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第十九話 うっかり

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「ま、まことに申し訳ございませんっ! あの男が、じ、自分はワーガス様の友人だと言ったので……!」

 シャーロットにプチフールを持ってきた給仕は、動揺した様子でそう釈明した。
 菓子は厨房で作られたものではなく、前日に停車した駅のひとつで売られていたものだった。

 ヴィクターは気絶したままの赤毛の男と、何が添加されているかわからない菓子類を車掌に引き渡すと、給仕の涙ながらの説明を一応は受け入れて解放した。
 その間、シャーロットはまぶたの腫れた顔を恥じながらも、ひっそりとヴィクターの横についていた。

(男の人の手を自分から握るとか、姉様たちに知られたら頭はたかれそう……)

 俯けば視界に入る自分の手を見て、後悔と気恥ずかしさが悶々と沸き上がる。
 そんなシャーロットの様子をヴィクターが上から時折見つめていたことに、本人は気が付かなかった。


 ***


「……落ち着きがないということを、あのときは揶揄しましたが」

 コンパートメントに戻ると、常にない静けさを保つシャーロットの前にホットミルクを置いたヴィクターが、口を開く。

「今回のことは、俺の失態です。菓子が贈られた時点で明らかにあなたが狙われていたのに、やすやすとひとりで行かせてしまった」

 シャーロットは、フォームミルクを飾るキャラメルソースからそろそろと視線を上げた。
 相手はシャーロットに手を握られたことも、それを握り返したことも、なんとも思っていなさそうだった。
 ならばとシャーロットも、それにはもう触れないことに決める。

「……あのときは、コンパートメントに帰っちゃったかと思ったわ」
「まさか。一旦遠ざかるふりをしようかと思いましたが、ちょうど歩いてくる乗客がいたので、その足音をお借りしてやり過ごしただけですよ」
「そ、そう」

 鍵は針金で開けたという。器用なことだ。シャーロットはカップの温もりに手を添えながらそう思った。

「なんで気づいたの? わたしが捕まってるって」
「……鍵穴の回りに不審な傷が多数ついていたのもありますけど、いくらあなたでも閉じこもるタイミングが不自然すぎたので。……もう少しはやく鍵を開けられれば良かったのに、いかんせん人目を気にしながらで、遅くなったことも申し訳なかったです」

 シャーロットはテーブルを挟んで謝ってばかりの男を、不思議なものを見る目で見つめた。プチフールは違ったが、朝食後から数えれば、もう三度目の謝罪だ。

 そんなに謝らなくても。
 結局、怪我はほとんど負っていないし。
 あなたも大変だったし。

「……でも、危機に気づいてくれてありがとう」

 なんと言おうか迷ってから、シャーロットはそう伝えることにした。気まずそうに逸らされていたヴィクターの黒い目が、青い双眸に向く。

「意外だわ。あなた、へこむこともあるのね」

 ふふっと笑ったのは、シャーロットなりの気遣いだった。先ほど安心のあまり泣いたことで、相手に余計な罪悪感を抱かせてもよくないと思ったのだ。

 ヴィクターはちびちびとカップの中身を啜るシャーロットをしばらく眺めたあと、ふう、と息を吐いた。

「……俺も気をつけますが、あなたもあまり無鉄砲にならないでくださいよ」
「はいはい」
「リードをつけるわけにもいかないんですから」
「い、犬じゃないのよ、当たり前でしょ」
「檻がいいですね。猪用の頑丈な。俺もまわりも安心できて、室内に置いておけばバレにくい」
「あなた本当に反省してくれてるっ?」

 口のまわりのキャラメルソースを拭うのも忘れて喚いたシャーロットを見て、ヴィクターの表情からもようやく力が抜けたのだった。



 甘いミルクが減り、深いカップの底が見えてきた頃、ヴィクターがぽつりと言った。

「コンパートメントの番号は食堂車でばれたとあなたは仰いますが、あの男、ただの身なりのいい強盗ではないんですよね?」

 言われて、シャーロットは目をかっと見開いた。

「当ったり前じゃないっ! あの男、昨日わたしがこっちのコンパートメントで話してたときも覗いてたし、最初っからわたしたち狙いだったのよ!」

 シャーロットが食堂車で感じた乗客への既視感は、赤毛の男の存在によるものだった。
 男はシャーロットには粗野な物言いをしてきたが、給仕には訛りのない丁寧な話をしてきたとあって、それらしい振りに長けていると思われた。

「……なんでそれをそのとき言ってくれないんです……いや、もう、過ぎたことか」

 ぼやきにシャーロットが反論するより先に、ヴィクターは「あの男、なにか言っていましたか」と問いかけてきた。

「あなたのこと、事件の関係者かって。誰の差し金だってきいてきたわ」
「なるほど。陛下の命令だと教えましたか?」
「答えてないわ。でも、なんか勘違いしてるみたいだった」

