最果てからきた魔女

北路 洋

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「官邸」1

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 東京都千代田区永田町にある総理大臣官邸の五階。
 エレベーターホールの扉が静かに開き、初老の紳士が姿を表した。
 白髪混じりの頭髪を短く刈り込み、姿勢の良い長身をイタリア製のダークスーツで包んだ、如何にも年季の入ったキャリア官僚らしい品格を備えた紳士である。
 迂闊にも扉の真ん前でエレベーター待ちをしていた若い女性職員が、紳士の常の人には有らざる冷徹さの隠った鋭い視線に押し戻されるようにして道を開け、
 「お、おはようございます。」
 慌てて両手を前で合わせながら、四五度の会釈をした。
 「おはよう。」
 紳士は歯切れの良い、但し抑揚の無い事務的な挨拶を返しながら、畏まる女性職員に一瞥もくれず、そのまま総理大臣執務室へと向かって歩き出した。
 総理大臣執務室に続く廊下の片側を占めるガラス張りの向こうには官邸五階の特徴である美しい石庭がある。これは訪れる者の目を楽しませる工夫なのだが、今の紳士にとっては一顧だにする価値もないらしい。
 顎を上げて視線は真っ直ぐ前を向いたまま、足早に通り過ぎてしまった。
 紳士は総理秘書官室の前で一旦立ち止まったが、扉をノックしてからは秘書官たちの返事を待つこともせず中に入った。
 「いるかい? 」
 入り口の一番近くに座っていた若い秘書官に向かって内閣総理大臣の所在を問う。
 「少々お待ちください。」
 秘書官は直にインタフォンの受話器を取り上げたが、紳士は総理大臣の所在さえ確認できれば、その都合など一々聞く気は無いようで、秘書官室に入る時と同様の調子で勝手に執務室に向かおうとした。
 「ちょ、ちょっと! 」
 秘書官は慌てたが、耳に当てた受話器の向こうに総理大臣の声が聞こえたので、紳士が執務室のドアに触れる前に大急ぎで彼の来訪を告げた。
 「総理っ、内調の渋江さんです。」
 おそらく、通して構わないとの指示があったのだろうが、それを伝えるまでもなく渋江は執務室のドアをノックしていた。
 「入りますよ。」
 と、声を掛けながら渋江はドアを勢い良く開けた。
 「ああ、ごくろうさん。」
 ベージュの内装で囲まれた然程広くもない部屋の奥、質素な木製の執務机に肩肘を突いた内閣総理大臣佐竹重宣は、つい今し方まで片手に持っていた無線電話機のスイッチを切り、内閣情報調査室の渋江正満内閣情報官を迎えた。
 渋江がドアを後ろ手に締めた後、この場に第三者がいたとしたら首を傾げただろう。
 官邸の入り口を潜ってからずっと、擦れ違う者たちを冷厳な雰囲気で萎縮させ続けていたインテリジェンス機関のトップから鋭さが消え、親しい友人の宅を訪ねた好々爺の顔に変わっていたのである。
 それもそのはず、この二人、政治家と官僚という立場の違いはあるが、旧知であり気の置けない者同士である。
 互いに秘書官や部下たちの前では気難しく厳しい強面を貫き通しているが、二人きりになれば最も腹を割った話がしやすい知己であり、佐竹にとって渋江は内閣官房に於ける腹心中の腹心と言うべき存在でもあった。
 もちろん、不躾な訪問を程度を咎めるような堅苦しい間柄ではない。
 「おっと、電話中でしたかな? 」
 渋江は一旦足を止めかけたのだが、
 「いや、もう終わったよ。」
 佐竹の応えを聞いて、そのまま執務机の前に進んで脇に抱えていた書類鞄を開き、クリアケースに入った書類の束を取り出した。
 「電話の相手は横須賀ですかな? 」
 「ああ、ブルーリッジからだよ。アメリカ第七艦隊は明日横須賀を引き払ってハワイに向かうそうだ。」
 「なるほど、別れのご挨拶ですか。」
 渋江は佐竹に書類を手渡すと、執務机の横にある応接セットのソファに腰掛けた。
 「こんな日が来るとは、一年前までは予想もしなかったな。」
 佐竹はクリアケースの中からクリップで閉じられた書類の束を指で摘んで取り出しながら溜め息を吐いた。
 「戦後八〇年以上も続いた在日米軍の歴史が、これで終わったということですか。ま、こんな状況じゃなきゃ感慨深いことのような気もしますがね。」
 そう言いながら、渋江は多少落胆したような雰囲気を漂わせている佐竹に苦笑した。
