1 / 11
貰えなかった「愛してる」
しおりを挟む
「私のことを少しでも愛してくださっているなら、お願い。どうか愛してると言って」
愛してる人がいた。
例え彼が私を愛していなくても、私は彼を愛してた。彼が私と結婚してくれた理由が父に復讐するためだったと知っても、私は彼を愛すことをやめられなかった。
愛してた。愛してる。今までも、これからも。ずっとあなただけ。
だから、ごめんなさい。
お父さま、ごめんなさい。お母さま、ごめんなさい。ごめんなさい。みんなみんなごめんなさい。
謝る。ずっとずっと罪を背負う。何度生まれ変わっても、私はきっと謝り続けるから。
だから、自分から死ぬことを許してください。
彼を愛した私が全て悪いの。
彼はなにも悪くない。全て私がしたこと。
彼を責めるなら、私を責めて。彼を責めるなら、お父さまは彼に謝って。
……最期に嘘でもいいから愛してるって言われたかったな。
暗く淀んだ青い海が私を呼んだから、私は逝ったの。
毎晩私は夢を見る。胸を焦がすほどに愛して、尽くす夢を。
偽りでも愛を囁いてもらえる時間は幸せで、私はその夢を見た日はいつも幸せになれる。
私は前世を覚えていた。前世の私は愛する人に愛してもらえなくて、それでも彼を愛してた。
彼が起こしてしまった罪を私は背負って、自らの命を絶った。忘れていればよかったとは思わない。
私は、前世の私と同じように夢の中の彼に恋をしたから。
「どこ、どこにいるの」
「お母様」
今世の母が私を探している。母の前に顔を出せば、甘ったるい声で私の名を呼んだ。
甘ったるい媚びるようなこの声はきっとなにか嫌なことが起こる前の時の声。
「聞いて。あなたの婚約者が決まったのよ」
「……そうなの、お母様。どんな方か楽しみだわ」
「とっても高貴なお方よ。きっとあなたも気にいると思うわ」
にこにこと笑う母に私も笑みを返す。
生まれ変わった私は貴族の娘だった。
前世のことで覚えてるのは彼との時間と私がなぜ死を選んだのか。どんな世界に生きていたのかはよく覚えてない。
だから違和感なくこの世界に溶け込めた。
貴族の娘である以上、私は家と家を繋ぐ駒。好きな相手と結婚なんてできないし、そもそも私の好きな人は夢の中の人。
会うこともできない遠い人。
そう、思ってたのに。
「お前の婚約者のアラン・ファンネール殿だ」
「初めまして。これからよろしく頼むよ」
夢の中の人が現実にいた。
でも、現実はとても私に厳しい。
それなら夢の中のほうがよかった。
「私は君を愛してない。私には他に愛する人がいる。ああ、もちろん結婚はするが私と私の恋人には関わらないでくれ」
父に言われて庭を二人で散策してる時に言われた言葉。
ああ、きっとこの人は一生私を好きになることがないんだと理解した。好きで好きでたまらないのに、この人は私を好きになってくれない。
けれど、時折優しくするから嫌いにもなれない。
そうして私は二度目の生でも彼に恋をして、また命を散らす。
始まった新婚生活は辛く冷たいものだった。
彼は恋人を敷地内の別宅に呼んで、毎日そこに帰ってく。
初夜なんてものはない。私と彼は白い結婚で、私はまだ乙女のままだった。
何度一人の夜に泣き腫らしただろう。
何度悲しみに暮れ死を願ったことだろう。
それでも彼のそばにいられるだけで私は幸せを感じてしまう。
彼の隣にいることのできる夜会は私の唯一の楽しみだった。
例え周りの人たちが私の白い結婚を嘲笑おうとも、私は本当に幸せだった。幸せだと、信じていたかった。
毎日笑っていた。屋敷の人間はほとんど彼とその恋人の味方で、私を疎んでいたけど、私は笑っていた。
女主人とは名ばかりで、使用人も束ねられない女だった。
ただ私の専用の侍女になってくれた若い娘だけは、私の境遇に同情してくれた。その優しさだけで胸がいっぱいだった。
彼の恋人は貴族で、すでに一度婚姻経験のある方らしい。
幼い頃から想いあっていた二人は、彼女の政略結婚で一度は離れ離れになり、彼女が夫と離縁し戻ってきたことで彼と彼女の仲は元に戻ったと聞いた。
ただ世間体的に恋人を伴侶にすることは難しく、お飾りの妻を立てることになったと。
それを聞いて私は思わず笑ってしまった。
だって、一緒なの。
私の愛した彼と、私の愛してる彼が。
彼は自分の愛してる人とは婚姻できずに、私と結婚するの。前世もそうだった。
哀れな人。可哀想な人。
あなたは愛してる人とは結ばれない。
私は、愛してるのに。心の底からあなただけを愛してる。結ばれるのに、あなたは私を愛してはくれない。
どうしてかな、どうしてだろう?
