ブルー・リグレット

梓月 霜

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5.穏やかに過ぎゆく時間

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 彼を雇って一番よかったのは、やはり食事の面である。
 何を食べたいかリクエストしておけば、藤宮はそれを作ってくれた。作ったことがないという料理でもレシピを見てそれなりのものを出してくる。とくに食べたいものが思いつかなかった時には、今まで頼んだことのないものを適当に選んで作ってくれた。名前さえ知らなかった料理が出てくることもあり、それはそれで見識が広がっていいものであった。
 男の一人暮らしではいい加減になりがちな食生活が改善され、随分と健康的な食事をするようになったおかげで肌質もよくなった気がする。
 最初のころは仕事部屋に食事を持ち込んで食べていたが、今は藤宮と二人ダイニングで食べることが多い。
 同じものを二人分作るのであれば食費はこちら持ちでいいと言ってあるので大抵は藤宮も同じものを食べる。
 だが、その夜は彼の前に置かれていたのは僕とは別のメニューだった。
「クリームシチュー嫌いなの?」
 僕の前にあるのはこってりとした乳白色のクリームシチュー。中に入っている具材は同じようだが彼の前にあるのは明らかに黄色とも茶色ともつかぬ濃い色をしたカレーだ。
 たまたまCMで見かけて食べたくなりクリームシチューを今夜の食事にリクエストしたのだが、それとは別にあえてカレーを用意しているのを不思議に思って訊いてみる。
 どうしてもクリームシチューが食べたかったわけでもないので、言ってくれれば別のにしたのに。
「いや、嫌いなわけじゃねえんだけど夜にパン食うのがなんか慣れなくて」
「ああ」
 苦笑いしながら答えた彼に納得する。クリームシチューが入ったスープ皿の横に添えられているのはトースターで温められたフランスパンだ。朝食ではむしろ気軽に食べられていいとする人も多いが、日本の食卓で夕飯にパンを主食とすることは少ない。慣れないという彼の気持ちもわからなくはなかった。
「じゃあ、ご飯にかければよかったのに」
「それもなんか違う気がしてなあ」
 ぼやく彼がスプーンの先でカレーにまみれた人参をつつく。僕の母親はカレーなどの具をわりと小さめに切る人で煮込んでいる間にじゃがいもなどはほとんど原型をなくしてしまっていたが、藤宮のは食べ応えもあって程よい感じの一口大だ。
「僕のうちではクリームシチューにご飯が定番だったよ」
「そうなのか。じゃあ、パンじゃない方がよかったか?」
「いや、パンでいいよ。シチューにはパンの方が好きかな」
「そっか。覚えておく」
 そう返してカレーを口に入れる藤宮を見て、僕もシチューを口に運ぶ。昔、母が作ってくれたものとは味が違った。母が作ったものも子供の自分には美味しくはあったが、あれは市販品を利用していたので誰が作ってもほぼ同じ味だろう。
「そういえばこれ、ルーじゃないよね」
「ああ。小麦粉とバターから作った。うまくないか?」
「美味しいよ。藤宮が作る料理って本格的だよね」
「まあ、飲食店でバイトしてたこともあるし、一から作る方が安かったりもするしな」
「もしかしてカレーもスパイスから作ってる?」
「いや、こっちは市販のルーに手を加えただけ。即席で作ったし。でも、材料があればちゃんと作るぜ」
「じゃあ、今度作って。辛さは控えめで」
「おう」
 こんな何気ない会話は僕にとって新鮮だった。彼にとってみればありきたりなやり取りも、僕にしてみれば人生で初めてみたいなものだ。
「あー、そうだ。一つお願いしてもいいか?」
 手を止め、不意に彼が切り出す。
「何?」
「キッチン鋏買ってもいいか? お前んち調理器具少なすぎるんだよ」
 言われてみれば、ここに引っ越して来たときに適当に買ったキッチンセットしかない。まな板と包丁さえろくに使ったことがなかったので気にしていなかったが、きちんと料理するには確かに器具が足りていないだろう。
「いいよ。必要なものは買って。高すぎなければなんでもいい」
「おう、サンキュ。じゃ、菜箸とか買い足しとく。あと適当に鍋とかも」
「あ、中華鍋とかはやめてよ。邪魔だし僕扱えないし」
「いや、IHじゃ使えねえよ」
 なんにも知らないんだな、という目で見られた。
 だがしかし、二十代前半の男が家事にも家事道具にも疎いのは別に不思議じゃないだろう。呆れられるのは理不尽だ。
 若干の不満を抱く僕をよそに藤宮は明るい口調で告げる。
 「でも、でかい中華鍋で豪快に炒飯とか作ってみたいよな」
 「じゃあ、中華料理屋でバイトでもすれば?」
 「いや、前にちょっと働いたことあんだけど、ゴキとか鼠とかちょろちょろしててさ、なんか萎えて辞めた」
 「ちょ、やめてよ。食事中に」
 飲食店で鼠などが見かけられるのはそう珍しくないとは知っている。実際、学生時代にバイトしていたチェーン店でも小さな鼠が出たとかの話はあった。しかし、このタイミングで色々と想像してしまった僕は非難の目を向けた。
 「ははっ、ごめん」
 からりと笑った彼はカレーを口に運ぶ。他愛無い会話。気やすい空気。まるで普通の友達のような。
 こそばゆい感覚と純粋にこの時間を楽しんでいる気持ちと、そんな自分を戒めるようなざらついた背徳感。
 彼の眼には映らない透明なナイフを懐に隠しながら、高校時代ほとんど話したこともないような同級生の頼みを断り切れずに助けてあげてるかのような顔をしている。
 だけど、そのナイフを自分がどう使うかは僕もまだ知らない。