 (意外に情の深い人だからな。)
 嘗て親しく接した者たちが去るということに、哀愁を感じているのだと思った。
 在日米軍の撤退は本国の状況を考えれば当然のことだった。
 昨年の夏に始まった「浸食」のおかげで、アメリカ合衆国は首都ワシントンやニューヨークを含む東海岸の全都市と五大湖周辺の都市をも失い、現在はサンフランシスコに臨時の首都を構えて必死で自国の立て直しを図ろうとしている。
 「そのためには、軍の力は欠かせないそうだ。」
 「と、大統領から言われたんですか? 」
 「彼は未だ副大統領のままだよ。忙し過ぎて宣誓もしていないらしい。」
 佐竹は、サンフランシスコで山積する諸問題に忙殺されながら頭を抱えているであろう副大統領の顔を思い出して気の毒そうな顔をした。
 「奴は気の小さい男ですからね。無傷で残っているのが日本にいた第七艦隊とサンディエゴにいた第三艦隊だけなんで大事にしたいだけでしょう。」
 渋江は、自国の都合で帰らなければならなくなった同盟国の軍隊を惜しんでも意味は無いと冷たく言った。佐竹と違って、外交に伴う人間関係に情を絡めるつもりは少しも無いようである。
 「だが、これで日本国中の米軍基地が空っぽになったわけだからな、今後は中国や北朝鮮の面倒は我が国だけで見なきゃならん。奴ら、アメリカ軍が撤退した極東で何か良からぬことを企むかもしれないぞ。厄介だと思わんか? 」
 ヤレヤレと首を左右に振った佐竹だったが、ふと渋江が返事もせずに意味有り気な顔で自分を見つめているのに気付いて怪訝そうな顔をした。
 「何だ? 言いたいことがあったら言えよ。」
 「そんな心配は無用です。」
 そう言って渋江はニヤリと笑った。
 「どうやら、中国なんて国は無くなっちまったみたいですよ。」
 「どういうことだ? 」
 渋江は佐竹が手にしたまま開かずにいる書類を指差した。
 「そこに重慶政府が壊滅したという報告が上がってるんで見て下さい。」
 「重慶政府が壊滅? そんな馬鹿な! 」
 佐竹は信じられないという顔をしながら書類を開いた。
 中国は最も遅く「浸食」の始まった国であり、その被害は甚大と聞いている。
 広大な国土の三分の二を失い、首都北京も完全に消滅してしまっていた。
 だが、共産党政府はしぶとく生き延び、現在は南部の重慶に政府が丸ごと移転して、辛うじて生き残った上海や香港などの大都市と連絡を取り合いながら国を纏め、山東半島より北側、内モンゴル自治区から中国東北部に掛けてを占領した「異世界」の国家と戦い、失地と国力を回復すべく奮闘しているはずだった。
 「それに、奴らには人民解放軍一〇万が付いている。中世レベルの「異世界」の軍隊なんかに負けるはずがないだろう。」
 「それがねぇ、負けたんですよ。昨夜から重慶は火の海です。」
 渋江は書類を読むだけではなく添付した画像も見てみるように言った。
 「そいつは我が国の偵察衛星が捕らえた「異世界」の軍隊です。どうやら支那大陸は三国志の時代ぐらいにまで戻っちまったらしいですね。」
 佐竹が手にした画像は、衛星軌道上から撮影された高解像度の写真画像らしいが、
 「何だこれは? 」
 そこに映っていたのは、まるで中国を舞台にした時代劇のモブシーンである。
 まるで始皇帝陵から発掘された兵馬俑を思わせる地味な革製の鎧を着た兵士たちが、剣や槍を振り回しながら高層ビルの立ち並ぶ重慶の街を闊歩している。
 「ち、重慶センター・・・ビジネス地区か? 」
 一瞬、佐竹は合成ではないかと思ったほどに違和感のある画像だった。
 「ええ、間違いなくビジネス地区です。」
 「信じられん。」
 どこから見ても「異世界」の歩兵たちは見窄らしい。見掛けは猛々しいが、武器は接近戦用の剣や槍しか持っていないし、画像には見えないが飛び道具は弓と投石ぐらいと聞いている。標準装備の革鎧は九ミリの拳銃弾でも十分に貫通できそうなほど貧弱である。
 「ところが、そいつらが重慶を火の海にしたんですよ。」
 「こんな連中が、人民解放軍を破ったって言うのか? 」
 博物館にあるような武器しか持たない中世の軍隊が、最新の火力を有する現代の軍隊と戦って勝ったなどとは、佐竹には到底信じることができなかった。
 「まあ、そう思われるのは当然ですが、今開いているページの次の次を読んで下さい。」
 佐竹は渋江に言われたページを開いて読み始めたのだが、ある単語に引っ掛かって思わず顰め面になった。
