愛の証明

月岡夜宵

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8◇エルメスの感情◇

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「え?」

 幻聴かと、最初は思った。
 続いた言葉に、唇のかさついた僅かな感触。

 目の前には、――誰もいない。

 どういうことなんだ??


 確かに今、ルンガ様から労われた気が。とても微かで頼りない声が聞こえたはず。
 耳に残った言葉は二つ。〝さようなら〟と〝好きだった〟。一見、相反するような類いの言葉がこびりついたように離れない。

 
 その意味を考える間もなく、僕は異変に気付いた。足元にルンガ様が転がっていたのだ。

「ルンガ様!? どうしてッ!」

 僕は慌ててルンガ様の容態を確かめる。しかし、呼吸も脈も弱々しい。今にも事切れそうな様子に恐怖を覚える。すると、冷たい夜風が吹き出した。まずい、こんな場所にこの人を置いたままでは凍死してしまうかもしれない。僕はルンガ様を急いで抱き抱えて家の中へと入った。
 その後も介抱に努めた。彼をベッドに寝かせて、厚手の布団を掛ける。それでも寒さが心配なので、室温を暖房器具で暖める。さらにその手を握った。
 しかしルンガ様は一向に目を覚まさない。時折苦しげにうめくことはあるのだが、唇から漏れるその声は聞くものを不安な気持ちにさせる。
 
「っ、熱い!?」
 
 彼の額に触れた瞬間、その熱さに驚いた。熱があるのか! 慌てて氷枕を用意し、頭の下に敷く。それでも熱に喘ぐルンガ様。

 もう見ていられなかった。こんな高齢者に耐えきれるだろか? ただの風邪ですら時に命取りになると新聞で読んだことがある。代われるものなら代わってあげたかった。

「ルンガ様、お気を確かに。お辛いでしょうが、頑張ってください」

 けれど答えはない。それがこんなにも寂しいことだなんて思わなかった。

「僕を一人にしないでください。ルンガ様だけが救いなんです。貴方こそ、僕の――」

 僕の愛しい人。
 こんな醜い古傷にすら、ためらい無く触れてくれる人。彼の手は、もう痛みを覚えなくなったこの傷を癒すような御手だ。それを失うかもしれないと思うと切羽詰まる。僕は看病に心血を注いだ。


 初めて見たルンガ様は、どこにでもいる普通の老人だった。少し、いや、かなり偏屈で貴族らしく高圧的な命令口調の老人。
 最初こそは募集要項に釣られたかなと後悔もしたが、始めてみれば僕にとっては彼、ルンガ様の世話は苦痛ではなかった。多少不慣れで大変ではあったが。
 
「エルメス、というのか。良い名だな」

 ある日、たまたまルンガ様は辞典で僕の名前を引いていた。そこに載っていた意味を調べて満足げに笑った。

「健康に、長寿、安寧。ふーん、なるほどな」
「はい。なんか、健やかに育つようにって付けられたみたいです。でもあの、意味はそれだけじゃなくて……」
「窃盗か。ふん、いいじゃないか。老人の介護にはふさわしいな。まるで老いぼれから生命力を奪って糧にする、そんな風に思える。俺は気に入ったぞ」
「え、ええー? それでいいんですか??」

 何がおかしいのかルンガ様は破顔していた。

「現にそれで金は貰っているじゃないか」

 僕はそれを聞いて苦笑いしてしまった。
 思えばあんな会話からもルンガ様と僕とを繋ぐ絆が少しずつ出来上がっていたのかもしれない。

 他にも、老人特有のデリカシーの無さでルンガ様は僕の傷の話題に触れてきたこともある。

「なぁ、お前のその顔の傷、どうやってこしらえたんだ?」

 食事から目を離して、ルンガ様は興味本位に聞いてきた。
 
 大人になってからは、傷を原因に仲間外れにされることは無くなった。だが、代わりに遠巻きにされるようにはなった。他人でも慣れれば、僕の個性の一部というように受け入れてくれるが、それまでの道のりは長かった。
 それにしても、ここまで不躾に聞いてくる人も珍しい。僕は答えた。

「じつは……僕もよく覚えていないんですけど、子供の頃に食卓の上にあった玩具を取ろうとして、そしたら傍にあったナイフが顔に降ってきた、って親が言ってました」
「スプラッタだな。というかよくその傷だけで済んだな」
「そうですよね。僕は子供心にこの傷を嫌っていたんです。落ち込んだ日はそれを親に話したりもしました。ただ、この傷は僕の命を守った証だって、親は言ってました。だから今では傷に感謝さえしてるんですよ」
「……」

 あれ? 返事がない。まさか、引かれた? それとも眠った??
 僕が怖々とルンガ様の真正面に立つと、彼は――泣いていた。感極まったように。

「そうかぁ、そんな理由があったんだな。その傷はただ可哀想なだけじゃなかったんだな」

 老いた枯れ木から溢れる水を連想させた。それはちょろちょろと流れては地面に染み込んで行く。
 僕はその光景を美しいと思った。見目がどんなに美しいからといって、万人が興味を惹かれるわけじゃない。その時の僕はその光景にただ心奪われた。僕の話に返ってきた反応は、同情でも嫌悪でも笑いでもなかった。それは傍目には複雑なもの。話に感化されたルンガ様からもたらされたものに、僕の胸は熱くなった。
 傷に触れられた驚きが、その時初めて恋に変わったのだと思う。


 そんな相手を失いたくない一心で、僕はルンガ様の介抱を続けた。
 
「エ……ルメ…………ス」
「ルンガ様!? 意識が戻られて!?」

 しかしそれ以降ルンガ様からの反応はなかった。ばかりか熱に浮かされたまま、彼の心臓は停止してしまった。

 僕は泣き崩れた。力を失ったようにすすり泣く。
 希望は死んでしまった。喋らない骸に向かって独り言を呟く。

「何故、貴方と僕を遮る壁は尽きないのでしょうか……こんなにも苦しいのに、貴方はもう二度と私の痛みを癒してはくれない。傷は膿むばかり。なのに、この心は貴方を求めて止まないのです。ああ、目を、目を開けて下さい、ルンガ様……」

 ぽつり、と涙が頬を伝って、眠れるルンガ様へと落ちる。最期に僕の名前を呼んで朽ちるなんてあんまりだった。そしてあの幻聴のようなお別れ。もし、永遠の別れだと知っていたら、僕はこの想いを伝えたのに。応えたのに。そう思って、息を引き取った愛しい老爺に口付けを施す。

「僕の望みは儚いものだったのでしょうか」

 思えば、彼の老い方は一般的な老人よりも早いペースで進行していたように思う。出会った頃はそれでもまだ初老だった。それが今では高齢も良いところだ。

 僕はまた涙した。誰にも許されない恋だった。想いは秘めたままでいようと僕は決意していた。それでも愛した人の傍にいられることができる贅沢は感慨深いものだった。尽くすことができる喜びも、加えて感受していた。彼の命が尽きるその日まで、僕は付き添うことを誓っていた。

 しかし、それはあまりにも短かった。

 唐突にルンガ様は目覚めぬ、いや、帰らぬ人となってしまった。

「愛してました、ルンガ様。貴方だけが僕の拠所よりどころだったのに……。僕の前から姿を消す、そんな貴方は嫌いです。どこにも行って欲しくなかったのに……!!」

 言葉は風に乗りさらわれるのだった。
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