裏稼業探偵

アルキメ

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case7 自白の鑑定

4 殺人実況

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「――まずは、古志川達夫が殺された状況について、わかっていることを確認しておきましょう」

 部下の一人が持ってきたノートパソコンを操作しつつ、灰鷹が説明を始める。

「その日、古志川は自宅に仕事の関係者を招き、立食パーティーを開いていました。五十人以上が集まる、ビジネス上の交流会のようなものだったとか。時間は六時から九時の予定。殺し屋たちは三人とも、この大勢の人間が集まるパーティーに紛れ込んだと供述しています。会場である屋敷には警備員がいましたが、さほど厳重な警備ではなかったようですね」
「古志川さんは、自分が殺されるとは想像していなかったってこと?」

 禊屋が尋ねた。

「無理もありません。我々を狙ってきた殺し屋には、偽りの報告をさせました。古志川は我々が既に死んでいると信じていたのです。よって、自分が殺される心配などしていなかったに違いない」

 多くの人間が集まるパーティー……全員が全員顔見知りというわけではないだろうし、無関係の人間が二、三人紛れていても気づく者はいなかったということか。ターゲットから警戒されることもなかったとなれば、殺し屋にとってはさぞかしやりやすかったことだろう。

「死体が発見されたのは、屋敷内の古志川の寝室。古志川は一度、休憩のためにパーティー会場のホールを出ています。会場になかなか戻ってこない古志川を心配した関係者が寝室に呼びに行ったところを、発見されたようですね」

 その情報はニュースでも報じられていたから間違いない。

「殺し屋たちの供述については、私が彼らから確認という体で電話で聞いた話をお伝えします。禊屋さんにはその供述と、それぞれの殺し屋たちが用意した『ターゲットを殺した証拠』を参考に、誰が本当に古志川達夫を殺したのかを考えてもらいます。よろしいですね?」

 禊屋はテーブルの上で手を組み、静かに答えた。

「前置きはもういいから……さっさと始めてくれる?」
「では早速」

 灰鷹は軽快な口調で続けていく。

「一人目は、『フライ』という殺し屋です。Dランクの新米ヒットマンで、今回の三人の中では一番の若手。彼は実にユニークな証拠を送ってきてくれました。若者らしい発想、と感心すべきなのかどうか……」

 灰鷹は苦笑して肩を軽くすくめる。ユニークな証拠とは、どういう意味だろうか?

「まぁ、言葉で説明するよりは、そちらを見ていただくほうが手っ取り早いでしょう。これは、フライからあるファイル転送サービスを介して送られてきたものです」

 そう言うと、ノートPCの画面を禊屋に向けて何かの映像ファイルを再生し始める。

 まず最初に画面に映し出されたのは、高級そうな絨毯のひかれた廊下。落ち着いた乳白色の壁に、寄りかかるようにしているスーツ姿の男の腰から下が映っている。どうやらこの男が映像の撮影者のようだ。

『――オーケー? 映ってる……よな?』

 若い男の声。撮影者の声だろう。映像中の視線の高さと撮影者の両手が映っていることから、どうやら服の胸のあたりに小型のカメラを付けているようだ。

『よーし。こちらフライ。現在位置は古志川邸内。ターゲットを殺した証拠が必要らしいんで、この映像を撮ってまーす』

 ……なるほど、そういうことか。たしかにこれは、ある意味ユニークだ。ユニークだが、それ故におぞましくもある。これにはさすがの禊屋も、呆気にとられたようだった。

「これって……」

 禊屋が質問する前に、灰鷹が自ら説明を始める。

「お察しの通りです。このフライという男は、古志川を殺した証拠として殺人の瞬間を映像に収めようと考えた。まるで……いや、スナッフムービーそのものですね」

 殺人実況動画――というところか。よくもまぁ、おかしなことを考える。だが、ターゲットを殺した瞬間が映っているのなら、証拠としてはかなり有力なものになるのではないか?

 映像の中のフライは、映像を見ている相手へ向かって説明するように話している。

『えーっと、ターゲットは現在、自室に戻ろうとしている模様……』

 フライはそう言って胸元のカメラを一度手で取り外すと、廊下の折れ曲がった先からカメラを持った手だけを出し、視聴者にその光景を見せた。

 ――廊下の突き当たりにある部屋の扉の前で、二人の男が話をしている。

 一人は先ほど写真で見た古志川達夫その人だ。もう一人は古志川より一回りほど年下のように見える。恰幅のよい古志川とは対照的に、細身の男だ。二人ともパーティ用の礼装をしている。

『――ああ、三十分ほど休んだら戻るから……。それまではお前のほうで場を繋いでおいてくれ。もし十分以上遅れるようなら呼びに来てくれるか』
『わかりました、社長』

 会話の内容と互いの態度から察するに、細身の男は古志川の部下かなにからしい。部下らしき男は、どこか不安そうな面持ちで話している。

『しかし……本当に大丈夫なんですか? 念のために、部屋の前に警備の者を立たせておいたほうがよいのでは?』
『なぁに、気にすることはない』

 古志川はおおらかに笑った。

『例の件ならもう片付いたと言っただろう。心配するな。それに、部屋には四、五年前に仕入れたアレが……いや、まだ使えたかな……? だいぶ前に仕舞ったきりだったが……』

 古志川は何かを思い出そうとするように顎を撫でる。

『あのう……?』
『ん……ああ、気にするな!』

 声をかけられると、古志川はまた笑って部下らしき男の肩をぽんと叩く。

『とにかく、心配する必要はない。それより眠気がひどいんだ。早く休ませてくれ。着替えもしておかないといかんし』

 そう言って、古志川は右手を上げてみせた。遠くて少々わかりづらいが、ジャケットの下に着た白いシャツの右袖口に、赤い染みが広がっていた。

「――パーティの最中、古志川はワインをこぼしたそうですよ。フライが話していました」

 灰鷹が説明する。すると、あの赤い染みはワインの染みなのか。

『すみません。では、会場のほうはお任せください』
『頼んだよ』

 部下らしき男は丁寧に頭を下げてから、そばの通路へと消えていった。古志川も部屋の中に入っていく。

 カメラが元の場所に戻って、またフライの正面を映す。

『――んじゃ、とりあえず今回使う道具の紹介。パーティーの会場は庭に面した広間だから、こっちの通路には殆ど人はいないっぽいんだけど、さすがに屋内で銃声を響かせるのはまずい。警備員もいるしね。そこで、用意したのがコレ』

