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第四章《秘められた涙と潜む影》
【六】
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目が覚めた時、再び柔らかく段のある布団に横たわっていたことに、紅子はデジャブを感じた。
本当の番でもない相手を前に眠ってしまったという事実が、とても恥ずかしい。
疲れて眠るなんて、まさに子どもではないか。
「おはようございます。おかげんいかがです?」
起きた紅子に気づいた滋宇が駆け寄ってくる。
「だいぶ良くなっているわ」
と紅子は微笑む。
「それは何よりです。今日の午後、秋桐様がお話ししたいことがあると仰っていましたよ」
「お話し……?わかったわ」
怪訝に思ったものの、それを拒否する権限はもとより皆無だ。
折れた櫛を帯の隙間から取り出し、伸びた桜の枝を眺める。
「……夢だったのかしら」
馬車で深い眠りにつく直前、優しく切ない想いを吐露したかのような秋桐様の声が聞こえた気がした。
「紅子様。そろそろお支度してしまいましょう」
ノアはそう言いながら、既にいくつか帯を手にしている。
「ええ」
と紅子はゆっくり布団から下りる。
「それにしても、昨日は驚きましたわ」
ノアは目を細め、口元に手をやる。
「それは私も本当に申し訳ないと……どなたが運んでくださったのかは存じませんが、悪いことをしてしまいました」
と眉を下げる紅子に、
「悪いこと……ではなかったかと」
何か言いたげなノアの物言いに、紅子は首を傾げる。
「実は、ご主人様自らが若奥様を運ばれたのです。もう、どこぞのキネマのワンシーンのようで……従業員みな、惚けておりましたわ」
興奮気味のノアにつられるように、紅子の頬もじんわりと熱を帯びていく。
「ご主人様のあんな一面が見られるだなんて……若奥様のことがとてもお大事なのですね」
ノアの言葉に、紅子は声を詰まらせる。
否定することもできない彼女は、寂しそうに笑みを零した。
***
その日の午後、ちょうど菓子をつついていたときに弥生が部屋を訪れた。
「お待たせしてしまいすみません」
手に紙の束を抱える弥生に、
「とんでもございません。お仕事が終わってからでも大丈夫ですよ?」
と大量の資料に目を向けながら紅子はいう。
「仕事がおわることは、多分一生ないです……」
死んだ目をする弥生に「失礼致しました」と慌てて謝る。
「ああ、いえ。休憩も兼ねてあなたとお茶しようと思ったのと、少々お聞きしたいことがありまして」
「あ、はい……あ、どうぞおかけください」
慌てて椅子をすすめると、弥生は「ありがとうございます」と微笑した。
紅茶で舌を湿らせた弥生は、
「昨日、神社で宿命だかなんだと言われてましたよね」
「……ええ」
そんなことを言われても実感など湧かないのだが、と紅子は目を伏せる。
「貴方は、あの男を殺したいですか」
唐突な問に、紅子は言葉を詰まらせた。
「ころ……そんなこと、考えたことはないです」
「そうですか」
わかりました、と弥生は茶をすする。
追求する様子のない弥生に、紅子は戸惑う。
「あの……それだけ、ですか」
「え?はい」
「……促しにきたのではないのですか」
きょとんと目を瞬かせる弥生に、
「使命を、全うしろとは言わないんですか」
と二の腕を握りながら、紅子は眉を寄せる。
「それは貴方が決めることですから」
と弥生は穏やかな笑みを向けた。
「ただの確認です。それに、人を殺したくないというのは人間の根幹ではないでしょうか。貴方は間違っていませんよ。きっと貴方のお母上も、それを望んではいないでしょうし」
「……母を、ご存知なのですか?」
知ったような口を叩くなと、目が雄弁に語っている。
慰めに母を使うな。
この人は、こういう人だったのか。
大切な思い出から一部を切り取って、それをチラつかせて自分の好感度を上げようとする。
紅子はそんな人間を嫌っていた。
