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第1章:私を殺して生きた日々
第一話:鏡に映らない「身代わり」
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冬の朝は、いつも鋭利な刃物のような冷気と共にやってくる。
屋敷の北側、陽の当たらない最上階の屋根裏部屋。そこが、この伯爵家の長女である私、アリアの居場所だった。
薄い毛布から這い出し、凍り付いた洗面器の水で顔を洗う。鏡を見ることはない。そこに映るのは、家族が愛でる「美しさ」を維持するための、ただの容れ物に過ぎないからだ。
「ああ、なんてこと! 私の大切なミレーヌが!」
階下から、母の金切り声が聞こえてきた。心臓が嫌な跳ね方をする。
急いで身なりを整え、居間へと向かう。そこには、真珠のような肌を持つ愛らしい妹、ミレーヌを抱きしめる両親の姿があった。そして、その傍らには、苦々しげな表情を浮かべた婚約者のレオンも立っている。
「どうしたのですか、お母様」
「アリア! 遅いじゃないの! 見なさい、ミレーヌの手を!」
差し出されたミレーヌの白い指先には、米粒ほどの小さな赤い腫れがあった。朝食の紅茶を淹れる際、わずかに熱湯が跳ねたのだという。
「……火傷、ですね」
「火傷なんて生易しいものじゃないわ! 今夜は王宮での夜会なのよ? こんな醜い傷を負ったまま、ミレーヌを人前に出せと言うの!?」
母の瞳には、私への慈しみなど欠片もなかった。あるのは、完璧な彫刻に傷がついたことを嘆く蒐集家のような、歪んだ執着だけだ。
父が冷酷な声で私に告げる。
「アリア。お前の義務を果たせ。お前は、ミレーヌを輝かせるための身代わりなのだから」
私は静かに頷き、ミレーヌの傍らに膝をついた。
私の家系、ローラン伯爵家に伝わる特異な魔道――それは、対象の負の事象を他者へ転移させる身代わりの呪法。
私はミレーヌの熱を帯びた指先に、自分の手を重ねた。
「……転移」
唱えた瞬間、指先から火箸を押し当てられたような激痛が走った。
視界が白く明滅する。ミレーヌの指先からは赤みが引き、雪のような白さが戻っていく。代わりに、私の人差し指の皮がじりじりと焼け、どす黒い水膨れが浮かび上がった。
「ああ、よかった! ミレーヌ、元通りよ!」
「ありがとう、お父様、お母様。やっぱりお姉ちゃんは、私のためのスペアね」
ミレーヌは当然の権利のように微笑んだ。火傷の熱を私に押し付けたことへの罪悪感など、彼女の辞書には存在しない。
レオンもまた、安堵の溜息を漏らす。
「よかった。ミレーヌの肌に傷が残らなくて。アリア、君もよくやったな。姉としての務めを果たすのは、当然のことだが」
レオンの言葉が、火傷よりも深く、私の胸を抉った。
婚約者であるはずの彼は、私の腫れ上がった指先を見ようともしない。彼の瞳に映っているのは、常に「完璧な妹」と、それを維持するための「便利な道具」としての私だけだ。
私は震える手を袖の中に隠し、静かに一礼した。
袖の中では、先ほど転移させた火傷だけではない、数多の傷跡が疼いていた。
ミレーヌが転んだ時の擦り傷、彼女が風邪を引いた時の高熱、両親が若さを保つために押し付けてくる肉体の疲弊。
私の体は、彼らの「美」と「健康」を買い支えるための、汚れた帳簿のようなものだった。
「アリア、ぼさっとしないで。夜会の準備があるんだから、早く部屋の掃除とミレーヌのドレスの準備をしてちょうだい」
「……はい、お母様」
家族は楽しげに今夜の夜会の話に花を咲かせながら、私を残して去っていった。
誰も、私の痛みに気づかない。
誰も、私がどれほどお姉ちゃんなんだからという言葉に縛られ、削られているかを知ろうとしない。
一人残された居間で、私は壁にかかった大きな鏡の前に立った。
そこには、灰色の髪をした、影のように薄い女が映っている。
肌は荒れ、瞳は死んだ魚のように光を失っている。家族から「穢れ」を吸い込み続けた結果、私の魔力は澱み、自分自身の姿さえ歪んで見えるようになっていた。
(私は、誰……?)
