ブルー・リグレット

梓月 霜

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6.静かに沈んでいく安楽

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 僕が彼と暮らし始めて1か月。同居生活は大きなトラブルもなく順調に続いているように思えた。
 僕がこのまま停滞を望めば、契約期間が満了するまで傍目には良好な二人の生活は続くだろう。
 波風を立てず、友好的な関係を続けていくことは簡単だった。ただただ、金に余裕のある気のいい同級生のふりをしていればいい。
 少しずつ、僕はそれでもいい気がしていた。
 毎日、何気ない会話をして、彼の作ったご飯を食べ、時に気楽な友人同士のように過ごす。
 僕が初めて得た他人との時間は悪くないものだった。
 けれども、僕の中にはどうしても腹の底に住み着いた黒い蛇のような邪念がいつ鎌首を持ち上げようかと時を窺っていた。
 いつ牙を剥こうか。いつ首元に喰らいついてやろうか。どうやってその真っ白な精神に毒を染み込ませてやろうか。
 彼との平穏な時間を素直に楽しむ一方で、ふとした瞬間に根底から全て壊すことを考える。

 そんな僕の混沌とした心中など知る由もないだろう彼は、今日も律義に僕の要望に応えてあれこれと動いてくれていた。
「頼まれたやつ買ってきた。これでいいか?」
「ありがとう」
 渡されたものを確認し、礼を言う。今は午後十一時過ぎ。普通の店ならばもう閉まっている時間だ。
 買ってきてもらったものは常用しているシャンプーの詰め替えパック。昨日ボトルが空になったが買い置きも切らしているのに気づきネットで注文しておくつもりがすっかり忘れていたのを風呂に入ろうとして思い出したのだ。さすがにこの時間ではいくら金を積んでも即日配達は無理だ。近くのコンビニでは僕が使っているシャンプーは取り扱っていない。
 この辺りでコンビニの他に深夜までやっているのは少し離れた場所にあるディスカウントストアくらいしかなかった。
 夜中に徒歩で行くには少し遠いが、免許は一応取ったものの僕は車を持っていないし、学生時代に使っていた自転車はとうに捨ててしまったので、片道十五分くらいかかる距離を彼は歩いて行ってきてくれた。
「悪かったね、こんな時間に」
 ずっと家にいて外に出る予定もないので一日くらい風呂に入らなくたって大した問題はない。彼が使っているシャンプーを借りる選択だってできた。
 無理に買ってきてもらう必要はあまりなかったが、藤宮が買ってきてくれると言うので遠慮せず頼んだ。
「いや、ついでに明日の分の食材も買ってきたし、俺も歯ブラシとか必要なもの買ったし」
 明朗に答える彼だが、ただの同居人やただの友達だったらわざわざ買いに行ってくれたりはしなかっただろうと思う。もちろん僕もただの友達に対してこんな時間に買い物を頼んだりはしない。
「じゃ、俺この後バイトあるから行くな」
「うん。いってらっしゃい」
 本当は今日はシフトが入っていなかったが、人手が足りなくなって短い時間でもと急遽呼ばれたらしい。
 戻ってきて早々、買ってきたものをしまい終えると荷物を整え直してまた出ていく彼を僕は見送る。彼が買ってきてくれたシャンプーを手に風呂へと入って僕もまた仕事だ。
「あ、ついでに洗顔フォームも買ってきてもらえばよかったな」
 こちらもあと少しでなくなりそうだから近々ネットで注文しようと思っていたのだが、ネットで頼むよりディスカウントストアで買った方が安い。どうせなら一緒に買ってきてもらえばよかった。
 そんなことを思いながらバスルームへと向かう。藤宮がきっちり掃除してくれるので洗面所もバスルームも以前より綺麗だ。
 シャンプーを詰め替え、服を脱ぐ。脱いだ服は洗濯機に入れておけば彼が洗ってくれる。傷みやすいものとタオルは別にしておいてくれと言われているので、それさえ守ればいい。
 換気扇のスイッチを入れ、バスルームに入る。曇らぬよう磨かれた鏡。石鹸粕のついていない棚。床も壁も綺麗に保たれている。
 シャワーのコックを捻ればすぐに温かいお湯が出た。手早く髪と身体を洗い、足を伸ばせる広々とした湯船に浸かる。これまで掃除が面倒だという理由であまり入っていなかったが、今は急いで風呂に入りたいとき以外はゆっくり浸かるようになった。
「変わったな」
 彼が来てから快適さが増した暮らし。二人分置かれた歯ブラシやシャンプー。「いってらっしゃい」と見送り、「ただいま」と告げて戻ってくる彼を迎える。
 不満はない。一人で気兼ねなく暮らしていた空間に他者の気配がすることをたまに煩わしく思うこともあるけれど、扉を開ければ料理の匂いがしていたり、気が向けばちょっとした世間話や相談事を持ち掛けられ、ソファでうたた寝すればいつの間にかブランケットがかけられているような、そんな生活は日が経てば経つほど心に馴染んでいく。
 それでも。
 彼がいることに慣れてしまってはいけない。始めから、壊すことを前提にこの関係はあるのだから。
 忘れてはいけない。自分はけっして善意などで彼に手を差し伸べたわけではないのだと。
 腹の奥底に燻る感情を捨て去りはできぬ限り、脆く儚い一時いっときの繋がりはいつか砕け散る。
「僕は、知っているんだ」
 膝を曲げ、上半身を倒すようにして湯に浸る。シャンプーの時に飛んだのか、虹色に光る小さな泡が天井の方からふわりと水面に落ちてきた。着水したそれは半円を描き、あっという間に音もなく弾けて消える。
「僕は、君のようにはなれない」
 たまたま同じクラスになっただけの人。彼のような清白さも篤実さも自分は持ち合わせていない。同じ空間にいてもどうしてこんなにも違うのだろう。
 いっそ羨望でも抱いていればよかった。同情でも共感でもなく、僕を動かすのはひどく身勝手な嗜虐心だ。
「僕はきっと君を」
 水面に囁くように告げて瞼を閉じる。今頃彼は忙しく働きまわっているのだろうか。それともバイト仲間と談笑でもしているだろうか。
 どこかで水滴の音が聞こえる。残された時を刻むように。
 適温に保たれた温かな湯はか心地よく身体を癒してくれる。けれど、この湯もいつか冷める。遅かれ早かれ保温が切れればそのうち水へと変わる。

 このまま、ぬるま湯のような時間が続くことがないのはわかっていた。
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