7 / 14
7.ひび割れていく関係
しおりを挟む「あの、さ」
ある日、ひどく言いにくそうに彼が話しかけてきた。
「やっぱり、金足りなくて」
手術の費用、残り百五十万円。既にあちこちから金を集めた後で更にその金額を短期間で用意するのはやはり難しかったのだろう。手術代以外にだって金はかかる。
彼の弟は無事手術の日取りも決まり、もう少しで手術を受けられるそうだ。だが、手術が終われば残りの代金を支払わなければならない。また、手術も一度で終わるものではなく何度か受けなければならないらしい。状況によっては当初の予定金額より費用は嵩むだろう。
こうなるだろうことは予測していた。
「なんでもするから、絶対返すから、貸してくれないか」
真剣な眼差しでそんな言葉を吐く彼は愚かだ。落胆を表には出さず内心で嘆息する。
上辺だけのつもりの言葉でないと知っているからこそ詰りたくなる。
「本当に何でもするの?」
「……ああ」
「死ねって言えば死ぬの。人を殺せって言えば殺すの」
「ッ……それは」
言葉に詰まった彼が目を逸らす。
「甘いんだよ。現実はそんな甘くないし、人間はそんな優しくない」
だから金は大事だ。時に人の尊厳よりも。
「本当に何でもする気があるのなら、ヤクザに臓器でも売ればいい。後で首を括ることになってもサラ金で調達すればいい」
方法はいくらでもある。合法違法何もかもを問わなければ。
「……そう、だな」
俯いた彼が弱い声で返す。そんな彼に僕は畳みかける。
「百五十万は数日で手に入れるには大きな額だけど、命をかける気があれば無理な金額じゃない」
彼が僅かに顔を上げた。視線はこちらへ向けないまま、絞り出すように告げる。
「ああ、そうだ。手段を選ばなければどうにかなる。でも、手術が成功しても弟が困るようなことにはしたくねえって、アイツが悲しむようなことにはしたくねえって、……甘い考えなのはわかってる」
伏せられていた視線が上がる。人からも自分からも逃げることのない眼差し。
強くて、真っ直ぐで、そして哀れな。
「どうしてもの時はそうするけど、それより先にお前に縋ろうとしている。甘えてるのは、知ってる」
しっかりとした口調で言うと、彼はまた視線を下ろした。ほとんど身長は変わらないというのに、今は彼のことが小さく見える。学生時代の溌溂としていた彼の面影はない。
「悪かった。借金なんて親友でも頼むようなものじゃねえって知ってんのに、高校が一緒だっただけのお前に頼んだりして。お前の言う通りだ。どんな手段でも集めるようにするよ」
区切りをつけるように息を吐き出した彼はその場を立ち去ろうとする。
「待って」
その時を計っていたかのように僕は呼び止めた。まっとうで、誠実で、愚直な彼を蜘蛛の糸で絡めて目の前に甘い蜜のついた花を捧げるように。
「残り百五十万とこれからの治療費全額。家事以外も全て、僕の身の回りの世話をするっていうのなら出してやってもいい」
見開いた彼の瞳に希望が宿る。馬鹿だ。そんな簡単に他人から無償の厚意なんて与えられるわけないのに。世の中はドロドロと汚れていて、僕もまた歪みきった醜い人間なのに。
金でその頬を撫でて突き落とす。始めからそのつもりで彼をこの家に招き入れたのだから、僕に対して信頼も希望も抱くべきじゃない。
「家事以外って……?」
「例えば仕事の補佐とか。あとはそうだな。性欲処理とか?」
あけすけに言葉をぶつける。反応を見るために。
「……ッ」
「ヤクザほどあこぎな要求はしないよ。でも、僕が金を払うに値すると思えることはしてもらう」
「……」
試されているのは感じているんだろう。彷徨う視線は動揺と困惑と躊躇いを表し、逡巡に揺れる。
そうだ。これは試金石だ。
何でもする、その覚悟はあるのか。口にした決意に嘘はないのか。
