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「お見合いなんてしないから!」
怒りのままに叫んだ瀬村花純は、運転席に座る母、明美をギロリと睨む。ハンドルを握る明美は、悪びれたふうもなくケラケラと笑うばかりだ。それがまた腹立たしい!
母が駅まで送ってくれると言いだした時点で、疑うべきだった。
いやいや、おかしいとは思っていた。
明美がめずらしくばっちりメイクにおしゃれをしているから、不思議には思ったのだ。
せめて、そこで気付いていれば。
車は駅前へ続く国道を逸れて、高級店の並ぶエリアへと向かっていく。
「いいじゃない。お見合いって言っても、そんなに堅苦しいものじゃないんだって。ほら、皆でお食事会? そんな感じ。ちょっと会うだけよ~」
「絶対会わないから!」
「恵子ちゃんの会社の取引先の御曹司なんだって。次男坊。すごいイケメンらしいわよ~」
明美の妹である夏川恵子は、小さいながらも会社を経営している。デザイン関係だと聞いているが、具体的にどんな仕事なのか花純は知らない。だから、御曹司がどの程度の御曹司なのかも想像がつかなかった。
ただ、御曹司に自分がつりあわないということだけは、はっきりしている。
それに、別の日ならまだしも今日はダメだ。大事な予定がある。
「絶対会わない。車降りるから止めて!」
「ダメダメ~。だってお見合いは今日なんだから。今更お断りできないでしょ? 相手にも失礼よ」
「わたしの了解もなしに引き受けるほうが悪いんでしょ!?」
「だって花純、事前に言ったら絶対『うん』なんて言わないじゃない。ホテルの高級ランチよ? 皆でお食事するだけだから。食べるだけ、ね~? 恵子ちゃんにお年玉もらったじゃないの~、恩返しだと思って。会うだけ、ね~?」
今ほど、明美の間延びした話し方を腹立たしく思ったことはない。
お年玉なんて、いったい何年前の話をしているのだろう。
そんな昔のことまで持ち出して!
「恵子ちゃんも、お見合い相手が見つからなくて困ってたんだって~。取引先の社長夫人に『いい子はいないか』って声を掛けられたら、そりゃね~、恵子ちゃんが必死になる気持ち、花純だってわかるでしょ? 助け合いじゃない~」
取引先の社長夫人の頼みなら、恵子が必死になるのもわかる。
わかってしまう……「助け合い」なんて言葉に乗せられそうになる自分がまた憎らしい。
「……叔母さんの事情は知らないけど、お母さんはホテルのランチ食べたいだけじゃないの!?」
「それもある~」
鼻歌でも歌い出しそうな明美がハンドルを切り、車はホテルの駐車場に吸い込まれていった。
花純はこれみよがしなため息をついて、助手席のシートに後頭部を思いきり押し当てる。
(今日はreachさんに会う約束なのに……!)
彼との待ち合わせは、午後三時。
場所は、駅ビル前にある天使の銅像前。
腕時計を確認すると、短針と長針が、ちょうど十二の文字の上で重なろうとしていた。
約束より早めに家を出て、少し周辺をぶらぶらして気持ちを落ち着かせようと思っていたのに。
お見合いの状況次第では、約束に間に合うかどうかもわからない。
「大丈夫、わかってるわよ~。今日はデートなんでしょ?」
「デ、デートじゃないからっ……!」
「嘘だ~、そんなにおしゃれして!」
そうだ、花純は今日おしゃれしている。ここ数年で、一番服装に気を遣った。
ミモレ丈のフレアスカートは甘すぎないグリーンで、オフホワイトの春ニットで地味顔が明るく見えるよう調整した。夜の冷え込みに備えてカーディガンを肩にかけ、足元は男性よりも背が高くなって自尊心を傷付けないように配慮した五センチヒールのパンプスだ。この日のために、バッグだって新調した。
クセのきつい髪はサイドでまとめて、パーマ風に見えるようにアレンジした。うまくいかなくて何度もやり直して、上げっぱなしの腕がだるくなったくらいである。
