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番外編
番外編・第二話 黒い雪の降る街
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地龍が重々しい音を立てて着陸したのは、オウル公国の首都、鉄機都市ヘパイストスの中央広場だった。
降り立った瞬間に鼻をつくのは、焦げた油と鉄錆、そして石炭の燃えさしの匂い。
ヴォルフェン領の、あの胸いっぱいに吸い込みたくなるような甘い空気とは対極にある、肺に重くのしかかるような大気だった。
「……ケホッ、ケホッ! よ、よくぞ参られた……ヴォルフェン公爵、そして聖女様……」
出迎えたのは、防塵マスクをつけ、立派な軍服を煤で薄汚した初老の男性だった。この国の君主、ゼグナ大公である。彼はひどく顔色が悪く、握手を求めて差し出した手も震えていた。
「大公殿下、ご無沙汰しております。……これは、手紙で読むよりも深刻な状況のようですね」
アレクシスが痛わしげに眉をひそめる。
広場を見渡せば、かつては白亜の石造りであったろう建物はすべてドス黒く変色し、道行く人々は皆、顔を伏せて足早に歩き去っていく。彼らの服も肌も、染み付いた煤で灰色にくすんでいた。
「面目次第もございません……。我が国は産業革命により富を得ましたが、その代償として『青空』を失いました。……今や、生まれたばかりの赤子でさえ、空の色は灰色だと思って育つのです」
ゼグナ大公の言葉に、レティシアの胸が痛んだ。
彼女のスカートの陰に隠れていたノエルが、不安そうに見上げてくる。
「ママ……。ここのお空、死んじゃってるの?」
「いいえ、ノエル。隠れているだけよ。私たちが厚い雲をお掃除して、お日様を連れ戻してあげましょう」
レティシアは娘の頭を撫でると、力強く大公に向き直った。
「お任せください。お掃除の基本は『換気』と『元栓』です。まずは、この広場を拠点にして、街全体の汚れの性質を分析します」
その言葉を聞いて、黙っていられなかったのが小さな二人の掃除屋たちだ。
「ママ! 分析なんて後回しだよ! ボクたちがパパッと綺麗にしちゃうから見てて!」
「そうですわ! わたくしの新魔法『キラキラ・バブル・シャワー』なら、こんな汚れ、一瞬で洗い流せますもの!」
レオンとノエルが、自信満々に飛び出した。
ヴォルフェン領での彼らは、掃除魔法を使えば百発百中。どんな頑固なシミも、彼らの魔法にかかれば光の粒となって消えていった。だから今回も、同じようにいくと信じて疑わなかったのだ。
二人の標的は、広場の中央にある「初代大公の銅像」だった。かつては黄金に輝いていたらしいが、今はヘドロのような油と煤が幾層にも固着し、巨大な黒い塊にしか見えない。
「いくよ、ノエル!」
「はい、お兄様!」
レオンが箒を振りかざし、ノエルがハタキを構える。
「――唸れ、風の刃! 『トルネード・ダスト・カッター』!」
「――弾けろ、洗浄の泡! 『ミラクル・ソープ・ボンバー』!」
二人の可愛い掛け声と共に、緑色の旋風と虹色の泡が放たれた。
ヴォルフェン領なら、これで対象はピカピカになり、周囲から拍手喝采が起こるはずだった。
――しかし。
ベチャッ。ヌルッ。
風の刃は、銅像の表面を覆う分厚い油の層に阻まれ、表面を撫でただけで滑ってしまった。
虹色の泡に至っては、油汚れの強力な撥水性の前に弾かれ、汚れを落とすどころか、浮いた煤を周囲に飛び散らせる結果となってしまった。
「……え?」
「……うそ、ですわ……?」
二人は呆然と立ち尽くした。
それだけではない。飛び散った黒い汚泥が、逆風に煽られ、あろうことかノエルの自慢の純白のドレスに降りかかったのだ。
「きゃっ!?」
「ノエル! だ、大丈夫か!?」
レオンが慌てて妹を庇おうとしたが、彼もまた、足元の油に滑って派手に転んでしまった。