 そう言って、フライは右手に持った武器をカメラに見せる。それは小ぶりの金槌だった。爪のような形をした釘抜きが付いている、ネイルハンマーと呼ばれるものだ。

 長さは三十センチほどだが、ずっしりとした質量を映像越しにも感じる。頭部を狙って殴打すれば、充分殺害は可能だろう。

 フライはこの金槌を使って、ターゲットを撲殺するつもりでいるらしい。

『そんじゃあ、始めますか』

 そう言って、フライが動き出した。古志川が入っていった部屋の前まで進み、ゆっくりとドアノブに手を伸ばす。

『おっと』

 ノブを回すが、扉は開かない。部屋の内側から鍵が掛けられているようだ。これでは部屋に押し入ることはできない。どうするつもりなのだろうか……と思っていると、フライは一度咳払いし、それから突然、扉を強くノックし出した。

『社長? 申し訳ありません。一つ確認しておきたいことがありまして……』

 ……驚いた。フライの発した声は、先ほど古志川と話していた男の声にそっくりだったのだ。声帯模写というやつだ。あの少しの会話を聞いただけで、こんなコピーができるものなのか。

『なんだ?』

 部屋の中から声が返ってくる。フライは左手に金槌を持ち、構え――扉の鍵が中から開かれるのとほぼ同時に、右手でノブを掴み扉を押し開けた。

『っ!?』

 驚愕する古志川の額に、金槌の一撃が振り下ろされる。古志川が呻き声をあげつつ後ろへよろめくと、それに合わせてフライは部屋に入った。後ろ手に扉を閉める音がする。

 額を手で押さえている古志川へ向かって、フライはもう一度金槌を振るう。今度は古志川の右側頭部を強打。そのまま古志川は床に手をつき倒れこんだが、そこへ追い討ちをかけるように二度、三度と頭部へ向かって金槌を振り下ろした。

 古志川が動かなくなったのを確認して、フライが言う。

『……はい、おーわりっと。へへ、ラクショーだぜ』

 まるでテレビゲームの感想かなにかだ。映像の向こうで殺人が行われたというのに、ひどく現実感がない。

 古志川は扉側にいるフライのほうへ頭を向ける形で、絨毯の上でうつ伏せに倒れていた。後頭部には少量ではあるが、出血も見られる。古志川の身体が横たわるのは、部屋のほぼ中央だ。

 カメラがゆっくりと動く。フライが安全を確認するように、周囲を見回しているらしい。

 フライの立ち位置から見て左手側奥には、綺麗に整えられたベッドが見える。ここが古志川の寝室なのだろう。奥側にベッドのヘッドボードがあり、その上にデジタル式の卓上時計が置かれていた。目覚ましの機能も備えてあるのだろう。時計の液晶には『19:46』と時刻が表示されている。ベッドの手前側はクローゼットのようだ。

 正面にはボックス型の引き出しなどがあった。引き出しはそこそこ大きな全五段式で、大人の胸元くらいの高さがある。すべての段が閉じられており、上には本がずらりと並んでいた。遠目でタイトルまではよくわからないが、分厚い本が多い。

 右手側には引き違いの格子窓。窓のすぐ向こう側には、低木が植わっているのが見えた。

 古志川と窓の間には、サイドテーブルと椅子が置かれている。テーブルの上には家具メーカーのものらしき写真付きのカタログと、緑色のカバーをした一冊の本が横向きに乗っていた。本は七、八センチはありそうなほど分厚い。表紙には『PLUTO』というアルファベットが大きく書かれていて、その下に『プルート独和辞典』とあった。どうやらドイツ語の辞書のようだ。引き出しの上に並んでいる本の中から取りだされたものだろう。隣りに置いてあるカタログはドイツ語で書かれているらしく、古志川の仕事に関わるものと見るのが妥当か。

 周囲を確認し終えてから、フライの手がカメラに伸びた。

『――さてと。じゃあ、この映像が古志川を殺した証拠ってことで。よろしくお願いしますよ、へへ……』

 そこで、映像は終了していた。





「どうです? 驚かれたでしょう?」

 灰鷹は薄笑いを浮かべて言った。禊屋は考え込むように眉間を人差し指でなぞりつつ、

「古志川さんは金槌で頭を殴られて殺された……。今の映像を見る限り、それしかないように思えるけど……問題はそう単純じゃない、ってことだよね?」

 灰鷹は満足気に頷く。

「さすが、察しが良いですね。まぁ、それについては二人目、三人目の話を聞いていただければ、追々わかっていただけるでしょう。まずは、フライがどのような経緯であの奇怪な殺しに至ったのか……それをご説明します」

 続いて、灰鷹はフライ本人から電話で聞いたという供述について、話し始めた。

「フライは古志川を殺害するため、パーティに潜り込みました。どこからパーティの情報を聞きつけたかは知りませんが、何かしら伝手があるのでしょう。凶器である金槌は腰元でズボンの間に挟み、背広で隠しておいたそうです。会場である広間にて、フライは遠目から古志川を見張っていた。さすがに衆人環視のもとで殺すのはリスクが高すぎるという判断でしょう。しばらくして、古志川が会場から抜け出すのを見て、チャンスだと思ったフライは後をつけました。後はご覧になったとおり。自室に戻った古志川を金槌で殴打、殺害した……というのが、彼の証言です」
「殺した後は、どうしたの?」