なんだかそれがおかしかった。
結ばれたのに愛されない女と、愛しあってるのに結ばれない女ならどっちが幸せなんだろう。
彼はね、私を愛してないのに優しいの。
夜会のときは「綺麗だね」って微笑んで、頭を撫でてエスコートしてくれる。
愛してないくせに、その指で私の頬を優しく撫でる。
中途半端な優しさだけをくれるから、私は彼を嫌いになれなくて。
宙ぶらりんの都合のいい女だった。
だけどこれがいつまでも続くならそれでいいのにと思ってた。
そんなこと、あり得るはずがなかったのにね。
限界は来た。
彼の恋人が子を孕んだ。最低限私の身の回りのことをしてくれる使用人以外は全員別宅に移った。
もうどちらが本妻かわかりはしない。
私は相変わらず乙女のまま。
彼に抱かられる日は一生来ない。
いつかは、って夢見てた。
でも、たぶんそれは一生来ることがないんだって気付いた。
「彼女との子供をこの家の跡取りにする」
言い放たれた言葉。鋭く私の心を刺した刃のような言葉に私は笑う。
だって、彼は私との子を必要としてなかったんだから当然よね。
期待するのは止めた。いつか息を止めるそのときまで、ただ死を描いてよう。
きっと自分から死を望むことはできないから。
ただ死を描いて、それで、夢を見よう。
いつか死んだときには彼のことを諦め切れますように、と。
こんな胸が切り裂かれるような想いはもうしませんように、と。
幸せに、なれますように、と。
静かに静かに、息をしていた。
なにかから隠れるように、ひっそりと。
十月十日。彼女の子供が生まれた。
私は遠くからしか見られなかったけど、とても可愛らしい女の子だった。
幸せになりたいのに、私はなれない。
きっと子は望めない。彼との子どもが欲しかった。彼と私との子どもが、愛し合った証が、とても欲しかったのだ。
自然と流れる涙のなんと醜いことか。
恨みと憎しみの篭った涙はまるであの日のような暗く淀んだ青い海のようだと思った。
愛されたいと願い、そのくせ怖くて口に出せない。ただ心の内で彼の愛を願って、彼に一心に愛される恋人とその子を憎んでる。
頼むからこんな汚い人間は早く死んでおくれ。
他の誰でもない、私が一番願ってた。
私が「愛してる」と本当の言葉を告げたのは、その息が止まる少し前だった。
憎んでるとも告げたし、恨んでるとも告げた。でも、それ以上に愛してると、私はそれを最期の言葉にした。
彼は私に愛されてるなんて知らなかったのだろう。まさか愛されてると思わなかったのだろう。
血に染まる私を抱きながら、その瞳を溢れんばかりに見開いた。
犯人は彼の恋人の元夫だ。恋人の元夫のことは顔だけは知っていた。
陛下もいらっしゃる王家主催の夜会で、それは起こった。
家ではなくてよかったと思うべきなのかもしれない。だって、私たちは完璧な被害者になれたのだから。
ああ、ただ彼の貴族としての将来には泥が塗られたなとだけ思った。
血走った目で、ナイフをその手に掴んで歩いてくる男の姿を私だけが捉えた。
戸惑いはなかった。だって、私はただ男の前に身体を差し出すだけで楽になれるのだから。
キャーーッ!!
