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退院のその日、ゼファイル村長が子供を連れてくるという約束の時刻。
ゲオルクもイルゼも始終落ち着かない。
イルゼもそわそわしながら家事をこなしていたが、ゲオルクのそわそわは尋常ではなかった。既に鍛冶屋の仕事は再開していたが、この日ばかりはどうにも手につかない。
「ヒゲ、剃り残しはないか? 髪は乱れてないか? 服はこれでいいか?」
「ちょっとは落ち着いたらどうなの。相手は子供だよ。図体ばかりで気が小さいんだから」
「おい、一張羅出してくれ」
「そんなものはないよ」
「あっただろ。結婚する前によく来ていた青いシャツだよ。胸のところに小さなポケットが付いてて錨の刺繍がしてあったやつだ。気に入ってたんだ」
「カビが生えてたんで捨てちゃったよ。五年も前のことよ」
ゲオルクは膨れっ面をイルゼに向けた。
もうそろそろだ。昼前には連れていけそうだと昨日、使いが来た。
ゲオルクは窓から外の様子を見ていた。
すると、ゼファイル村長の姿が見えた。杖を突きながらゆっくりと歩いてくる。その脇に小さな子供を連れていた。
「来たぞ。来たぞ。イルゼ、落ち着け、落ち着け」
「あんたよ」
ゼファイル村長の足音がドアの前で止まった。ノックとともに「ゲオルクいるか?」とドア越しにしゃがれた声が響いた。
イルゼはドアを開けるとゼファイル村長に応対した。
「村長、お待ちしておりました。この度は、お世話になります」
ふと見ると、ゼファイル村長の足にしがみつくように小さな男の子が不安そうに立っていた。
金髪のサラサラ髪、瑠璃色の瞳、きりっとした眉、白い肌、子供ながらに通った鼻筋。まだ、額には傷が残ってはいるものの今までに見たこともないような美しく、可愛い男の子だった。しかし、緊張と恐怖のせいか、その表情には固さが見られる。
イルゼはゲオルクに振り返ると渾身の力を込めて怒鳴った。
「あんた、こんなにかわいい子を百回も殴ったのかね。地獄へ落ちるよ。どう見たらゴブリンに見えるの」
ゲオルクもその子供の顔を見てはっとした。あの時の姿からは想像もできないほど見違えていた。泥と垢と埃で汚れ、悪臭を放っていたあの子供である。そしてゴブリンと勘違いして滅多打ちにしたあの子供である。
「いや、百回は殴ってないと思うが……すまない。本当にごめんよ」
ゲオルクは謝りながら子供に近づくが、子供は怖がって逃げようとした。
「もう絶対に叩いたりしないから、信じてくれ」
子供はその言葉を聞いて少し安心したのか力を抜いた。それでも表情は固い。
——ああ、そういうことか……俺、この人にボコボコに殴られたんだ。その衝撃で前世の記憶が蘇ったんだ。あの爺さんに「いずれ、記憶が消えるだろう」って言われていたんだけど……逆になっちゃったんだ。それで蘇る前の記憶がほとんど消えたわけだ。で、ここでの俺って誰なんだろう?——
席に着くとゼファイル村長はおもむろに口を開いた。
「お役人から話は聞いていると思うが、この子を二人に預けるんだが、覚悟はいいな」
「へえ」とゲオルク。
「はい」とイルゼ。
「それでだ、この子には以前の記憶があまりない」
「というのは、どういうことで?」とゲオルクが怪訝に聞いた。
「この人が殴ったから、頭がどうにかなってしまったんですかね、村長」
「そうではないらしい。九歳で東の方から来て、森で生活していたという記憶はあるのだが、それ以前の記憶がないのじゃな。つまり名前も生まれも、なぜそうなったかも覚えておらん。話は普通にできる」
ゲオルクとイルゼは困ったような表情で子供を見ていた。
「まず、名前が無い。で、お前ら二人に名前を決めてもらいたいのじゃな」
「名前ですか。と言われても、すぐにとは……。頭が悪いせいか、いざとなったら何も浮かばんのです。村長が決めてください」とゲオルク。
「わしがか……それでもいいが。……そうじゃな、では、わしが尊敬していた司祭の名前はどうじゃろ。エルンストじゃ」
「エルンストですか。では、うちの名前と合わせてエルンスト・ラインハルトか。愛称エルンでいいか」
「いいんじゃない。エルン」とイルゼも復唱した。
エルンは皆の顔を順に見つめながらきょとんとした目をしていた。
「いいか、お前は今日からエルンだ。そしてうちの子だ。いいな。文句は言わせねえ」
「僕、エルンなの?」
ゲオルクとイルゼは初めてエルンの声を聴いた。嬉しさが込み上げた。途端に家じゅうが華やかになった。
「そうだ、エルンだ」 「あなたはエルンよ」
ゲオルクは突然立ち上がると歩み寄ってエルンを抱き抱え、振り回して叫んだ。
「お前はエルンだ。エルン、エルン、エルンスト・ラインハルトだ」
エルンはそれでもきょとんとした目をしたままだ。
ゼファイル村長は帰り際、「酒と博打を慎め」とゲオルクに釘を刺した。
「へえ、お役人様にも言われました」