 禊屋が尋ねる。

「とくに何もせず、その場を後にしたようです」
「死体が見つかって騒ぎになる前に、屋敷から逃げ出したんだね?」

 灰鷹は頷いた。

「他にご質問は?」
「……いや。今はいい。先に二人目の話をしてくれる?」
「わかりました。では、次にいきましょう……」

 灰鷹はテーブルの上に置いてあった二つの大判封筒のうち一つを手に取りながら、二人目の殺し屋の供述について話し始めた。

「二人目は、『ワシバナ』というコードネームで呼ばれる男です。ランクはC。私は直接会ったことはありませんが、その名の通り大きな鼻が特徴のようです。まぁ、殺し屋の見た目などはどうでもいいですね。本人の供述によれば、彼は寝室で古志川を殺害したそうです」
「寝室って、古志川さんの?」
「はい。今さっきお見せした映像に映っていた、あの部屋ですね」 

 死体は古志川の寝室で発見されたのだから、死体が動かされたのでなければ殺害現場も寝室になるのは当然ではある。同じ部屋で、同じ人物が殺された……違うのは、犯人だけ。なんとも奇妙な状況だ。

「ワシバナは予め、寝室を殺害場所にすることを決めていたようです」
「どういうこと?」
「フライと同じく、殺害するなら人目につかないところで、と考えたのでしょう。そこで、前もって古志川の寝室の位置を調べておき、そこへ彼を誘導した」

 誘導と言ったって、そんなのどうやって? 禊屋も同じ疑問を持ったようだったが、灰鷹は問われる前に説明する。

「方法は単純です。パーティの最中、隙を見て古志川が飲んでいたワインに睡眠薬を混ぜた……それだけのこと。睡眠薬を飲んだ古志川は眠気を催し、寝室へ休みに行くだろうと踏んだわけです。そして実際、その読み通りとなった」

 フライの映像中で、古志川が眠そうにしていたのはそのためか。袖口にワインをこぼしていたのも、眠気でぼんやりしていたからなのかもしれない。

「その後ワシバナは会場から抜け出し、屋敷の外側から寝室へ近づきました。先ほどの映像の中で、寝室に格子窓が見えましたよね? あのすぐ外で、古志川が来るのを待ち構える計画だったそうです」

 窓の外というと、低木の植わっていた場所だ。あの木の後ろにでも隠れていたのだろうか?

「ん……ちょっと待って」

 禊屋が、何かに引っかかったような口ぶりで制止する。

「古志川さんが寝室へ来るのを待っていたってことは……さっきのフライって人の姿を見たんじゃないの?」

 たしかに、窓の外近くで隠れていたのなら、フライが部屋に押し入って古志川を殴りつける瞬間を目撃していたはずだ。しかし灰鷹はかぶりを振って、

「いいえ。寝室で古志川以外の人間を見たとは聞いていません。警備員の巡回をやり過ごすのに手間取ったと話していたので、すれ違いになったというところでしょう。古志川を待ち構えるという計画ではあったものの実際は、ワシバナが窓の外に到着したときには、既に古志川は部屋の中にいたそうですから」

 灰鷹はさらに付け加えるように言う。

「ちなみに、殺し屋三人からは一人ずつ電話で話を聞いたのですが……私からは、当人以外の殺し屋についての情報を話してはいませんよ」
「ええっと、それは言い換えると……それぞれの殺し屋たちは、自分以外に古志川を殺したと主張している者がいるとは知らされていないないってこと?」
「はい。実際、今回話を聞いた三人は全員、他の殺し屋の存在について言及していませんでした。お互いに現場で出くわすようなことはなかったのでしょう」
「まぁ、現場で他の殺し屋と会っていたら、自分の証言が正しいことをアピールするためにも何かしらの言及をするはずだからね。そこでわざわざ嘘をつく理由があるとも思えないし……」

 禊屋は眉間を指でこすりつつ、考え込む。

「……でも、やっぱり妙だなぁ。暗殺に成功した当人はともかくとして、それに便乗した偽者二人は、自分の他に殺し屋がいたことを間違いなく知っていたはずなのに。いや、むしろこっちがそう考えることを見越して、あえて言及しなかったのかな……?」
「いずれにせよ、暗殺を達成できたのは三人のうち、一人だけ。その前提がある以上は、下手にこちらから情報を与えると、それに合わせて嘘を修正されてしまう可能性がありました。他の殺し屋について情報を与えていないのは、そのためです」

 なるほど。殺し屋たちが話すそれぞれの証言を照らし合わせて考えれば、誰が嘘をついているのかがわかるかもしれない。そのためには、こちらが持っている情報上のアドバンテージは確保しておきたい、ということだろう。

 禊屋は横髪の毛先を弄りつつ言った。

「でも、さっき見たあの映像が存在する時点で、フライが古志川さんを殴ったのは間違いない。編集や加工であんなものは作れないだろうし。だとすると、彼が嘘をついた可能性として考えられるのは一つだけ……」

 そこで考え込むように視線を落とし、

「つまり……古志川さんはフライに殴られたあの時点では、まだ死んでいなかったという可能性」

 灰鷹は頷いた。

「ええ。フライは古志川達夫を殴ったが……殺せてはいなかったのかもしれない。フライは殺し屋としては新人だったからなのかもしれませんが、古志川の脈を確認することを怠っていました。古志川は少しの間気を失っていただけで、目を覚まし起き上がったところをまた別の殺し屋に殺された……そうとも考えられる、ということです」
「でもそれは、古志川さんの死因がわかればはっきりするんじゃない? ワシバナって人も古志川さんを殴り殺したと証言したの?」

 灰鷹は「いいえ」と返して、

「ワシバナが使った凶器は拳銃です。ロシア製のモデルPM……すなわちマカロフ。日本に輸入されているものとしては、珍しくもない銃ですね。たしかに死因が撲殺か銃殺かわかれば、どちらが嘘をついているかははっきりするでしょう。しかし、そう都合良くはいかないワケがありまして」
「ワケって?」
「この事件、警察から伝えられている情報が制限されているようで、事件の詳細については報道されていない内容が多いのです。わかっているのは最初にお話しした、寝室から戻ってこない古志川を心配したパーティー関係者が、彼の変死体を発見したということくらいで。もちろん、死因についても不明です。我々にはそれを知る手段がない」

 たしかに、事件そのものはニュースで何度か取り上げられていたようだったが、どれも被害者の死因については触れていなかった。他殺の疑いが強い、という報道のされ方だったことは記憶しているが。