あちこちから劈くような悲鳴が聞こえた気がする。
気がするのはもう頭が言葉を理解することを嫌がってるから。
痛みは、ない。ただ刺されたそこだけがジクジクと熱を持っていた。
カランと音を立てて男の手から滑り落ちた銀のナイフが視界に入る。
「───!」
彼が、はじめて私の名前を呼んだ。
それが泣きたいほどに嬉しくて、私は笑みを浮かべる。
最期に聴けた私の名前。彼は私の名前を知らないわけじゃなかったのね。
純粋に嬉しかった。
「すき、よ」
え、と彼の目が何事かと瞬いた。
ひどく断片的な言葉だった。
「すき」「きらい」「だいすき」「にくい」「うらんでる」「あいしてる」「だいきらい」「あいして」「しねばいい」「でも」
「あいしてる」
ずっと、ずっと。
口の中に鉄が広がっても、私はつぶやき続けた。
もう喋るな、とか、大丈夫だ、とか、なんかいっぱい言われた気がするけど、そんなの関係なくて。
刺されたところから熱が広がって、身体がびくびくっと痙攣して、芯から熱いものが湧き上がって、それを吐き出すように噎せると鉄の味。味だけは最期までわかった。
天井画がずっと私の視界に入ってた。
『愛を乞う人』そんなタイトルの絵だったと思う。
美しい女の愛を乞う男たちの絵。
まるで正反対だ。
美しいあなたの愛を乞う私は、きっととても醜かっただろう。
死を描いてた。描いてた死は凛々しく美しいものだった。そうなるはずだった。
けれど、きっと最期に愛を望んだ私は大層醜い女になっていただろう。
二度目もあったからか、三度目もあった。四度目も、五度目もあった。六度目、七度目、八、九。十を過ぎてからは数えるのを止めた。
何人ものあなたが私と結ばれて、何人ものあなたが私を愛さなかった。
心は壊れていった。
何度愛しても愛されないのに、何度も私はあなただけを愛す。
狂ったオルゴールのように私の愛は形を変えていく。
時に情熱的に。時に懇願するように。時に穏やかに。時に攻撃的に。時に母のように。
みんな私なのに、みんな私じゃない。
愛しかたなんてとうの昔に忘れてしまった。
繰り返す私は酷く疲れてた。
今度の私はただの平民だった。
ああ、自由だとぼんやりと思った。
今までの私はいつも何かに縛られていたから、今度の身分ならきっと縛られないと思ったの。
だって、結婚相手は自由に決められる。嫌なことから逃げても誰も平凡な女のことなんて気にも留めない。
私はやっと自由になったのだ。
自由に、なったのに。
「あぁ……やっと見つけた……」
なんで彼がいるんだろう。どうして彼が私を抱き締めてるんだろう。
わからない。
耳元で囁かれる言葉にゾワリと背筋が粟立つ。
彼の姿は貴族のように煌びやかで、対する私は農作業を終えて帰ってきたところだから泥だらけ。
恐怖で足に力が入らない。力が抜けて、足から崩れ落ちそうになると、腰を掴まれ無理矢理立たされた。
「も、もうしわけ、ありま、せん」
震える声で告げる。
なんで、どうして? ──怖い。
私の中に駆け巡るのは恐怖。
過去、私は何度も彼のために死を選んだ。
何度も彼に恋をして、何度も儚く散っていった。
もう、限界だった。
私はもう死にたくない。愛されない終わりを選びたくない。誰かに愛され、幸せの中でゆっくりと眠りにつくように穏やかに死んでいきたい。
それでも何度でも夢の中の彼に恋をしてる。
だから、今世は一人で生きていこうと思ったのに。ただひっそりと終えられると思ったのに。
「何故、謝る。謝るのは私のほうだ。何度も君に不誠実なことをした。何度も君を忘れて、何度も君に冷たく当たった」
いや、いや。聞きたくない!
