クルーエル・ワールドの軌跡

木風 麦

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一章

保健室の女子生徒

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 翌日の朝、璃久は変わらない様子で広翔の家にやってきた。
「おい、遅刻するぞー」
 出てきた広翔に、走るよう促した。
「昨日は先帰って悪かったな」
 走りながら璃久は謝罪した。
「いや、帰っててくれて助かった。俺、倒れたらしくて」
「貧血だろ?聞いた聞いた。もう皆知ってるぞ。難波先生が心配そうにしてたぞ」
「……いつから『雨水さん』じゃなくなったんだ」
「さん付け嫌だって言われたから」
「いつの間にそんな仲良くなったんだ」
 妬くなよ、と璃久は笑った。
 何も無かったように接してくれているのは璃久の気遣いだとわかっていた。何気ない気遣いのできるところに、昔から救われる部分があった。
 たわいない会話をしているうちに学校に着いた。
 教室に行くと、胡桃は真理と楽しそうに話していた。
「おはよう」
 広翔と璃久が胡桃に近づくと、
「おはよう」
 胡桃は笑顔で返してくれた。
「大丈夫?今日」
 こそこそと小さい声で話しかけてくる胡桃に、
「大丈夫」
 と笑顔で返す。
 その時タイミングよくチャイムが鳴った。


***


「今日から委員会始まるんだって」
 放課後、胡桃が広翔に話しかけてきた。
「あ、そっか、昨日だったね。委員会の集まり」
 休んでごめん、と謝る広翔に、胡桃は微笑んだ。
「気にしないで。私たちの仕事は毎日の出欠の確認と、水やりだって」
「水やり?」
「そう。保健室前にある花壇の水やり。あ、それとね、保健室には幽霊がいるんだって」
「え、幽霊……って」
 青ざめながら聞き返す広翔に、胡桃は人差し指を突きつける。
「だから、長居しちゃダメだよ」
「え、雨水さんもやるんじゃないの?」
「私水やりはやんないよ。他の仕事やるから」
 とあっさり断られる。
「あんまりちんたらしてたらダメだよ。ちゃっちゃと済ましちゃうんだよ」
 何度も念押しして胡桃は「それじゃ、また明日」と言い残し、教室を出ていった。
 その日丸一日、同じクラスの人達からは「大丈夫だった?」だの「貧弱なんだな」と笑われたりだのはあった。
 しかし、胡桃が広翔に昨日の様子を聞いてきたりはしなかった。むしろ、避けているような態度だった。
「幽霊ねぇ」
 胡桃が教室を出ると、璃久がドアにもたれかかっていた。
「なに」
「いや、考えたなと思って」
「だから何の話よ」
「お前のお姉さんに会わせないためだろ?」
 笑いながら言う璃久を睨みながら、
「そうよ。これ以上記憶を掻き乱したくないもの」
 と吐き捨てるように言った。
「保健委員やってたら嫌でも会うんじゃねえの」
 璃久の言葉を胡桃は嘲った。
「そうならないために、手を打ってんでしょ」
「優しいねえ」
 璃久がため息混じりに笑う。
「優しくなんてない。助けたいだけ。友達、だから」
 胡桃ははっと意識を覚醒させたかのように息を呑み、気まずそうに廊下を早足で渡って行った。
「お前は昔から優しいやつだよ」
 過ぎ去る背中に、璃久は小さく呟いた。


***


 広翔が保健室前の花壇に行くと、小さなパンジーが色とりどりに咲き誇っていた。
 てっきり枯れかけたものばかりがあると思っていた。
「サボりにくいな」
 と一人苦笑した。
 じょうろが見あたらない、と周りを見るが、それらしきものは無い。
 コンコン。
 窓ガラスを叩く音がした。
 振り返ると、カーテンの隙間から誰かが広翔をじっと見つめていた。暗いせいか、目すらはっきり見えない。
 広翔は胡桃に言われた幽霊の話を思い出した。悲鳴を上げそうになるのを堪え、ゆっくり後ずさった。
 すると、覗いていた者はカーテンを少し開けた。
 隙間から覗いていたのは、制服を着た女子生徒だった。彼女は茶髪を肩の高さに切りそろえ、淡い色のサングラスをかけている。なんとも、学校に来るとは思えない格好だ。
 彼女は、ただじっと、広翔のことを見つめていた。何も言おうとせず、カーテンの裾を握りしめていた。
「……どちら様でしょうか」
 生唾を飲み込む音が身体中に響く。
 女子生徒はほんの少し口を開いたが、すぐに結び、すっと視線を下にずらした。