 灰鷹はふと思い出したように、口元に手を当てて言う。

「もしかしたら……警察にとっても直接の死因がなんであるのかは、まだ掴めていないのかもしれませんが」
「なにか心当たりでもあるの?」
「あるといえばあるのですが……まぁ、そのことについては後でお話しましょう。今は、被害者の死因を参考にすることはできない、とだけ念頭に置いておいてください」

 説明の都合なのかもしれないが、灰鷹はいちいち勿体ぶる。禊屋は深くは追求せずに、また新たな考えを口にした。

「そう……。じゃあフライが実は暗殺に失敗していたとしても、フライ自身は嘘をついているつもりはないのかもしれないね。報道でも事件の詳細は伏せられているんだから、フライは自分が古志川さんを殺したと信じきっている……とも考えられるし」
「彼の場合は、あり得るでしょうね。電話で話したときも、いやに自信満々でしたし」

 そこで、禊屋はふと何かに気がついたように息を小さく吸い込み、呟いた。

「信じきっている……? じゃあ他は……」
「……なにか?」

 灰鷹の問いかけに禊屋はかぶりを振って、

「……いや、なんでもない。続きをお願い」

 灰鷹は頷き、ワシバナの供述について続ける。

「ワシバナが窓の外に到着したとき、古志川は既に寝室内にいました。ワシバナは予め窓に施してあった細工を利用して、寝室内の古志川を射殺したそうです」
「窓の……細工?」

 禊屋が問いかけると、灰鷹はノートPCを操作し先ほどのフライの映像をもう一度見せる。

 カメラが窓の方向を向いたところで一時停止し、

「窓をよくご覧になってください。映像中ではわかりづらいですが……格子窓の鍵に近い部分のガラスがこの時点でなくなっています。ワシバナは古志川を誘い出す前に、予めここのガラスを取り除いていました。割り方を工夫すればガラス片を室内に残すこともありません」

 言われてよく見てみると、たしかに、引き違いになった窓の鍵近く、格子の一つにガラスがはまっていない部分がある……ような気がする。かなり注意深く見ないとわからないレベルだ。部屋の中に入ったフライでもおそらく、気がついてはいなかっただろう。

「ワシバナの計画では、睡眠薬を盛られた古志川がベッドで寝静まった後、このガラスを取り除いた部分から窓の鍵を開け、音もなく部屋に侵入し殺害……そういう手順だったようです。実際は、そうはならなかったようですが」
「そうならなかった?」
「古志川がなかなかベッドに入ろうとしなかったので、もたついているうちに警備員が再び近くを巡回してきそうになったとか。ですので、仕方なしに部屋の外からそのまま射殺したそうです。窓ガラスを取り除いていた部分から銃口を向け、古志川の頭部に向けて発砲、一発で片がついたとのこと。その後すぐに寝室前から離れたので、警備員は気がつかなかったようですね」

 灰鷹は手に持っていた大判の封筒から二枚の写真を取り出す。普通のサイズより大きな写真である。

「こちらが、その際に証拠として撮影されたという写真です」

 映像の次は、写真か。最初がアレだっただけにインパクトには欠けるが、本来依頼者側が想定していた証拠というのはこういうものなのだろう。

「写真か……映像と違って加工が簡単ってイメージがあるんだけど、だいじょぶ?」

 禊屋の問いかけに、灰鷹は軽く手を上げて答える。

「その点はご心配なく。相手方もそのあたりは理解しているのでしょう。送られてきたのは、写真のネガ。この写真は、それをこちらでフィルムスキャナーを使って取り込み、現像したものです。フィルムカメラで撮影されたものである以上、加工された可能性は限りなく低いと考えてよいでしょう」
「ふーん、なるほど……」

 禊屋は提示された写真を順に手にとって、見ていく。大きい写真なので斜め後ろの冬吾の位置からでも辛うじて見えた。昔から視力だけは良かったが、まさかこんな状況で役に立つとは。

 最初の写真は、寝室の中を撮影したものだ。アングルからして、窓の外から隠し撮りしたものと思われる。

 一枚目は、窓から見て、古志川が部屋左側に立っている写真だ。古志川は疲弊したような顔で、入り口である扉のノブに向かって右手を伸ばしている。サムターンの内鍵をかけるか外すかしているように見えるが、そのどちらであるかは写真からは判別できない。

 古志川の恰好はフライの映像に映っていたのと同じ礼装で、シャツの右袖口にはワインの赤い染みもある。パーティの最中に撮影された写真であることはたしかだ。

「ワシバナの証言によれば、それは鍵をかけようとしているところだとか」

 灰鷹が補足する。ワシバナが窓の外に待機し始めたときには、既に古志川は寝室の中にいたという話だった。普通は、内鍵をかけるなら部屋に入ってすぐだと思うのだが……たまたま鍵をかけるのを忘れていて、後になって思い出したということなのだろうか?

 ……いや、そうじゃない。古志川が寝室に戻ってからすぐフライに殴られたのは確かなのだから、つまり、これは……。

「フライに殴られた後で息を吹き返したのなら、追撃されるのを避けるために部屋に鍵をかけることは考えられる……けど……」

 写真を見て、禊屋が呟いた。そう、そう考えるのが一番自然だ。

 フライがまた戻ってきたら、古志川は確実にトドメを刺される。身の安全のために部屋に鍵をかけるのは、自然な行為だろう。しかし、本当に写真の古志川が『フライに殴られた後の古志川』なのかはわからない。写真では遠すぎて、古志川の頭部を見ても出血や打撲の痕は確認できないのだ。

 禊屋はしばらく思案してから、写真をめくって二枚目を見る。

「……!」

 驚いて、僅かに息を呑む。二枚目の写真に映っている古志川は、明らかに――死んでいた。

 一枚目と同様、カメラは窓の外から寝室の中を真横のアングルで捉えている。

 古志川が倒れているのは、窓から見て部屋の中央よりやや右側。窓に向かって両足を投げ出すようにして、仰向けになっていた。両手は左右に放り出されているが、右手の先は手前側に置かれたサイドテーブルの陰になっていて見えない。