「っ、わすれてっ!」
「………なに?」
ぶんぶんと頭を振って耳をふさぐ。
脳に染み込む彼の心地いい声なんて聞きたくない。彼の言い訳なんて聞きたくない。
夢の中の彼だけに恋をしていたい。
「もう、いやなのっ! 醜くなるのはいやっ! 愛されないのはいやっ! 迷惑をかけたくない、嫉妬に狂いたくないっ! 帰って! 帰れッ帰れ帰れ帰れッ!」
ドンッと私を抱き締める彼の身体を突き飛ばす。
声だけでも、私の心はもう鷲掴みにされて、愛をねだるように心が泣いてる。愛されたい、抱き締められたい、って。
わかってるのに。言葉なんて信じちゃいけない。
いつまでも彼にとって私は憎むべき女だから。
今の彼が過去の記憶を知っていたとしたら、きっと私は復讐される。
そう。最初の私は復讐相手だった。
彼は、自分の家族を奪った私の父に復讐するために、私を利用した。自分の愛しい人と別れてまで、彼は私と結婚して、私の家族になった。私は彼にとって、所詮憎い相手の娘にしか過ぎなかった。
愛されるはずがない。
涙を流しながら、その場に座り込んで頭を下げる。そしてもう一度「私を忘れてください」と懇願した。
「君の気持ちは理解した。そう言うだろうとも思った。──家に火を」
「「はっ!」」
私がなにかを言うまえに、彼の後ろにいた兵士のような二人が松明を掲げる。
なにを、する気?
松明を掲げ、私を無視して男二人が私の質素な小屋のような家に近づく。
まって、と呟いたけど、それは声にならなくてその代わりにヒュッと息を飲み込む。
まるで油でも染み込んでるかのように、私の長年住んできた家はよく燃えた。
「いや、いやっ……いやぁぁぁぁああっ!」
慌てて家に駆けよろうとすると、背後からお腹に腕を回されて、それ以上は近付けない。それでも必死に手を伸ばして、家の中にあるものを取り戻そうと必死になる。
わけがわからない。額から嫌な汗が流れる。
あそこには私の生活のすべてがあった。お金も、服も、思い出も、すべてあの家の中。
「なん、で? どうして……」
「君の帰る場所はもうない」
私の耳が冷たい声を拾う。
「さぁ、帰ろう」
耳元で囁く声に私の涙は止まらない。
復讐だ。また、始まったんだ。
彼は私を逃がさない。
また愛されない日々が続く。私は彼に愛されない。
彼が私じゃない女性を愛す姿をただ見ているだけしかできない。
どうして、なんで。まだ足りないの? まだ、私は幸せになってはいけない?
……ああ、そうよね。だって、父は彼の父を殺し、彼の母を犯し、彼の妹を売り、彼の兄に罪をなすりつけ皆の前で惨たらしく処刑した。
私は、そんな父の娘だもの。今の私の身体にその血が流れてなくとも、私は確かにあの父の娘だ。すべてを知っても彼を手放さなかった。傲慢にも彼を夫にし、彼の復讐に手を貸した。彼が愛しくて、彼のすべてを知りながらも知らないふりをしてその罪に加担した。父に復讐するための罪を重ねた。
許されるはずがない。私が私である限り、私は一生許されない。
「ごめん、なさい」
ただ愛してただけなの。愛されたかっただけなの。
嘘でもいいから「愛してる」って言われたかっただけなのよ。
焼き焦げて朽ちていく自分の家だったものを見つめながら、私はただ涙を流すことしかできなかった。
愛してる人がいた。
例え彼が私を愛していなくても、私は彼を愛してた。彼が私と結婚してくれた理由が父に復讐するためだったと知っても、私は彼を愛すことをやめられなかった。
愛してた。愛してる。今までも、これからも。ずっとあなただけ。
だから、ごめんなさい。
お父さま、ごめんなさい。お母さま、ごめんなさい。ごめんなさい。みんなみんなごめんなさい。
謝る。ずっとずっと罪を背負う。何度生まれ変わっても、私はきっと謝り続けるから。
だから、自分から死ぬことを許してください。
彼を愛した私が全て悪いの。
