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第二章《突然の別れと思惑》
【三】
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まとまった婚約話は、七兵衛の頬をゆるゆるにするほど良いものだったらしい。かなりのスピードでその準備が進められた。
紅子は隣国へ行かなければならない旨を女将代理に話し、頭を下げた。
「勝手で、申し訳ありません」
「お嬢様のせいではないでしょう。……本当に、よろしいのですか」
そう口走った女将代理は、慌てて口元に手をやり、「申し訳ありません」と眉を下げた。
「いえ。お心遣い、感謝いたします」
紅子は微笑み、女将代理に背を向けた。
その際滋宇と目が合ったが、紅子は微笑だけ向け、滋宇の横を通り過ぎた。
「ちょ、お紅ちゃん!」
腕を掴んだ滋宇は声を上げた。
「本気?隣国って……もう会えんかもしれんのよ?なんで?」
「滋宇……あなたも分かってるでしょう。私に拒否権は無いわ。それに……離れられるのよ、あの人から。勿論皆に会えないのは寂しいけど、相手も良い人のようだし、きっと里帰りさせてくれるわ」
そう言いながら、紅子は滋宇の腕をスっと剥がした。
「ありがとね、滋宇」
そう微笑すると、紅子は背を向けて部屋への階段を登って行った。
滋宇は唇を引き結び、紅子の登って行った階段に背を向けた。
***
縁談がまとまった二週間後、紅子は風呂敷を手に宿の前に立っていた。
「うちの名物でもあった万年桜も、もう見れなくなるのね」
そう言いながら近づいてきたのは梅夜だ。
万年桜とは、紅子の能力によって咲かせ続けてきた宿の名物の桜のことだった。
「……寂しくなるわぁ」
季節感に伴わない湿った冷たい風が、二人の髪を揺らした。
「もう桜が普通に咲く時頃です。お庭が寂しくなるのはまだ少し先ですわ」
そういうことを言っているのではない、と分かってはいたが、紅子は笑いながらそう返した。
「お紅ちゃんが抱え込んでいるものを、私らじゃどうにもできないもの。そこに関して、私は何も言う気にはならんけどね……」
下駄の音が、紅子のすぐ背後で止まった。
ふっと紅子の顔のすぐ横に手が伸びてきて──。
後ろから、首に手を回されて抱きしめられた。
「……っあんたが、苦しい、辛いって……私たちに打ち明けてくれた時は、絶対に助けに行くっていう約束くらいできるのよ!!」
いつもは気丈に振る舞い、宿の妹分たちには弱みを見せないのが彼女の性格だった。
しかし今、当の梅夜の腕は小さく震え、声も掠れていた。
それなのに、その腕はとても頼もしく思えた。
「……うん」
そっと、回された腕に手を添える。
「覚えておくわ。……梅ちゃん」
紅子の頬を、涙が時間をかけて筋をつくっていった。
「梅夜だけ抜け駆けなんて、ズルいわ」
紅子の去った後、宿の中から桃李が顔を出した。
「あの子、久々に『梅』って……呼んだわ」
「あら」
桃李は口元に手を当て目を見開いた。
「なら、安心ね。少しは私たちのこと頼ってくれそうだわ」
くすりと口元を緩める桃李に、梅夜は眉を眉間に寄せた顔を向けた。
「桃李こそ、何か大人しいと思っていたら……全然大人しくしてなかったのね」
「あら!」
梅夜の言葉に、桃李はさらに目を見開いたかと思うと、すぐに猫のように目を細めて人差し指を口元に寄せた。
「私は、こう見えて情に厚いのよ。それに」
細めた瞳は、仄暗い色を灯す。
笑顔は一体どこへやら、桃李は憎悪を孕んだその表情を梅夜に向けた。
「私があの屑の掌の内で転がるなんて、許すはずが無いじゃない」
身内すら寒気を覚えるその気迫を、桃李はすっと抑え込む。
「清美さんの言いつけ、私たちじゃ守れないけど……私たちの目は、しっかり役割を果たしてくれるわ。彼女以上にお紅ちゃんが信用してる人なんていないしね」
箒とちりとりを手に宿の前を掃除し始める桃李に、梅夜はますます顔を顰めた。
「違う。そっちは予想がついたけど、あっちを派遣するなんて……こっちの仕事が増えるじゃない!」
「あっちこっちそっちって面倒臭いわねぇ……いいじゃないの。本人も望んでたんだし。チャンスは平等にあるべきだと思うわよ」
と、桃李は面白そうに微笑する。
「それに、道中味方に男が居ないなんて不安で仕方ないしね」
「それは……いやでも」
梅夜は納得しかけたが、すぐに首を横に振った。
「あれは、初目じゃ男に入らんでしょうに」
***
「……どうして、ここに」
紅子が宿を離れ、弥生との待ち合わせ場所に着いた時のことだった。
居るはずのない人物が二人、紅子の前に荷を持って立っていたのだ。
「あなたのお世話をさせてもらうから。言っとくけど追い返せないわよ。契約者は秋桐の御方だから」
「そーそー。いきなりお紅さん独りになんかできないし、道中男は供につけないと」
仁王立ちする滋宇と陽時厘に、紅子は目を白黒させるばかりだ。
「どうして秋桐さんと契約を……」
「直談判しにいらっしゃいましたよ」