──幽霊が……。

 ふっと胡桃の言葉を思い出し、だんだん血の気が引いていく。くるりと方向を変え、今にも走り出そうとした。
 コンコン。
 またも、窓ガラスを叩く音がした。
 人の性なのか、好奇心なのか。怖くてたまらないはずなのに気になってしょうがない。
 覚悟を決め、ゆっくり首だけ向けた。
 彼女はボードを胸の前に向け、広翔に見せていた。離れた距離からは見づらく、恐る恐る近づく。

『澄香』

 ボードには綺麗な楷書体でそう書かれていた。
 なぜボードにわざわざ……と思っていると、くるりとひっくり返し、また何かを書き始めた。
『声が出せないんです』
 そう書かれたボードを見せながら、苦笑した。
「大変ですね」
 広翔が哀れむように言うと、澄香はふるふると首を横に振った。ボードに、
『もう慣れたから何ともない』
 目を細め、微かに笑った。今度は苦笑ではなく、朗らかな笑みだった。
 突如、広翔は身体中に血がめぐりだしたような感覚に襲われた。いや勿論流れてはいたのだろうが、血流がわかるほどに心臓がうるさく鳴り響き、血管を流れる血がどくどくと音を立てる。息が詰まり、苦しい感覚。
 広翔がぼうっとしていると、再度窓ガラスを叩く音がした。
 澄香が心配そうな表情で『大丈夫?』と書かれたボードを掲げている。その下には、
『保健委員?』
 とあった。
「あ、はい。えっと、そうです。あ、あの」
 しどろもどろになって言う広翔に、澄香はふっと吹き出し、声にならない声で笑った。
 あははっ、と今にも声が聞けそうなのに、その音は聞こえない。その時初めて、ああ彼女は本当に声が出ないんだ、と実感した。
「あの、俺、葛西広翔って言います。よろしくお願い──……」
 なぜ、よろしくするのだろう。
 はた、と気づいた。
 たまたま窓側のベッドを使っていただけなのだ。毎日居るわけがない。まして接点なんてあるはずがない。
 そんな広翔の様子に気づいたのか、澄香はボードに何やら書き始めた。
『うん。よろしく』
 そう書いて、澄香は清々しい笑みを浮かべた。
「あの、えーと、苗字は……?」
 広翔が言いづらそうに言うと、
『なんで?』
 不満そうにボードを見せる。
「いや、あの。先輩、なので……」
『澄香でいいよ』
 それが言いづらいから……!
 広翔は頭を抱える。なぜ伝わらない。普通に恥ずかしいんだこっちは。年頃の女性を気安く名前で呼ぶのは恥ずかしいんだ。
「どうしても、教えてくれませんか」
 唸るように言うが、
『うん』
 即答されてしまった。諦めて、
「……澄香、先輩……て、呼ばせてもらいます」
『うん』
 と応え、澄香はまた微笑んだ。
 広翔は自分の顔に熱が集まるのを感じた。
 いつまた会えるか分からないという考えが、頭をよぎる。
 何故そんなことを考えたのか、と慌てて打ち消す。
『どうかした?』
 かぶりを振り続ける広翔の様子をクスクス笑いながら澄香が覗き込もうとする。
「なんでも、ないですよ」
 そんな澄香の行動が可愛らしくて顔を背ける。
 まさかそんな。という打ち消しを伴って、湧き出てくる感情を否定した。


──愛おしい、という感情を。
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