彼はなにも悪くない。全て私がしたこと。
彼を責めるなら、私を責めて。彼を責めるなら、お父さまは彼に謝って。
……最期に嘘でもいいから愛してるって言われたかったな。
暗く淀んだ青い海が私を呼んだから、私は逝ったの。
毎晩私は夢を見る。胸を焦がすほどに愛して、尽くす夢を。
偽りでも愛を囁いてもらえる時間は幸せで、私はその夢を見た日はいつも幸せになれる。
私は前世を覚えていた。前世の私は愛する人に愛してもらえなくて、それでも彼を愛してた。
彼が起こしてしまった罪を私は背負って、自らの命を絶った。忘れていればよかったとは思わない。
私は、前世の私と同じように夢の中の彼に恋をしたから。
「どこ、どこにいるの」
「お母様」
今世の母が私を探している。母の前に顔を出せば、甘ったるい声で私の名を呼んだ。
甘ったるい媚びるようなこの声はきっとなにか嫌なことが起こる前の時の声。
「聞いて。あなたの婚約者が決まったのよ」
「……そうなの、お母様。どんな方か楽しみだわ」
「とっても高貴なお方よ。きっとあなたも気にいると思うわ」
にこにこと笑う母に私も笑みを返す。
生まれ変わった私は貴族の娘だった。
前世のことで覚えてるのは彼との時間と私がなぜ死を選んだのか。どんな世界に生きていたのかはよく覚えてない。
だから違和感なくこの世界に溶け込めた。
貴族の娘である以上、私は家と家を繋ぐ駒。好きな相手と結婚なんてできないし、そもそも私の好きな人は夢の中の人。
会うこともできない遠い人。
そう、思ってたのに。
「お前の婚約者のアラン・ファンネール殿だ」
「初めまして。これからよろしく頼むよ」
夢の中の人が現実にいた。
でも、現実はとても私に厳しい。
それなら夢の中のほうがよかった。
「私は君を愛してない。私には他に愛する人がいる。ああ、もちろん結婚はするが私と私の恋人には関わらないでくれ」
父に言われて庭を二人で散策してる時に言われた言葉。
ああ、きっとこの人は一生私を好きになることがないんだと理解した。好きで好きでたまらないのに、この人は私を好きになってくれない。
けれど、時折優しくするから嫌いにもなれない。
そうして私は二度目の生でも彼に恋をして、また命を散らす。
始まった新婚生活は辛く冷たいものだった。
彼は恋人を敷地内の別宅に呼んで、毎日そこに帰ってく。
初夜なんてものはない。私と彼は白い結婚で、私はまだ乙女のままだった。
何度一人の夜に泣き腫らしただろう。
何度悲しみに暮れ死を願ったことだろう。
それでも彼のそばにいられるだけで私は幸せを感じてしまう。
彼の隣にいることのできる夜会は私の唯一の楽しみだった。
例え周りの人たちが私の白い結婚を嘲笑おうとも、私は本当に幸せだった。幸せだと、信じていたかった。
毎日笑っていた。屋敷の人間はほとんど彼とその恋人の味方で、私を疎んでいたけど、私は笑っていた。
女主人とは名ばかりで、使用人も束ねられない女だった。
ただ私の専用の侍女になってくれた若い娘だけは、私の境遇に同情してくれた。その優しさだけで胸がいっぱいだった。
彼の恋人は貴族で、すでに一度婚姻経験のある方らしい。
幼い頃から想いあっていた二人は、彼女の政略結婚で一度は離れ離れになり、彼女が夫と離縁し戻ってきたことで彼と彼女の仲は元に戻ったと聞いた。
ただ世間体的に恋人を伴侶にすることは難しく、お飾りの妻を立てることになったと。
それを聞いて私は思わず笑ってしまった。
だって、一緒なの。
私の愛した彼と、私の愛してる彼が。
彼は自分の愛してる人とは婚姻できずに、私と結婚するの。前世もそうだった。
哀れな人。可哀想な人。
あなたは愛してる人とは結ばれない。
私は、愛してるのに。心の底からあなただけを愛してる。結ばれるのに、あなたは私を愛してはくれない。
どうしてかな、どうしてだろう?