雑誌とネットの力を借り、枯れかけの女子力を総動員して、地味な自分なりに頑張った。
そう、頑張った。それは全部、彼のためだ。
さすがに年齢も顔も本名すら知らない相手に、運命を感じてどっぷり恋をしているわけではないけれど、毎日の彼とのやりとりが自分にとって大事な心の栄養で、そんな彼を好きに……なりかけている。
彼から「会いたい」と言われたときには、年甲斐もなくドキドキして眠れなくなった。
その人に、今日会うのだ。
ハンドルネームはreach731。
たぶん男性、たぶん都内在住。
たぶん、素敵な人。
彼のために、おしゃれをした。
なにがいけない。
「このおしゃれは、お見合いのためじゃないんだから……!」
図星をさされて顔を熱くした花純に、駐車場の一画に車を停めた明美が笑いかける。
「今日の花純すっごく可愛いわよ~。似合ってる似合ってる。大丈夫、ランチが終わったら、ちゃんと約束の場所まで送ってあげるから。だから、ね~? お見合い、行ってくれるでしょ~?」
二十五歳にもなって母親にきっぱりノーと言えない性格は、花純自身も問題だと思っている。
けれど、叔母の立場や、お見合いのために高級ホテルにやって来る御曹司に無駄足を踏ませるのは悪い気がして、花純は投げやりに頷いてしまうのだった。
◆ ◇ ◆
「こちらが、姪の瀬村花純です」
「はじめまして」
叔母の恵子に紹介されて、花純はゆっくりと頭を下げた。テーブルを挟んで向かい合うのは、いかにもなギラギラしたお金持ちではなく、優しげで品のいいご婦人だった。
だけど、そのマダムの隣には――誰もいない。
「まぁ、可愛らしいお嬢さんだこと。ごめんなさいね、本人が遅れてしまって。息子も、もうすぐ着くと思います。私、母の泰子です。どうぞ、お座りになってください」
「失礼します」
面接のような緊張感だ。
泰子のやわらかな笑顔に、花純はぎこちない作り笑いで応じることしかできない。
高級ホテルのレストランの雰囲気と、周囲からの視線にすっかりのまれていた。見られている。他のテーブルから、チラチラと視線を感じる。
お食事会みたいなものだと明美は言ったが、マダム三人に囲まれた花純は、やっぱり少し浮いている。周囲にはいったいどう見えているのだろう? 哀れな生贄? 歳の差女子会……には、見えそうにない。
花純の左側に座る恵子が、思い出したように口を開いた。
「花純は、今年二十六歳になるんですよ」
「あら、だったらうちの息子のほうが少し上ね。あの子は今年三十になるんだけれど、花純さんは、四歳の歳の差は、平気?」
「は、はい……」
愛想笑いで、いったいどこまで乗り切れるだろう。
帰りたい。帰りたい、今すぐに。
「夏川さんにお願いしてみて、本当によかったわぁ。こんな素敵なお嬢さんを連れてきてくれて。それで、花純さんは、今はお勤めしてらっしゃるのかしら?」
「はい、服飾系の会社で、営業事務をしています」
「あら、そうなの。うまくお話がまとまったら、うちの会社に来てもらえそうね」
「まぁまぁ、舘入商事さんからの引き抜きなんて大それたお話を」
花純の耳には、泰子と恵子の「ほほほほほ」というセレブな笑い声など、まるで入ってこない。
「……舘入……?」
舘入商事といえば、大企業だ。
はじまりは呉服屋だったというが、時代の変化に合わせてブランドを多数展開し、幅広い客層から支持を得た結果、今や日本だけでなく海外にも店舗を構えている。近年はウェディング関連の事業が大化けして、業績は不況のアパレル業界のなかでは異例の右肩上がりだ。
(叔母さんの会社、そんなオバケ企業と取引があるの? っていうか、わたしが今からお見合いする人って、舘入商事の御曹司……!?)
急に口のなかがカラカラに渇いてきた。
(そんな御曹司とのお見合いに、父親が係長止まりのド庶民の娘連れて来てどうするの!! つりあうわけないじゃん!)
グラスの水を、一気に半分ほど胃に流し込んでみる。
それでも動悸が止まらず体が熱い。グラスのなかでくるくる回る氷を貪りたい衝動に駆られた。
ガリガリ音をたてて、氷と一緒にこの緊張を噛み砕いてしまいたい……
「ふふふ、お腹が空いてしまったわよね。先に、お食事をはじめましょう」
大企業の社長夫人の提案で、すぐに華やかな懐石料理が運ばれてくる。
こんなときでなければ、スマホで写真を撮っておきたいくらい可愛い盛り付けだ。
お刺身は花のようにくるんと巻いてあり、てんぷらは衣ひかえめでエビの赤が透けている。たけのこの炊き込みご飯に、花型の生麩が浮いたお吸い物。うるうるの胡麻豆腐も、焼物も、煮物も、どれもこれもがキラキラしている。
「美味しそう」
ほぼ同時に、年齢も立場も異なる四人の女が口を開いた。
料理の味や、彩り豊かな盛り付けについての感想を言い合いながら、食事は和やかに進んだ。泰子が気さくに、「私は今でいうと、〝メシマズ〟なのよ」と自らの失敗談を披露してくれたおかげで、花純の緊張もいくらかほぐれてランチを楽しむことができた。
そして食事が終わり、四人の前に食後のコーヒーが運ばれた頃だった。
入り口から、背の高い男の人がフロアスタッフに案内されて入ってくるのが視界の端に映った。
きりっとした美形だ。
黒髪と切れ長の目が涼しげで、ちょっと冷たそうな雰囲気。しかし黒のパンツに白のカットソー、黒のジャケットを合わせた装いは、カッチリしすぎず、落ち着きがあってかっこいい。
(モデルさんみたい……)
雑誌の撮影中です、と言われたら、信じてしまいそうだ。
クールな印象と、どことなく漂う上品さに目が離せなくなる。気付けば、ぼーっと彼を視線で追ってしまっていた。
その彼が、なぜか花純たちのテーブルの前で立ち止まった。
「遅れて申し訳ありません」
「あらあら、どうして今日はスーツじゃないの。そんな格好で、失礼だわ」
「今日は予定があるので。それで、どなたが?」
彼の視線は、テーブルの片側に並ぶ、恵子、花純、明美の三人を順番に辿ったあと、花純の上で止まった。
イケメンと視線が交差して、思わずドキリとしてしまう。
「あらいやだわぁ! 私たちみたいなオバサンがお見合い相手なわけありませんよ。お上手なんだから。こちらが、ご紹介したい瀬村花純です」
(イケメン御曹司!!)
目の前にいる彼こそが、お見合い相手のようだ。緊張で、背筋がピンと伸びる。
彼は涼しげな表情を崩さず、おもむろにジャケットの内側へ手をやった。
「はじめまして。舘入です」
レザーの名刺ケースから出した名刺を差し出され、慌てて立ち上がり両手で受け取る。
舘入商事のロゴ入りの名刺には、名前の他に、社用のメールアドレスと携帯番号が書いてある。
名前は『舘入利一』。フリガナはない。
(たていり、としかずさん、かな?)
「ありがとうございます。瀬村花純です。すみません、今日は名刺を持ってなくて……」
「ああ、必要ありません」
チクリと棘を感じる。そういえば、この御曹司は登場してから愛想笑いも浮かべていない。
遅れてきたわりに、随分な態度ではないだろうか。
(相手が叔母さんの取引先の人だから言わないけど……ちょっと感じ悪いなぁ……)
微妙な空気が流れはじめた場をとりなすように、泰子が笑いかけた。
「あなたが遅いから、お食事は終わってしまったのよ。なにか飲む?」
「いえ、結構。このあと予定があるので、手短に済ませたいのですが」
「それでしたら、さっそく若い方だけでお話ししていただいてはどうでしょう?」
恵子は提案し、泰子と明美を店外へと促した。
「そうですね。花純さんと、ちゃんとお話ししてね」
息子に釘を刺した泰子のあとを、もはや空気と化した明美もついていく。
花純は「ノー」の一声をあげる隙もなく、舘入商事の御曹司と取り残されてしまった。
どうしよう。チラッと御曹司を見上げると、彼はため息をつきながら腰を下ろし、渋々といった様子で「コーヒーを」と注文を済ませた。
(なんだろう……困ってる?)