 古志川の両目は驚きで見開かれたようになっていた。右の頬には銃創と思しき傷と、出血の痕。鼻に近い部分なので、正面方向から撃たれたようだ。ワシバナの供述を信じるなら、彼が窓の外から撃った弾丸が命中したということになるのだろう。

 弾丸は後頭部へ貫通はしていないようで、遺体が仰向けなのもあってか、傷口からの出血は意外と少ない。血は頬の横側へ流れ出て一本の赤い筋を作り、絨毯の上に数センチ程度の染みが出来ている。

「見てわかるとおり、その写真は、ワシバナが古志川を殺害した後に撮影したものだそうです」

 灰鷹は禊屋の反応を窺うように、

「禊屋さんは、どう思われますか? この二枚の写真は……ワシバナの証言が真実だと断定するに足る証拠と言えるのでしょうか?」
「…………」

 禊屋は口元に手を当て数秒考え込み、その後ゆっくりと言った。

「まだわからない……かな」
「この二枚の写真をもってしても、まだ疑問が残ると?」
「……古志川さんの生前と死後、それぞれの写真が用意してあることから、ワシバナが古志川さんを殺害した可能性はたしかに高い。写真の古志川さんのシャツにはワインの染みが付いているし、これがパーティーの最中に撮影されたものであるというのも間違いない。それにフライの映像中での古志川さんと部下っぽい人とのやり取りから察するに、パーティーの最中に古志川さんが寝室に戻ったのはおそらくあの一回だけ。だとすると、この寝室にいる生前の古志川さんを撮ることができたタイミングは、さっき言ったように、フライに殴られたけど気を失っていただけだった古志川さんが起き上がった後……というのが一番自然な考えではあるよ? けど……フライが殺したという可能性もまだ残ってる。これらの写真は、フライが撮影していたあの映像の『前後』に撮られたと考えても説明はつくからね」
「ではそうだとして、どうやって説明をつけます?」

 灰鷹は面白がるように尋ねた。禊屋を試しているかのような口ぶりだ。

 禊屋は言い淀むことなくすらすらと説明する。

「この一枚目の写真は、フライが部屋に押し入る前に撮影されたのかもしれない。内側から鍵をかけているって話だったけど、見方を変えれば、扉をノックされて出ていく直前にも見える。写真の撮影された状況は、ワシバナの証言次第で都合良くねつ造できる……だから本当は、古志川さんはフライのノックで呼び寄せられたところだったのかもしれないよね。そして、ワシバナはモタモタしているうちにフライに先を越された。二枚目は、フライが古志川さんを撲殺し部屋を退出した後で、ワシバナが部屋に入り遺体を動かし、そして偽装のために顔に銃弾を撃ち込めば、こんな写真は簡単に撮影できる。あえて窓の外から写真を撮ったのは、自分は寝室に入っていないというアピールかも」

 灰鷹は満足気に頷いた。

「この短い時間でそこまで推理を進めてしまうとは、流石ですね。私も大体似たような考えに辿り着きはしたのですが、そこから先がどうにも行き詰まってしまいまして。しかしあなたならば、きっと答えを掴んでくれることでしょう。そのためには、私も協力は惜しみません。何か必要な情報などがあれば、遠慮無く訊いてください」

 灰鷹の態度は胡散臭いが、事件の真相追求に関しては、この男が敢えて嘘をつく理由も無さそうだ。提供される情報は信じても良いだろう。

「じゃあ質問だけど……銃声はどうだったの?」

 禊屋が灰鷹に尋ねる。

「フライが凶器に金槌を使ったのは、屋敷内で銃声を響かせるのはマズいと判断したからだったよね? そのへんの問題を、ワシバナはどうやってクリアーしたの? サイレンサー(消音器)を使ったとか?」
「その点については、私からも確認しました。彼は花火を利用したそうです」
「……花火?」
「屋敷近くの港で、クリスマスまでの一週間、連夜で花火を打ち上げているんだそうです。毎日午後七時五十五分から、八時までの五分間ですね。彼は予めそのことを調べていて、古志川の殺害に利用したのです。二度目の警備員の巡回をやり過ごさず早急に古志川の殺害を実行したのは、この花火のタイミングを逃さないためでもあったというわけです」

 なるほど。その花火の音に紛れて銃を撃てば、屋敷内の人間もそれが銃の発砲音だとは気づかないだろう。

「花火か…………ん? なんだろう、これ……」

 写真を見ながら、禊屋が何かに気がつく。 

「どうかしましたか?」
「ここのところ、見て」

 禊屋は写真の右側を指さして、

「引き出しの上から二段目、ちょっと開いてる」

 たしかに、その段だけ数センチほど引き出された状態になっている。それだけでなく、何かを乱暴に押し込んだようで、中から紙のようなものが一部分だけ飛び出している。

「一枚目の写真では、ちゃんと閉まってるのに……」

 禊屋は二枚の写真を見比べつつ言う。一枚目の写真では、引き出しは全段きっちり閉まっている。つまり、この二枚の写真が撮影される間に、誰かが引き出しに触れたということになる。

「……たしかに、妙ですね。ワシバナも、他の二人も、引き出しに触れたという話はしていなかったはずです」

 灰鷹も引き出しに違和感を覚えたようだった。禊屋は目を細めて写真を見つめながら、呟く。

「何かを押し込んだみたいだけど……なんだろう、これ」

 しばらく考えていたが、はっきりとした答えは出なかったようだった。

 灰鷹はテーブルの上で手を組む。

「ワシバナの供述について、他に質問はありますか?」

 禊屋は軽く手を上げて、

「いや、もういいよ」
「もしも可能であれば、ここまでの情報だけで答えを出していただいても構いませんが?」

 禊屋は考え込むように顎を指でなぞりつつ、

「……いや、まだ答えは出せないよ。形になりつつはあるけど、まだ完全じゃない」
「フライとワシバナ、どちらも古志川を暗殺したと断定するにはまだ決定的な何かが足りない……というわけですね。その決定的な何かを、残る三人目の供述から見出せるかは、禊屋さん次第ですが……」
「じゃあ、さっさと始めてくれる? 三人目の話」
「いいでしょう。――おい」