なんだかそれがおかしかった。
結ばれたのに愛されない女と、愛しあってるのに結ばれない女ならどっちが幸せなんだろう。
彼はね、私を愛してないのに優しいの。
夜会のときは「綺麗だね」って微笑んで、頭を撫でてエスコートしてくれる。
愛してないくせに、その指で私の頬を優しく撫でる。
中途半端な優しさだけをくれるから、私は彼を嫌いになれなくて。
宙ぶらりんの都合のいい女だった。
だけどこれがいつまでも続くならそれでいいのにと思ってた。
そんなこと、あり得るはずがなかったのにね。
限界は来た。
彼の恋人が子を孕んだ。最低限私の身の回りのことをしてくれる使用人以外は全員別宅に移った。
もうどちらが本妻かわかりはしない。
私は相変わらず乙女のまま。
彼に抱かられる日は一生来ない。
いつかは、って夢見てた。
でも、たぶんそれは一生来ることがないんだって気付いた。
「彼女との子供をこの家の跡取りにする」
言い放たれた言葉。鋭く私の心を刺した刃のような言葉に私は笑う。
だって、彼は私との子を必要としてなかったんだから当然よね。
期待するのは止めた。いつか息を止めるそのときまで、ただ死を描いてよう。
きっと自分から死を望むことはできないから。
ただ死を描いて、それで、夢を見よう。
いつか死んだときには彼のことを諦め切れますように、と。
こんな胸が切り裂かれるような想いはもうしませんように、と。
幸せに、なれますように、と。
静かに静かに、息をしていた。
なにかから隠れるように、ひっそりと。
十月十日。彼女の子供が生まれた。
私は遠くからしか見られなかったけど、とても可愛らしい女の子だった。
幸せになりたいのに、私はなれない。
きっと子は望めない。彼との子どもが欲しかった。彼と私との子どもが、愛し合った証が、とても欲しかったのだ。
自然と流れる涙のなんと醜いことか。
恨みと憎しみの篭った涙はまるであの日のような暗く淀んだ青い海のようだと思った。
愛されたいと願い、そのくせ怖くて口に出せない。ただ心の内で彼の愛を願って、彼に一心に愛される恋人とその子を憎んでる。
頼むからこんな汚い人間は早く死んでおくれ。
他の誰でもない、私が一番願ってた。
私が「愛してる」と本当の言葉を告げたのは、その息が止まる少し前だった。
憎んでるとも告げたし、恨んでるとも告げた。でも、それ以上に愛してると、私はそれを最期の言葉にした。
彼は私に愛されてるなんて知らなかったのだろう。まさか愛されてると思わなかったのだろう。
血に染まる私を抱きながら、その瞳を溢れんばかりに見開いた。
犯人は彼の恋人の元夫だ。恋人の元夫のことは顔だけは知っていた。
陛下もいらっしゃる王家主催の夜会で、それは起こった。
家ではなくてよかったと思うべきなのかもしれない。だって、私たちは完璧な被害者になれたのだから。
ああ、ただ彼の貴族としての将来には泥が塗られたなとだけ思った。
血走った目で、ナイフをその手に掴んで歩いてくる男の姿を私だけが捉えた。
戸惑いはなかった。だって、私はただ男の前に身体を差し出すだけで楽になれるのだから。
キャーーッ!!
あちこちから劈くような悲鳴が聞こえた気がする。
気がするのはもう頭が言葉を理解することを嫌がってるから。
痛みは、ない。ただ刺されたそこだけがジクジクと熱を持っていた。
カランと音を立てて男の手から滑り落ちた銀のナイフが視界に入る。
「───!」
彼が、はじめて私の名前を呼んだ。
それが泣きたいほどに嬉しくて、私は笑みを浮かべる。
最期に聴けた私の名前。彼は私の名前を知らないわけじゃなかったのね。
純粋に嬉しかった。
「すき、よ」
え、と彼の目が何事かと瞬いた。
ひどく断片的な言葉だった。
「すき」「きらい」「だいすき」「にくい」「うらんでる」「あいしてる」「だいきらい」「あいして」「しねばいい」「でも」
「あいしてる」
ずっと、ずっと。
口の中に鉄が広がっても、私はつぶやき続けた。
もう喋るな、とか、大丈夫だ、とか、なんかいっぱい言われた気がするけど、そんなの関係なくて。