胸に、嫌悪がじわりと広がる。
「いいえ。ただ……貴方のお母上は、貴方に能力のことをあまり話していなかった。それはつまり、貴方に話すことに躊躇いがあったように感じます。貴方が幼かったからという理由もあったでしょうが、その男を殺して欲しくば、洗脳に近い形で貴方に話していたのではないでしょうか。それをしなかったということはつまり、お母上は貴方をそういうイザコザに巻き込みたくなかった、とは言えませんか?」
弥生の言葉に、紅子は息を呑む。
怒りをぶつけたというのに、この人はカッとなるのではなく諌めるでもなく、誤解している部分を正そうとしている。
──怒ることって簡単よ。感情を爆発させるだけだから。それよりも難しいのは……。
幼き日の母親の言葉に、紅子は胸元で拳を握った。
「……ごめんなさい。母のことになると、どうも頭に血が上りやすくて」
頭を下げる紅子に、弥生はくすくすと可笑しそうに笑った。
「いえ、新鮮でした。貴方にとってのお母上は、それだけ大切な存在であることがわかりましたし」
ティーカップを置き「それともう一つ」と顔を上げた。
「視察ついでで申し訳ないのですが、旅行に行きませんか」
「旅行ですか?楽しそうですね」
「ああ、ええと……楽しいかは、どうでしょう」
弥生は明後日の方向を眺める。
「道中、気まずくならないと良いですが……」
誰と誰が気まずくなるのだろう、と紅子は首を傾げる。
「出発予定はいつですか?」
「明日です」
「そうなんですね」
紅子は笑顔で首肯してから、眉間に皺を寄せた。
「明日!?なんでそうギリギリに言うんです!」
紅子の怒声に、弥生は視線をさまよわせる。
「いや面目ないです……話す機会がなくて、はは……」
笑い事じゃないです、と紅子は額に手を当てる。
「もう、お茶してる場合じゃないです。秋桐様もお仕事に戻るお時間では?」
じとっと睨めつける紅子の視線を受けた弥生は、部屋を半ば強引に追い出された。
部屋に残った紅子は「もう!」と怒りながらも片付ける手を止める。
旅行、か。
新鮮な響きに、胸が高鳴る。
その数分後、彼女の部屋から鼻歌が聞こえてきた。
本当の番でもない相手を前に眠ってしまったという事実が、とても恥ずかしい。
疲れて眠るなんて、まさに子どもではないか。
「おはようございます。おかげんいかがです?」
起きた紅子に気づいた滋宇が駆け寄ってくる。
「だいぶ良くなっているわ」
と紅子は微笑む。
「それは何よりです。今日の午後、秋桐様がお話ししたいことがあると仰っていましたよ」
「お話し……?わかったわ」
怪訝に思ったものの、それを拒否する権限はもとより皆無だ。
折れた櫛を帯の隙間から取り出し、伸びた桜の枝を眺める。
「……夢だったのかしら」
馬車で深い眠りにつく直前、優しく切ない想いを吐露したかのような秋桐様の声が聞こえた気がした。
「紅子様。そろそろお支度してしまいましょう」
ノアはそう言いながら、既にいくつか帯を手にしている。
「ええ」
と紅子はゆっくり布団から下りる。
「それにしても、昨日は驚きましたわ」
ノアは目を細め、口元に手をやる。
「それは私も本当に申し訳ないと……どなたが運んでくださったのかは存じませんが、悪いことをしてしまいました」
と眉を下げる紅子に、
「悪いこと……ではなかったかと」
何か言いたげなノアの物言いに、紅子は首を傾げる。
「実は、ご主人様自らが若奥様を運ばれたのです。もう、どこぞのキネマのワンシーンのようで……従業員みな、惚けておりましたわ」
興奮気味のノアにつられるように、紅子の頬もじんわりと熱を帯びていく。
「ご主人様のあんな一面が見られるだなんて……若奥様のことがとてもお大事なのですね」
ノアの言葉に、紅子は声を詰まらせる。
否定することもできない彼女は、寂しそうに笑みを零した。
***
その日の午後、ちょうど菓子をつついていたときに弥生が部屋を訪れた。
「お待たせしてしまいすみません」
手に紙の束を抱える弥生に、
