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幸せになれる道
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夢の中で出した答えはとても名案のような気がして、私は家を出ることを決めた。
今が祭りの時期だと侍女も言っていたから、人混みに紛れて彼から逃げ出すのはとても簡単だと思った。
この家に来て数ヶ月が経つけど、私は一度も逃げ出そうとはしていない。だからか、最初の頃に比べて私を見張る人も少なくなっていた。
外に出て、私はきっと死ぬだろう。
自分が世間知らずなことは知っている。
だけどこのままここにいても、私はただ苦しいだけ。彼を苦しめるだけ。それならいっそ彼の知らないところで死んだほうが迷惑はかからない。
彼はマリエラ様と幸せになれる。
それは確かに恨めしくもあるけど、このまま私も彼もどちらも苦しむくらいなら、彼だけでも幸せになってほしい。
彼に幸せになってほしい気持ちと、私だけの彼にしたい相反した気持ちが私を苦しめる。
「マリア、大丈夫か?」
目が覚めて、しばらくボーッとしてると扉が開いた。彼と目が合うと心配そうな顔で私に近付いてくる。
──心配そうな顔が上手ね。
なんだか泣きそうになる。だから彼の視線から逃げるように窓の外を見た。
夢にフィニ様が出て来たからか、どうも彼と目を合わせづらい。それに眠る前のこともある。
マリエラ様。彼の、婚約者だって言ってた。
思い出して、息苦しくなって、考えないように頭の中を塗りつぶす。
「問題ありません」
「そうか。なら、昨日のことなんだが……」
「っ、! 聞きたくない。やめて、言わないで!」
忘れたいのにどうして蒸し返すようなことをするの。
彼が言う言葉は決まってる。
「彼女とはなんでもない。気にしないでくれ」
そんなの嘘なのに。私を安心させるための嘘なのに、その言葉に縋りたくなってしまうから。
私は醜い女なのだ。希望があるならそちらへと飛び込む。それが嘘だとわかっていても。
だから、聞きたくない。
「マリア」
彼が耳を塞いで俯く私の肩を掴む。痛いぐらいに肩を掴まれて顔が歪んだ。
痛い、と声を出そうと顔を上げると、眉間にしわを寄せた彼と目が合う。
それはまるで怒っているようで、彼にこれ以上嫌われたらどうしようと恐怖で震えた。
「っ、すまない。けど、聞いてくれ」
聞きたくない。だけど彼は許してくれない。
「マリエラ姫とは、本当になにもない。婚約者というのもそういう話があっただけで、正式にしていたわけじゃない。それに、私は君だけの私だ。だから、そんな顔で泣かないでくれ」
そう言って彼はまぶたにキスを落とす。
そんな顔ってどんな顔なの。わからない。でも、きっと醜い顔なんだろう。
うそつき。うそつきうそつき。分かってるのに、その言葉に喜ぶ私がいる。だから聞きたくなかったのに。
理性と本能が別々に動く。
彼に侵食されていく。彼の指が私の頬を撫でて、その大きな手のひらで頬を包む。
手の温もりに縋ってしまいたい。もうなにも考えたくない。
「愛してるよ、マリア」
「……うそつき」
いつかきっと愛してると言ったその口で、私を罵るに違いない。
復讐だったと笑うのはいつだろう。
いや、いや。もう彼に嘘だったと言われるのはいや。
それなら最初から信じないほうが楽だ。
私の言葉に彼は困ったように眉を下げて微笑む。
「それでもいい。君が信じてくれるまでずっと君のそばにいるから」
彼は嘘つきで、優しくて、でも残酷で、私の首を真綿で絞めていく。
信じて、それからは? そればかり考えてしまう私はおそらくずっと彼の心がわからない。
彼もきっと私の心は永遠にわからない。
交わらない。
トン、と優しく肩を押された。そのまま彼が覆い被さり啄ばむような優しいキスをする。
身体がベッドに沈んでく。
窓から見えた空は青いけど、あの日見た青よりは晴れ晴れとしてる。
「なに、笑ってるんだ?」
私の身体を指でなぞる彼が、唇を首に這わしながら問いかける。
視線を落として彼を見た。ずっと変わらない宝石のような瞳がジッと私を見つめていた。
「あの日に見た海よりも綺麗な青だなって思ったの、空が」
彼から窓に視線を移す。私につられて彼も視線を空に移した。