刺されたところから熱が広がって、身体がびくびくっと痙攣して、芯から熱いものが湧き上がって、それを吐き出すように噎せると鉄の味。味だけは最期までわかった。
天井画がずっと私の視界に入ってた。
『愛を乞う人』そんなタイトルの絵だったと思う。
美しい女の愛を乞う男たちの絵。
まるで正反対だ。
美しいあなたの愛を乞う私は、きっととても醜かっただろう。
死を描いてた。描いてた死は凛々しく美しいものだった。そうなるはずだった。
けれど、きっと最期に愛を望んだ私は大層醜い女になっていただろう。
二度目もあったからか、三度目もあった。四度目も、五度目もあった。六度目、七度目、八、九。十を過ぎてからは数えるのを止めた。
何人ものあなたが私と結ばれて、何人ものあなたが私を愛さなかった。
心は壊れていった。
何度愛しても愛されないのに、何度も私はあなただけを愛す。
狂ったオルゴールのように私の愛は形を変えていく。
時に情熱的に。時に懇願するように。時に穏やかに。時に攻撃的に。時に母のように。
みんな私なのに、みんな私じゃない。
愛しかたなんてとうの昔に忘れてしまった。
繰り返す私は酷く疲れてた。
今度の私はただの平民だった。
ああ、自由だとぼんやりと思った。
今までの私はいつも何かに縛られていたから、今度の身分ならきっと縛られないと思ったの。
だって、結婚相手は自由に決められる。嫌なことから逃げても誰も平凡な女のことなんて気にも留めない。
私はやっと自由になったのだ。
自由に、なったのに。
「あぁ……やっと見つけた……」
なんで彼がいるんだろう。どうして彼が私を抱き締めてるんだろう。
わからない。
耳元で囁かれる言葉にゾワリと背筋が粟立つ。
彼の姿は貴族のように煌びやかで、対する私は農作業を終えて帰ってきたところだから泥だらけ。
恐怖で足に力が入らない。力が抜けて、足から崩れ落ちそうになると、腰を掴まれ無理矢理立たされた。
「も、もうしわけ、ありま、せん」
震える声で告げる。
なんで、どうして? ──怖い。
私の中に駆け巡るのは恐怖。
過去、私は何度も彼のために死を選んだ。
何度も彼に恋をして、何度も儚く散っていった。
もう、限界だった。
私はもう死にたくない。愛されない終わりを選びたくない。誰かに愛され、幸せの中でゆっくりと眠りにつくように穏やかに死んでいきたい。
それでも何度でも夢の中の彼に恋をしてる。
だから、今世は一人で生きていこうと思ったのに。ただひっそりと終えられると思ったのに。
「何故、謝る。謝るのは私のほうだ。何度も君に不誠実なことをした。何度も君を忘れて、何度も君に冷たく当たった」
いや、いや。聞きたくない!
「っ、わすれてっ!」
「………なに?」
ぶんぶんと頭を振って耳をふさぐ。
脳に染み込む彼の心地いい声なんて聞きたくない。彼の言い訳なんて聞きたくない。
夢の中の彼だけに恋をしていたい。
「もう、いやなのっ! 醜くなるのはいやっ! 愛されないのはいやっ! 迷惑をかけたくない、嫉妬に狂いたくないっ! 帰って! 帰れッ帰れ帰れ帰れッ!」
ドンッと私を抱き締める彼の身体を突き飛ばす。
声だけでも、私の心はもう鷲掴みにされて、愛をねだるように心が泣いてる。愛されたい、抱き締められたい、って。
わかってるのに。言葉なんて信じちゃいけない。
いつまでも彼にとって私は憎むべき女だから。
今の彼が過去の記憶を知っていたとしたら、きっと私は復讐される。
そう。最初の私は復讐相手だった。
彼は、自分の家族を奪った私の父に復讐するために、私を利用した。自分の愛しい人と別れてまで、彼は私と結婚して、私の家族になった。私は彼にとって、所詮憎い相手の娘にしか過ぎなかった。
愛されるはずがない。
涙を流しながら、その場に座り込んで頭を下げる。そしてもう一度「私を忘れてください」と懇願した。
「君の気持ちは理解した。そう言うだろうとも思った。──家に火を」
「「はっ!」」
私がなにかを言うまえに、彼の後ろにいた兵士のような二人が松明を掲げる。
なにを、する気?