鏡の中の自分に問いかけても、答えは返ってこない。
私の名前は「アリア」のはずなのに、この家で呼ばれるのはいつも「お姉ちゃん」か「スペア」のどちらかだ。
ずきりと、指先の火傷が痛んだ。
その痛みだけが、私がまだ生きていることを教えてくれる唯一の感覚だった。
私は、彼らを美しく保つための影。彼らの幸せという光を強調するための、暗闇。
いつからだろう。
朝が来るたびに、このまま目覚めなければいいと願うようになったのは。
窓の外では、冷たい雪が降り始めていた。
私の心と同じ、何も映さない白銀の世界。
この時の私はまだ知らなかった。
積み重ねられた痛みが、限界を超えようとしていることに。
そして、私が自分の名を取り戻すための物語が、まもなく残酷な形で幕を開けることを。
私は腫れ上がった指を抱え、冷え切った屋根裏部屋へと、重い足取りで戻っていった。
屋敷の北側、陽の当たらない最上階の屋根裏部屋。そこが、この伯爵家の長女である私、アリアの居場所だった。
薄い毛布から這い出し、凍り付いた洗面器の水で顔を洗う。鏡を見ることはない。そこに映るのは、家族が愛でる「美しさ」を維持するための、ただの容れ物に過ぎないからだ。
「ああ、なんてこと! 私の大切なミレーヌが!」
階下から、母の金切り声が聞こえてきた。心臓が嫌な跳ね方をする。
急いで身なりを整え、居間へと向かう。そこには、真珠のような肌を持つ愛らしい妹、ミレーヌを抱きしめる両親の姿があった。そして、その傍らには、苦々しげな表情を浮かべた婚約者のレオンも立っている。
「どうしたのですか、お母様」
「アリア! 遅いじゃないの! 見なさい、ミレーヌの手を!」
差し出されたミレーヌの白い指先には、米粒ほどの小さな赤い腫れがあった。朝食の紅茶を淹れる際、わずかに熱湯が跳ねたのだという。
「……火傷、ですね」
「火傷なんて生易しいものじゃないわ! 今夜は王宮での夜会なのよ? こんな醜い傷を負ったまま、ミレーヌを人前に出せと言うの!?」
母の瞳には、私への慈しみなど欠片もなかった。あるのは、完璧な彫刻に傷がついたことを嘆く蒐集家のような、歪んだ執着だけだ。
父が冷酷な声で私に告げる。
「アリア。お前の義務を果たせ。お前は、ミレーヌを輝かせるための身代わりなのだから」
私は静かに頷き、ミレーヌの傍らに膝をついた。
私の家系、ローラン伯爵家に伝わる特異な魔道――それは、対象の負の事象を他者へ転移させる身代わりの呪法。
私はミレーヌの熱を帯びた指先に、自分の手を重ねた。
「……転移」
唱えた瞬間、指先から火箸を押し当てられたような激痛が走った。
視界が白く明滅する。ミレーヌの指先からは赤みが引き、雪のような白さが戻っていく。代わりに、私の人差し指の皮がじりじりと焼け、どす黒い水膨れが浮かび上がった。
「ああ、よかった! ミレーヌ、元通りよ!」
「ありがとう、お父様、お母様。やっぱりお姉ちゃんは、私のためのスペアね」
ミレーヌは当然の権利のように微笑んだ。火傷の熱を私に押し付けたことへの罪悪感など、彼女の辞書には存在しない。
レオンもまた、安堵の溜息を漏らす。
「よかった。ミレーヌの肌に傷が残らなくて。アリア、君もよくやったな。姉としての務めを果たすのは、当然のことだが」
レオンの言葉が、火傷よりも深く、私の胸を抉った。
婚約者であるはずの彼は、私の腫れ上がった指先を見ようともしない。彼の瞳に映っているのは、常に「完璧な妹」と、それを維持するための「便利な道具」としての私だけだ。
私は震える手を袖の中に隠し、静かに一礼した。
袖の中では、先ほど転移させた火傷だけではない、数多の傷跡が疼いていた。
ミレーヌが転んだ時の擦り傷、彼女が風邪を引いた時の高熱、両親が若さを保つために押し付けてくる肉体の疲弊。
私の体は、彼らの「美」と「健康」を買い支えるための、汚れた帳簿のようなものだった。
「アリア、ぼさっとしないで。夜会の準備があるんだから、早く部屋の掃除とミレーヌのドレスの準備をしてちょうだい」
「……はい、お母様」
家族は楽しげに今夜の夜会の話に花を咲かせながら、私を残して去っていった。
誰も、私の痛みに気づかない。
誰も、私がどれほどお姉ちゃんなんだからという言葉に縛られ、削られているかを知ろうとしない。
一人残された居間で、私は壁にかかった大きな鏡の前に立った。
そこには、灰色の髪をした、影のように薄い女が映っている。
肌は荒れ、瞳は死んだ魚のように光を失っている。家族から「穢れ」を吸い込み続けた結果、私の魔力は澱み、自分自身の姿さえ歪んで見えるようになっていた。
(私は、誰……?)
鏡の中の自分に問いかけても、答えは返ってこない。
私の名前は「アリア」のはずなのに、この家で呼ばれるのはいつも「お姉ちゃん」か「スペア」のどちらかだ。
ずきりと、指先の火傷が痛んだ。
その痛みだけが、私がまだ生きていることを教えてくれる唯一の感覚だった。
私は、彼らを美しく保つための影。彼らの幸せという光を強調するための、暗闇。
いつからだろう。
朝が来るたびに、このまま目覚めなければいいと願うようになったのは。
窓の外では、冷たい雪が降り始めていた。
私の心と同じ、何も映さない白銀の世界。
この時の私はまだ知らなかった。
積み重ねられた痛みが、限界を超えようとしていることに。
そして、私が自分の名を取り戻すための物語が、まもなく残酷な形で幕を開けることを。
私は腫れ上がった指を抱え、冷え切った屋根裏部屋へと、重い足取りで戻っていった。
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