 灰鷹が後ろで立っていた仲間の男に命じて、部屋の隅に置かれていたクーラーボックスをテーブルの横まで運んでこさせる。

「それは……?」
「三人目の殺し屋……Cランクの『フクミミ』という男ですが――彼が、写真と一緒に古志川暗殺の証拠として送りつけてきたものです」

 そう言って、灰鷹はクーラーボックスの蓋を開いた。その中には……。

「……さっき言ってた、『警察も死因を特定できてないかもしれない』って、そういうこと?」

 禊屋は表情に嫌悪感を滲ませつつ、問いを発する。灰鷹は嗤った。

「……私も法医学については明るくありませんが――撲殺にせよ銃殺にせよ、遺体にその損傷を受けた部位が残っていなければ死因を特定するのは難しいでしょうね」

 灰鷹は土気色をした“それ”の髪を掴み、持ち上げ、テーブルの上に置いた。

 ――間違いない。それは、古志川達夫の生首だった。古今東西、戦勝の証として敵の生首を切り落とす行為が行われてきたとはいうが、殺し屋たちの社会では未だにそれが続けられているのだろうか。首のない死体ならば見たことはあるが、首だけの死体を見るのは初めてだった。

 事件があったのが三日前――つまり死後三日が経過していることになるが、保存状態が良かったのか、生前の人相と殆ど変わりない。目は閉じられていて、右頬の鼻に近い部分にはワシバナの写真にあったとおりの銃創がそのままだ。ただし、頬の横へ流れ出ていた血液は拭き取られている。

「フクミミは古志川を殺害後、その首を切断し回収していたそうです」
「そして、あなたたちの元へ証拠として送りつけてきた……?」
「その通り。まぁ、どうぞ、ご自由に調べてください」

 灰鷹に言われ、禊屋はやや躊躇いがちに生首へ手を伸ばす。

 殺した証拠に生首とは、また強烈だが……フクミミという殺し屋が本当に古志川を殺害したかどうかは、まだわからない。フクミミが古志川を殺していなかったとしても、死体が発見され騒ぎになる前に現場を訪れさえすれば、残された死体から首を切り取って持ちかえることくらいは出来ただろう。

 禊屋が古志川の頭部を調べるのを待つ間、灰鷹は説明を続ける。

「調べるために弾丸だけは摘出しておきましたが、それ以外には私たちで手を加えてはいません」
「ってことは、送り届けられた時点で傷口から流れ出していた血は拭き取られていたんだね?」
「ええ、そうですが……それがなにか?」

 禊屋は少し考えるようなそぶりを見せたが、質問には答えなかった。

「……まぁいいや。それで、弾丸っていうのは?」
「撃ち込まれた弾丸は一発だけで、傷口の角度からいって正面から撃たれたのは間違いないですね。弾丸はマカロフ独自の9×18mm弾。頬骨を貫通し脳に達していました。生きていた状態で銃弾を受けていたのなら、即死は免れなかったでしょう」
「……そのフクミミって人は、どういう手順で古志川さんを殺したと話していたの?」
「殺すまでの手順は、フライのとった方法と概ね同じですね。人の多く集まるパーティ会場に潜入し、古志川が一人になるタイミングを待った。古志川が寝室へ向かったのを知って、しばらく待ってから後を追ったそうです。寝室の場所は予め調べていたのでしょう」

 フライと違うのは、古志川が寝室へ向かってからしばらく待った、という点だ。おそらく古志川がベッドで寝入るのを待っていたのだろう。その話が真実なのかどうかは、まだわからないが。

「フクミミは鍵開けの技術を持っていました。寝室の扉に付いている程度のものであれば解錠は数秒で済むとのことです。鍵を開け部屋に入ると、古志川はまだベッドには入っていなかった。古志川は突然の侵入者に驚いたようだったが、フクミミが銃を持っているのに気づき、それを押さえようと向かってきた。そこを至近距離から顔面に向けて発砲――殺害したそうです」
「二人は会話することもなく、部屋に入った直後にフクミミは古志川さんを殺害したってことだね?」
「そうです。銃声の問題については、彼もワシバナと同様、花火の打ち上げ音に乗じて発砲を行うことで誤魔化したと証言しました」

 方法はワシバナと同じ銃殺。ワシバナの仕込んだ睡眠薬によって古志川が寝室へ向かったのはフクミミにとっては偶然であろうが、そうでなければ花火の上がる少し前に声をかけるなりしてどこか人目の付かないところへ誘導することは出来ただろう。

 フクミミが古志川を殺害できたとするなら、そのタイミングはワシバナと同じで、フライに殴られた古志川が息を吹き返した後ということになるか。

「ふぅん……」

 灰鷹の話を聞きながら、禊屋は古志川の頭部を調べる。

「額、両側頭部、後頭部に渡って打撲の痕が数カ所……。これがフライに殴られたときの傷だろうけど、これが直接の死因になったかどうかは傷跡からは判断できない、か……」

 今度は右頬の銃創に顔を寄せ、注目する。ワシバナの写真では遠くてわからなかったが、円形の傷口に沿うように、数ミリほどの黒い焦げ跡らしきものが残っていた。

「傷口の周囲には焦げ跡……。傷口から摘出されたのは9mmマカロフ弾、使われた銃はマカロフで間違いない……」

 そう言ってから禊屋は顔を上げ、灰鷹に尋ねる。

「フクミミが殺害に使った銃がなにかは、聞いてる?」
「彼もワシバナと同じように、マカロフだと答えました」
「凶器は同じ、か……」
「古志川を殺害した直後にフクミミが撮影したという写真があるのですが、これにも、ほら」

 灰鷹はワシバナの撮影した写真が入っていたものとはまた別の封筒から、一枚の写真を取りだした。

「こちらの写真もワシバナのそれと同じで、送られてきたネガを私が現像したものです」

 つまり、加工された可能性は低いということか。

 フクミミが撮ったというその写真には、寝室の扉側からの光景が写し出されていた。古志川の遺体は右の窓側に向かって足を向けて倒れている。ワシバナの写真に写っていたのと同じ位置、体勢のようだ。他にも家具類の位置などに変化は見られなかった。先ほど禊屋が指摘した、引き出しの上から二段目が少しだけ開いているのと、隙間から何か紙らしきものが一部飛び出ているのも同様。