泥だらけになった二人は、信じられないものを見る目で自分の手を見つめた。魔法が効かない。汚れが落ちない。それどころか、触れば触るほど広がっていく。
「うぅ……ママぁ……とれないよぉ……」
「汚い……ベタベタして、気持ち悪いですわ……」
初めての挫折。
目に涙を浮かべる子供たちの前に、静かにレティシアが歩み寄った。
彼女は、汚れたドレスを気にする素振りも見せず、泥だらけの二人を優しく抱きしめた。
「……びっくりしたわね。痛かったでしょう」
「ママ、ごめんなさい……。ボクたちの魔法、全然効かなかった……」
「いいえ、あなたたちの魔法が弱いわけではありません。……ただ、相手を知ろうとしなかっただけよ」
レティシアは銅像の前に立ち、そのドロドロの表面を素手でそっと撫でた。
指先が黒く汚れるのも厭わず、彼女はその感触、匂い、粘度を確かめる。
「レオン、ノエル。よく見て。……これは『呪い』ではありません。長い時間をかけて積み重なった、油と煤の層です。魔法は『魔力』には作用しますが、こうした『物理的な固着』には、また別の手順が必要なのです」
「てじゅん……?」
「ええ。いきなり魔法で吹き飛ばそうとしてはダメ。……まずは、汚れを『緩める』こと」
レティシアはポケットから、小さな瓶を取り出した。中には透明な液体が入っている。
彼女はそれを布に含ませ、銅像の一部に優しく押し当てた。
「これは、特製のアルカリ洗浄液。油汚れと仲良くなって、溶かしてくれるお水よ。……こうして汚れに馴染ませて、じっくりと浮き上がらせるの。力任せではなく、対話するように」
数分後。レティシアが布でスッと拭うと、そこだけ嘘のように黒い層が剥がれ、下の黄金色が輝き出した。
「わあ……! 落ちた!」
「魔法は、この『浮いた汚れ』を運ぶために使うの。……さあ、一緒にやってみましょう」
レティシアの指導の下、子供たちは再び道具を握った。
今度は派手な魔法ではない。地味なブラシがけと、洗浄液の塗布。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
地道な作業だが、汚れが確実に落ちていく感触に、二人の瞳に再び光が戻っていく。
「落ちる! ママ、落ちるよ!」
「楽しいですわ! 頑固な汚れが降参していくみたいで!」
広場の一角で、公爵夫人と子供たちが泥だらけになって掃除をする姿。
それを見ていたオウル公国の市民たちは、当初は驚いていたが、やがて一人、また一人と、自分たちも雑巾やブラシを持ち寄り始めた。
「聖女様が手を汚しておられるのに、我々が見ているわけにはいかない」と。
その光景を、アレクシスは少し離れた場所から、険しい表情で見守っていた。
彼の視線は、広場ではなく、その向こうに聳え立つ巨大な工場地帯の煙突に向けられている。
「……アレクシス様。どうされましたか?」
副官として同行していたヴォルフェン騎士団長が声をかける。
アレクシスは愛用の魔剣の柄に手をかけたまま、低く呟いた。
「……おかしいと思わないか。これだけの規模の煤煙だ。風に乗って拡散するなら分かる。だが……この街の汚れは、まるで『意志』を持っているかのように、一箇所に留まろうとしている」
「意志、ですか?」
「ああ。先ほどレティシアたちが銅像の汚れを落とした時……剥がれ落ちた煤が、風もないのに不自然に動いたように見えた。まるで、痛みを感じて逃げる生き物のように」
アレクシスの直感は、数々の修羅場を潜り抜けてきた「死神」のそれだ。外れることはめったにない。
彼は子供たちが綺麗にした銅像の足元を睨みつけた。
排水溝に流れ込んだ黒い汚水が、ポコポコと不気味な泡を立てている。
「……レティシア、子供たち。あまり工場の近くには寄るなよ」
その警告を発しようとした、まさにその時だった。
ゴゴゴゴゴ……!!
突如、地響きと共に広場のマンホールが一斉に吹き飛んだ。
噴き出したのは、蒸気と黒煙。
そして、それらが空中で混ざり合い、不定形の黒い巨人が何体も実体化し始めた。
「な、なんだあれは!?」
「煤が……動いている!?」
市民たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
黒い巨人――「スモッグ・ファントム」たちは、ただの煙ではない。長年放置された工場の配管の中で、魔力を含んだ廃液と怨念が化学反応を起こして生まれた、人造の精霊のような存在だった。
「キシャァァァァァ!!」
ファントムの一体が、綺麗になったばかりの銅像に向かって、ドロドロの腕を振り下ろす。
その先には、逃げ遅れたレオンとノエルがいた。
「いかん! させんぞ!!」
アレクシスが疾風の如く駆けた。
抜剣一閃。
漆黒の刃がファントムの腕を切り裂く――はずだった。
スカッ。
「――何!?」
アレクシスの魔剣は、黒い霧のような腕を何の手応えもなくすり抜けたのだ。
物理的な実体がないわけではない。剣が触れた瞬間、体がガス状に拡散し、斬撃を無効化したのだ。
霧散した腕は即座に再生し、今度はアレクシスに向かって襲いかかる。
「パパ!!」
アレクシスは子供たちを庇い、その背中で黒いヘドロの一撃を受けた。
ジュッ、と彼の漆黒のコートが焼け焦げる音がする。それは強酸性の毒を含んでいた。
「くっ……! 物理攻撃が効かない上に、接触するだけで腐食する毒か……。厄介な!」
アレクシスは痛みを顔に出さず、子供たちを抱えて後退した。
レティシアが即座に駆け寄り、浄化魔法で夫の背中の毒を中和する。
「アレクシス様! 無事ですか!?」
「ああ、かすり傷だ。……だが、レティシア。これはただの汚れじゃない。この街の『病巣』そのものが具現化した怪物だ。普通の掃除道具では歯が立たんぞ」
広場を包囲するように、次々と湧き出てくるスモッグ・ファントムたち。
それらは、まるで綺麗にしようとする者たちを嘲笑うかのように、自身の体を震わせて黒い粉を撒き散らした。
「……許せません」
レティシアが立ち上がった。
彼女のエプロンは泥で汚れ、頬にも煤がついている。
だが、その青い瞳は、かつてないほど激しく燃え上がっていた。
「せっかく子供たちが一生懸命綺麗にした場所を、また汚すなんて……。お掃除の神様が許しても、この『お母さん』が許しません!」
しかし、敵は物理無効、魔法耐性持ちの「動く公害」。
聖女の浄化魔法も、公爵の魔剣も決定打にならない状況で、一家はどう立ち向かうのか。
絶体絶命の広場で、レティシアは静かに、しかし力強く、ある「道具」を取り出すように子供たちに命じた。
「レオン、ノエル。……『あれ』を使いますよ」
「えっ、ママ、『あれ』って……まさか!」
「パパとの合体技……『家族大掃除フォーメーション』ですの!?」
黒い雪が吹き荒れる中、ヴォルフェン家最強の切り札が切られようとしていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
最後まで読んでいただきありがとうございます! 「
残り三話になります!!最後までぜひ読んでってください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【次回予告】
無数に湧き出るスモッグ・ファントムに対し、物理攻撃も魔法も効かない大ピンチ!
しかし、レティシアには秘策があった。
「汚れが逃げるなら、逃げられないように閉じ込めて、丸洗いすればいいんです!」
アレクシスの結界で敵を密閉し、レティシアと子供たちが超高圧洗浄魔法を放つ!?
次回、古き工場の亡霊、ついに浄化されるか!?
降り立った瞬間に鼻をつくのは、焦げた油と鉄錆、そして石炭の燃えさしの匂い。
ヴォルフェン領の、あの胸いっぱいに吸い込みたくなるような甘い空気とは対極にある、肺に重くのしかかるような大気だった。
「……ケホッ、ケホッ! よ、よくぞ参られた……ヴォルフェン公爵、そして聖女様……」
出迎えたのは、防塵マスクをつけ、立派な軍服を煤で薄汚した初老の男性だった。この国の君主、ゼグナ大公である。彼はひどく顔色が悪く、握手を求めて差し出した手も震えていた。
「大公殿下、ご無沙汰しております。……これは、手紙で読むよりも深刻な状況のようですね」
アレクシスが痛わしげに眉をひそめる。
広場を見渡せば、かつては白亜の石造りであったろう建物はすべてドス黒く変色し、道行く人々は皆、顔を伏せて足早に歩き去っていく。彼らの服も肌も、染み付いた煤で灰色にくすんでいた。
「面目次第もございません……。我が国は産業革命により富を得ましたが、その代償として『青空』を失いました。……今や、生まれたばかりの赤子でさえ、空の色は灰色だと思って育つのです」
ゼグナ大公の言葉に、レティシアの胸が痛んだ。
彼女のスカートの陰に隠れていたノエルが、不安そうに見上げてくる。
「ママ……。ここのお空、死んじゃってるの?」
「いいえ、ノエル。隠れているだけよ。私たちが厚い雲をお掃除して、お日様を連れ戻してあげましょう」
レティシアは娘の頭を撫でると、力強く大公に向き直った。
「お任せください。お掃除の基本は『換気』と『元栓』です。まずは、この広場を拠点にして、街全体の汚れの性質を分析します」
その言葉を聞いて、黙っていられなかったのが小さな二人の掃除屋たちだ。
「ママ! 分析なんて後回しだよ! ボクたちがパパッと綺麗にしちゃうから見てて!」
「そうですわ! わたくしの新魔法『キラキラ・バブル・シャワー』なら、こんな汚れ、一瞬で洗い流せますもの!」
レオンとノエルが、自信満々に飛び出した。
ヴォルフェン領での彼らは、掃除魔法を使えば百発百中。どんな頑固なシミも、彼らの魔法にかかれば光の粒となって消えていった。だから今回も、同じようにいくと信じて疑わなかったのだ。
二人の標的は、広場の中央にある「初代大公の銅像」だった。かつては黄金に輝いていたらしいが、今はヘドロのような油と煤が幾層にも固着し、巨大な黒い塊にしか見えない。
「いくよ、ノエル!」
「はい、お兄様!」
レオンが箒を振りかざし、ノエルがハタキを構える。
「――唸れ、風の刃! 『トルネード・ダスト・カッター』!」
「――弾けろ、洗浄の泡! 『ミラクル・ソープ・ボンバー』!」
二人の可愛い掛け声と共に、緑色の旋風と虹色の泡が放たれた。
ヴォルフェン領なら、これで対象はピカピカになり、周囲から拍手喝采が起こるはずだった。
――しかし。
ベチャッ。ヌルッ。
風の刃は、銅像の表面を覆う分厚い油の層に阻まれ、表面を撫でただけで滑ってしまった。
虹色の泡に至っては、油汚れの強力な撥水性の前に弾かれ、汚れを落とすどころか、浮いた煤を周囲に飛び散らせる結果となってしまった。
「……え?」
「……うそ、ですわ……?」
二人は呆然と立ち尽くした。
それだけではない。飛び散った黒い汚泥が、逆風に煽られ、あろうことかノエルの自慢の純白のドレスに降りかかったのだ。
「きゃっ!?」
「ノエル! だ、大丈夫か!?」
レオンが慌てて妹を庇おうとしたが、彼もまた、足元の油に滑って派手に転んでしまった。
泥だらけになった二人は、信じられないものを見る目で自分の手を見つめた。魔法が効かない。汚れが落ちない。それどころか、触れば触るほど広がっていく。
「うぅ……ママぁ……とれないよぉ……」
「汚い……ベタベタして、気持ち悪いですわ……」
初めての挫折。
目に涙を浮かべる子供たちの前に、静かにレティシアが歩み寄った。
彼女は、汚れたドレスを気にする素振りも見せず、泥だらけの二人を優しく抱きしめた。
「……びっくりしたわね。痛かったでしょう」
「ママ、ごめんなさい……。ボクたちの魔法、全然効かなかった……」
「いいえ、あなたたちの魔法が弱いわけではありません。……ただ、相手を知ろうとしなかっただけよ」
レティシアは銅像の前に立ち、そのドロドロの表面を素手でそっと撫でた。
指先が黒く汚れるのも厭わず、彼女はその感触、匂い、粘度を確かめる。
「レオン、ノエル。よく見て。……これは『呪い』ではありません。長い時間をかけて積み重なった、油と煤の層です。魔法は『魔力』には作用しますが、こうした『物理的な固着』には、また別の手順が必要なのです」
「てじゅん……?」
「ええ。いきなり魔法で吹き飛ばそうとしてはダメ。……まずは、汚れを『緩める』こと」
レティシアはポケットから、小さな瓶を取り出した。中には透明な液体が入っている。
彼女はそれを布に含ませ、銅像の一部に優しく押し当てた。
「これは、特製のアルカリ洗浄液。油汚れと仲良くなって、溶かしてくれるお水よ。……こうして汚れに馴染ませて、じっくりと浮き上がらせるの。力任せではなく、対話するように」
数分後。レティシアが布でスッと拭うと、そこだけ嘘のように黒い層が剥がれ、下の黄金色が輝き出した。
「わあ……! 落ちた!」
「魔法は、この『浮いた汚れ』を運ぶために使うの。……さあ、一緒にやってみましょう」
レティシアの指導の下、子供たちは再び道具を握った。
今度は派手な魔法ではない。地味なブラシがけと、洗浄液の塗布。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
地道な作業だが、汚れが確実に落ちていく感触に、二人の瞳に再び光が戻っていく。
「落ちる! ママ、落ちるよ!」
「楽しいですわ! 頑固な汚れが降参していくみたいで!」
広場の一角で、公爵夫人と子供たちが泥だらけになって掃除をする姿。
それを見ていたオウル公国の市民たちは、当初は驚いていたが、やがて一人、また一人と、自分たちも雑巾やブラシを持ち寄り始めた。
「聖女様が手を汚しておられるのに、我々が見ているわけにはいかない」と。
その光景を、アレクシスは少し離れた場所から、険しい表情で見守っていた。
彼の視線は、広場ではなく、その向こうに聳え立つ巨大な工場地帯の煙突に向けられている。
「……アレクシス様。どうされましたか?」
副官として同行していたヴォルフェン騎士団長が声をかける。
アレクシスは愛用の魔剣の柄に手をかけたまま、低く呟いた。
「……おかしいと思わないか。これだけの規模の煤煙だ。風に乗って拡散するなら分かる。だが……この街の汚れは、まるで『意志』を持っているかのように、一箇所に留まろうとしている」
「意志、ですか?」
「ああ。先ほどレティシアたちが銅像の汚れを落とした時……剥がれ落ちた煤が、風もないのに不自然に動いたように見えた。まるで、痛みを感じて逃げる生き物のように」
アレクシスの直感は、数々の修羅場を潜り抜けてきた「死神」のそれだ。外れることはめったにない。
彼は子供たちが綺麗にした銅像の足元を睨みつけた。
排水溝に流れ込んだ黒い汚水が、ポコポコと不気味な泡を立てている。
「……レティシア、子供たち。あまり工場の近くには寄るなよ」
その警告を発しようとした、まさにその時だった。
ゴゴゴゴゴ……!!
突如、地響きと共に広場のマンホールが一斉に吹き飛んだ。
噴き出したのは、蒸気と黒煙。
そして、それらが空中で混ざり合い、不定形の黒い巨人が何体も実体化し始めた。
「な、なんだあれは!?」
「煤が……動いている!?」
市民たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
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「キシャァァァァァ!!」
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「いかん! させんぞ!!」
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抜剣一閃。
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スカッ。
「――何!?」
アレクシスの魔剣は、黒い霧のような腕を何の手応えもなくすり抜けたのだ。
物理的な実体がないわけではない。剣が触れた瞬間、体がガス状に拡散し、斬撃を無効化したのだ。
霧散した腕は即座に再生し、今度はアレクシスに向かって襲いかかる。
「パパ!!」
アレクシスは子供たちを庇い、その背中で黒いヘドロの一撃を受けた。
ジュッ、と彼の漆黒のコートが焼け焦げる音がする。それは強酸性の毒を含んでいた。
「くっ……! 物理攻撃が効かない上に、接触するだけで腐食する毒か……。厄介な!」
アレクシスは痛みを顔に出さず、子供たちを抱えて後退した。
レティシアが即座に駆け寄り、浄化魔法で夫の背中の毒を中和する。
「アレクシス様! 無事ですか!?」
「ああ、かすり傷だ。……だが、レティシア。これはただの汚れじゃない。この街の『病巣』そのものが具現化した怪物だ。普通の掃除道具では歯が立たんぞ」
広場を包囲するように、次々と湧き出てくるスモッグ・ファントムたち。
それらは、まるで綺麗にしようとする者たちを嘲笑うかのように、自身の体を震わせて黒い粉を撒き散らした。
「……許せません」
レティシアが立ち上がった。
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だが、その青い瞳は、かつてないほど激しく燃え上がっていた。
「せっかく子供たちが一生懸命綺麗にした場所を、また汚すなんて……。お掃除の神様が許しても、この『お母さん』が許しません!」
しかし、敵は物理無効、魔法耐性持ちの「動く公害」。
聖女の浄化魔法も、公爵の魔剣も決定打にならない状況で、一家はどう立ち向かうのか。
絶体絶命の広場で、レティシアは静かに、しかし力強く、ある「道具」を取り出すように子供たちに命じた。
「レオン、ノエル。……『あれ』を使いますよ」
「えっ、ママ、『あれ』って……まさか!」
「パパとの合体技……『家族大掃除フォーメーション』ですの!?」
黒い雪が吹き荒れる中、ヴォルフェン家最強の切り札が切られようとしていた。
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最後まで読んでいただきありがとうございます! 「
残り三話になります!!最後までぜひ読んでってください。
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【次回予告】
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しかし、レティシアには秘策があった。
「汚れが逃げるなら、逃げられないように閉じ込めて、丸洗いすればいいんです!」
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