「とんでもございません。お仕事が終わってからでも大丈夫ですよ?」
と大量の資料に目を向けながら紅子はいう。
「仕事がおわることは、多分一生ないです……」
死んだ目をする弥生に「失礼致しました」と慌てて謝る。
「ああ、いえ。休憩も兼ねてあなたとお茶しようと思ったのと、少々お聞きしたいことがありまして」
「あ、はい……あ、どうぞおかけください」
慌てて椅子をすすめると、弥生は「ありがとうございます」と微笑した。
紅茶で舌を湿らせた弥生は、
「昨日、神社で宿命だかなんだと言われてましたよね」
「……ええ」
そんなことを言われても実感など湧かないのだが、と紅子は目を伏せる。
「貴方は、あの男を殺したいですか」
唐突な問に、紅子は言葉を詰まらせた。
「ころ……そんなこと、考えたことはないです」
「そうですか」
わかりました、と弥生は茶をすする。
追求する様子のない弥生に、紅子は戸惑う。
「あの……それだけ、ですか」
「え?はい」
「……促しにきたのではないのですか」
きょとんと目を瞬かせる弥生に、
「使命を、全うしろとは言わないんですか」
と二の腕を握りながら、紅子は眉を寄せる。
「それは貴方が決めることですから」
と弥生は穏やかな笑みを向けた。
「ただの確認です。それに、人を殺したくないというのは人間の根幹ではないでしょうか。貴方は間違っていませんよ。きっと貴方のお母上も、それを望んではいないでしょうし」
「……母を、ご存知なのですか?」
知ったような口を叩くなと、目が雄弁に語っている。
慰めに母を使うな。
この人は、こういう人だったのか。
大切な思い出から一部を切り取って、それをチラつかせて自分の好感度を上げようとする。
紅子はそんな人間を嫌っていた。
胸に、嫌悪がじわりと広がる。
「いいえ。ただ……貴方のお母上は、貴方に能力のことをあまり話していなかった。それはつまり、貴方に話すことに躊躇いがあったように感じます。貴方が幼かったからという理由もあったでしょうが、その男を殺して欲しくば、洗脳に近い形で貴方に話していたのではないでしょうか。それをしなかったということはつまり、お母上は貴方をそういうイザコザに巻き込みたくなかった、とは言えませんか?」
弥生の言葉に、紅子は息を呑む。
怒りをぶつけたというのに、この人はカッとなるのではなく諌めるでもなく、誤解している部分を正そうとしている。
──怒ることって簡単よ。感情を爆発させるだけだから。それよりも難しいのは……。
幼き日の母親の言葉に、紅子は胸元で拳を握った。
「……ごめんなさい。母のことになると、どうも頭に血が上りやすくて」
頭を下げる紅子に、弥生はくすくすと可笑しそうに笑った。
「いえ、新鮮でした。貴方にとってのお母上は、それだけ大切な存在であることがわかりましたし」
ティーカップを置き「それともう一つ」と顔を上げた。
「視察ついでで申し訳ないのですが、旅行に行きませんか」
「旅行ですか?楽しそうですね」
「ああ、ええと……楽しいかは、どうでしょう」
弥生は明後日の方向を眺める。
「道中、気まずくならないと良いですが……」
誰と誰が気まずくなるのだろう、と紅子は首を傾げる。
「出発予定はいつですか?」
「明日です」
「そうなんですね」
紅子は笑顔で首肯してから、眉間に皺を寄せた。
「明日!?なんでそうギリギリに言うんです!」
紅子の怒声に、弥生は視線をさまよわせる。
「いや面目ないです……話す機会がなくて、はは……」
笑い事じゃないです、と紅子は額に手を当てる。
「もう、お茶してる場合じゃないです。秋桐様もお仕事に戻るお時間では?」
じとっと睨めつける紅子の視線を受けた弥生は、部屋を半ば強引に追い出された。
部屋に残った紅子は「もう!」と怒りながらも片付ける手を止める。
旅行、か。
新鮮な響きに、胸が高鳴る。
その数分後、彼女の部屋から鼻歌が聞こえてきた。
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