 フライの映像にもあったように、左隅に写るベッドのヘッドボードの上には、デジタル式の卓上時計が載っている。この時計は液晶面が扉側を向いているので、ワシバナの写真には横面しか写っていなかったが、この角度からならば時刻が読み取れる。液晶の細かい部分まではさすがに見えないが、時刻は『7:58』と大きく表示されている。近くの港で花火が打ち上がっていたのが、七時五十五分から八時まで。フクミミの証言通り、花火の音に紛れて銃を撃つことは可能な時間だ。

 …………? なぜだろう。とくにおかしなものを見つけたわけじゃないのに、この写真にはどこか違和感がある。違和感はあるのだが……その原因がわからない。禊屋の表情を窺ってみると、彼女も僅かに眉をひそめているように見えた。

 灰鷹はその表情の変化には気づかなかったようで、禊屋へ写真の説明をする。

「その写真を撮った後で、フクミミは古志川の首を切り取ったとのことです。サイドテーブルの上に置いてあるのが、凶器に使ったマカロフですね」

 遺体の右側、足の近くにサイドテーブルが置いてある。これもフライの映像やワシバナの写真で見たのと同じ位置だ。その上には『プルート独和辞典』と背表紙に書かれた一冊の辞書と、マカロフが置かれている。

「あっ、そっか」

 禊屋は何かに気づいたようだった。

「この引き出しの二段目からちょっとだけはみ出してる、これ。ここに置かれてあった家具のカタログだよ。ドイツ語で書かれたやつ」
「……ああ、たしかにそのようですね」

 灰鷹も確認して、頷いた。

 言われてみれば、フライの映像ではサイドテーブルに乗っていた家具メーカーのカタログが、この写真のテーブルには乗っていない。引き出しのほうに着目してみると、先ほどのワシバナの写真ではわからなかったが、この写真の角度だと、見覚えのある表紙が部分的に確認できる。カタログはサイドテーブルから引き出しへ移動していたのだ。

 禊屋はワシバナの写真一枚目を手にとって、

「古志川さんが生きてるこっちの写真では、カタログはちゃんとサイドテーブルの上にある。でも、死体を写した二枚目の写真になると引き出しが少し開いていて、その隙間にカタログがねじ込まれている……」

 ……なぜ、ただのカタログがそのような移動を遂げたのだろうか? 勝手に動くはずはない。誰かが手に持って動かしたのはたしかだが、そんなことをする意味がわからない。例えば誰かがそのカタログを人目に触れぬよう隠したがったのだとしたら、こんな中途半端に飛び出させているはずがない。いや、隠したかったのなら自分で持ち去ってしまえばいいのだ。誰がやったのかという問題もあるが、それ以上に行為の意図が読めない。

「それと、サイドテーブルの上といえば、気になるのはこっちもなんだよね……」 

 禊屋は、テーブルの上のマカロフよりも緑色のカバーをした辞書の方に注目したようだった。

「この辞書……」

 そう呟いてから、ワシバナの写真二枚をもう一度手にとって見比べる。

「……やっぱりそうだ。ねぇ、さっきのフライの映像、もう一度見せてくれる?」
「……? 構いませんが……」

 灰鷹はノートPCを禊屋のほうへ向ける。禊屋はそれを操作して、フライが古志川を殴り倒した後までシークした。

「ほら、ここ……」

 映像中の、サイドテーブルの上に乗せられた緑色の本を指さす。表紙には『プルート独和辞典』とある。写真に写っているのと同じ本だ。しかし、写真と映像を見比べると少し様子が違っている。

「ほら、この映像もフクミミの写真も、扉側から寝室の様子を捉えているのは同じだけど……この映像では辞書の表紙の表側が上になっていて、背表紙は向こう側になってるでしょ? でも、フクミミの写真では、表紙の裏側が上になっていて、背表紙がこっち側を向いている」

 禊屋の指摘どおり、映像中の辞書は写真のそれとは表紙の上下が逆になっていた。映像中では本の下端が扉側から見て左側、つまりベッドの方を向いている。写真の辞書はそれを横向きに上下をひっくり返した形だ。

「ほう……これは気がつきませんでした」

 灰鷹は感心したように言う。

「それで、ワシバナの写真とも見比べてみたんだけど、ちょっと面白いことになってるよ。ほら、見て」

 禊屋はワシバナの写真を二並べてみせる。アングルは窓からになっているが、二枚ともサイドテーブルの上の辞書は写っていた。

「まず、一枚目……古志川さんが生きている写真では、サイドテーブルの上の辞書は、表表紙が上、背表紙は右――つまり扉側から見た場合の奥側を向いている。フライの映像と変わりないってこと」

 次に、二枚目の写真を指さす。

「でも、古志川さんの遺体を撮影したこの二枚目に写った辞書は……ね? おかしいでしょ?」

 ――おかしい。どうしてこんな変化が起きる?

 二枚目の写真に写った辞書は、表表紙が上で、背表紙が左――扉側を向いていた。一枚目とはまた向きが違っているのだ。表表紙が上なのは同じだが、本の下端がベッドの方を向いていたのが、窓側向きに変わっている。

「――つまり、辞書の状態は、フライの映像中とワシバナの写真一枚目に写っているA、ワシバナの写真二枚目に写っているB、そしてフクミミの写真に写っているCの、合わせて三種類に分けられることになるね」

 A、B、Cの状態をそれぞれもう一度まとめると、このようになる。

A 辞書の表表紙が上、背表紙は部屋の奥側を向いている
B 辞書の表表紙が上、背表紙は部屋の扉側を向いている
C 辞書の裏表紙が上、背表紙は部屋の扉側を向いている

「しかし……どうして辞書の向きが二度も変わっているのでしょう?」

 灰鷹が当然の疑問を発する。寝室を訪れた誰かが辞書を動かしたことは間違いないが、誰がなぜそんなことをする必要があったのか、まったくわからない。

「この辞書自体は、古志川が取りだしたもので間違いありませんよね?」

 灰鷹は禊屋に確認するように問う。禊屋は頷いて、

「フライの映像にも映っていたし、古志川さんがこの辞書を引き出しの上の本棚から取りだしてテーブルに置いたのは間違いないと思うよ。事件の前の日とかパーティーの前とかに、隣りに置いてあったドイツ語で書かれたカタログを読むのに使って、そのままテーブルに置きっ放しにしてあったってところかな。でも、古志川さんがフライに殴られた後でこの辞書が二度も動かされた理由となると……」