 「妖術だと? 」
 渋江は、佐竹がそんな反応をすることは予測済みなので顔色を変えなかった。
 「そうですよ。」
 事も無げに応えてから、佐竹にもう一度「異世界」の軍隊が写っている写真に戻って、真ん中辺りにいる派手な鎧を着て馬に跨がる指揮官らしき男を確認しろと言った。
 「そいつが妖術使いですね。何でも風と炎の術を扱うらしいんですが、そいつの力で中世の軍隊は一〇万の人民解放軍を撃破して、重慶に火を放ち、七〇〇万の市民を虐殺したと聞いてます。」
 佐竹は、真顔で淡々と説明を続ける渋江に呆れ顔を向けた。
 「そんな与太話、誰から聞いてきたんだ? 」
 長い付き合いのある信頼すべき腹心が、昨年来の異変続きで気が狂れてしまったのではないかと心配しているような顔でもあった。
 「情報源は、香港で我々が確保した人民解放軍の生き残りです。」
 「そいつの頭は大丈夫なのか? 」
 「重慶の市街地を守備していた大隊長さんですけどね、陥落前に部下や妻子を置き捨てて全財産抱えて逃亡するぐらいには正気だったみたいです。ああ、ついでに私の頭も大丈夫ですからご心配なく。」
 渋江は、佐竹が自分に向ける疑いの眼差しを制するように言いながら笑った。
 まあ、佐竹の気持ちは分からないでも無い。
 日本の運命を託された男にとって、近隣諸国の情勢は最も正確に掴んでおきたい情報である。そのための目や鼻や耳であるはずの内閣情報調査室が「異世界」の不確実で現実離れしたホラ話を掻き集めて、それを首相に報告しに来るようになっては終いだとの危機感があるのだ。
 渋江は、そんな佐竹の気持ちを察しているから強硬な自己主張は避けた。
 「ま、私も最初に部下から報告を受けたときは、今の総理と同じ反応をしたから気持ちは分かりますよ。でもね、今は考えが変わって「異世界」ってのは何でも有りの世界だと思うようになりました。ドラゴンなんかが、良い例でしょう。あんな口から火を吐くバケモノが亜音速で飛び回っているなんて、我々の世界じゃファンタジー以外の何モノでもないんじゃないですか? 」
 「それは、そうだが・・・ 」
 渋江の尤もと思える指摘に佐竹は言葉を濁した。
 昨年の「浸食」以来、各所から首相の基に上がってくる様々な報告の中には目や耳を疑うような内容が多かったが、ドラゴンはその中でも最たるものだった。
 空自の中部航空方面隊司令部からの報告を受けた際、政府には誰一人信じる者はいなかったが、冷凍されたドラゴンの死骸が東京に送られてきた時、それが現実だと否応無く認識させられてしまった。
 これまで、そんな類いの話が多過ぎた。
 「ドラゴンが飛んでいるなら、妖術があっても不思議は無いということか? 」
 渋江は頷いた。
 「始めて聞いた時には信じられないことでも、後から証拠を突き付けられて信じざるを得なくなってしまう。そんなことには、ここ数ヶ月の騒動で慣れっこになってしまいましたが、そろそろ我々は既成概念を捨てて何事も信じることから始めた方が良い時期になったんじゃないかと思ってます。」
 渋江は「異世界」に関する報告について、疑って掛かって後から事実として認識するより、そのまま信じて対策を練るほうが得策だと考えていた。未知の脅威を相手にして後手に回るよりも、先手を打って空振りするほうが安全ということである。
 妖術の件、渋江も自分の目で見たわけでは無いので実態は知らない。だが、それを裏付けるような報告は他方面の部下からも上がってきていたので、早々に疑うのを止めて首相に報告する気になったのだ。
 「だが、ドラゴンは「異世界」の生物として科学的に理解しようもあるが、妖術となると非科学的過ぎてなぁ。」
 佐竹は総理大臣という立場上、渋江ほど柔軟になれずにいた。
 彼が信じて動くときは国全体が動くことになるわけで、現状では限りある金や資源に責任がある身として迂闊に空振りをするわけにはいかないと思っている。
 そんな佐竹を説得し、尻を上げさせるのが渋江の役目なので、二人のバランスは悪くないかもしれない。
 「妖術が科学的でないかどうかは調べてみないと分からんでしょう。超能力とかESPと言ったら少しは考えてみる気になりませんか? 」
 渋江は言葉を変えてみることにした。