松明を掲げ、私を無視して男二人が私の質素な小屋のような家に近づく。
まって、と呟いたけど、それは声にならなくてその代わりにヒュッと息を飲み込む。
まるで油でも染み込んでるかのように、私の長年住んできた家はよく燃えた。
「いや、いやっ……いやぁぁぁぁああっ!」
慌てて家に駆けよろうとすると、背後からお腹に腕を回されて、それ以上は近付けない。それでも必死に手を伸ばして、家の中にあるものを取り戻そうと必死になる。
わけがわからない。額から嫌な汗が流れる。
あそこには私の生活のすべてがあった。お金も、服も、思い出も、すべてあの家の中。
「なん、で? どうして……」
「君の帰る場所はもうない」
私の耳が冷たい声を拾う。
「さぁ、帰ろう」
耳元で囁く声に私の涙は止まらない。
復讐だ。また、始まったんだ。
彼は私を逃がさない。
また愛されない日々が続く。私は彼に愛されない。
彼が私じゃない女性を愛す姿をただ見ているだけしかできない。
どうして、なんで。まだ足りないの? まだ、私は幸せになってはいけない?
……ああ、そうよね。だって、父は彼の父を殺し、彼の母を犯し、彼の妹を売り、彼の兄に罪をなすりつけ皆の前で惨たらしく処刑した。
私は、そんな父の娘だもの。今の私の身体にその血が流れてなくとも、私は確かにあの父の娘だ。すべてを知っても彼を手放さなかった。傲慢にも彼を夫にし、彼の復讐に手を貸した。彼が愛しくて、彼のすべてを知りながらも知らないふりをしてその罪に加担した。父に復讐するための罪を重ねた。
許されるはずがない。私が私である限り、私は一生許されない。
「ごめん、なさい」
ただ愛してただけなの。愛されたかっただけなの。
嘘でもいいから「愛してる」って言われたかっただけなのよ。
焼き焦げて朽ちていく自分の家だったものを見つめながら、私はただ涙を流すことしかできなかった。
86
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
(完結)婚約者の勇者に忘れられた王女様――行方不明になった勇者は妻と子供を伴い戻って来た
青空一夏
恋愛
私はジョージア王国の王女でレイラ・ジョージア。護衛騎士のアルフィーは私の憧れの男性だった。彼はローガンナ男爵家の三男で到底私とは結婚できる身分ではない。
それでも私は彼にお嫁さんにしてほしいと告白し勇者になってくれるようにお願いした。勇者は望めば王女とも婚姻できるからだ。
彼は私の為に勇者になり私と婚約。その後、魔物討伐に向かった。
ところが彼は行方不明となりおよそ2年後やっと戻って来た。しかし、彼の横には子供を抱いた見知らぬ女性が立っており・・・・・・
ハッピーエンドではない悲恋になるかもしれません。もやもやエンドの追記あり。ちょっとしたざまぁになっています。
【完結】愛する人はあの人の代わりに私を抱く
紬あおい
恋愛
年上の優しい婚約者は、叶わなかった過去の恋人の代わりに私を抱く。気付かない振りが我慢の限界を超えた時、私は………そして、愛する婚約者や家族達は………悔いのない人生を送れましたか?
【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい
高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。
だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。
クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。
ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。
【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
【完結】愛されていた。手遅れな程に・・・
月白ヤトヒコ
恋愛
婚約してから長年彼女に酷い態度を取り続けていた。
けれどある日、婚約者の魅力に気付いてから、俺は心を入れ替えた。
謝罪をし、婚約者への態度を改めると誓った。そんな俺に婚約者は怒るでもなく、
「ああ……こんな日が来るだなんてっ……」
謝罪を受け入れた後、涙を浮かべて喜んでくれた。
それからは婚約者を溺愛し、順調に交際を重ね――――
昨日、式を挙げた。
なのに・・・妻は昨夜。夫婦の寝室に来なかった。
初夜をすっぽかした妻の許へ向かうと、
「王太子殿下と寝所を共にするだなんておぞましい」
という声が聞こえた。
やはり、妻は婚約者時代のことを許してはいなかったのだと思ったが・・・
「殿下のことを愛していますわ」と言った口で、「殿下と夫婦になるのは無理です」と言う。
なぜだと問い質す俺に、彼女は笑顔で答えてとどめを刺した。
愛されていた。手遅れな程に・・・という、後悔する王太子の話。
シリアス……に見せ掛けて、後半は多分コメディー。
設定はふわっと。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる