喪女の夢のような契約婚。

紫倉紫

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シーズン1

第十話

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 凡子はいつも以上に、一文字一文字を噛みしめながら読んだ。

 今回の五十嵐室長は、「このままで良いのか」と、葛藤を抱えていた。作者も、自分の人生について同じように悩んでいるのかもしれない。

 作者のプロフィールには、『水樹恋 女性 東京都在住』とだけ書かれている。
 今まで凡子は、作者を単に、面白い作品を生み出す魔法の手を持った女性と思っていた。ノートパソコンの画面とキーボードの上の指と、そんな漠然としたイメージしかない。
 作者の年齢も、どんな容姿をしているのかも、気にしたことがなかった。

 作者は環境の変化で多忙になったとコメントしていた。
 人は忙しいと余裕がなくなる。

 母親のニューヨーク赴任が決まったあと、凡子は、初めて両親のけんかを目撃した。母親は常に物の言い方がきつめだが、温和な父親が珍しく激しく抗議していた。母親が引き継ぎで会社へでかけている間、父親は、いつもより暗い表情で、黙々と引っ越しの準備を進めていた。父親が鬱気味なのが心配だった。凡子は、せめて自分のことでは負担を掛けないようにと、随分気を遣ったのを覚えている。

 引っ越して、しばらく経ってからは、父親の電話の声も明るくなり、向こうでの暮らしを満喫している様子がたくさん送られてくるようになった。

 環境の変化は、人にかなりのストレスを与える。

 凡子は、作者のことが心配になった。『五十嵐室長はテクニシャン』に、凡子は『やる気』以上に、『生きがい』をもらっているから、今までどおり更新はして欲しい。それでも、作者には、体調を崩すほど自分を追い込んで欲しくない。

 最新話のコメント欄に、凡子は、感謝の気持ちと、作者に対して、無理をしすぎないで欲しいという想いを書き込んだ。
 
 凡子は、いつもの時間に会社に着き、更衣室に入った。
「あっ、来た来た!」
 珍しく瑠璃が凡子より早く来ていた。
「おはようございます」
 凡子が挨拶すると「いいから、早く、こっちに来て」と手招きされた。優香はまだ、来ていない。

 瑠璃はすっかり身支度を整えている。いつも結構ギリギリに来るのに珍しい。

「今日早く来たのは、蓮水さんと泉堂さんがしばらく本社に出社するという噂を聞きつけて、近くのカフェで張ってたからなの」

 凡子は、制服に着替えながら、首を傾げた。二人が本社に出社するからといって、カフェで張っていた理由がわからなかった。

「浅香さんは、見たくないの?」

 瑠璃がもどかしそうに言った。蓮水監査部長のことは見たいが、早めに来て待ち伏せをしたいと思ったことはない。

「いつも、二人は私たちの勤務中にくるでしょう」
 月曜日はいつも、十時を回ってからの出社だ。

「ところが昨日は、七時頃には出社していたという情報を得たのよ」
 随分早いと、凡子は思った。

「となると、朝の少し気だるそうな二人を、目撃できるチャンスなわけ」

 たしかに、早朝の蓮水監査部長は貴重かもしれないと思い、凡子は頷いた。

「泉堂さんがあくびをするのを見て、蓮水さんが人前で大きな口を開けるなって泉堂さんを叱るの。そうすると、泉堂さんが、お前がなかなか寝かせてくれなかったのが悪いって文句を言うの」
「なるほど……」

 瑠璃はその場面を目撃するためにわざわざ二時間以上早く家を出たらしい。実際は、二人並んで雑談をしているだけでも、瑠璃にかかれば、愛を囁き合っていることになる。 

 凡子は着替え終わり、姿見の前に立っておかしな箇所がないかチェックした。スカーフが少し曲がっているので直した。

「それでね、聞いて欲しいのはここからなの」

 瑠璃が凡子の腕にまとわりついてきた。豊満な胸が腕に当たっている。

「せっかくずっと見てたのに、二人はバラバラで出社したの」
「あー、よく考えたら、一緒に暮らしてるわけじゃないんだ」
 瑠璃から聞かされる妄想の中では、二人はタワーマンションで同棲していた。
「泉堂さんが、寝坊をしたのかもしれない」
 瑠璃はあくまで自分の考えた設定を守りたいらしい。


 更衣室の時計を見ると、あと十五分で九時だ。
「松本さん、遅いね」
「彼女、今日、有休だよ」
 凡子はすっかり忘れていた。だから、更衣室で堂々と妄想を話していたのかと納得した。
 瑠璃は優香に腐女子であることを隠しているから、社内でそういう話をしない。

「真面目な話、どうも今月末に何か重大発表があるらしいよ。本社の方で」
「そうなんだ」

 凡子は、ロッカーの鍵を閉めた。上着のポケットに小さな鍵を入れる。二人揃って更衣室を出た。守衛室にいる年配の男性に「行って参ります」と声をかけた。

 一階への階段を上がりながら、凡子は昨日、泉堂の誘いを断ったことを思い出した。
 まさか、水曜日まで二人が本社に出社してくるとは考えていなかった。瑠璃の話だと、今月中は、ずっと本社に来る可能性があるらしい。

 蓮水監査部長の姿を見るのは嬉しいが、泉堂と顔を合わせるのは憂鬱だ。

 泉堂にしてみれば、出入りの度に見かける『受付C』とたまたま話すようになり、気が向いた時に声をかけてくるだけなのだろう。しかし、凡子にとっては悩みの種だ。

 泉堂のことがなければ、毎日蓮水監査部長を見られると、純粋に喜べた。

 次、泉堂から声を掛けられたら、一度、人目につかない場所できちんと話をした方がいいかもしれない。何せ、泉堂には悪気がなさそうなので、いつまでも、困っていることに気づいてくれない。

 受付が二人態勢の日には、一番出入りの多い、十二時台をさけて、各自、十一時台と十三時台で休憩に行く。本来は凡子が先に行く週なのだが、瑠璃から「いつもより早く来たせいでお腹がすいているの」と、交代を頼まれた。
 凡子はどちらでも良かったので、譲った。

 瑠璃が休憩に出て、しばらく経った時に、蓮水監査部長と泉堂が出て来た。こちらを見て首を傾げた後で、こともあろうか、泉堂が受付の方に向かってきた。蓮水監査部長は、立ち止まってこちらを見ている。

「浅香さん、今日一人なの?」

 凡子は無視するわけにもいかず「いえ、二人です。一人は休憩中です」と返した。

「そういう日もあるんだ」
「はい、ございます」
「浅香さん、お昼休憩何時から?」
 ここは嘘をついても仕方がないと考え「一時からです」と答えた。

「一時なら、ちょうどいいや」
 泉堂が後ろを振り返り、蓮水監査部長を呼んだ。凡子は途端に、緊張した。

 蓮水監査部長の革靴の足音が変に響いて聞こえる。凡子は、近づいてくる蓮水監査部長から目をそらして、泉堂の胸ポケットの辺りを見ていた。
 至近距離の蓮水監査部長は心臓に悪い。
「なんだ?」と、泉堂に声をかける声を聞いて、心臓が早鐘を打ち始め、吐き気までしてきた。

「蓮水、今日のお昼、浅香さんにどこか連れて行ってもらおう」

 凡子はまっすぐ立っていられる自信がなくなって、思わず、受付カウンターの天板に手をついた。

「どういうことだ?」
「浅香さん、美味しいランチの店をよく知ってそうだし」
「それは、助かる」

 凡子は、どんな顔をしたらいいのかわからず、無表情を決め込んだ。

「浅香さんは地下から出るよね。僕らも十三時になったら地下に行っておく」

 凡子は心の中で「無理です。無理です」と繰り返していた。瑠璃ならきっと、大喜びしただろう。しかし、凡子は違う。五十嵐室長みたいな見た目をした蓮水監査部長と、食事などできるはずがない。食べたそばから、緊張で吐いてしまいそうだ。

 泉堂が「じゃあ、また後で」と言い、蓮水監査部長からは「よろしく」と声を掛けられた。凡子はひと言「はい」と返した。

 二人はビルの出入り口に向かって歩きはじめた。段々、遠ざかっていく。凡子は二人の背中を視界の隅にとらえながら、どうにか逃げ出すすべがないかを考えていた。
 
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