 翌日の昼食は天津飯と杏仁豆腐だった。
 昨夜の話から中華を作ってみたくなったらしい。もちろん、料理の素などを使わず一から作られている。天津飯も杏仁豆腐も母が家で作ることはなかったので、中華料理店で出されるものと味の変わらぬそれらに感心する。
「杏仁豆腐なんて家で作れるんだ」
「買い物行ったら杏仁霜きょうにんそう売ってたからさ。賞味期限近い牛乳も残ってたしちょうどいいかなって思ったんだけど」
 そこで言葉を止めた藤宮は少し微妙な顔をする。
「だけど?」
「勢いで買ったけど杏仁霜って他にあんま使わねーよなあって」
 必要な食材は好きに買っていいと言ってあるが、きちんと使い切れとも言ってある。彼がここを去ったとき、大量の食材を残されても困るからだ。杏仁霜なんて今初めて聞いたようなものなどが残っていても使いこなせずにゴミ箱にいく未来しか見えない。
「まあ、料理サイトとか見て適当に消費してみるわ」
「そうして。杏仁豆腐も美味しかったから近いうちにまた作ってくれても構わないよ」
 スイーツ好きというほどではないが、カロリーが高すぎたり甘すぎないものであれば普通に食べる。三時のおやつは欲しいと言っていないので出てこないが、時々食事と一緒に出されるちょっとしたデザートはいつも美味しくいただいている。杏仁豆腐ならさらっと食べられるので短いスパンで出されたとしても文句はない。
 今まで自分で作ったり買ったりはしてこなかったが、藤宮と暮らし始めてから意外と自分は甘いものが好きかもしれないと思い始めている。デザートにしろ何にしろ、藤宮が作るものは大抵美味いのだ。僕がそもそも貧乏舌なのと嫌いな食材や料理は出さないようにしてもらっていることもあるとは思うけど。
「実はさ、家で杏仁豆腐作ったの初めてなんだよな」
 僕より少し遅れて杏仁豆腐を平らげた藤宮が話を続ける。
「そうなの?」
「中華料理屋でバイトしてた時に作ったことはあるんだけどさ、家だとわざわざ杏仁霜買ってまで作らないじゃん? 昔、弟にねだられて作ろうとしたことあるんだけど余分な食材買う金なんてないしさ、それっぽいもの作ってごまかした」
 それっぽいものという言葉に、杏仁豆腐は出されたことがないが牛乳プリンは食べたなと思い出す。母が杏仁豆腐を作りたいと思ったことがあるかは知らないが、うちもまたわざわざ杏仁霜を買うような金銭的余裕がなかったのは事実だ。母親の料理のレパートリーが少なかったのにはそういった事情があったのかもしれない。
「ここに来てから好きに料理できるから楽しい」
「それはよかった。でも、使い切れないほど食材購入しないでね」
「わかってるよ」
 答えた藤宮は空いた皿を重ねて持って席を立つ。一度で大量の皿やコップを器用に運んでいくのはこれまでのバイトの経験が活かされているのだろう。
 大学には行かずに一度就職はしたものの、バイトを掛け持ちした方が稼げるという理由で辞めたらしい。バイト先でも幾つか社員にならないかと誘いを受けたそうだが、いつも断っていると聞いた。長い目で見れば正社員になった方がいいだろうが、今すぐに少しでも金を稼ぎたい彼にとってはフリーターの方が都合がいいと思うのもわからなくはない。
 テーブルに一つだけ残ったグラスの中身を飲み干し、僕もまた席を立つ。キッチンで使った皿の汚れを流し始めている彼に「ごちそうさま」と告げてグラスをシンクに置き、久しく開けていなかったパントリーの扉を開いてみた。
 ストックしている飲み物とカップ麺など調理不要で食べられるものしか置いていなかったそこには、僕が一度も使ったことのないような食材があれこれと並んでいた。ちゃんと使い切ってくれるんだろうかと多少心配になりながら、その辺は彼を信頼することにして扉を閉める。
「今日の夕飯は鮭使う予定なんだけど、洋食と和食とどっちがいい?」
 食器を片付け、濡れた手を拭いた彼が振り返って訊いてきた。バイトや家事で藤宮の手は少し荒れている。ピアノでも弾けそうと思うくらい細くて長めの指なので荒れているのはちょっともったいない。でも、わりと本人は無頓着だ。よさげなハンドクリームでも見かけたら買っておこう。
「和食で」
 洋食、中華と来たので次は和食かなあと答える。ちなみに僕は起きてくるのが遅いので朝食と昼食は兼用であることが多い。
「おっけー」
 軽い調子で答えた彼が冷蔵庫を開ける。食材を確認して夕食のメニューを考えているのだろう。どうせならと買った大きめの冷蔵庫がようやく役に立っている。
「今日はバイトないんだっけ?」
「ああ。夜食も少し手の込んだものにするか?」
「そうだね、お願い」
 ふわ、とあくびをしながら僕はキッチンを離れる。今日はいつもより早めに起きたせいかそれとも昼食をとって血糖値が上がったせいなのか、まだ太陽が真上にあるというのに軽い眠気を感じてきた。
「あと、今すぐじゃなくていいからコーヒーを淹れてほしい」
「わかった」
 藤宮の返事を背中で受けて仕事部屋へ向かう。
 リビングの大きな窓からは明るい日差しが室内を照らす。ファミリー向けの広いLDKは一人きりだとどんなに明るくてもどこか寂寥感があったけれど、今は物理的な広さだけを感じるのが不思議だった。






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