最期の時間(とき)

雨木良

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榊 祐太郎 5

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「ゆうたぁぁぁ!」

営業から戻ってきた生駒が、祐太郎の名前を叫びながら職場に戻ってきた。余りの大きな声に自席に座っていた祐太郎は驚いたと同時に恥ずかしく感じ、生駒の元に駆け寄った。近付くと生駒の顔が涙と鼻水でグシャグシャなのが分かった。

「…タケ。どうしたんだ?」

「どうしたって!お前、さっき言えよ!なんだ、もうじき死ぬって!嘘だろ!?」

生駒が祐太郎の両肩を掴みながら言い寄った。二人は職場内の視線を集めていた。

「…嘘じゃない。今日、病院で言われた、すい臓癌だって。」

「…そんな。さっき、河野(こうの)からメールが来たんだ。俺がいない時に、そんな大事な話すんなよ…。」

生駒は力が抜けたように、床にペタリと座り込んだ。

「違うんだよ。話さないといけない状況になったというか…ほら、立ってくれよ。…たくっ、男がそんなに泣くかねぇ。」

祐太郎がポケットからハンカチを取り出し生駒に差し出した。生駒は、受け取ると涙を拭い、遠慮せずに鼻水を拭いて、そのまま勢いよく鼻もかんだ。

「おい生駒!人のハンカチで鼻をかむな、鼻を!」

祐太郎の班の班長の鶴井(つるい)が生駒の頭を叩(はた)きながら言った。

「…榊、ちょっといいか?」

鶴井は、祐太郎を連れ廊下に出ると、自販機と立ったまま打ち合わせができる円テーブルが数台置いてある休憩ルームに行き、自販機にお金を入れた。

「好きなの押してくれ。」

祐太郎はペコリと頭を下げ、お茶のペットボトルのボタンを押した。続けて鶴井が炭酸飲料を購入すると、 一番近い円テーブルに移動した。

鶴井はプシュッと炭酸飲料を開けると一口飲み、話を始めた。

「さっきはすまなかったな。野次馬みたいに君たちの話を聞いてしまって。」

「いえ。こちらこそ、こんなことになってしまって…。」

「何言ってんだ、榊が悪いことした訳じゃないだろ。…それでだな、仕事のことなんだが…。」

鶴井は、祐太郎から目線を逸らしながら言った。

「仕事は、出来る限り来て、天野にもしっかり引き継い…。」
「違うんだ。仕事はもう辞めた方がいいって話だ。」

「…え?」

祐太郎は、鶴井の言葉に呆然とした。鶴井は相変わらず目線を祐太郎から逸らしながら話を続けた。

「…余命一ヶ月っていわれた人間を働かせる事が、正しいのかどうかって問題なんだよ。」

「…会社側の話…ですか。」

鶴井は下を向き、「あぁ。」とだけ答えた。

「…迷惑ですか?死ぬって分かってる人間が同じ空間にいることが。」

祐太郎は、涙を浮かべながら鶴井に問い掛けた。

「そんなことは言ってない。…俺だって、こんなこと本心じゃない。榊…君が仕事中に倒れて、万が一そのまま…なんてことになったら…上はそういう話をしてるんだ。俺だって組織の歯車の一員でしかない、言いたくないことを君に伝えていることを理解してくれ。」

鶴井は深く頭を下げた。

「班長…ずるいですよ、そんな…。」

祐太郎は、まだ一口も飲んでいないお茶のペットボトルをテーブルにドンッと叩きつけ、部屋から出ていった。

「…嫌な役だな…。」

そう呟いて頭を上げた鶴井の目からは、涙が流れていた。

職場に戻った祐太郎は自席に座り、やり場のない気持ちをどうしようもなく頭を掻きむしった。

「先輩…大丈夫ですか?」

隣の席の天野が心配そうに声を掛けた。その様子を見ていた紗希と生駒も祐太郎の元に歩み寄った。

「…ゆうた。鶴井班長に何を言われたんだ?」

生駒の質問に祐太郎は顔を机に伏せて無言を貫いた。

「…ゆうちゃん?」

紗希も心配そうに見つめていると、鶴井が職場に戻ってきた。鶴井はすぐに祐太郎の自席に目を向け、生駒や紗希が周りにいる現状を察し、気不味そうに目を逸らした。

「鶴井班長!榊に何を言ったんですか!」

生駒が激昂しながら、鶴井に歩み寄った。

「タケ!止めろ!」

祐太郎が自席に座ったまま顔を上げ、声を上げた。生駒は、驚いて静止し、祐太郎に振り返った。

祐太郎は席を立ち、鞄に細かい荷物を詰め込み始めた。

「…紗希。また後で連絡する。」

「…え?ゆうちゃん?」

祐太郎は鞄を手に、扉に向かい、生駒と鶴井の横を通り過ぎる際に立ち止まった。

「タケ、ありがとうな。鶴井班長、正式な退職願は後日お持ちします。」

祐太郎は、一礼して職場を出ていった。

祐太郎はエレベーターに向かう途中、背後から生駒が鶴井に怒鳴る声が聞こえたが、振り返ることなく歩き続けた。

10年以上真面目に毎日通った職場をこんな形で去ることは、とにかく無念で悲しかった。鶴井班長や山本課長は日頃から自分を買ってくれていた。きっと鶴井は上からの指示で、自ら嫌な役を買って出て、自分に告げたのだろうと理解した。 

「ゆうちゃん!」

紗希が祐太郎の元に走ってきた。

「ごめんな、紗希。やっぱり自分の思い通りにはいかないよな。限界まで仕事したいなんて、それは僕の自分勝手な自己満で…周りからしたら気も遣うし、仕事中に倒れて死んだら、この会社が世間から叩かれるかもしれない。…よく考えたら、残り一ヶ月の人生、もっとやるべきことがあるんじゃないかって思ったんだ。だから、鶴井班長の話には納得してる。」

チンッ。 
エレベーターが到着し、扉が開くと祐太郎は乗り込んだ。

「勿論、やるべきことの中には、紗希とやりたいことも沢山ある。…また、連絡するからさ。じゃあ。」

紗希が潤んだ瞳で見つめる中、祐太郎は『閉』ボタンを押した。

紗希は、祐太郎が納得した上で決意したことなら、勝手な言葉は掛けられないと思い、かといって何を言えば良いのか結論が出ず、祐太郎をこれ以上追いかけることができなかった。

紗希は、下階に下りていくエレベーターランプをじっと見つめていた。
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