空は綺麗な青が広がってる。
爽やかな空と私はまるで違う。あの日の海が恋しい。
暗く淀んだ青。ぐちゃぐちゃな感情を混ぜ合わせたような青は、爽やかとはいい難くて、でもとても私の気持ちを表してくれてるようだった。
だから私は安心してその青に飛び込めた。
そんなことを考えてると、目の前の彼の顔色が良くないことに気がついた。
「……体調が悪いの?」
「いや……俺は、許されないことをしたんだと改めて思っただけだ」
それはどうなんだろう。あの時許されないことをしたのは私だったし、彼に嘘でも愛してると言われないことも薄々分かってた。
だから、彼に「愛してるなんて言えない」と言われたその足で海に行った。彼に会う前には遺書を人目のあるところに残していた。
分かりきったことを賭けの対象にしたのは奇跡が起こってほしいと願ってたから。一縷の望みに賭けることで、私は私を保てていた。
だけどそれを説明するのはとても難しい。
「ねぇ、外に出たいの」
外を見ながらそう言った。
一番最初の出来事は私たちにとって嫌な思い出だ。
なにより私たちは今を生きてる。あの場所からずっと動けていない私たちは、そろそろ動いてもいいんじゃないかな。
後ろを振り向かず前を向いて、それぞれの道を。
「外に出て、働きたいの」
彼がジッと私を見つめる。
「働いて、自立して、あなたから離れ」
言葉が最後まで紡がれることはなかった。
彼が私の唇を塞ぐ。視線を合わせたまま、荒々しく口内を暴れ回す彼の舌に逃げ出そうと身体をよじる。
逃げられない。
指と指が絡み合って、彼の手から逃げられずに歯と歯がぶつかる。じんわりと痛みと鉄の味が口の中に広がった。
長い間、キスをしていた。涙が出るくらいに。
「言わせない」
やっと離れた彼は息を荒げながらそう言った。
やっぱりまだなんだ。まだ復讐は終わらない。なら、もう逃げるしかないじゃない。離れることを許してもらえないなら、逃げ出すしかない。
今度死んだら終われるのかな。
もう思い出さなくて済むのかな。
でもきっとそうじゃない。
「言わせてよ」
せめて離れたいと言葉にできたら、離れられる気がするから。
泣きながら言った私に彼はキスをする。息が止まるようなキスを。
この先を私は知ってる。
「愛してる」
私を抱きながら彼はそう嘯く。
生まれ変わってもきっと私は彼に恋をする。
私は彼から離れられない。だって、こんなに愛おしくて切なくて死んでもいいから愛していたい人。
どうやら私は願ってるらしい。
生まれ変わっても彼のことを想って、自分の所業を忘れないことを。
不毛で不幸で無意味なこと。
骨の髄まで私は彼に溺れきってる。
「おはよう、マリア」
起きると目の前が肌色だった。
上から降ってきた声に驚いてベッドから起き上がろうとして、彼に腰を引き寄せられる。
「マリア。おはよう?」
二度目のおはよう。夢ではないようで、彼の腕に包まれながらぱちくりと瞬きする。
「おはよう、ございます……?」
今まで私が起きた時に彼がいたことはなかった。
なんで? なんでいるの?
頭は軽いパニック状態。
「祭りの、祭りの二日目の午前中から休みをもらえたんだ。夕方には夜会があるけど、午前中は一緒に祭りに行かないか?」
突然、彼は私に考える暇も与えないくらいに早口でそう言った。
一緒、祭りという単語にとりあえずこくこくと頷く。
彼と一緒ならどこにだって。
そう考えて、自分が今までの自分の思考になってることに気がついて、ふるふると首を振る。
「ダメ、私、」
「いけないよ、マリア」
むにっと指先が唇に当てられた。
「私はマリアと一緒に祭りを周りたい。頼むから、頷いておいて断るなんてことはしないでくれ」
切実そうな瞳に私はすぐに騙される。
なんの意味もない、ただ彼が見てるだけなのに自分の都合のいいように彼の瞳に色をつける。
拒否の言葉を出すことができなくて頷くと、彼は満面の笑みを返してくれた。
その笑みに私の心臓は壊れてしまいそうなくらいに早鐘を打つ。
好きが溢れ出してしまいそう。
私を見て満足そうに微笑む彼の指が頬を撫でる。
「じゃあ私は一足先に準備をしてくる。マリアも着替えて一緒に朝食を取ろう」
「え、あっ、~~~~~っ!」
そう言われて自分がなにも着てないことに気が付いて慌ててタオルケットを掴んで隠れる。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
こんな、はしたない。朝から彼がいることも初めてだし、朝起きて彼にこんな姿を見られるのも初めてだ。もしかしたら私が寝ている間に彼は見ていたのかもしれないけど、少なくとも私は初めて。
「なんだ、今さら自分が裸だったことに気付いたのか」
くすくすと彼の笑い声が降ってくる。
心臓がばくばくとうるさい。
「愛してる、マリア。またあとで」
ぎゅっとタオルケット越しに抱き締められて、反射的に身体に力を入れる。
あ、と思った瞬間にはそのぬくもりは私から離れていった。
ガチャリと部屋の扉が閉まって、ようやく私の身体から力を抜けた。
ふと、隣の彼がいたシーツへと手を伸ばす。
触れた場所はほんのりと暖かくて、確かに彼はそこにいたんだと教えてくれた。
「準備は終わったんだ」
いつもの侍女に手伝ってもらって身支度を終えると、扉のすぐ前の壁に身体を預けて彼は立っていた。
なんでここに彼がいるのかわからなくて、思わずまた扉を閉めたい気分になる。だけど扉を開けたのは侍女だったので閉めることはできなかった。
「マリア?」
「し、仕事は? 祭りが始まるのでは忙しいのでは?」
挙動不審になる私に対して不思議そうに首を傾げた彼が近づいてくる。指が私の頬に触れそうになった瞬間、そこから一歩引いて疑問を口にした。
そう、仕事。どんな内容かは知らないけど、婚姻して数ヶ月彼はとても忙しそうにしてた。
朝を共にできないほど忙しそうにしていたのに、どうして今日はこんなにゆっくりとしてるんだろう?
「ああ、仕事なら引き継ぎがほとんど終わったからもう王都にいる必要もないんだ」
「引き継ぎ……?」
仕事の引き継ぎって、彼はどこかに行くのだろうか。
まさか、私を置いて彼女のところに……?
そう考えて血の気が引いていく。彼を諦めなくちゃいけないのに、そう考えたときの絶望はひどく私を揺さぶるものだった。
「王位継承権を放棄したから、公爵位をもらうことになったんだ。私がこのままここにいて厄介なことになっても面倒だから外交官の仕事を引き継いで領地に引きこもろうと思って。王都から離れた領地だけど、マリアはあまり華やかな場所は得意じゃないからそっちのほうがいいだろう?」
彼は外交官の仕事をしてたんだ。初めて知った。
私は彼が第三王子ということしか知らなかった。
ほっと安堵の息を吐く。
彼は私を置いていくわけじゃない。
「そう、なの」
「それともマリアは王都に残りたかった?」
「ありえない」
安堵の気持ちを見せるわけにはいかないから、ツンとした表情で彼から視線を逸らす。
王都になんて残りたくない。貴族として振る舞えと言われれば振る舞えるとは思う。だけど、今の私は平民。貴族のように振る舞ったところで、周りの視線は煩わしいものになるだろう。
「でも、いいの?」
「なにが?」
だって、それは私だけ。
彼はどこに行っても歓迎される。
昔も今も彼は才能に満ち溢れ、その美貌で多くの人を惹きつけてやまない。
彼が王都から離れることで多くの人が悲しむ。
きっとマリエラ様も。
どうして彼はそうまでして私に復讐を遂げようとするのだろう。今この時点で私はちゃんと不幸なのに。
彼の想いさえ知らなければ幸せな結婚生活を送れた。だけどもう私は何度も彼の想いに向き合ってきた。
今さら彼の言葉なんて信じられるはずがない。
彼もそれを知ってるはずなのに。
マリエラ様はいいの? そう聞こうとしてやめた。
きっと彼はこう言うだろう。「彼女は関係ない」と。
彼はそこまで徹底しているから。自分が愛しい人と添い遂げられずとも復讐を果たす人だから。
決まった答えなんて虚しいだけ。
「なんでも、ないわ。行きましょう。朝食よね?」
自分が復讐される側だって思い知らされるのはとても嫌だった。
向かうのはとても広いダイニングルーム。彼を置いて歩き出そうとする。
「マリア」
だけど彼が私の腕を掴んだ。
「なに?」
冷たく、突き放すような声が意図せずに出た。
「……いまはまだ信じなくてもいい。ただ、これだけは知っていてくれ」
そういって彼が一息つく。まるで重大な発表でもするように。
でも、私はその先の言葉を知ってるし、この先信じることはない。
「私が愛してるのはマリア、君だけだよ」
うそつき。
今が祭りの時期だと侍女も言っていたから、人混みに紛れて彼から逃げ出すのはとても簡単だと思った。
この家に来て数ヶ月が経つけど、私は一度も逃げ出そうとはしていない。だからか、最初の頃に比べて私を見張る人も少なくなっていた。
外に出て、私はきっと死ぬだろう。
自分が世間知らずなことは知っている。
だけどこのままここにいても、私はただ苦しいだけ。彼を苦しめるだけ。それならいっそ彼の知らないところで死んだほうが迷惑はかからない。
彼はマリエラ様と幸せになれる。
それは確かに恨めしくもあるけど、このまま私も彼もどちらも苦しむくらいなら、彼だけでも幸せになってほしい。
彼に幸せになってほしい気持ちと、私だけの彼にしたい相反した気持ちが私を苦しめる。
「マリア、大丈夫か?」
目が覚めて、しばらくボーッとしてると扉が開いた。彼と目が合うと心配そうな顔で私に近付いてくる。
──心配そうな顔が上手ね。
なんだか泣きそうになる。だから彼の視線から逃げるように窓の外を見た。
夢にフィニ様が出て来たからか、どうも彼と目を合わせづらい。それに眠る前のこともある。
マリエラ様。彼の、婚約者だって言ってた。
思い出して、息苦しくなって、考えないように頭の中を塗りつぶす。
「問題ありません」
「そうか。なら、昨日のことなんだが……」
「っ、! 聞きたくない。やめて、言わないで!」
忘れたいのにどうして蒸し返すようなことをするの。
彼が言う言葉は決まってる。
「彼女とはなんでもない。気にしないでくれ」
そんなの嘘なのに。私を安心させるための嘘なのに、その言葉に縋りたくなってしまうから。
私は醜い女なのだ。希望があるならそちらへと飛び込む。それが嘘だとわかっていても。
だから、聞きたくない。
「マリア」
彼が耳を塞いで俯く私の肩を掴む。痛いぐらいに肩を掴まれて顔が歪んだ。
痛い、と声を出そうと顔を上げると、眉間にしわを寄せた彼と目が合う。
それはまるで怒っているようで、彼にこれ以上嫌われたらどうしようと恐怖で震えた。
「っ、すまない。けど、聞いてくれ」
聞きたくない。だけど彼は許してくれない。
「マリエラ姫とは、本当になにもない。婚約者というのもそういう話があっただけで、正式にしていたわけじゃない。それに、私は君だけの私だ。だから、そんな顔で泣かないでくれ」
そう言って彼はまぶたにキスを落とす。
そんな顔ってどんな顔なの。わからない。でも、きっと醜い顔なんだろう。
うそつき。うそつきうそつき。分かってるのに、その言葉に喜ぶ私がいる。だから聞きたくなかったのに。
理性と本能が別々に動く。
彼に侵食されていく。彼の指が私の頬を撫でて、その大きな手のひらで頬を包む。
手の温もりに縋ってしまいたい。もうなにも考えたくない。
「愛してるよ、マリア」
「……うそつき」
いつかきっと愛してると言ったその口で、私を罵るに違いない。
復讐だったと笑うのはいつだろう。
いや、いや。もう彼に嘘だったと言われるのはいや。
それなら最初から信じないほうが楽だ。
私の言葉に彼は困ったように眉を下げて微笑む。
「それでもいい。君が信じてくれるまでずっと君のそばにいるから」
彼は嘘つきで、優しくて、でも残酷で、私の首を真綿で絞めていく。
信じて、それからは? そればかり考えてしまう私はおそらくずっと彼の心がわからない。
彼もきっと私の心は永遠にわからない。
交わらない。
トン、と優しく肩を押された。そのまま彼が覆い被さり啄ばむような優しいキスをする。
身体がベッドに沈んでく。
窓から見えた空は青いけど、あの日見た青よりは晴れ晴れとしてる。
「なに、笑ってるんだ?」
私の身体を指でなぞる彼が、唇を首に這わしながら問いかける。
視線を落として彼を見た。ずっと変わらない宝石のような瞳がジッと私を見つめていた。
「あの日に見た海よりも綺麗な青だなって思ったの、空が」
彼から窓に視線を移す。私につられて彼も視線を空に移した。
空は綺麗な青が広がってる。
爽やかな空と私はまるで違う。あの日の海が恋しい。
暗く淀んだ青。ぐちゃぐちゃな感情を混ぜ合わせたような青は、爽やかとはいい難くて、でもとても私の気持ちを表してくれてるようだった。
だから私は安心してその青に飛び込めた。
そんなことを考えてると、目の前の彼の顔色が良くないことに気がついた。
「……体調が悪いの?」
「いや……俺は、許されないことをしたんだと改めて思っただけだ」
それはどうなんだろう。あの時許されないことをしたのは私だったし、彼に嘘でも愛してると言われないことも薄々分かってた。
だから、彼に「愛してるなんて言えない」と言われたその足で海に行った。彼に会う前には遺書を人目のあるところに残していた。
分かりきったことを賭けの対象にしたのは奇跡が起こってほしいと願ってたから。一縷の望みに賭けることで、私は私を保てていた。
だけどそれを説明するのはとても難しい。
「ねぇ、外に出たいの」
外を見ながらそう言った。
一番最初の出来事は私たちにとって嫌な思い出だ。
なにより私たちは今を生きてる。あの場所からずっと動けていない私たちは、そろそろ動いてもいいんじゃないかな。
後ろを振り向かず前を向いて、それぞれの道を。
「外に出て、働きたいの」
彼がジッと私を見つめる。
「働いて、自立して、あなたから離れ」
言葉が最後まで紡がれることはなかった。
彼が私の唇を塞ぐ。視線を合わせたまま、荒々しく口内を暴れ回す彼の舌に逃げ出そうと身体をよじる。
逃げられない。
指と指が絡み合って、彼の手から逃げられずに歯と歯がぶつかる。じんわりと痛みと鉄の味が口の中に広がった。
長い間、キスをしていた。涙が出るくらいに。
「言わせない」
やっと離れた彼は息を荒げながらそう言った。
やっぱりまだなんだ。まだ復讐は終わらない。なら、もう逃げるしかないじゃない。離れることを許してもらえないなら、逃げ出すしかない。
今度死んだら終われるのかな。
もう思い出さなくて済むのかな。
でもきっとそうじゃない。
「言わせてよ」
せめて離れたいと言葉にできたら、離れられる気がするから。
泣きながら言った私に彼はキスをする。息が止まるようなキスを。
この先を私は知ってる。
「愛してる」
私を抱きながら彼はそう嘯く。
生まれ変わってもきっと私は彼に恋をする。
私は彼から離れられない。だって、こんなに愛おしくて切なくて死んでもいいから愛していたい人。
どうやら私は願ってるらしい。
生まれ変わっても彼のことを想って、自分の所業を忘れないことを。
不毛で不幸で無意味なこと。
骨の髄まで私は彼に溺れきってる。
「おはよう、マリア」
起きると目の前が肌色だった。
上から降ってきた声に驚いてベッドから起き上がろうとして、彼に腰を引き寄せられる。
「マリア。おはよう?」
二度目のおはよう。夢ではないようで、彼の腕に包まれながらぱちくりと瞬きする。
「おはよう、ございます……?」
今まで私が起きた時に彼がいたことはなかった。
なんで? なんでいるの?
頭は軽いパニック状態。
「祭りの、祭りの二日目の午前中から休みをもらえたんだ。夕方には夜会があるけど、午前中は一緒に祭りに行かないか?」
突然、彼は私に考える暇も与えないくらいに早口でそう言った。
一緒、祭りという単語にとりあえずこくこくと頷く。
彼と一緒ならどこにだって。
そう考えて、自分が今までの自分の思考になってることに気がついて、ふるふると首を振る。
「ダメ、私、」
「いけないよ、マリア」
むにっと指先が唇に当てられた。
「私はマリアと一緒に祭りを周りたい。頼むから、頷いておいて断るなんてことはしないでくれ」
切実そうな瞳に私はすぐに騙される。
なんの意味もない、ただ彼が見てるだけなのに自分の都合のいいように彼の瞳に色をつける。
拒否の言葉を出すことができなくて頷くと、彼は満面の笑みを返してくれた。
その笑みに私の心臓は壊れてしまいそうなくらいに早鐘を打つ。
好きが溢れ出してしまいそう。
私を見て満足そうに微笑む彼の指が頬を撫でる。
「じゃあ私は一足先に準備をしてくる。マリアも着替えて一緒に朝食を取ろう」
「え、あっ、~~~~~っ!」
そう言われて自分がなにも着てないことに気が付いて慌ててタオルケットを掴んで隠れる。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