 「我々の世界でも、四次元的な能力の存在は昔から議論され続けていますし、嘗てアメリカでは超能力の軍事利用を目指したスターゲイト計画なんてのもありました。我々の世界では失敗しましたが「異世界」では超能力の実用化に成功したという可能性はあるかもしれませんよ。」
 「超能力の実用化ね。なるほど、妖術などというファンタジーな話を聞かせられるより現実的な気はするか・・・ 」
 妖術という単語が超能力に変わっただけで、佐竹の気分は多少変わったらしい。
 「異世界」の事象と出会う度、どうしても我々の世界の常識から外れていることが多過ぎるので、事象に付ける名称はフィクションから頂くことが多かった。
 「ドラゴン」などは良い例で、正式に学名が付けられるまでの暫定処置として、その外見に合わせて架空の動物の名称を当てたわけである。
 「妖術」も、同じ乗りで渋江の部下が名付けたのだが、首相に提出する報告書の中で用いる名称としては少々現実から離れ過ぎていたかもしれない。
 「これは私見ですが、私は「来訪者」たちの中世的な生活は超能力の実用化に成功した結果なんじゃないかと思ってます。学者の話では、彼らの有史は五〇〇〇年ほどで我々と変わらないのに、その間に物理学や化学は全く発達していないらしいんです。人間は必要に応じて様々な発見を積み重ねていく生き物ですから、これは非常に不自然なことらしいですね。」
 渋江は佐竹に少し待つように言ってから、ソファの脇に置きっぱなしにしていた鞄の蓋を開け、中からタブレットを取り出した。
 「これまでに内調が得た「異世界」の知識の中から幾つかの例を上げてみましょう。」
 渋江は素早くタブレットを操作し、関連の書類を開いた。
 「例えば「来訪者」たちは羅針盤を知りません。我々の世界では一一世紀頃に中国で発明され、それが後の大航海時代を齎しましたが、彼らは羅針盤を発明できなかったようです。ところが、彼らは海岸線を離れて大洋を渡る長距離の航海を当たり前のようにするんですよ。しかも、大航海の歴史は我々より数百年も前に始まっているほどです。」
 「もしかして「来訪者」たちは超能力で海を渡るというのか? 」
 「超能力で海を渡るってのとは少し違うんですが、彼らは航海の際には必ず案内人という役職の者を立てて航路の決定を一任するのが伝統らしいです。で、その案内人は羅針盤どころか地図も無い状態で目的地までの指示を的確に出せる者だそうなんです。こんな便利な超能力があれば、羅針盤を求める必要はありません。」
 渋江は、さらにタブレットを操作して話を続けた。
 「彼らは火薬も知りません。鉄砲や大砲は存在しません。我々の世界では一〇世紀以前に中国で発明されていますが、彼らの世界では妖術のような超能力が飛び道具や大量殺戮破壊兵器になるので火薬を生み出す必要は無かったんです。」
 渋江が、立て続けに強く断言するような口調で言い切るので、これらに佐竹は思わず頷いてしまっていた。
 「人民解放軍が妖術で破れたという件が、それだと言うんだな? 」
 「ええ、あれで確信は強まりましたね。」
 だが、渋江が見るところ、佐竹は未だ半信半疑といったところのようである。
 それでも、特に渋江の話を嫌悪したり、拒絶しようとしている様子は無い。
 妖術という単語に顔を顰めた時に比べたら、かなり渋江の話に興味が湧いてきているようである。
 「他にも色々な事例が上がってきてますが、どうやら「来訪者」たちは超能力の実用化に成功してしまったことで、物理学や化学が発達する機会を失い、五〇〇〇年の有史がありながら、中世段階の生活をしていると考えられます。」
 渋江は、そう結論付けた。
 佐竹は超能力の存在については信じ切れていなかったが、「来訪者」たちの進歩が中世の段階で停滞してしまっている理由として、渋江の話は頷けるような気がしていた。
 「まあ、私も話して直に全てを信じてもらえるとは思っていませんよ。こんな特異な話を無条件で受け入れる総理大臣なんて、それは少々問題があるかもしれませんしね。」
 渋江は、首を傾げ戸惑いながらも話を聞き続けていた佐竹を労るように笑っていたが、その顔を急に険しく変えた。
 「但し、話は戻りますが、事の真偽を確かめるよりも、そのまま信じて対策を練るほうが得策という私の考えだけは賛成していただきたいですな。」
 打って変わった渋江の厳しい口調に佐竹は身構えた。
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