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第3章 悪意の証明
第28話 その悲劇を
しおりを挟むこの状況が自分にとって非常に危険だと、アイセルは瞬時に理解した。
(早くエラルドと合流しないと……!)
だが、押し寄せる人波が止まらない。
恐慌状態に陥った貴族たちは、右往左往しながら大扉と庭園に続くバルコニーに向かって進もうともがいている。
そんな彼らにもみくちゃにされてしっかり立ち上がることもままならず、そのまま壁際まで押し出されてしまった。
いま彼女の耳には『少しだけ耳が良くなる魔法』がかかっている。耳をすませてエラルドの声を拾おうとしたが、逆に泣き叫ぶ人の声と何かが壊れる音が鼓膜に響いて眩暈がする有様だ。
(とにかく安全を確保しなければ)
アイセルはまず自分の背を壁にぴたりとくっつけた。そうすれば、少なくとも背後から襲われる心配はなくなる。
(このまま、ここでじっと待っていよう)
そうすればエラルドと合流できるはずだ。
(それにしても……)
この状況は、いささか不自然だ。
これだけ人が密集しているところに大勢の兵士が乱入してきたのだから混乱が起こることは理解できる。
だが、どうしてこれほどまでに人々がパニックに陥っているのか。
さらに、エラルドが十分に警戒していたにも関わらず、二人は引き離されてしまった。
ゾクリと、アイセルの背筋を冷たいものが通り抜けた。
(まさか、仕組まれていた!?)
その可能性はゼロではない。
だが、どうやって。
(いいえ、方法なんかどうでもいいわ。今はとにかく、この状況をなんとかしなければ)
何者かによってこの状況が引き起こされたとしたら、その目的は十中八九アイセルだ。
とにかく、一刻も早くエラルドと合流しなければ。
改めて移動すべきかと考えて顔を上げると、そこに意外な人物がやってきた。
「お姉様!」
妹のミーナだ。
レースをふんだんに使った豪華な青いドレスを着た可憐な少女が、人波の中から飛び出してきた。
「お怪我はありませんか!?」
「大丈夫よ。あなたは?」
「私も大丈夫です。でも、お父様とお母様とはぐれてしまいました」
ミーナは途方に暮れた表情でアイセルに縋り付いた。
「お姉様に会えてよかった……!」
彼女の声が震えている。
恐かったのだろう。これほど大勢の人のパニックに巻き込まれたのだから仕方ないことではある。
アイセルは、ポンポンとミーナの肩を撫でた。
それが意外だったのかミーナが大きく目を見開く。かわいらしいサファイヤの瞳がゆらゆらと揺れて。
「お姉様!」
ミーナはぎゅっとアイセルに抱き着いた。
「行きましょう、お姉様」
「え?」
「このお屋敷には何度か来たことがあるんです。広間から抜け出す道順を知っています」
「でも……」
今この場を動くのはまずい。
エラルドと合流できなくなってしまう。
それに、道順を知っているからと言ってこの人混みの中を動けるとも思えない。
「大丈夫です。公爵家の騎士が、ほら、今来ました!」
ミーナが指さす方の人波の中から、騎士が数人出てきた。何度か顔を見たことがあるので、間違いなく公爵家の騎士だ。
「半分は騎士エラルドを探しに行かせましょう。まずお姉様は安全な場所に行かなくては」
こう言われてしまっては断る理由がない。
「わかったわ。お願いね」
「はい、行きましょう!」
アイセルはミーナに手を引かれ、騎士たちに守られながら再び人波の中に飛び込んでいったのだった。
* * *
「くそっ!」
一方その頃、エラルドはバルコニーの外まで押し出されてしまっていた。
「早く生贄を捕えろ!」
「探せ!」
人波の向こうでは、神殿の私兵たちが口々に叫んでいる。
早く彼女のもとに戻らなければ。
このままでは、彼女が危険だ。
だが、バルコニーの内側は人波が途絶えることはなく、逆流しようにも身動きがとれない。
まるで、エラルドとアイセルを引き離すようだ。
(何が起こっているんだ!?)
