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8.確かな亀裂
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居酒屋のバイトをやめた彼は、僕が頼んだ用事と弟の入院している病院へ行く以外はずっと家にいる。
夜のバイトをやめるように言ったのは僕だ。その時間も家事その他に充ててほしいと。
彼が掛け持ちしていたバイトをやめ、うちでの仕事が多少増えたくらいでしばらくはとくに変わりはなかった。
住み込みではあるが、24時間体制で仕事を申し付けているわけではないので空いた時間で何かできないかと彼は在宅の仕事を探しているらしい。
斡旋できる仕事はあったが、あえて僕は教えなかった。
その日はからりと晴れ、湿気のない心地良い風が肌を撫でる、普段は出不精の人間でも少し散歩したくなるような穏やかな陽気だった。
仕事の用事で外出していた僕は、帰りに最寄り駅のカフェに立ち寄り一服することにした。
朝、顔を合わせた藤宮は用事があるから午前中に家事を済ませた後、夜近くまで家を空けると言っていた。頼んだことさえやれば後は自由にしていいと言ってある。僕の外出の予定に合わせて出かけることにしたらしい。
帰路を急いだところで家で飲み物を出してくれる人はいないので、気分を変えてたまには店内で仕事の資料でも見よう。ついでにテイクアウトで何か買っていこうかと思う。いつも作らせてばかりなのでたまには僕が用意したっていいだろう。そういえば彼と外食をしたことはなかった。
そんなことを考えながらカフェに寄った僕は、奥まった場所に席を確保し時間に囚われずゆったりと過ごす。
傍らに置いたテイクアウトの袋に入っているのは期間限定のマフィンと明日の朝食用にしてもいいかなと選んだベーグルだ。
彼を雇って以降、所用はほとんど彼に頼んでいたので家に引きこもりがちな僕が外でのんびりと過ごすのは久しぶりだった。彼のおかげで食生活はだいぶ改善されたが、運動不足と日光浴不足は加速してしまったかもしれない。そういえば、散歩くらい出てみればと彼に勧められていた。一人では行く気にならないから彼を誘って散歩がてらカフェでお茶をするのも悪くないかもしれない。
聞き覚えのある声がした気がしたのはあと一口ほどでカップが空になる頃だった。目線を上げた僕は斜め先にある入り口付近を視界に入れる。そして、人知れず眉をひそめた。
何の気なしに見やった先に、知った姿があった。たった今考えていたばかりの彼だ。そして、彼の隣、互いの腕がつきそうな場所に長い髪の女が立っていた。彼女は何事かを言いながら棚にある商品を指さす。小さく頷いた藤宮は店員に注文を告げ、傍らにいた女は金を払うことなく受け取り場所へと移動していった。
ちらりと見えた横顔には見覚えがある。彼と同じくかつてのクラスメイトの一人だ。高校時代はもう少しふっくらとしていた気がするが、メイクと髪型が変わってもあの頃の面影がある。
付き合っている女性がいるという話は聞いたことがなかったが、彼女だろうか。僕の家の家事とバイト漬けの毎日からは交際相手がいるようには見えなかった。同じ家に住んでいてもたまに友達か病院からの連絡が来るくらいで、恋人との電話らしきものを見かけたこともない。
もしかしたら、出先で偶然出会っただけなのかもしれない。
僕の苛立ちを煽ったのは、彼が女性といたことではなかった。彼が彼女の分の代金を一緒に支払っていたことだ。
金がないと無心したくせに。なんでも差し出すから貸してくれと言ったくせに。女に奢る金はあるというのか。
今はバイトもしていないのだから彼が支払ったその金の出所はどこだというのか。
わかっている。彼の財布に入っていたのが自分が彼へと与えた現金そのものとは限らないことくらい。彼が持つ金のすべては僕が支払ったものではないし、僕が払った金をどう使うかも彼の自由だ。だが、理解と納得は別だった。
カップに残った冷えた液体を飲み干すことなく僕は席を立つ。注文した商品を受け取ると二階席へと向かった彼はこちらを見ることはなかった。
トレイを返却口へと戻して店を出た僕は、腹の底で黒く渦巻く何かを感じながら帰路へとついた。髪を撫でる爽やかな風はうっとうしいだけで、不愉快な気分を増長させる。
降り注ぐ明るい日差しも今は鬱陶しいだけだった。
藤宮が帰ってきたのは午後六時を過ぎたころだった。仕事部屋に籠ることもなくリビングにずっと居座っていた僕はソファに座ったまま彼を出迎える。
「ただいま。夕飯、すぐ作るから」
「いらないよ。適当に食べた」
買ってきたベーグルとマフィンは彼が帰ってくる前に食べてしまった。だから腹はすいていない。
「……そうか」
僕の反応に少し驚いた感じで答えた彼は、自室へと宛がわれた部屋に一度行って上着を脱いでからまたリビングに戻ってくる。
「何か飲み物でも用意するか?」
「いらない」
自分でも思っていたより低い声が出た。ああ、嫌だ。まるで拗ねた子供みたいだ。その自覚がさらなる苛立ちを生む。
「なんか機嫌悪い?」
「そうかもね」
機嫌が悪い相手にそう尋ねるのは悪手だ。初めて見る僕の横柄な態度に彼が戸惑っている。
距離感を正しく保つ彼はきっとこれ以上は追求せず、さりげなくここから離れるだろう。
だが、それを許してやるつもりはなかった。
いらないと言ったが、喉が渇く。この渇きを潤すものがほしい。求めているのは冷たい水ではなくて。
「僕は今、食欲よりも別のものを満たしたい」
立ち上がると藤宮の傍へ寄る。パーソナルスペースを無視した近過ぎる距離へと身を寄せれば彼の背が少し後ろへと傾いた。乾いた唾を飲み込むように喉が微かに動く。
「君の役目は料理の他にもあるだろう?」
唇を近づけ耳へ吹き込むように意地悪く告げれば、薄い髪色に似合う茶色い瞳が見開かれる。
壊したかった。何もかも。
友人みたいに付き合う穏やかな時間も、彼がくれるささやかな幸福感も。
濁りきった僕の前で、何も言わず彼が俯いた。
拒否する選択肢のない彼を見て、僕はただ歪に笑う。
「おいで」
開いた扉の先に待つものは何なのか。
きっと優しくも温かくもない時間であることだけは確かだった。
夜のバイトをやめるように言ったのは僕だ。その時間も家事その他に充ててほしいと。
彼が掛け持ちしていたバイトをやめ、うちでの仕事が多少増えたくらいでしばらくはとくに変わりはなかった。
住み込みではあるが、24時間体制で仕事を申し付けているわけではないので空いた時間で何かできないかと彼は在宅の仕事を探しているらしい。
斡旋できる仕事はあったが、あえて僕は教えなかった。
その日はからりと晴れ、湿気のない心地良い風が肌を撫でる、普段は出不精の人間でも少し散歩したくなるような穏やかな陽気だった。
仕事の用事で外出していた僕は、帰りに最寄り駅のカフェに立ち寄り一服することにした。
朝、顔を合わせた藤宮は用事があるから午前中に家事を済ませた後、夜近くまで家を空けると言っていた。頼んだことさえやれば後は自由にしていいと言ってある。僕の外出の予定に合わせて出かけることにしたらしい。
帰路を急いだところで家で飲み物を出してくれる人はいないので、気分を変えてたまには店内で仕事の資料でも見よう。ついでにテイクアウトで何か買っていこうかと思う。いつも作らせてばかりなのでたまには僕が用意したっていいだろう。そういえば彼と外食をしたことはなかった。
そんなことを考えながらカフェに寄った僕は、奥まった場所に席を確保し時間に囚われずゆったりと過ごす。
傍らに置いたテイクアウトの袋に入っているのは期間限定のマフィンと明日の朝食用にしてもいいかなと選んだベーグルだ。
彼を雇って以降、所用はほとんど彼に頼んでいたので家に引きこもりがちな僕が外でのんびりと過ごすのは久しぶりだった。彼のおかげで食生活はだいぶ改善されたが、運動不足と日光浴不足は加速してしまったかもしれない。そういえば、散歩くらい出てみればと彼に勧められていた。一人では行く気にならないから彼を誘って散歩がてらカフェでお茶をするのも悪くないかもしれない。
聞き覚えのある声がした気がしたのはあと一口ほどでカップが空になる頃だった。目線を上げた僕は斜め先にある入り口付近を視界に入れる。そして、人知れず眉をひそめた。
何の気なしに見やった先に、知った姿があった。たった今考えていたばかりの彼だ。そして、彼の隣、互いの腕がつきそうな場所に長い髪の女が立っていた。彼女は何事かを言いながら棚にある商品を指さす。小さく頷いた藤宮は店員に注文を告げ、傍らにいた女は金を払うことなく受け取り場所へと移動していった。
ちらりと見えた横顔には見覚えがある。彼と同じくかつてのクラスメイトの一人だ。高校時代はもう少しふっくらとしていた気がするが、メイクと髪型が変わってもあの頃の面影がある。
付き合っている女性がいるという話は聞いたことがなかったが、彼女だろうか。僕の家の家事とバイト漬けの毎日からは交際相手がいるようには見えなかった。同じ家に住んでいてもたまに友達か病院からの連絡が来るくらいで、恋人との電話らしきものを見かけたこともない。
もしかしたら、出先で偶然出会っただけなのかもしれない。
僕の苛立ちを煽ったのは、彼が女性といたことではなかった。彼が彼女の分の代金を一緒に支払っていたことだ。
金がないと無心したくせに。なんでも差し出すから貸してくれと言ったくせに。女に奢る金はあるというのか。
今はバイトもしていないのだから彼が支払ったその金の出所はどこだというのか。
わかっている。彼の財布に入っていたのが自分が彼へと与えた現金そのものとは限らないことくらい。彼が持つ金のすべては僕が支払ったものではないし、僕が払った金をどう使うかも彼の自由だ。だが、理解と納得は別だった。
カップに残った冷えた液体を飲み干すことなく僕は席を立つ。注文した商品を受け取ると二階席へと向かった彼はこちらを見ることはなかった。
トレイを返却口へと戻して店を出た僕は、腹の底で黒く渦巻く何かを感じながら帰路へとついた。髪を撫でる爽やかな風はうっとうしいだけで、不愉快な気分を増長させる。
降り注ぐ明るい日差しも今は鬱陶しいだけだった。
藤宮が帰ってきたのは午後六時を過ぎたころだった。仕事部屋に籠ることもなくリビングにずっと居座っていた僕はソファに座ったまま彼を出迎える。
「ただいま。夕飯、すぐ作るから」
「いらないよ。適当に食べた」
買ってきたベーグルとマフィンは彼が帰ってくる前に食べてしまった。だから腹はすいていない。
「……そうか」
僕の反応に少し驚いた感じで答えた彼は、自室へと宛がわれた部屋に一度行って上着を脱いでからまたリビングに戻ってくる。
「何か飲み物でも用意するか?」
「いらない」
自分でも思っていたより低い声が出た。ああ、嫌だ。まるで拗ねた子供みたいだ。その自覚がさらなる苛立ちを生む。
「なんか機嫌悪い?」
「そうかもね」
機嫌が悪い相手にそう尋ねるのは悪手だ。初めて見る僕の横柄な態度に彼が戸惑っている。
距離感を正しく保つ彼はきっとこれ以上は追求せず、さりげなくここから離れるだろう。
だが、それを許してやるつもりはなかった。
いらないと言ったが、喉が渇く。この渇きを潤すものがほしい。求めているのは冷たい水ではなくて。
「僕は今、食欲よりも別のものを満たしたい」
立ち上がると藤宮の傍へ寄る。パーソナルスペースを無視した近過ぎる距離へと身を寄せれば彼の背が少し後ろへと傾いた。乾いた唾を飲み込むように喉が微かに動く。
「君の役目は料理の他にもあるだろう?」
唇を近づけ耳へ吹き込むように意地悪く告げれば、薄い髪色に似合う茶色い瞳が見開かれる。
壊したかった。何もかも。
友人みたいに付き合う穏やかな時間も、彼がくれるささやかな幸福感も。
濁りきった僕の前で、何も言わず彼が俯いた。
拒否する選択肢のない彼を見て、僕はただ歪に笑う。
「おいで」
開いた扉の先に待つものは何なのか。
きっと優しくも温かくもない時間であることだけは確かだった。
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