イケメン御曹司の眉はぎゅっと中央に寄っているが、怒っている様子ではない。
もっと、困惑に近いなにかが彼の秀麗な顔には浮かんでいた。
(いや、でも、こっちだって困ってるんだけど……)
彼がこのお見合いに乗り気でない様子は、ひしひしと伝わってくる。
花純とて、強引に連れてこられただけで乗り気でないのは同じだけれど、ここまであからさまな態度を取られるとさすがに少し傷付く。
(なんか、わたしがイマイチだから乗り気じゃないみたいで、ちょっとヘコむ……)
相手がずば抜けたイケメンなだけに、自分の地味な容姿が気になって仕方ない。
それにどうやら自分は今日、異性からの反応に過敏になっているらしい。
これから会う『彼』によく思われたいなんて自分の下心に気付いてしまい、気まずさばかりか余計な恥ずかしさまで込み上げてくる。
「瀬村、花純さん……でしたね」
「はいっ」
「あいにくですが、あなたと結婚する気はありません」
「……はい?」
「お見合いに来るのは、皆同じだ。舘入の家名と、金が目当ての女性。そういう人と、結婚する気はないんです。あなたもどうせ、楽して贅沢な暮らしがしたいだけの専業主婦志望というやつだろう?」
彼の口ぶりには、あからさまな侮蔑が滲んでいた。
お見合いにやってきた女の人たちを十把一絡げにして「金目当て」と決めつけて、馬鹿にしているのだ。しかもそれを隠す気もない。
反発心が膨れあがった。これまで彼がどんな人たちとお見合いをしてきたのかは知らないが、少なくとも花純はそんなつもりでここに来たわけではない。
「いいえ、わたしはっ」
「取り繕わなくても、今の状況が物語っている。遅れてきた俺を一時間も待っている時点で、舘入との結婚にしがみ付いているのは明らかだ」
「しがみついてなんて!」
「随分気合いを入れてきておいて、しがみついていないとでも? その服、おろしたてだろう。靴も、バッグも。見合いのために新調したんだろう? 気付かれないと思ったのか」
「――っ、これはっ……!」
「舘入に相応しい令嬢を意識したんだろうが、成功とは言えないな。あまりにも地味だ」
カァッと花純の顔が熱くなった。
心臓にガラス片が突き刺さったみたいに、体の奥がズキズキする。
この人は、どうして初対面でこんなひどいことを言うのだろう。
地味だなんて、自分でもわかっている。
だけど、今日だけはそんなふうに言われたくなかった。
だってこれから、大切な人と会うのだ。そのために調べて、悩んで、時間をかけた。なのに。
あまりにも地味──その一言で、全部、台無し。
「このお見合いは、こちらから断りを入れておくから、そのつもりで」
なんだ、この男は。
人の話は一切聞かず、自分の偏見を押し付けて話を終わらせようとするなんて。
花純が地味で気に入らなかったとしても、こちらの話を聞いてくれれば、『お互い、お見合いなんて押し付けられて大変でしたね』と和やかに終わることもできたはずだ。
お見合いに遅刻してくるような失礼な男を待っていたのは、叔母の顔をたてたから。
泰子の話が楽しかったから。料理が美味しかったから。
この男のためじゃない!
これから大事な予定があるというのに、人の心を土足で踏み荒らしておいて、無傷で帰れると思ったら大間違いだ!
「……こちらからも、お断りしておきます」
「なんだって?」
いつもの花純なら、絶対にこんなふうに言い返したりはしない。
だけど彼は、よりにもよって今日、特別仕様の花純にケチをつけたのだ。
このまま黙って引き下がってやるものか。
「わたしだって、あなたとは結婚したくないと言っているんです。あなたのお母様はとても優しくて、楽しくて、素敵な方でした。ご子息がこんな人だなんて、信じられない」
こんな傲慢で冷たい男、いくらお金持ちでも願い下げだ。
「わたしにだって、結婚相手を選ぶ権利くらいあります。あなたみたいな人とは、たとえ一生安泰の生活ができても結婚したくありません。それに! あなたが遅れた時間だけど、一時間じゃなくて、一時間十五分ですから!」
彼はやや目を瞠ったが、なにを思ったのか「ハッ」と鼻で笑った。
淡々としていたときより花純を見る目は感情的になっている。しかし、その感情はプラスへ転じることなくどこまでもマイナスのまま突き抜けていったらしい。
「たかが十五分で目くじらを立てるほど、結婚を焦っているわけか」
「お言葉ですけど、十五分の遅刻といえば、普通の会社なら大目玉ですよ。ああ、もしかして、遅刻を注意されたことなんてなかったのかな。温室育ちで結構なことですね」
自分でもびっくりするほど、切れ味鋭い言葉だった。
それを受けて、目の前の御曹司は不敵に笑みを深めていく。しかし、その目は一切笑っていない。
「なるほど。いつもの見合い相手より、多少見所はあるらしい」
――『いつもの見合い相手より』『多少』『見所はあるらしい』?
この、とことん人を見下す心理は、どこからくるのだろう。
(お金持ちって、皆こうなの? 信じられない!)
性格が歪んでいるし、付き合いきれない。
今すぐ、このいけ好かない御曹司のいない空間に行きたかった。
バッグを掴んで椅子から腰を浮かせた花純に、彼は最後の問いだというふうに声をかける。
「君は、どうしてここへ来たんだ。条件のいい男を捕まえて、悠々自適の暮らしをしたいと思ったんじゃないのか?」
ため息を禁じ得ない。
きっと、彼の頭のなかには、夫婦共働きでも幸せだと感じる女なんて存在しないのだろう。
女は、与えられるだけの無力な生き物だとでも思っているのかもしれない。
「男に頼るだけが女じゃないって、覚えておいたほうがいいですよ」
さすがに面食らったのか、彼は呆然としていた。
「ああそうだ。お食事、美味しかったです。ごちそうさまでした!」
突きつけたお礼を彼が受け止めきらないうちに、スカートをひらめかせてレストランを出た。
お腹の奥ではまだいらだちの炎がくすぶっていたけれど、彼の顔を見るに、自分がなかなかいいカウンターパンチをお見舞いしてやったことは間違いないはずだった。
叔母の恵子には申し訳ないが、御曹司をやり込めた気分は、悪くない。
2
――天使の銅像前。
腕時計を確認すると、時刻は午後二時五十七分。
ギリギリの到着になってしまった。
ホテルを出てから、約束の駅前まで明美に送ってもらった花純は、駅ビルのショップに飛び込んでワンピースを購入した。駅ビルのトイレで新調したワンピースに着替え、化粧室でメイクをなおし、脱いだ服はショッパーに入れてコインロッカーに放り込んだ。
白地に小花柄のワンピースは、いかにもデート向きで少し恥ずかしいけれど、あのままの服でいたくなかった。
あんな最低御曹司の言葉、気にする必要はないとわかっている。
でも、どうしても気になってしまったのだ。
十人並みの容姿は今さらどうしようもないのだから、せめて、服だけでも。
(あんな御曹司にどう思われようと気にしないけど、reachさんには……)
――顔も名前も知らない相手。
けれど、失礼極まりない男に『地味だ』と言われたことを気にして、新しい服を買ってしまうくらいには、reach731からの印象をよくしたいなんて思っている。
SNSで知り合った異性に恋するなんて、あり得ないと自分に言い聞かせてきたけれど。
気合いを入れたおしゃれ。新調した服。彼がどんな人か想像して、なかなか寝付けなかった昨夜。
これが恋じゃなかったらなんだろう?
ブワァッと顔が熱くなる。
(ダメ、考えない! 余計緊張しちゃう!)
花純は前髪を指先で整えながら、うるさい自分の心臓から意識を逸らすように周囲を見回す。
天使の銅像周辺は、人だらけだ。
(ここで待ち合わせする人、こんなに多いんだ)
目立つ場所だから、待ち合わせスポットとしても人気なのだろう。
誰もがスマホを片手に、時間を潰したり連絡を取ったりしながら相手を待っている。
誰がreach731なのか、見当もつかない。花純もバッグからスマホを取り出した。
SNSアプリの、オレンジ色のアイコンをタップする。
花純のアカウント『jimiko』のホーム画面に、非公開の個人宛メッセージの新着を知らせる赤いバッジがついていた。
(reachさんだ……!)
午後二時五十分に、reach731からメッセージが届いていた。
『到着しました。着いたら、連絡ください』
慌てて返事を送る。
『お待たせしました。今、銅像の正面にいます』
『向かいます。黒のジャケットを着ています』
すぐに返事がきて、スマホを握る手が汗ばむ。けれど、緊張に呑まれている場合ではない。
銅像の正面には、花純を含めて十人ほどの女の人がいる。見つけてもらうためには、こちらもなにか目印になる特徴を知らせなければ。
『わかりました。こちらは――』
入力していた花純の手が止まった。
銅像の裏手から、ついさっき会ったばかりの御曹司が現れたのだ。
間違いない。舘入利一だ。
(うわっマズイ!!)
絶対会いたくない相手が、どうしてここに!
隠れなければ。顔を合わせるのも嫌だ。
それに、彼の一言を気にして着替えたなんて知られたくない。
慌てて人の波に紛れ、彼がやってきたのとは反対側から銅像の裏手に回り込んだ。
(なんであの人がここにいるの!? もうっ……いや、それよりreachさんに返事!)
『すみません、銅像の裏手に移動しちゃいました。ベージュのバッグを持っています』
『了解です』
『お手数をおかけします。待ってますね』
舘入利一と鉢合わせるのではないかという緊張と、reach731とこれから会うというドキドキが混ざり合って、鼓動がどんどん加速していく。
もう一度前髪をなおして、銅像の向こうからやってくる人に意識を向ける。
約束の彼は、黒のジャケット。しかし花純の側にやってくるのは開襟シャツ、Tシャツ……黒のジャケットは定番の服なのに、なかなかいない。男の人は四月はじめのこの時期、結構ラフだ。
じっと銅像の周辺を注視していた花純は、「ひっ」と息を吸い込んだ。
またしても、あの御曹司が姿を見せたのだ。
(もう、なんでこっちに来るの……!!)
逃げ出したい!
だが、銅像の正面から裏手に移動したばかり。また銅像の正面に移動すれば、reach731にどんな印象を与えてしまうか容易に想像がつく。
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