 禊屋はそこで黙り込んでしまった。写真を見ていると、辞書にはもう一カ所おかしなところがあることに冬吾は気がつく。

「それに改めてよく見てみると……この辞書には妙なところがありますね」

 灰鷹も同じことに気づいたようだった。灰鷹はワシバナの写真二枚目に写っている辞書を指さして、

「ここのところ、何か埋まっているように見えます」

 表紙の『プルート独和辞典』と書かれた部分の上に、アルファベット表記で『PLUTO』とある。その『O』の文字の中心部に、何かがめり込んだような跡があるのだ。Oの文字にぴったり重なる大きさの穴なので、辞書そのものを注意深く見なければ気づかなかっただろう。禊屋の分類で言う状態Aのときにはなかったはずの痕跡である。

 禊屋も当然承知の上だったようで、頷いた。

「たぶん、それがこの辞書が動かされた理由に関わってるんだと思う。そんな風にめり込んだ穴が出来るのって、銃で撃たれたからじゃないかな?」
「銃? ……なるほど。たしかにそう見えますね」
「それを裏付ける証拠が、こっちの写真に写ってるよ」

 禊屋はフクミミの提出した写真を指さす。

「古志川さんの右手のとこ、よく見て」

 古志川の右手は開かれた状態で投げ出されており、そのすぐ近くに、金色の小さなものが落ちていた。

「薬莢……のようですね。撃ち終わった後の空薬莢だ」
「それがベッドの近くに、もう一つ。大きさや色は二つとも同じに見えるね」

 そう言って禊屋が指をずらす。遠くてわかりづらいが、写真左側の奥、ベッドの足下近くに、もう一つ薬莢らしきものが落ちていた。引き出しとベッドの間の陰になっていて、窓からのアングルで撮影されたワシバナの写真には写っていなかったものだ。

 禊屋は右手で二本指を立てて、

「薬莢が二つ……ということは、この場で少なくとも二回は発砲が行われたということ。二発の銃弾のうち一発は古志川さんの命を奪い、もう一発はなぜか、この辞書に撃ち込まれていた。このことについて、誰か説明していた人はいる?」
「いいえ。フライもワシバナもフクミミも……そんな話はしていませんでしたよ。私自身、禊屋さんが指摘されるまで辞書の違和感には気がつきませんでしたし……」
「ふむ、なるほどねー……」

 禊屋はそう言いながらフクミミの写真を食い入るように見つめていたが、やがて「あっ」と何かに気づいたように声を上げた。

「ここ……小さくてわかりづらいけど、血が付いてる」

 そう言って、写真に写った古志川の右手を指し示す。

「右手に怪我をしているようには見えないから、別の場所から出血したものが付いたんだ」

 手の平を上にして、指は力を抜いたように軽く曲がっている。その指のうち、中指、薬指、小指の第二関節の周囲に、細かく赤い点が付着していた。飛沫状の、一つ一つがせいぜい一ミリ程度の大きさの点々である。右の袖口には赤ワインの染みが残っているが、手に付いたワインはこぼしてすぐ念入りに拭き取ったであろうから、これは禊屋の言うとおり血液と見るのが妥当だろう。

 灰鷹もそれを確認するが、たいした発見ではないとでも言いたげに肩をすくめた。

「たしかに血のように見えますが……フライに殴られた際に頭部から出血したものでは?」
「ううん。古志川さんの頭を調べたけど、殴られたのが原因で出血しているのは後頭部だけだった。それだってフライの映像を見る限り大した出血量じゃなかったみたいだし、右手のこんな位置にだけ血液が付着しているのはおかしい」
「では、この血はいったい……?」
「…………」

 灰鷹の問いに禊屋は答えず、一人で納得するように頷いた。

「……うん。これではっきりしたかな」

 自信に満ちた声だった。

「禊屋さん?」
「他にまだ話してない情報はある?」
「いえ。一応、これでお話しすべきことは全てお伝えしたと思いますが」

 禊屋は得意げな笑みを浮かべて、灰鷹へ向かって言う。

「だったら、そろそろ終わらせようか。この悪趣味な犯人当てゲームを」
「ほう? では、もう事件の真相がわかったと?」
「もちろん。言っちゃーなんだけど、簡単だったよ。シンキングタイムなんて、三十分どころか少しも必要ない。どこまでも頭のニブいあなたたちは、一生かかってもわからなかったかもしれないけどね」

 禊屋は灰羽根旅団のメンバー全員を挑発するように言ってのける。扉の前に立った男と灰鷹の後ろにいた男はにわかに殺気立ったが、灰鷹は声を上げて笑った。

「これはこれは……言ってくれますね。しかし私にとってはただただ喜ばしい。あなたを雇った甲斐があったというものだ。はじめの約束どおり……見事真相をつきとめ、私を納得させてくれたのならば、あなた方お二人は無傷で解放しましょう。もっとも、私たちの安全が確保できてから、という条件は付きますが」
「その言葉、忘れないでよね」

 禊屋は自信満々に言ってから、冬吾のほうを振り向いた。

「心配させてごめんね。あともうちょっとで終わるから、待ってて」
「……頼んだぞ」

 情けないことに、それしかかける言葉が思いつかなかった。

「うん!」

 禊屋は笑顔で頷いてから、また灰鷹に向かい合う。

 モヤモヤとした、黒く重い何かが冬吾の胸中で渦巻いていた。禊屋の推理が外れるはずはない――その確信はあるのに、なぜか……嫌な予感がする。

「では――」

 禊屋はゆっくりとした動作で右手の人差し指を口元の前で立てると、片目を閉じて静かに言った。

「あなたのお望み通り――この謎、禊ぎ祓ってみせましょう」
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