言ったか……?
「えっ……うぇぇ……?」夕莉はワンテンポ遅れて、彼女らしくもない変な声を出して驚く。「嘘……覚えてた、の……?」
「まぁ、覚えてますけど……。俺が中二の頃に先輩が貸してくれたノートの後ろに書いてあったやつですよね。そういえば、あれも占い師が殺される話で――」
「うわ、わ、わ、やめろやめろ! いいからっ、そんなの説明しなくていいから! 恥ずかしいからやめてくれ!」
取り乱したようにぶんぶんと手を振って夕莉が制止する。
「す、すみません。恥ずかしい……んですか?」
「じゅ、十四歳の頃に書いたものだぞ。普通……そんなの……恥ずかしいに決まってるだろぅ……」
夕莉は消え入りそうに小声になっていく。そうか……昔作ったものの話をされるのは、普通、恥ずかしいものなのか……知らなかった。
「……そうだよ」
夕莉は息を整えつつ言う。頬にはまだ僅かに紅潮が残っていた。
「そうだよって……なにが?」
「だから……今回のも、君に見られた昔の小説も、どちらも占い師が殺される話なんだ。当然さ。今回のシナリオは、それを原型にしたものなんだから」
「あ……そうなんですか」
「といっても、元から残った要素は殆どなくて、九割ほど別物になってしまったけどね」
「へぇ……でもあの小説が原型になってるってことは、俺は五年ぶりにあの小説の続きを読めたんですね。読んだというより、観た、ですか」
「……まぁ、そうなるかな」
「面白かったですよ。密かにずっと楽しみにしてた甲斐がありました。……なんて、ちゃんと舞台で解決編を観てから言ったほうがよかったですかね?」
夕莉は小さく笑うだけで、答えようとはしなかった。――やがて。
「そうそう……私も一つ、確かめておきたいことがあったんだ」
そう言って、夕莉は席を立った。
「え……? なんですか?」
夕莉は冬吾の真横まで移動すると、少し屈むようにして、顔を冬吾の首元に寄せてきた。互いの頬が触れあってしまいそうなくらいの距離だ。
「ちょっ……先輩!?」
「…………」
夕莉は黙ったまま数秒そうしてから、ゆっくり顔を上げた。今度は冬吾の隣りの席に座って、小さくため息をつく。先ほどまでと打って変わって、どこか思い詰めたような表情。何か説明があるものと思っていたら、夕莉が何も言い出そうとしないので、こちらから問いかける。
「……あの、今のはいったい?」
冬吾が尋ねると、夕莉は視線を合わそうとしないまま、一言だけ答えた。
「……ぶどうの匂い」
「……はい?」
「自分では気づいてないのか……君から、ぶどうの匂いがすると言っている」
「え……」
ぶどう味の汗が出る変わった体質というわけでもないから……思い当たることは、一つだけだった。夕莉は続けて話す――どこか、悲しそうにしながら。
「……警備員の人を連れて現場に戻ったときにね。同じ匂いを嗅いだ覚えがある。ほんの僅かな香りで、私でなければ気がつかなかっただろうが……あれは、私があそこの自販機で買ったぶどうジュースの匂いだ。ポーチを取りに行ってくれた君へのお礼のつもりだった。例の暴漢に襲われそうになった際に、落としてしまったんだけれど……」
どくん、と心臓が脈打った。夕莉が何を考えているのか、わかってしまったからだ。
「戻ってきたときには、ジュースの缶はどこにも見当たらなかった。でも、匂いはした。だからおそらく、あの場でジュースの中身がぶちまけられるようなことがあったんだろう。……これは、偶然なのかい? それならそうだと……言ってほしい」
夕莉は冬吾の目を見て、問いかける。
「冬吾……君は……」
「…………」
頼む、訊かないでくれ。言い訳を用意することはできる。偶然、同じジュースをさっき飲んでいてこぼしてしまったとか、言い繕うだけならいくらでも。しかし、自分のことをよく知るこの人を相手に、上手く誤魔化せる自信は全くなかった。
夕莉は冬吾の顔を見ながら言う。
「……訊いてくれるな、という顔だね」
そら見ろ、黙っていてもこの有様だ。
「私には教えられないこと……なんだね?」
「……すみません」
冬吾はうつむいて、それだけ答えた。うつむいたのは、夕莉の悲しそうな表情を見ているのが耐えられなかったからだ。夕莉のことを真に思うのならば、絶対に話すべきではない。しかし、それを隠そうとすること自体が、彼女を悲しませるとしたら……。
「……鶴の恩返し、という昔話がある」
夕莉は突然、そんなことを言い出した。たしか昼にも同じようなことを聞いた気がする。
「あの話の中で、鶴はどうして最終的に老夫婦のもとを去ったか……覚えているかい?」
「それは……機を織る自分の真の姿を老夫婦に見られたから、でしょう?」
「そう。自分の正体が人間の娘ではなく、鶴であると知られたから、もう一緒に暮らすことはできないと言ってね。――ところで、私はそれについて考えてみたことがあるんだけれどね。老夫婦が鶴の言いつけ通り、機を織る姿を覗こうとしなかったら、鶴と老夫婦はいつまでも一緒に暮らすことが出来たのかな?」
「え?」
「物語のバリエーションはいくつかあるけど、その大体において、老夫婦は鶴のことを実の娘のように可愛がっていたという描写がある。鶴のほうにも、可能なら老夫婦とずっと共に暮らしたかった、というような台詞があることが多い。だとすればやはり……老夫婦が鶴の機を織る姿を覗くことなく、両者がいつまでも共に暮らせる未来こそが、最も幸せな結末だったのではないかと、私は思う。そうして共に暮らしていればいつか、本当のことをちゃんとした形で話す機会があったかもしれないじゃないか。だから私は……必ずしも、真実を知ることだけが正しいとは思わない。そう……信じたい」
夕莉の前置きは回りくどくてわかりづらいが――彼女がそういう言い回しをするときはいつも、伝えづらくも大切なことを伝えようとするときだったように思う。夕莉は、冬吾へ優しげな声で言った。
「知らないほうが互いにとって幸せなこともある――そういうことだよね、冬吾?」
「あ……」
「それなら私は、訊かないことにしよう。探偵を気取って、君の秘密を無理に暴き立てたりはしないさ。謎は謎のままにしておくべきである、それが、機織り部屋の鶴……ふふっ、こういう言い方をすると、哲学用語みたいでかっこよくないかい?」
「…………」
本当に……この人には敵わない。なんと言って感謝の気持ちを伝えればいいのかも、わからなかった。……これではまるで、公園で励まされたあの時と一緒じゃないか。……でも、違う。不格好でもいい、今度は素直な気持ちを伝えられるはずだ。
「……ありがとうございます。それと、先輩」
「ん……どうした?」
「信じてくれというのも、無理な話かもしれませんけど……これだけは言っておきたいんです」
これが今、自分に出来る最大限。この人には、あんな恐ろしい思いを二度とさせたくない……心配する必要はないと、ただそれだけは伝えておきたいから。
「……先輩を襲おうとした奴は、もう二度と先輩の前に姿を現しません。だから……だからどうか、安心してください」
夕莉は一瞬だけきょとんとした様子だったが、やがて微笑んで言った。
「……――うん。冬吾の言うことなら、信じるよ」
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