ゲオルクは渋々と頷いた。
ゲオルクもイルゼも始終落ち着かない。
イルゼもそわそわしながら家事をこなしていたが、ゲオルクのそわそわは尋常ではなかった。既に鍛冶屋の仕事は再開していたが、この日ばかりはどうにも手につかない。
「ヒゲ、剃り残しはないか? 髪は乱れてないか? 服はこれでいいか?」
「ちょっとは落ち着いたらどうなの。相手は子供だよ。図体ばかりで気が小さいんだから」
「おい、一張羅出してくれ」
「そんなものはないよ」
「あっただろ。結婚する前によく来ていた青いシャツだよ。胸のところに小さなポケットが付いてて錨の刺繍がしてあったやつだ。気に入ってたんだ」
「カビが生えてたんで捨てちゃったよ。五年も前のことよ」
ゲオルクは膨れっ面をイルゼに向けた。
もうそろそろだ。昼前には連れていけそうだと昨日、使いが来た。
ゲオルクは窓から外の様子を見ていた。
すると、ゼファイル村長の姿が見えた。杖を突きながらゆっくりと歩いてくる。その脇に小さな子供を連れていた。
「来たぞ。来たぞ。イルゼ、落ち着け、落ち着け」
「あんたよ」
ゼファイル村長の足音がドアの前で止まった。ノックとともに「ゲオルクいるか?」とドア越しにしゃがれた声が響いた。
イルゼはドアを開けるとゼファイル村長に応対した。
「村長、お待ちしておりました。この度は、お世話になります」
ふと見ると、ゼファイル村長の足にしがみつくように小さな男の子が不安そうに立っていた。
金髪のサラサラ髪、瑠璃色の瞳、きりっとした眉、白い肌、子供ながらに通った鼻筋。まだ、額には傷が残ってはいるものの今までに見たこともないような美しく、可愛い男の子だった。しかし、緊張と恐怖のせいか、その表情には固さが見られる。
イルゼはゲオルクに振り返ると渾身の力を込めて怒鳴った。
「あんた、こんなにかわいい子を百回も殴ったのかね。地獄へ落ちるよ。どう見たらゴブリンに見えるの」
ゲオルクもその子供の顔を見てはっとした。あの時の姿からは想像もできないほど見違えていた。泥と垢と埃で汚れ、悪臭を放っていたあの子供である。そしてゴブリンと勘違いして滅多打ちにしたあの子供である。
「いや、百回は殴ってないと思うが……すまない。本当にごめんよ」
ゲオルクは謝りながら子供に近づくが、子供は怖がって逃げようとした。
「もう絶対に叩いたりしないから、信じてくれ」
子供はその言葉を聞いて少し安心したのか力を抜いた。それでも表情は固い。
——ああ、そういうことか……俺、この人にボコボコに殴られたんだ。その衝撃で前世の記憶が蘇ったんだ。あの爺さんに「いずれ、記憶が消えるだろう」って言われていたんだけど……逆になっちゃったんだ。それで蘇る前の記憶がほとんど消えたわけだ。で、ここでの俺って誰なんだろう?——
席に着くとゼファイル村長はおもむろに口を開いた。
「お役人から話は聞いていると思うが、この子を二人に預けるんだが、覚悟はいいな」
「へえ」とゲオルク。
「はい」とイルゼ。
「それでだ、この子には以前の記憶があまりない」
「というのは、どういうことで?」とゲオルクが怪訝に聞いた。
「この人が殴ったから、頭がどうにかなってしまったんですかね、村長」
「そうではないらしい。九歳で東の方から来て、森で生活していたという記憶はあるのだが、それ以前の記憶がないのじゃな。つまり名前も生まれも、なぜそうなったかも覚えておらん。話は普通にできる」
ゲオルクとイルゼは困ったような表情で子供を見ていた。
「まず、名前が無い。で、お前ら二人に名前を決めてもらいたいのじゃな」
「名前ですか。と言われても、すぐにとは……。頭が悪いせいか、いざとなったら何も浮かばんのです。村長が決めてください」とゲオルク。
「わしがか……それでもいいが。……そうじゃな、では、わしが尊敬していた司祭の名前はどうじゃろ。エルンストじゃ」
「エルンストですか。では、うちの名前と合わせてエルンスト・ラインハルトか。愛称エルンでいいか」
「いいんじゃない。エルン」とイルゼも復唱した。
エルンは皆の顔を順に見つめながらきょとんとした目をしていた。
「いいか、お前は今日からエルンだ。そしてうちの子だ。いいな。文句は言わせねえ」
「僕、エルンなの?」
ゲオルクとイルゼは初めてエルンの声を聴いた。嬉しさが込み上げた。途端に家じゅうが華やかになった。
「そうだ、エルンだ」 「あなたはエルンよ」
ゲオルクは突然立ち上がると歩み寄ってエルンを抱き抱え、振り回して叫んだ。
「お前はエルンだ。エルン、エルン、エルンスト・ラインハルトだ」
エルンはそれでもきょとんとした目をしたままだ。
ゼファイル村長は帰り際、「酒と博打を慎め」とゲオルクに釘を刺した。
「へえ、お役人様にも言われました」
ゲオルクは渋々と頷いた。
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