こんな、はしたない。朝から彼がいることも初めてだし、朝起きて彼にこんな姿を見られるのも初めてだ。もしかしたら私が寝ている間に彼は見ていたのかもしれないけど、少なくとも私は初めて。
「なんだ、今さら自分が裸だったことに気付いたのか」
くすくすと彼の笑い声が降ってくる。
心臓がばくばくとうるさい。
「愛してる、マリア。またあとで」
ぎゅっとタオルケット越しに抱き締められて、反射的に身体に力を入れる。
あ、と思った瞬間にはそのぬくもりは私から離れていった。
ガチャリと部屋の扉が閉まって、ようやく私の身体から力を抜けた。
ふと、隣の彼がいたシーツへと手を伸ばす。
触れた場所はほんのりと暖かくて、確かに彼はそこにいたんだと教えてくれた。
「準備は終わったんだ」
いつもの侍女に手伝ってもらって身支度を終えると、扉のすぐ前の壁に身体を預けて彼は立っていた。
なんでここに彼がいるのかわからなくて、思わずまた扉を閉めたい気分になる。だけど扉を開けたのは侍女だったので閉めることはできなかった。
「マリア?」
「し、仕事は? 祭りが始まるのでは忙しいのでは?」
挙動不審になる私に対して不思議そうに首を傾げた彼が近づいてくる。指が私の頬に触れそうになった瞬間、そこから一歩引いて疑問を口にした。
そう、仕事。どんな内容かは知らないけど、婚姻して数ヶ月彼はとても忙しそうにしてた。
朝を共にできないほど忙しそうにしていたのに、どうして今日はこんなにゆっくりとしてるんだろう?
「ああ、仕事なら引き継ぎがほとんど終わったからもう王都にいる必要もないんだ」
「引き継ぎ……?」
仕事の引き継ぎって、彼はどこかに行くのだろうか。
まさか、私を置いて彼女のところに……?
そう考えて血の気が引いていく。彼を諦めなくちゃいけないのに、そう考えたときの絶望はひどく私を揺さぶるものだった。
「王位継承権を放棄したから、公爵位をもらうことになったんだ。私がこのままここにいて厄介なことになっても面倒だから外交官の仕事を引き継いで領地に引きこもろうと思って。王都から離れた領地だけど、マリアはあまり華やかな場所は得意じゃないからそっちのほうがいいだろう?」
彼は外交官の仕事をしてたんだ。初めて知った。
私は彼が第三王子ということしか知らなかった。
ほっと安堵の息を吐く。
彼は私を置いていくわけじゃない。
「そう、なの」
「それともマリアは王都に残りたかった?」
「ありえない」
安堵の気持ちを見せるわけにはいかないから、ツンとした表情で彼から視線を逸らす。
王都になんて残りたくない。貴族として振る舞えと言われれば振る舞えるとは思う。だけど、今の私は平民。貴族のように振る舞ったところで、周りの視線は煩わしいものになるだろう。
「でも、いいの?」
「なにが?」
だって、それは私だけ。
彼はどこに行っても歓迎される。
昔も今も彼は才能に満ち溢れ、その美貌で多くの人を惹きつけてやまない。
彼が王都から離れることで多くの人が悲しむ。
きっとマリエラ様も。
どうして彼はそうまでして私に復讐を遂げようとするのだろう。今この時点で私はちゃんと不幸なのに。
彼の想いさえ知らなければ幸せな結婚生活を送れた。だけどもう私は何度も彼の想いに向き合ってきた。
今さら彼の言葉なんて信じられるはずがない。
彼もそれを知ってるはずなのに。
マリエラ様はいいの? そう聞こうとしてやめた。
きっと彼はこう言うだろう。「彼女は関係ない」と。
彼はそこまで徹底しているから。自分が愛しい人と添い遂げられずとも復讐を果たす人だから。
決まった答えなんて虚しいだけ。
「なんでも、ないわ。行きましょう。朝食よね?」
自分が復讐される側だって思い知らされるのはとても嫌だった。
向かうのはとても広いダイニングルーム。彼を置いて歩き出そうとする。
「マリア」
だけど彼が私の腕を掴んだ。
「なに?」
冷たく、突き放すような声が意図せずに出た。
「……いまはまだ信じなくてもいい。ただ、これだけは知っていてくれ」
そういって彼が一息つく。まるで重大な発表でもするように。
でも、私はその先の言葉を知ってるし、この先信じることはない。
「私が愛してるのはマリア、君だけだよ」
うそつき。
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