上質な着物に身を包んだ弥生は「お久しぶりです」と笑顔を向けた。
「まぁ、話は中でしましょう」
と、弥生が視線を向けたのは馬車だ。
馬が引く入れ物を前に、紅子は頭が真っ白になっていくのを感じた。
紅子は隣国へ行かなければならない旨を女将代理に話し、頭を下げた。
「勝手で、申し訳ありません」
「お嬢様のせいではないでしょう。……本当に、よろしいのですか」
そう口走った女将代理は、慌てて口元に手をやり、「申し訳ありません」と眉を下げた。
「いえ。お心遣い、感謝いたします」
紅子は微笑み、女将代理に背を向けた。
その際滋宇と目が合ったが、紅子は微笑だけ向け、滋宇の横を通り過ぎた。
「ちょ、お紅ちゃん!」
腕を掴んだ滋宇は声を上げた。
「本気?隣国って……もう会えんかもしれんのよ?なんで?」
「滋宇……あなたも分かってるでしょう。私に拒否権は無いわ。それに……離れられるのよ、あの人から。勿論皆に会えないのは寂しいけど、相手も良い人のようだし、きっと里帰りさせてくれるわ」
そう言いながら、紅子は滋宇の腕をスっと剥がした。
「ありがとね、滋宇」
そう微笑すると、紅子は背を向けて部屋への階段を登って行った。
滋宇は唇を引き結び、紅子の登って行った階段に背を向けた。
***
縁談がまとまった二週間後、紅子は風呂敷を手に宿の前に立っていた。
「うちの名物でもあった万年桜も、もう見れなくなるのね」
そう言いながら近づいてきたのは梅夜だ。
万年桜とは、紅子の能力によって咲かせ続けてきた宿の名物の桜のことだった。
「……寂しくなるわぁ」
季節感に伴わない湿った冷たい風が、二人の髪を揺らした。
「もう桜が普通に咲く時頃です。お庭が寂しくなるのはまだ少し先ですわ」
そういうことを言っているのではない、と分かってはいたが、紅子は笑いながらそう返した。
「お紅ちゃんが抱え込んでいるものを、私らじゃどうにもできないもの。そこに関して、私は何も言う気にはならんけどね……」
下駄の音が、紅子のすぐ背後で止まった。
ふっと紅子の顔のすぐ横に手が伸びてきて──。
後ろから、首に手を回されて抱きしめられた。
「……っあんたが、苦しい、辛いって……私たちに打ち明けてくれた時は、絶対に助けに行くっていう約束くらいできるのよ!!」
いつもは気丈に振る舞い、宿の妹分たちには弱みを見せないのが彼女の性格だった。
しかし今、当の梅夜の腕は小さく震え、声も掠れていた。
それなのに、その腕はとても頼もしく思えた。
「……うん」
そっと、回された腕に手を添える。
「覚えておくわ。……梅ちゃん」
紅子の頬を、涙が時間をかけて筋をつくっていった。
「梅夜だけ抜け駆けなんて、ズルいわ」
紅子の去った後、宿の中から桃李が顔を出した。
「あの子、久々に『梅』って……呼んだわ」
「あら」
桃李は口元に手を当て目を見開いた。
「なら、安心ね。少しは私たちのこと頼ってくれそうだわ」
くすりと口元を緩める桃李に、梅夜は眉を眉間に寄せた顔を向けた。
「桃李こそ、何か大人しいと思っていたら……全然大人しくしてなかったのね」
「あら!」
梅夜の言葉に、桃李はさらに目を見開いたかと思うと、すぐに猫のように目を細めて人差し指を口元に寄せた。
「私は、こう見えて情に厚いのよ。それに」
細めた瞳は、仄暗い色を灯す。
笑顔は一体どこへやら、桃李は憎悪を孕んだその表情を梅夜に向けた。
「私があの屑の掌の内で転がるなんて、許すはずが無いじゃない」
身内すら寒気を覚えるその気迫を、桃李はすっと抑え込む。
「清美さんの言いつけ、私たちじゃ守れないけど……私たちの目は、しっかり役割を果たしてくれるわ。彼女以上にお紅ちゃんが信用してる人なんていないしね」
箒とちりとりを手に宿の前を掃除し始める桃李に、梅夜はますます顔を顰めた。
「違う。そっちは予想がついたけど、あっちを派遣するなんて……こっちの仕事が増えるじゃない!」
「あっちこっちそっちって面倒臭いわねぇ……いいじゃないの。本人も望んでたんだし。チャンスは平等にあるべきだと思うわよ」
と、桃李は面白そうに微笑する。
「それに、道中味方に男が居ないなんて不安で仕方ないしね」
「それは……いやでも」
梅夜は納得しかけたが、すぐに首を横に振った。
「あれは、初目じゃ男に入らんでしょうに」
***
「……どうして、ここに」
紅子が宿を離れ、弥生との待ち合わせ場所に着いた時のことだった。
居るはずのない人物が二人、紅子の前に荷を持って立っていたのだ。
「あなたのお世話をさせてもらうから。言っとくけど追い返せないわよ。契約者は秋桐の御方だから」
「そーそー。いきなりお紅さん独りになんかできないし、道中男は供につけないと」
仁王立ちする滋宇と陽時厘に、紅子は目を白黒させるばかりだ。
「どうして秋桐さんと契約を……」
「直談判しにいらっしゃいましたよ」
上質な着物に身を包んだ弥生は「お久しぶりです」と笑顔を向けた。
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