 腕を組んできいていたヴィクターの眉が動いた。
 シャーロットはカップを置いて続ける。

「“あいつからの指示か?”ですって。命令主が陛下だとは思ってない言い方でしょ」
「指示……」

 小さく繰り返したヴィクターは、顎先に手を添えて視線を宙に漂わせた。
 シャーロットは相手の思考を邪魔してはいけないと知りつつ、つい思ったことを言ってしまった。

「でも、あの男の言うこと、どこまで信じていいのか疑問ね」

 こんなことを言っては、自分の伝えた言葉が身もふたも無くなるとはわかっていた。
 ヴィクターも訝しげに瞳を戻す。

「どういう意味です」
「……わたしが、フェリックスとその従者に危害を加えたのはあんたねって問いただしたら、しらばっくれたというか、何の話か分かってなさそうだったから……でも、そんなわけないわよね。そのあと、フェリックスにしたことを探られたくないんでしょって言ったら、否定しなかったし」

 言ってから、シャーロットの表情も自信なさげにくもった。

「……とっさにしらばっくれてから開き直ったのか、……まさか、逆で、本当に何も知らないのを、私に話を合わせてきたとか?」
「嘘を吐くのは、あなたが俺に情報を伝える可能性があるときだけでしょう」

 組んだ足のつま先でゆったり円を描きながら、ヴィクターは答えた。
 言葉の意味に、シャーロットは首をかしげる。 

「殺す前に、現状を確認するためだけにあなたと話したなら、わざわざ嘘を吐く必要はないでしょう。何を知りたいのかがシャーロットに伝わらなければ、問いただす意味もない」 
「…………あ、そ、そういうことね」

 殺す予定だったのだから、後のことを考えて騙す必要がないということに思い至ったシャーロットは指先がぞわっと震える感覚を味わった。それが相手に伝わらないように、空のカップを意味もなく口元で傾けた。

「そ、それじゃあ男は嘘をついてないってわけで……そうするとよくわからないわね」
「ただ、誰かの指示を受けていたことと、フェリックス・ロザードの一件に無関係ではないことだけは確かです。タイミング的に、偶然強盗に狙われただなんて思っていませんでしたが」 
「そう、偶然とは思えないと言えば」

 シャーロットは自分に降りかかった災難への恐怖を振り払うために、思ったことを素直に口にした。

「ゴルバック氏の体調不良だけど……」
「……ゴルバック?」
「あら、忘れちゃったの? ロイド・ゴルバック。フェリックスの従者だったひとよ」
「……ああ、あの茶色い目の」
「容貌までは知らないけ、ど……」

 ヴィクターは足を組んだままだったが、そのつま先はもう動いていない。
 そして、その黒い双眸はその日一番冷たく冴えていた。

「……」

 シャーロットは自分の口を閉じるのが遅かったことを知った。 

「……その様子だと、以前に会ったことがあるとも、フェリックス殿から生前聞いていたと言い逃れる気も、なさそうですね」
「……し、新聞に」
「ほう、なんという新聞社の、いつの紙面で?」
「えっ、えーっとね……えっとねぇ……」
「言えませんよね。そんな記事は見ていませんものね」

 ぐうの音も出ない。
 ヴィクターの手が、フロックコートの内側にのびる。

「……俺の手帳以外からは、あなたには得られない情報だものな?」

 テーブルの上に、これ見よがしに放り出された黒い革の手帳を、直視することはできなかった。
 冬だというのに冷や汗が止まらず、室内だというのに顔は青ざめ、さっきまでとは違う理由で背筋の震えが止まらない。



 シャーロットが己の喉を自ら締める寸前、天からの救いの如くコンパートメントの扉がノックされた。

「――な」

 眼力で射殺せそうな一睨みをシャーロットに送ったヴィクターは、扉口で車掌から受けた説明に唖然とした。
 シャーロットも、罪悪感といたたまれなさから一転して、愕然とした表情で冷や汗まみれの車掌の顔を見つめた。  

『先ほどの駅で警察に引き渡す際、意識を失ったままに見えていた赤毛の男が忽然こつぜんと姿を消してしまったのです……』

「忽然とって、なによ……」
 
 車掌が去ったあと、渋い顔で戻ってきたヴィクターを前に、シャーロットはショックを隠し切れない顔で呟いた。

『……それから、フェルマー様のお部屋の片づけですが……』

「……か、鍵が歪んで閉まらないって、なんなのよぉ……」

 シャーロットが頭を抱える向かいで、ヴィクターも額を手で覆って俯いた。

 ――強引な鍵開けで不自然な手ごたえを感じた自覚のある男が、彼女に四度目の謝罪をするまでもう間もなくである。





 
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