あれだけ多くの人が集まっていて、そこに兵士たちがなだれ込んできたのだから混乱が起こるのは分かる。
だが、今のこの状況はどうだ。
あまりにも不自然だ。
ゾクリと、エラルドの背筋が粟立った。
早く、早く、早く。
彼女のもとに……!
* * *
ミーナは本人が言った通り、この屋敷の構造を良く知っていた。
彼女の案内で使用人通路を使って広間の外に出ることに成功したのだ。
広間では厨房から食事が提供されることも少なくないため、その通路は厨房までつながっていた。
(使用人たちは早々に逃げ出したみたいね)
そのせいか、通路も厨房も人気がない。
だが、それにしては。
(まったく荒れていない)
慌てて逃げ出したというなら、調理器具や食器が散乱していてもおかしくはないのに。
どこもかしこも整然としている。
まるで、あらかじめ片づけてあったかのように。
アイセルはその場にピタリと足を止めた。
それに従うように騎士たちも足を止め、ミーナもアイセルに背を向けたまま立ち止まる。
(やっぱり、そうなのね……)
疑っていなかったわけではないのだ。
ミーナがアイセルの前に現れた時から。彼女が公爵家の騎士を連れて来た時から。
「……目的は何?」
沈黙が落ちる。
ミーナには何か目的があるのかもしれない。
それを分かっていて、アイセルは付いてきたのだ。
彼女への疑いを消し去りたくて。
公爵夫人ルベリカが裏切りの首謀者だと知った時、真っ先に思い浮かべたのはミーナのことだった。
彼女はまだ十三歳。
ルベリカに巻き込まれて彼女まで罪に問われるのはあまりにも忍びない。
もしも彼女が何も知らないのなら、助けなければと思っていた。
何も知らない。
その可能性に賭けていた。
だが、その賭けに。
アイセルは、負けたのだ。
「私はね……」
話しながら、ゆっくりとミーナが振り返る。
「ぜーんぶ、ほしいの」
ドロリ。
彼女の表情が歪んだ。
「最高のお父様、美しいお母様、お城みたいな邸宅、たくさんのドレスと宝石! 何もかも、ぜんぶ私のものなの!」
だけど、とミーナが続ける。
「一つだけ、私のものにならないものがあるのよ」
騎士たちがじりじりとアイセルに迫ってくる。
その手が剣に添えられているのが見えて、タラリと汗が流れた。
どうやら彼らは、完全にミーナに抱き込まれているらしい。
アイセルは、そっと懐に忍ばせてあった紙片を取り出した。
生贄日記の一部を書き写したメモだ。
こういう時に備えて、緊急時に使えそうな魔法を書き留めてある。
(まずは『睾丸を締め上げる魔法』で一人を無力化して、それから……)
頭の中で目まぐるしく現状を打破する方法を探す。
その間も、ミーナはニタリと笑ったままアイセルに語りかけていた。
「悲劇よ」
その声には、仄暗いものが混じっている。
「十八歳で死ぬ運命なんて最高の悲劇じゃない」
確かに、そうだ。
だがそれが何だというのか。
望んで手に入れたものなどではないのに。
ミーナは、それが欲しいと言う。
「ねえ、私にちょうだよ、その悲劇を!」
金切り声を上げながら、ミーナが右手を振りかぶった。
その手に握られているナイフがギラリと光る。
「その黄金の瞳を、私に寄越しなさい!」
同時に騎士たちが動いて、アイセルを取り押さえようと迫って来る。
アイセルは呪文を唱えるために口を開いた。
だが。
その必要は、なかった。
ガシャーンとけたたましい音を立てて厨房の窓が割れ、黒い塊が飛び込んできたのだ。
「アイセル様!」
エラルドだった。
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