家族に売られてたどり着いた先は、王女様の侍女でした。 ――掃除だけは誰にも負けません。

月城 蓮桜音

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第2話 弟の薬代

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 雑巾を絞る。水が落ちる音が、やけに大きい。夜明け前の廊下は薄暗く、冷たい。指先がかじかんで、布を握る指の動きが少しだけ遅れる。手荒れした皮膚に水がしみて、息を止めた。でも、痛いのは指じゃない。
 
 私は雑巾を広げ、床に押しつける。前へ、前へと滑らせる。音を立てないように。誰にも気づかれないように。ここで暮らす人たちの朝が始まる前に廊下だけでも終わらせたい。
 
 拭き残した隅に、白い粉のような埃が残っていた。壁際の飾り棚。古い置時計。埃は、溜まる場所を選ばない。棚の下に目をやった時、透明な小瓶が視界の端に入った。薬瓶に見えた。あの子のための、薬。
 
 ――瓶の底が、見える。胸の奥が、きゅっと縮む。私は雑巾を握ったまま、ほんの一瞬、動きを止めた。
 
 ……あの時も、同じだった。
 
 薬が切れかけていることに気づいた瞬間、私は妙に冷静になった。焦っても、泣いても、薬は増えない。増えるのは、ただ時間だけだ。私は小瓶を手に取って、傾けた。残りはほんの少し。目盛りで言えば、あと二回分もない。
 
 弟のノアは、病弱だ。熱を出しやすく、咳が長引く。季節の変わり目はもちろん、風が少し冷たいだけで、息が苦しそうになる。薬があれば落ち着く。薬がなければ――夜が長くなる。私は、その小瓶を元の場所にそっと戻し、廊下を抜けて父の部屋へ向かった。扉の前で一度だけ深呼吸をしてから、ノックをする。返事は少し遅れた。
 
「……何だ」
 
 父は机に向かったまま、振り返らない。紙の上に視線を落とし、羽根ペンの先だけが動いている。没落したとはいえ、父には“当主”としての仕事がある。書くこと、署名すること、頭を下げること。――そして、何も決めないこと。
 
「あの……ノアの薬が」
 
 口にした瞬間、声が少しだけ震えた。私はそれを飲み込んで続けた。
 
「もう、残りが少なくて。次の分を買わないと……」
 
 父の手が止まった。でも、顔は上がらない。机の上の紙を見ているふりをしている。見ているのは文字じゃなくて、逃げ道だと、私は知っていた。沈黙が一拍、二拍。それから父が、ため息とも言えない息を吐いた。
 
「……そんな金はない」
 
 一言だった。説明もない。謝りもしない。慰めもない。まるで、天気の話でもするような声で。私は喉が熱くなるのを感じた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。分からないまま、でも私は口を開いた。
 
「でも、ノアは――」
 
「ないものはない」
 
 父が私を遮った。その瞬間、背中に冷たいものが落ちた気がした。父はようやくこちらを見るが、目は合わない。視線が私の肩のあたりで止まっている。まっすぐ見れば責任になるから、見ない。そういう目だ。私は言葉を失った。

 その時。廊下側から、静かな足音が近づいた。扉が開く音。蝶番ちょうつがいがきしむのに、なぜかそれは“家の音”として当たり前のように馴染んでいた。――この家の中心が動く音。
 
「まあ。朝から騒がしいこと」
 
 継母の声だった。柔らかいのに、温度がない。彼女は私と父を交互に見て、状況を一瞬で理解したように口元を整えた。
 
「ノアの薬、でしょう?」
 
 私は頷いた。頷くしかなかった。継母は父に視線を向ける。父は、何も言わない。口を開けば逆らうことになるから、黙る。その沈黙の上に、継母は言葉を置いた。
 
「あなたが働いた分だけ、払ってあげるわ」

 私は息を止めた。
 
「……え」
 
「薬が欲しいのなら、この家の掃除をしなさい。あなたは掃除が得意でしょう?」
 
 得意じゃない。慣れただけだ。でも、そんな言い訳をする場所じゃないことは分かっていた。継母は、私の反応を待つふりをして、続けた。
 
「家じゅうがきちんと整っていれば、私だって気分がいいもの。あなたの“仕事”が終わったら、薬を渡すわ。簡単でしょう?」
 
 簡単、という言葉が、やけに軽かった。そして、念を押すように――
 
「掃除が終わるまで、薬は私が預かっておくわ」
 
 父は、何も言わなかった。私は父を見た。父の目は、机の上に落ちたままだった。見ない。言わない。止めない。私は息を止めた。

 私は、自分の手のひらが震えていることに気づいた。握りしめた指の付け根が白くなる。悔しかった。弟の命が条件になることも、この家の中で私が“交渉”をしなければならないことも。
 
 でも、その悔しさの上に、別の感情が重なる。焦り。恐怖。――そして、ノアの顔。夜中に咳き込んで、苦しそうに息をする小さな背中。熱に浮かされながら、それでも私を見ると安心したように笑う顔。
 
「お姉ちゃん」
 
 あの子は、私を名前じゃなくて、そう呼ぶ。私がここにいる意味を、私にくれる呼び方で。私は、継母に向き直った。
 
「……分かりました」
 
 声は掠れていた。けれど、引かなかった。
 
「掃除をします。終わらせます。だから……薬を、ください」
 
 継母は満足そうに頷いた。
 
「ええ。約束よ」
 
 その約束が、私の首を絞めるような言葉だと知りながら。
 
 ――回想はそこで途切れる。
 
 私は今、廊下で雑巾を絞っている。水が落ちる音は、やっぱり大きい。静かな屋敷の中で、私だけが働いている証みたいに響く。棚の上を拭き、窓枠を拭き、床を拭く。終わらせなければならない。終わらせないと、薬はない。
 
 弟の命が、今日の掃除の向こうにある。だから私は、手を止めない。
 
 ――どれだけ、指が痛くても。
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