「……わかった」
結局、彼は決断した。
金を手に入れる方法として彼が選べる中では一番マシであるのは僕の提案だろう。そう計算したのか、もはやこの際どんな方法だろうと金を手に入れられるなら良しとしたのかはわからない。
何が理由であろうと大して変わりはしない。彼は僕の手に落ちたのだ。薄汚れた願望を抱く僕の手に。
内心でほくそ笑むのと同時に憐憫の情も湧いた。彼は何も悪くない。彼が悪かったのは環境だけだ。彼の弱みに付け込んで黒い欲求を満たそうとする僕だけが悪い。
僕は彼に金を渡すことにした。
彼を悩ませたいがために。彼を堕としたいがために。
嫌な奴だと自分でも思う。一緒に暮らしてみて、彼が真面目で誠実な人間だというのはわかった。人に好かれる好青年。高校の時に感じたその印象に差異はない。もっとも、学生時代に思っていたよりはずっと彼は重いものを背負っていてただ明るいだけの人格ではなかったけれど。
ビジネスだったなら、たとえ返ってこない可能性を考慮しても無茶な注文などせずに金を貸しただろう。彼のような人間との付き合いは良好にしておいて損はない。
だが、これは私利私欲だ。黒く粘ついて肌に纏わりつく陰湿な欲望。それを満足させるためだけのものだ。
僕は彼と友好的な関係を築くことよりも己の歪んだ欲を優先した。
「本当にいいんだね」
「ああ」
「そう」
新たな契約書を作成し、判を押させた。内容は業務期間の3か月延長と報酬金額の修正だ。前払いで百五十万円を支払った。彼は知らなかったようだが生命保険の受取人を赤の他人の僕にすることはできなかったので、代わりに借用書と念書を書かせた。法的効力はないが、別に僕はお金を確実に返してほしいわけではないので、彼自身が債務を感じていれば問題なかった。
それからしばらくは、とくに何を申し付けるでもなかった。大半は今までのように家事を頼むだけで、時々事務的なことも頼んだ。
元々僕は同性に性的な興味があるわけではない。彼への執着は恋愛感情などではなく、もっと人間の根幹の感情からくるものだ。
彼を支配する、その事実そのものに興奮した。
いつだって彼の周りには人がいた。笑顔が向けられていた。誰にも話しかけられず、視界にも意識にも入らず教室の片隅で本を広げていた僕とは対極にあった。
憧れは抱いてはいなかった。嫉妬も抱いてはいなかった。ただ、僕とは遠い世界の、けして交わることのない人間だと思っていた。
そんな彼が急に僕のところまで落ちてきた。自分と同じ高さどころか、床に這いつくばっていた。この足で踏み躙れるところまで沈んだ彼を見下ろし、意のままにできる。
それができるのが自分一人だけなのだという愉悦。
今まで卑屈に生きていた僕を刺激する暗い何か。
乾いた虚しさに浸されて生きていた僕を満たす悦び。
金を求めて群がってきた奴らよりもずっと利己的で醜くて歪んでいると自覚しながらもこの傲慢な欲求に逆らうことはできなかった。
恨まれてもいい。憎まれてもいい。実直な彼の中に唯一の澱みを生み出すのが僕なのであれば、それはまた愉悦でしかない。
こうして僕は、静穏に続いていた泡沫の時間を手放した。
0
あなたにおすすめの小説
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
死ぬほど嫌いな上司と付き合いました【完結】
三宅スズ
BL
社会人3年目の皆川涼介(みながわりょうすけ)25歳。
皆川涼介の上司、瀧本樹(たきもといつき)28歳。
涼介はとにかく樹のことが苦手だし、嫌いだし、話すのも嫌だし、絶対に自分とは釣り合わないと思っていたが‥‥
上司×部下BL
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる