ある公爵令嬢の死に様

鈴木 桜

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第2章 自由への道

第20話 あの海の向こうへ

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「ごめんなさい」

 ぽつり。
 暗闇の中でこぼれたのは、謝罪の言葉だった。

「……なんの、謝罪ですか?」

 アイセルに押し倒された格好のまま、エラルドが尋ねる。
 彼の声もまた、かすれて消えてしまいそうなほど心細かった。

 現状に対する謝罪ではないだろうことは、すぐにわかった。
 窓から差し込むわずかな月明かりが照らす彼女の瞳が、不安げにゆらゆらと揺れているのが見えたから。

「ぜんぶ」

 泣き顔を見られたくないのか、アイセルは顔を伏せてしまった。

「何もかも、もっと早く謝らなければならないと思っていました」

 アイセルの両手が、エラルドの胸元をぎゅうっと握りしめたまま震えている。

「……今日、ダリルが北の丘に連れて行ってくれました」

 北の丘、とはセリアンの街の北側にある丘のことだろう。

「海を見ました」

 丘からは西側の国境の向こうの海が見渡せるのだ。天気が良ければ、ルシャーナ諸島の島々が見えるのだとダリルが言っていた。

「海は青くて、船がたくさん浮かんでいて、どこまでも続いていて……」

 一つずつ言葉を切る度、アイセルの声が小さくなっていく。

「あの海の向こうへ、私は行ってみたい」

 エラルドはそれでいいと言うように頷いた。
 そうだ。
 彼女は、そのためにここまでやってきたのだから。

「行きましょう」

 即座に答えたエラルドに、またアイセルの肩が揺れた。

「でも、もうこれ以上、あなたを巻き込むことはできません」

 何を今さら、と思った。
 初手からエラルドの退路を断って、彼を巻き込んだのはほかでもない彼女なのに。

(だが、彼女は……)

 エラルドが帰りたいと言えばすぐにでも彼の手を離しただろう。彼が王都に戻っても苦労しないように、きっと既に手を打ってあるのだろう。
 それもまた、エラルドには分かっていた。

 今ここにエラルドがいるのは、彼自身がそれを望んでいるからだ。
 決して彼女が責任を感じるべきことではない。

 それを伝えなければと、エラルドは身体を起こしてアイセルの顔を覗き込んだ。

 だが、彼が口を開くよりも早く。
 アイセルの瞳からポロリと涙がこぼれてしまった。

「『証明の門』で犯罪者が裁かれるのを見た時から、早くあなたを帰さなければと、そればかり考えていました」

 小さな肩が、震えている。

「あなたは、ただ私のわがままのためについてきてくれただけなのに。
 もう二度と帰ってくることはできない。
 あなたは何も悪くないのに。

 あの犯罪者と、同じにしてしまった」

 彼女の言う通り、このまま国境の外に出れば、エラルドは犯罪者だ。
 二度とこの国に帰ってくることはできないし、帰ろうとすれば神の裁きを下されて、あの男と同じように青い炎に焼かれて灰になるだろう。

「私自身はなんと言われようとかまわないの。だって、この国の人々を見捨てて逃げようとしているのは事実なんだから。
 だけど、あなたは違う。
 あなたはただ優しいだけ。
 その優しさが罪になるなんて。
 そんなの、そんなの……あんまりだわ」

 あの日、『証明の門』で神の裁きを見てから。
 彼女はずっと何かを悩んでいるようだった。
 改めて結界の存在を確かめて躊躇っているのか、恐れているのか、とにかく逃げるべきか否かを悩んでいるのだと思っていた。

 だが、違った。
 彼女はずっとエラルドのことを考えていてくれたのだ。

 もともと小さな少女の肩では支えきれないほどの大きな葛藤を背負っていた彼女に、余計なことを考えさせてしまった。

(これでは、騎士失格だ)

 エラルドは、そっとアイセルの肩に触れた。
 薄手の夜着しか着ていないので、布越しに彼女の体温が伝わってくる。
 緊張していたのか、その肩は幾分か冷えているように感じられた。

「私は、あなたの騎士です」

 はっきりと告げると、アイセルがパッと顔を上げた。
 ようやく、二人の目が合う。

「でも」
「あなたは海の向こうへ行きたいと言った。
 ……それは、私の願いでもあります」

 アイセルの身体を温めるように、エラルドはゆっくりとその肩を撫でた。
 自分の熱が、気持ちが、ちゃんと伝わるように。

「もしも、この気持ちが悪だというなら、私は罪人になっても構いません」

 ただ純粋に、一人の少女の幸せを願っているだけ。これが罪だというなら、好きに裁けばいい。

「私は、あなたの願いをかなえたい」

 それだけが、彼の望みなのだから。

 ポタポタ、アイセルの涙は止まらなくなってしまった。
 どうすればいいのか。
 悩んだ時間はそれほど長くなかった。

 アイセルの肩を、ぎゅっと引き寄せて。
 彼女の身体を抱きしめる。

 無責任なことを言っているという自覚はある。
 結局のところ、エラルドはアイセルの決断にすべてを委ねているのだから。
 彼女の願いが自分の願い。
 聞こえはいいが、それは彼女に責任を押し付けているのと同じだ。

 だが、それしかできない。
 彼女の向かう先は、彼女自身が決めるしかないから。

 その晩、エラルドはアイセルを抱きしめたまま眠った。

「あなたは自分のために決めてください。
 誰かのためじゃない。
 あなた自身の願いのために、どう生きるのかを」

 泣き続けるアイセルに、一晩中、何度も言い聞かせた。

「あなたのその意思を守るために、騎士がいるのです」



 翌朝、いつの間にかアイセルは寝台の中から消えていた。代わりに、階下から香ばしいパンの焼ける匂いが漂ってきて。

「おはよう」

 少し照れくさそうに微笑む彼女に、エラルドも気恥ずかしくなって赤くなった頬をポリポリとかいた。

「おはようございます」

 窓の外を見ると、すでに日が昇りきっている。朝寝坊してしまったようだが、今日は二人とも休日なので問題ない。

 アイセルが作ってくれた朝食をはさんで、二人で食卓につく。
 ここで暮らし始めた最初の頃、アイセルは卵をゆでるのにも一苦労していたのに。
 食卓にはポーチドエッグや手作りのジャム、カリカリに焼いたベーコンなど、美味しそうな料理が並んでいる。

「昨夜はごめんね」

 食べながら、またアイセルが謝罪した。
 謝る必要はない、エラルドが言うよりも早く、アイセルが言葉を続けた。

「私、ちょっと腑抜けていたみたい」
「腑抜け、ですか?」
「ええ。ここの暮らしが穏やかで幸せで、ずっと続けばいいなんて。そんな夢みたいなことを思っていたの」
「それは……」

 エラルドには責められない。
 だって、彼も似たようなことを考えていたから。

「そんなこと、絶対にできないのにね」

 約四か月後には、生贄の儀式の日が来る。
 その日、生贄になるか。逃げ切るか。
 彼女には、その二択しかない。

「もう少しだけ、時間をちょうだい。
 ちゃんと決めるわ。
 私のために、どうするべきなのか」

 アイセルの瞳から迷いが消えたように見えて、エラルドはホッと息を吐いたのだった。

「はい」

 だが、それはそれとして。
 彼女にはきちんと話しておかなければならないことがある。

「ですが、昨夜のあの行動はいただけません」
「え?」
「主人と騎士が、ど、同衾するなど、本来ならあってはならないことです」

 昨夜は彼女のためという言い訳のもと、勢いのまま朝まで同じ寝台で過ごしてしまった。
 許されないことだ。

「いいじゃない。ここでは夫婦なんだから」
「ですから、それはただの設定で……」
「えー」

 不安げな声を上げたアイセルを、エラルドがじとっと見つめる。
 その表情を見て、アイセルがぷっと噴き出した。

 そしてとうとう、コロコロと声を立てて笑い始めて。

 いつまでもその笑顔を見ていたいと、エラルドはそんなことを思ったのだった。



 * * *



「まずいことが起こってる」

 深刻な表情のダリルが二人を訪ねてきたのは、その日の午後のことだった。
 いつもはひょうひょうとしている彼の表情が硬い。

「何があったのですか?」

 アイセルも硬い声で尋ねた。

「北のフリギアスと東のゼノビアが戦争の準備を始めているらしいと連絡が入った」

 この二つの国の名は、エラルドも知っている。
 北のフリギアスは強力な軍隊を持つ軍事国家で、東のゼノビアは数千年の歴史を持つ大帝国だ。
 リヴェルシア王国はこの二つの国と国境が接していて、この二大国に挟まれる格好になっている。

「二国の間には、リヴェルシア王国の結界とスカーレナ大山脈があって、ここ数百年は大きな戦争は起こっていなかったんだが……」

 そこで言葉を切ったダリルが、アイセルの方をチラリと見た。

「生贄が逃げ出したと、情報が洩れているんだ」

 儀式までに生贄が戻らなければ、結界は消滅する。
 その可能性が高いと、誰かが他国に情報を洩らしたのだ。

「このまま結界が消滅すれば、この国も戦争に巻き込まれるぞ」

 また。
 アイセルの肩が、不安げに揺れた―。










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